共産主義はプロレタリアートの解放の条件についての理論です。
プロレタリアートはなんらの資本の利益も得ずに自分の労働を売ることだけで生計を得ている社会階級のことです。その幸福と苦悩、その生と死、その存在の全てが労働に対する需要、つまり商売の浮き沈み、激しい競争の変化に依存しています。一言で言えばプロレタリアート、プロレタリア階級とは十九世紀の労働階級なのです。
そうです。貧しい労働階級は常にいましたし、労働階級はたいていは貧しいものでした。しかし現在見られるような状況で暮らす貧しい人々や労働者、つまりプロレタリアが常に存在したわけではありません。これはちょうど競争が常に自由放埒であったわけではないのと同じです。
プロレタリアートは、前世紀後半のイングランドで起き、以来、世界のあらゆる文明国で繰り返された産業革命の中で現われました。この産業革命は蒸気機関や様々な紡績機、機械式織機、その他一連の非常に多くの機械装置によってもたらされました。これらの非常に高価で、それゆえに大資本家しか購入できない機械が過去のあらゆる生産方式を変化させ、過去の労働者を追放しました。これら機械は、不完全な紡ぎ車や織り機を使って労働者が生産するよりも安価で優れた商品を生み出したからです。
その結果、こうした機械は産業を大資本家の手に完全に引き渡し、労働者のわずかな所有物(工具やイスといったもの)をまったく無価値なものにしてしまい、そのために資本家はほどなく全てを手中に収めて労働者には何も残されなかったのです。衣類の手工業生産に工場方式が導入されました。ひとたび機械類と工場方式の導入へ推進力が与えられると、この体制はすぐに他のあらゆる産業部門、具体的に言えば印刷業、陶器製造業、金属製品製造業へと適用されました。仕事はますます個々の労働者に分担されるようになり、かつては仕事の全体をおこなっていた労働者は今や一部分のみをおこなうようになりました。
この労働の分割が生産物をよりすばやく、従ってより効率的に生み出すことを可能にしました。それぞれの労働者の活動は絶えず繰り返されるとても単純な機械的操作、機械でも可能で、さらにはもっとうまくおこなえるものへと還元されたのです。こうしてこれら産業の全ては、紡織と同じように、次々に蒸気動力や機械類、工場方式の支配下へ下ったのです。しかしながら同時にそれは大資本家の手中へと完全に落ちることでもあり、ここでも労働者は最後の自立の名残りを奪われたのです。現実の工場に加えて、次第に工芸までもが工場方式の支配下に置かれるようになって来ると、多くの費用が節約できて仕事をとても細かく分担できる大規模な工房を作ることで、ここでも大資本家が小規模な職人親方を追放しました。
こうして文明国ではほとんど全ての労働部門が工場で営まれ、ほとんど全ての労働部門で大規模産業によって工芸や工場制手工業が追放された現在の状況がもたらされたのです。その結果、かつての中流階級、とりわけ小規模な熟練職人はますます落ちぶれていきました。労働者のかつての地位は完璧に転倒され、二つの新たな階級が作り上げられて次第に他の全ての階級を飲み込んだのです。それは次のようなものです。
労働力は他のものと同様に商品であり、従ってその価格は他の商品とまったく同じ法則に従って決定されます。しかし大規模産業や自由競争の支配下での商品の価格は、私たちが目にするように、平均的には常にその商品の生産費用と等しくなるまで下がるのです。つまり労働力の価格もまた労働力の生産費用と等しくなります。
しかしながら労働力の生産費用は、労働者が労働を続けられ、労働階級が死滅しないだけの十分な食料から構成されます。従ってこの目的に必要となる以上のものを労働の対価として労働者が受け取ることはありません。そのため労働の価格、あるいは賃金は生存に必要な最低、最小のものとなります。しかし商売には浮き沈みがあるので労働者が受け取るものも時に多く、時に少なくなります。これはちょうど工場所有者が自身の商品の対価として受け取るものが時に多く、時に少なくなるのと一緒です。しかし、商売の浮き沈みを平均すると自身の生産費用と同じ程度を受け取る工場所有者と同様、労働者も平均するとこの最小限と同じ程度しか受け取りません。この賃金に関する経済法則は大規模産業があらゆる労働部門を所有していくに従ってさらに厳密に適用されます。
労働階級はさまざまな条件下で暮らし、所有階級・支配階級とその関係性においてもさまざまな立場にあり、さまざまな社会発展段階に応じてきました。古代においては労働階級は所有者の奴隷であり、多くの発展途上国、合衆国の南部においてさえいまだに同じ状況です。中世においては土地を所有する貴族階級の農奴であり、ハンガリーやポーランド、ロシアではいまだに同じ状況です。中世から産業革命まで、さらにそれ以降においては、都市にはプチブルジョアの主人に仕えて働く熟練職人がいましたが、工場制手工業の発達とともに次第に大資本家に雇われた工場労働者も姿を現すようになっていました。
奴隷は一度売り払われればそれで終わりです。プロレタリアは毎日、毎時間ごとに自身を売ることを強いられます。個々の奴隷は主人の所有物であり、主人の利害に従って悲惨なものになることもありえるとは言え確実な生存が図られています。個々のプロレタリアはいわばブルジョア階級全体の所有物であり、当人にしてみれば労働力を売れるのは誰かが必要とした時だけで、確実な生存は図られていません。生存が確実なものになっているのはプロレタリア階級全体についてのみのことです。奴隷は競争の外にいますが、プロレタリアは競争の中にいてそのあらゆる変化の影響を受けます。奴隷は物とみなされ、ブルジョア社会の一員ではないとされていますが、プロレタリアは人間とみなされ、ブルジョア社会の一員とされます。
このように奴隷はプロレタリアよりも好ましい生存を送ることができますが、プロレタリアはより高度な社会の発達段階に属していて、自身も奴隷より高度な水準にあります。奴隷はあらゆる私有財産関係のうちの奴隷に関係するものだけを廃止することで自らを解放してプロレタリアになります。プロレタリアは全ての私有財産を廃止することによってのみ自らを解放することができるのです。
農奴は財産を持っていて、生産のための道具や小さな土地を収益の一部や労働と交換します。プロレタリアは他人の生産のための道具を使って他人の利益のために働き、対価として収益の一部を受け取ります。農奴は引き渡し、プロレタリアは引き渡されます。農奴は確実な生存を手にしていますがプロレタリアはそうではありません。農奴は競争の外にいますが、プロレタリアは競争の中にいます。農奴は都市へと脱走してそこで職人になるか、労働や生産物の代わりに金銭を地主に支払って自由小作農になることで、つまりどちらにしろ所有階級と競争へと参加することで自らを解放します。プロレタリアは競争と私有財産、あらゆる階級区別を廃止することで自身を解放します。
訳註:エンゲルスはここで半ページの空白を残し、この問いに回答していません。しかし「共産主義の諸原理」執筆の半年ほど前に発表された「共産主義の信条表明(Kommunistisches Glaubensbekenntnis)」草案には同じ問いが問12としてされていて以下のように回答されています。
プロレタリアと比べれば、前世紀にはあらゆる所に存在していて現在もあちらこちらにいるいわゆる職人はせいぜい一時的なプロレタリアとしか呼べません。職人の目標は自身の資本を手に入れて他の労働者を搾取することなのです。ギルドがまだ存在している場所、あるいはいまだギルドの制限から解放されずに手工業に工場方式が導入されることもなく激しい競争が始まっていない場所ではその目標が達成されることもよくあります。しかし工場方式が手工業へ導入されて競争が最大限に激しくなるやいなや、この目論見はしぼんで消え、職人はどんどんプロレタリアへ変わっていきます。それゆえに職人はブルジョア、一般化して言えば中流階級の一員となって自身を解放するか、さもなければ競争の結果としてプロレタリアへ変わるかしかありません(今のところこれがほとんどです)。その場合にはプロレタリアの運動――それは多かれ少なかれ共産主義の運動なのですが――へ参加することで自身を解放できます。
十六世紀から十八世紀の工場労働者のほとんどはいまだ生産のための道具、つまり自分の織機や家族のための紡ぎ車、余暇時間に耕す小さな畑を所有していました。プロレタリアはどれも持っていません。工場労働者はほとんど常に地方で暮らしていて多かれ少なかれ地主や雇用主と家父長的関係を結んでいました。プロレタリアは普通は大都市で暮らしていて雇用主とは純粋に金銭的な関係しか持ちません。工場労働者は大規模産業によってその家父長的関係から切り離され、手にしていた財産を失い、それによってプロレタリアそのものに変わったのです。
まず第一に、機械作業の結果としてますます高価になっていった工業製品の価格が世界のあらゆる国で古い工場制手工業方式や手作業による産業を完膚無きまでに壊滅させました。これまで歴史的発展とは多かれ少なかれ無縁で、工場制手工業を産業の基礎においていた半未開国はそれによって強制的にその隔離状態から切り離されたのです。そうした国々はイギリスの安価な商品を購入し、自国の製造業労働者が消滅するに任せたのです。こうして数千年に渡って進歩のなかった国々、例えばインドは完全に革命され、中国さえもが今では革命に近づいているのです。今日、イングランドで発明された新しい機械が中国の数百万人の労働者を一年以内にその職から追放するであろう地点にまで達しているのです。こうして大規模産業が世界中の人々と繋がり、あらゆる小規模な地域市場を世界市場にまとめあげ、あらゆる場所での文明化と進歩を準備し、文明国で起きる全てのことが他の全ての国に影響を与えるという状況をもたらしました。従ってもし今、イングランドやフランスの労働者が自身を解放すれば、それは他の全ての国においても革命を導くに違いなく、遅かれ早かれその地の労働者の解放をももたらすのです。
第二に、それがどこであれ大規模産業は工場制手工業の居場所を奪ってきました。それはブルジョアジーを育て、その富と権力を最上のものとし、この国で最高の階級の座へと就けました。その結果、これが起きたあらゆる場所でブルジョアジーは政治的権力を握り、それまでの支配階級、つまり貴族、ギルド・ブルジョアジー、そして両者を代表する絶対王権に取って代わったのです。
ブルジョアジーは限定された土地相続権やあらゆる貴族的特権を廃止することで貴族、貴族階級の権力を打ち壊しました。また全てのギルドと同業組合特権を廃止することでギルド・ブルジョアジーの権力を打ち壊しました。両者に取って代わると彼らは自由競争、つまり誰もがどの産業部門にでも携わる権利を持ち、それに必要な資本の欠如を除けばそうした産業に携わることを阻むものが無い社会状態を打ち立てたのです。
自由競争の導入はすなわち、今後、社会の構成員は資本の不平等においてのみ不平等であり、資本が決定的な権力へと変わり、それゆえ資本家、ブルジョアが社会の最高階級であるというおおやけの宣言でした。しかし自由競争は大規模産業開始に必要なものでもありました。なぜならそれは大規模産業が出現できる唯一の社会状態だからです。貴族とギルド・ブルジョアジーの社会権力を打ち壊したブルジョアジーはまたその政治的権力をも打ち壊しました。社会の最高階級へと自身を上昇させながら、政治的形態においても最高階級となることを自身に宣言したのです。それは法の前での市民的平等に基づいた代議制の導入、自由競争の法的承認、ヨーロッパ諸国での立憲君主制の導入によって実現されました。こうした立憲君主国では一定の資本を所有する投票者、つまりブルジョアだけが投票券を持ちます。こうしたブルジョアが代議士を選び、このブルジョア代議士たちが税拒否権によってブルジョア政府を選びます。
第三に、ブルジョアジーの発達と同じ割合でプロレタリアートがいたるところで発達しました。ブルジョアが裕福になるのと同じ割合で、プロレタリアの数が増えていったのです。プロレタリアは資本によってしか雇えず、資本は労働力を雇うことができる時にのみ増加するので、プロレタリアートの増加は資本の増加とまったく同じペースで続いたのです。同時にブルジョアとプロレタリアは産業が最も効率的に運営できる大都市へと共に引き寄せられ、この一か所への大きな人口の集中がプロレタリアへ自身の強さへの自覚を与えました。さらに発展が進むに従って、手作業を置き換えるさらに新しい機械が発明され、さらに大規模な産業が賃金をその最小限まで圧縮し、すでに述べたようにプロレタリアートの状況はますます耐え難いものへと変わりました。そして一方では不満の高まりによって、一方ではプロレタリアートの権力の高まりによってプロレタリアートによる社会革命が準備されたのです。
大規模産業は蒸気機関やその他の機械によって短期間に小さな費用で飛躍的に工業生産を増加させる手段を作り上げました。この大規模産業から不可避に起きる自由競争は、生産の容易さもあって、すぐさま極めて暴力的な特性に侵されました。多くの資本家が産業に身を投じ、ほどなく使い切れる以上の生産がされるようになりました。その結果、製品を売ることができなくなり、いわゆる商業恐慌が起きたのです。工場は操業を停止し、工場主は破産し、労働者は失業しました。かつてない悲惨があらゆる場所で起きたのです。しばらくすると余剰製品が売り切れ、工場は再び操業を始めて賃金は上昇し、次第に以前よりも事業が上向くようになりました。しかし、まもなくすると再び過剰な商品が生産され、新しい恐慌が起き、以前のものと同じ道をたどることになりました。このようにして今世紀始め以来、産業の状況は繁栄の時期と恐慌の時期の間を絶えず行ったり来たりしていて、五年から七年ごとにほぼ規則的にこうした恐慌が起きています。毎回のようにそれは労働者のかつてない悲惨や広く起きる革命の扇動、全体の生存条件のかつてない危険と結びついていました。
第一に、大規模産業はその最初の発達期に自身で自由競争を生み出すとは言え、今や自由競争を超える規模になっています。こうした競争、一般化して言えば個人による工業生産の運営は打ち破られるべき足かせに変わってしまったのです。現在の基礎の上で運営されている限り、大規模産業は七年周期で繰り返される大きな混乱によってしか維持できないのです。その度に文明全体が脅かされ、プロレタリアが悲惨に追い落とされるだけでなく、大勢のブルジョアが破滅します。ですから、大規模産業は――まったく不可能なことですが――それ自体が完全に放棄されるか、さもなければ完全に必要十分なまったく新しい社会機構を作り出すかのいずれかなのです。こうした社会機構ではもはや個々の工場主は互いに競争せず、社会全体が確固とした計画と全体の必要に応じて工業生産を指揮するのです。
第二に、大規模産業とそれによって可能になった無限の生産増大は、社会の全ての構成員が完璧な自由の中で自身の力と才能を育んで行使するのに十分なだけの全生活必需品を生み出す社会状態を実現します。現在の社会ではひどい悲惨と商業恐慌を生み出している大規模産業の大きな特徴は、異なる社会機構の下においては、まさにこのひどい悲惨と不幸な変動期を打ち砕くものなのです。
何よりもまず、互いに競争する個人の手から産業とあらゆる産業部門の運営が全て取り上げられ、代わりにこうした産業部門の全てが社会全体によって運営されるようになる、つまり公共の利益のために、公共の計画に従って、社会の全ての構成員の参加によって運営されるようになることが挙げられます。このため競争は廃止され協力がとって代わります。個人による産業の運営は必然的な帰結として私有財産を生み出しますが、個々の個人所有者によって産業が運営される社会において競争はまさにその手段であり、私有財産は産業の個人運営や競争と切っても切り離せません。そのため私有財産もまた廃止され、代わって全ての産業機械は共同利用され、全ての生産物は共同合意に従って分配されます。いわゆる財産共有です。私有財産の廃止は、産業の発達による必然的な結果としての社会秩序全体の変化の最も短く最も重要な要約であり、それゆえ、正当にも最大の要求として共産主義者に強調されています。
できなかったのです。社会秩序におけるあらゆる変化、所有関係のあらゆる大変動はもはや古い所有関係に従うことを望まない新しい生産力の世代の必然的帰結でした。私有財産自体もそのようにして生まれました。私有財産は常に存在してきたわけではありません。中世末期に向かう頃、新しい生産形態が工場で生み出され、それは当時の封建的・ギルド的な財産には従属し得ないものでした。古い所有関係を超えて成長したこの工場が新しい財産形態である私有財産を生み出したのです。しかし工場、大規模産業の発達の最初の段階においては私有財産以外の財産形態も、私有財産に基づかない社会秩序も実現できなかったのです。十分な生産だけでなく、社会資本と生産力のさらなる増加のための生産物の余剰が生まれるまではそれを生み出すことはできず、その間、社会の生産力を所有する支配階級と貧しく虐げられた階級が必ず常に存在したのです。こうした階級がどのように構成されるかは生産の発達段階に依存します。農業に依存していた中世では封建領主と農奴が生まれました。中世後期の都市ではギルド長や熟練職人、日雇い労働者が見られました。十七世紀には工場主と工場労働者が、十九世紀には大工場主とプロレタリアがいるのです。
これまでは全員のために生産をできるほど十分には生産力が発達していなかったこと、私有財産がこうした生産力の足かせや障壁になっていることは明らかです。しかし大規模産業の発達を経た現在においては、第一に、資本と生産力は前代未聞の域に達し、こうした生産力を短期間で飛躍的に増加させる手段を利用できるようになっています。第二に、こうした生産力が少数のブルジョアの手に集中し、一方で人々の大多数がさらにプロレタリアへ変わり、その状況はブルジョアの裕福さが増すに従ってさらに悲惨で耐え難いものへと変わっています。第三に、こうした巨大で容易に増加できる生産力が私有財産や極めて暴力的動揺を社会秩序に常に引き起こしているブルジョアの頭上をはるかに超えて成長している今こそ私有財産の廃止が可能で、絶対的に必要でさえあるのです。
そうなることが望ましいですし、共産主義者にとってもそうでないやり方は間違いなく最後の手段です。あらゆる謀略は無益なだけでなく有害でさえあることは共産主義者もよくわかっています。革命を意図的に好き勝手に起こすことはできないこともよくわかっていますが、あらゆる場所や時代において、そうした意志や個々の党の指導、全ての階級とまったく無関係な状況の必然的な結果が存在することもわかっているのです。
しかしプロレタリアートの勢力増大はほとんど全ての文明国で無理やり抑え込まれ、それによって共産主義の反対勢力は全力で革命に向かって進んでいることもわかるでしょう。虐げられたプロレタリアートは最終的に革命へと追い込まれ、その時こそ私たち共産主義者は現在言葉でやっているのと同じように行動によってプロレタリアの目標を擁護するのです。
いいえ。共同社会の設立に必要なだけの程度にまで一挙に増加できる既存の生産力はありません。従って、まず間違いなく起きるであろうプロレタリアートの革命は現在の社会を徐々に変化させるだけで、必要なだけの量の生産手段が作り上げられるまで私有財産の廃止は実現できません。
まず民主的な国家憲法が制定され、さらに直接的か間接的かを問わずプロレタリアートの政治支配が確立されます。プロレタリアがすでに人々の大多数を占めるイングランドでは直接的なものになります。人々の大多数がプロレタリアだけでなく小作農や市民、つまり、まさにプロレタリアートへの移行過程にあり、政治的利益の点でますますプロレタリアートへの依存を強め、それゆえプロレタリアートの要求に早々に従う人々からなるフランスやドイツでは間接的なものになります。これは恐らく第二の争いを生むでしょうが、しかしそれはプロレタリアートの勝利で終わるでしょう。
民主主義は、もしそれが私有財産を直接的に非難してプロレタリアートの生存を確かにするさらなる措置を強める手段として直ちに用いられないのであればプロレタリアートにとってはまったく無益でしょう。既存の状況の必然的な結果としてすでに実行に移されつつあるこうした措置のうちで最も重要なものは以下のものです。
もちろん、こうした措置の全てを一挙に実施することはできません。しかし、ひとつ実行すれば必ずやそれは次のものに繋がるでしょう。ひとたび私有財産への根本的な攻撃がなされれば、プロレタリアートはさらに進んで、あらゆる資本、あらゆる農業、あらゆる工業、あらゆる運輸、あらゆる取引を国家の手に集中せざるを得ないことに気がつくでしょう。この目標に向かってこうした措置の全てが働くのです。そうしてそれらは実行可能になり、その中央集権化は国の生産力がプロレタリアートの労働によって増加するのと完全に同じ割合で進むでしょう。最終的にあらゆる資本、あらゆる生産、あらゆる取引が国家の手に集中した時、私有財産は自ら崩れ去り、金銭は不要となり、古い社会の最後に残った交換形態さえも崩壊するほどに生産は増大し、人間は変わるのです。
いいえ。世界市場を作り出すことで大規模産業は地球上の全ての人々、とりわけ文明化されている人々を互いに繋がって依存しあう状態へ変えました。また、同程度に文明化された全ての国で、ブルジョアジーとプロレタリアートが明確に区別された二つの社会階級となり、両者の間の争いが現代における最大の争いとなるほどまで社会を発達させました。従って共産主義革命はただ一国に留まるものではなくなるでしょう。全ての文明国、少なくともイングランド、アメリカ、フランス、ドイツで革命は同時に起きるはずです。こうした国々のそれぞれで進行の遅い・速いはあるでしょうが、それはより発達した産業や大きな富、さらに重要な生産力の量を所有しているかに依存します。従ってドイツでは最も遅く実現が困難なものとなり、イングランドでは最も速く容易なものとなるでしょう。そしてまたこの革命は世界の他の国々にも重要な影響を与え、その現在の発展様式を完璧に変化させておおいに加速させることでしょう。これは世界的な革命であり、それゆえ世界的な地域に及ぶのです。
全ての生産力や輸送手段、製品の取引や分配を個人資本家の手から奪って社会が握り、利用可能な手段と全体としての社会の必要に応じて導かれる計画に従って管理するようになれば、何よりもまず、大規模産業の運営にいまだ繋がっているあらゆる悪影響が取り除かれます。恐慌は消え去るでしょう。現在の社会秩序にとっては過剰生産であり、悲惨の大きな原因となっている拡大生産は不十分なものにさえなり、さらに拡大する必要が出てくるでしょう。悲惨をもたらす代わりに、過剰生産は社会の基本的欲求を超えて全ての欲求を満足させることを確実にし、新しい欲求を作り出すと同時にそれを満足させる手段をも作り出すでしょう。
これが新しい進歩の条件であり原因なのです。これまでのように進歩が社会秩序を混乱させることはもはやなくなります。私有財産の圧力から逃れた大規模産業の発展は今のものと比べれば、現在の大規模産業と一工場を比べるようにせせこましいものに思えるでしょう。この産業発展は社会に十分な量の製品を供給し、全員の欲求を満たすはずです。同様に、私有財産の圧力と分断された農地に阻まれ、すでに存在する改良と科学的発展を採用できずにいる農業も新たな上昇力を得て社会に十分な量の生産物を供給するでしょう。
このようにして社会は、その構成員全員の必要を満足させるような分配を可能にするだけの十分な生産物を生み出すのです。そうして社会を分断する区分、互いに反目する階級は不要なものへと変わるでしょう。それは不要というだけでなく、新しい社会秩序とは相容れないものでさえあるのです。階級の存在は分業に由来するものですが、この古いやり方による分業は完全に取り除かれるのです。工業と農業をこうした水準にまで高めるには、機械的・科学的な助けだけでは不十分です。こうした補助具を扱う人々の能力もまたそれと見合う程度まで発達させなければなりません。大規模産業へと飲み込まれた前世紀の小作農や工場労働者が生活方法を完全に変えてまったく異なる人間へと変わったように、社会全体による生産の共同運営とその結果としての生産の新しい発達もまたまったく異なる人間を必要とするのです。生産の共同運営は現在いるような人々によってはなし得ないことです。彼らは生産の一部門にのみ従属し、そこにつなぎ留められ、搾取され、また他の技能を犠牲にしてただひとつの技能だけを発達させ、生産全体のうちのただひとつの部門についてしか知識を持たないのです。
現在の産業でさえ、こうした人々はますます不要になっています。社会全体による計画に従って合同で運営される産業はあらゆる方向に技能を発達させた人々、生産体制全体を見渡すことのできる人間を前提にします。機械によってすでに切り崩されている分業、つまり農夫、靴屋、工場労働者、株式仲買人を生み出しているそれは完全に消え去るでしょう。教育によって若い人々は生産体制全体をすみやかに行き来できるようになるでしょう。社会の必要や自身を導くその性向に応じて、彼らを生産のある部門から別の部門へと移動できるようにさせるのです。そうして現在の分業が個人に押し付けている偏った性格が取り除かれるのです。このように共産主義的に組織された社会はその構成員に全方位的な能力開発を訓練する機会を与えます。これによって様々な階級は必然的に消え去ることになるでしょう。一方で、共産主義的に組織された社会は階級の存在と相容れず、社会での生産それ自体がこうした階級区別を撤廃する手段を提供するのです。
これに続いて都市と地方の間の差異も消えるでしょう。異なる二つの階級ではなく同じ人々によってされる農業と工業の運営は、まったくの物質的理由からすでに共産主義的な組合の必要条件となっています。大都市での工業人口への集中にともなう地方での農業人口の分断は、農業と工業の未発達な段階にのみ付随して起きる状況であり、すでに明白になりつつあるさらなる発展の障害に過ぎないのです。
共同的・計画的な生産能力の開発のための社会の全構成員による全体的な組合、全員の必要を満足させるだけの生産拡大、他の者を犠牲にして一部の者の必要を満足させるという状況の停止、階級と階級対立の完璧な消滅。そして現在のような分業の廃止や産業教育、活動転換、全員によって生み出される娯楽への全員の参加、都市と地方の融合を通した社会の全ての構成員の全方位的な能力の発展――それらこそが私有財産の廃止によって得られる大きな成果なのです。
関係する人間だけを念頭に置いた、社会が妨げる必要を持たない、二つの性の間の純粋に私的な人間関係を実現させるでしょう。なぜそうなるかと言うと私有財産を廃止し、子供たちを連帯して教育することによって今まであった婚姻の二つの基礎、つまり私有財産によってなされる男性への女性の依存と両親への子供の依存を打ち崩すからです。これはまた共産主義的な女性コミュニティーに対して上げられる実に道徳家ぶったペリシテ人たちの叫び声への回答にもなります。女性たちのコミュニティーは完全にブルジョア社会に属した人間関係であり、昨今では完璧な売春関係のもとに存在しています。しかし売春は私有財産に基づいているのであり、それと一緒に消え去るのです。従って共産主義的な組織は女性コミュニティーを導入するのではなく、むしろそれを廃止するのです。
変更なし
訳註:「共産主義の信条表明」の問21で同じ問いがされていて以下のように回答されています。
共産党の原理に従って連帯した人々の国家はこの連帯の結果として互いに融合しそれによって消え去るでしょう。それはちょうど地位や階級のさまざまな違いが、その基礎――つまり私有財産――の廃止を通して消え去るのと同じことです。
変更なし
訳註:「共産主義の信条表明」の問22で同じ問いがされていて以下のように回答されています。
これまで存在したあらゆる宗教は個々の人間や人間集団の発達の歴史的段階を表現しています。しかし共産主義はあらゆる既存の宗教を不要なものに変える歴史的発達段階であり、それらを消し去るものなのです。
いわゆる社会主義者は三つに分類されます。一番目の分類は、大規模産業や世界貿易、そして両者が生み出したブルジョア社会によって今なお日々破壊されつつある封建的・家父長的な社会の支持者からなります。この分類に属する者たちは現在の社会の邪悪さを見て、封建的・家父長的な社会が取り戻されなければならないと結論しています。封建的・家父長的な社会はこうした邪悪に毒されていないからです。直接的であれ間接的であれ、彼らの提案は全てこの目標へと向かっています。プロレタリアートの悲惨に同情の声を上げて熱い涙を流すといえども、この反動的社会主義者の一団は共産主義者から必ずや激しい攻撃を受けるでしょう。それは次のような理由のためです。
二番目の分類は、現在の社会の支持者からなります。彼らにとっては、現在の社会から不可避に生じる邪悪はこの社会が存続するために必要な恐怖を喚起させるものなのです。それゆえに彼らは現在の社会と結びついた邪悪を取り除くのではなく、現在の社会を維持しようと努めます。この目標に向かって、ある者は慈善的措置を提案し、またある者は社会再編の名目の下、現在の社会の基礎を維持するための壮大な社会改革を提案します。こうしたブルジョア社会主義者もまた絶え間なく共産主義者と戦わなければならないでしょう。なぜなら彼らは共産主義者の敵対者のために働き、共産主義者が打ち倒そうとしている社会を擁護しているからです。
最後の三番目の分類は、民主社会主義者からなります。彼らは共産主義者と同様に問18で示された何らかの措置を求めていますが、共産主義への過渡的手段としてではなく、悲惨を排して現在の社会の邪悪を消し去るのに足る措置として求めているのです。こうした民主社会主義者は、自身の階級の解放条件についていまだ十分な知識を持たないプロレタリアか、あるいは生まれる民主的・社会主義的な措置が達成されるまでは多くの点でプロレタリアと同じ利害を持つ階級であるプチブルジョアジーの代理人のどちらかです。それゆえ共産主義者は行動の瞬間にはこうした社会民主主義者と連絡を取り合い、当分の間はできるだけ彼らと共通の政策を取る必要があるでしょう。ただしそれはこうした社会主義者が支配的ブルジョアジーのための仕事や共産主義者への攻撃に足を踏み入れなければの話です。またこの協調路線が彼らとの違いについての議論を排除するものでないことは明らかです。
その関係は国ごとに異なります。ブルジョアジーの支配するイングランドやフランス、ベルギーにおいては、共産主義者はいまだしばらくの間はさまざまな民主政党と共通の利害を持っていて、民主的な党であればあるほどその程度は大きくなります。これは彼らが現在いたるところで提唱している、共産主義の目標に近い社会主義的措置についてのことです。言い換えれば、明白に、そして確実に彼らはプロレタリアートの利益を代表するようになり、プロレタリアートに頼るようになっているのです。例えばイングランドでは労働者から構成されたチャーティストは民主的プチブルジョアやいわゆる急進主義者よりも限りなく共産主義者に近いのです。
民主的な憲法が導入されているアメリカにおいては、共産主義者は、その憲法をブルジョアジーに対抗するものへと変えてプロレタリアートの利益のために使おうとしている政党、つまり農地国民改革主義者と行動を共にしなければならないでしょう。
スイスにおいては、共産主義者が協力できるのは急進主義者だけです。彼ら自体もいまだ様々な勢力が入り混じっているものの、こうした急進主義者の中でもワルド派とジュネーブ人が最も進歩的です。
最後にドイツにおいては、ブルジョアジーと絶対王政との間の決定的な戦いがまだ始まったばかりです。しかし共産主義者は彼らの間のこの決定的な戦いに期待することはできませんし、ブルジョアジー支配が実現するまでブルジョアジーに手出しすることもできません。できるだけ早くブルジョアを打ち倒すためにできるだけ早く彼らが権力の座に就くよう手助けすることこそが共産主義者の利益となるのです。従って共産主義者は政府に対抗する自由主義的ブルジョアに常に味方しなければなりませんが、ブルジョアの自己欺瞞を共有することやブルジョアジーの勝利がプロレタリアートに有益な影響を与えるという魅惑的な言葉を信じることには注意しなくてはなりません。ブルジョアジーの勝利が共産主義者にもたらす利益とは以下のものだけなのです。
1847年10月下旬から11月にかけて執筆