彼らは明け方より、白熱した道──ときおり灌木の茂みが束の間蔭を差すかと思えば、ふたたび赫々とかがやき出る道を、もう三十キロ以上も行軍していた。道の両側には、広大で浅い谷が、熱をひらめかせていて、暗緑色のライ麦の小さい畠が、青く未熟な小麦が、眠っている耕地と牧草地が、そして暗い松の群々が、白い輝きを放つ空の下に、くすんだ、熱れた絵模様に広がっていた。正面の彼方にはしかし、淡青にかすむ、深い静寂にひたった山脈が、横切るようにつらなり聳え、大気の深処から、雪の微光を穏やかにゆらめき放っていた。そしてその山脈へと向って、ライ麦畑と牧草地とのあいだを、──道の両側に整然と並ぶ、ふしくれだった果樹のあいだを、中隊は休む間なく行軍しつづけた。つやに輝く深緑のライ麦は、重苦しい熱を吐き、山脈は、徐々に徐々に近づくにつれ形姿を露にする。兵士たちの足裏は熱に蒸し、汗がヘルメットの下の彼らの毛髪を伝うのだが、彼らのナップザックは、もう灼けつくように彼らの肩に触れることはなく、そのかわり、冷たい、苛々と刺す感覚を発しているようだった。
前方の山脈を見据えながら、彼は一言も口にせず一歩一歩踏み出しつづけた──大地から真直ぐにそそり立ち、幾重にもかさなりそびえ、なかば大地であり、なかば天空であり、あるいはほの青い頂きに柔らかい雪の裂け目をもつ、天の障壁のような山脈を、見据えながら歩いた。
彼は今や、痛みなしで脚を運べるようになっていた。出発の折、彼はけっして足を引きずって歩くことはすまい、と決めていた。歩き初めの数歩から、痛みに苛まれ、それから一マイルあまり歩くあいだ、ずっと彼の息づきは締めつけられるようで、冷たい汗の粒が彼の額に浮んでいた。しかし歩くうちに痛みは薄れた。所詮それらはただの打ち傷にすぎなかったのだ。彼は朝の起きしな、よくその傷を眺めてみた──腿の裏に深い打撲が出来ていた。そして彼が今朝、歩を踏み出したときから、それらの傷は、彼の意識に疼き、この時までずっと、抑えつけられた痛みとともに、ひき絞るような熱が彼の胸裡にくすぶり、それを彼は、自身を押し殺して、堪えていたのだった。息をしても、彼にはまるで空気が無いように感じられていた。だが、今はもう、ほとんど彼は軽快に歩を進めていた。
朝方、コーヒーを飲む大尉の手はふるえていた──彼、隊長付きの従卒は、ふたたびその手を目に浮べた。そして彼は今、先駆けて農家のところでぐるりと向き変えた大尉の、馬の背に乗った立派な風貌──緋色の襟章のついた、淡青の軍服の品格ある大尉の姿を、それから、黒いヘルメットと剣の鞘の鈍いひらめきと、絹のような馬の鹿毛につく汗の暗い濡れた筋とを、眼にした。従卒は、馬の背上で不意に揺れうごくその人影に、自身が結びつけられるように感じていた。彼はもの言えず、不可避の流れのように、大尉に影と添い、あたかも罰せられているかのようだった。そしてまた大尉の方でも、背後の、兵士たちのなかに埋もれて行軍している、彼の従卒の歩調を、つねに敏感に感じ取っていた。
大尉は四十がらみの背の高い男で、こめかみに白髪がまじっていた。彼は整った、堂々と引き締った容姿をして、西部地方ではもっとも優れた騎手の一人だった。つねからその体をマッサージする務めのある従卒は、大尉の、乗馬者に特有の、素晴らしい腰回りの筋肉に感嘆していた。
それ以外の点では、従卒は、自分自身を気にかけないのと同じように、ほとんど上官のことを意識していなかった。彼は稀にしか上官の顔を見なかった。ましてよく見つめることなど絶えてない。大尉は短く刈った、赤茶色の硬い髪をしている。彼の口髭もまた短く断ってあり、堅剛で、顔一杯に広がる獣じみた口を覆う。ひどくいかめしい顔つきで、頬は痩せている。おそらくは、生と格闘している男という外貌を彼に与えている、彼の顔の深い皺と、癇の立った張りつめた額とが、彼の威をなおさら増していた。冷たい炎のひらめく、彼の明るい青の瞳の上には、鮮やかな眉毛が深く生えていた。
彼はプロシア生まれの貴族で、ひどく尊大で倨傲だった。母親はポーランドの伯爵夫人だった。若い頃に賭け事にいれこみ、多く借金を負ったことで、軍における前途を失い、いまだに歩兵中隊の長にとどまっていた。彼はまだ結婚をしたことはない。彼の境遇がそれを許さなかったし、どんな女性も結婚の想いへと彼をかり立てることはなかったのだ。彼は自分の時間のほとんどを、乗馬に費やし──時には彼は自分の持ち馬で競馬に出ることもあった──、でなければ士官クラブで暇を過ごした。時として、あえて情婦と遊ぶこともあった。しかしそうした色事の後に、日々の職務に戻って来ると、彼の額はいよいよ張りつめ、ますます眼は敵意を帯びて痛ましくなるのだった。とはいえ、兵士たちといるときには、彼は、事に触れて鬼のようになる時もあるが、大概ただ無関心な様子をしている。それだから総じて、兵士たちは、彼を畏れていたけれど、彼にひどい反感を向けるということはなかった。大尉を、彼らはただ避けようのないものとして受け入れていた。
従卒に対しても、彼は初めのうちはただ冷静に、公平に、何気なく振舞い、些細なことで咎め立てなどしはしなかった。したがって彼の部下も、上官がどんな命令を下そうとしているか、どのように服せば気に入るのかを、察するより外は、何事も大尉について知ることがなかったのだ。二人の関係はきわめて簡潔だった。その関係の変容は、段々に、ゆっくりとやって来た。
従卒は中背で、よく鍛えられた体をもつ二十二歳の若者だった。彼の手足は頑強で重みがあり、肌は浅黒く、黒く和らいだ、幼げな口髭をそなえていた。なにか完成された暖かみと若さとが、彼をとりまいているようだった。彼は、暗く、表情の乏しい眼──あたかもこれまでどんな思想も懐いたことがなく、つねに、自身の感覚のみを通して直に生に触れていて、彼の振舞いも、いつも本能そのままであったことを語るような──無表情な眼の上に、はっきりと目立つ眉を持っていた。
大尉はすこしずつ、彼のまわりでゆらめく、その従卒の、若く、精力に溢れた、無意の存在感に、敏くなってきていた。従卒に身の回りの世話をさせているとき、若い人間の精気がそこにあるという意識が、彼に執拗にとりついた。ほとんど生き生きしさを失い、膠着した、張りつめて剛直な彼の老いた体に、若者の存在は、温もりある炎のように感じられた。従卒にはどこかしら気ままで、自分自身で充足しているところがあり、そして、若い男の身ごなしにあるそんな様子が、士官の意識を惹き付けるのだった。プロシア人の神経は刺立ちはじめた。彼は、従卒の生き生きした存在によって、自分が生に触れさせられることを望まなかった。しかし、部下を別の男に変えることは容易であろうに、彼はそうしようとしなかった。今では彼は、従卒を正視するのもごく稀になり、相手の姿を避けるようにつねに顔を逸らしていた。それでもなお、若い従卒が彼の部屋を不覚に動いていると、年高の男は、彼を見つめ、従卒の、青服の下の頑強で若々しい肩の動きに、首の屈曲に、意識を凝らそうとするのだった。そしてそれらはますます彼を苛立たせた。従卒の若々しく、褐色で、労働者のものである形良い手が、ひと塊のパンや、ワイン・ボトルを掴むのを見ると、年高の男の血漿に、嫌悪と怒りのひらめきがふるえ伝わることさえあった。その若者が、愚図だからというわけではなかった──むしろ、束縛されぬ若々しい獣の、盲目で、本能的な確かさをもつ仕種と動きが、そこまで士官の神経を苛立たせていたのだ。
或る時、ワイン・ボトルが倒れ、赤い液体がテーブルクロスの上に広がり散ってしまった折、大尉は、不意に罵って立ち上がり、燃える青い両眼が、取り乱した従卒の眼を一瞬捉えたことがある。この出来事は、若い兵士にとって衝撃だった。彼は、それまでにいささかも触れられたことのなかった自分の魂の内に、深く、深く、何かが滲み入ってくるのを感じた。それは彼の心を、少し、ぼんやりした戸惑いに沈ませた。彼の内にある生来の純粋さは、いくらか失われ、かすかな狼狽が、それに取って代わった。そしてその時以来、未知の情感が二人の間に籠りはじめたのだった。
爾来従卒は、上官との深い接触を畏れるようになった。大尉のあの鋼のような青い眼とどぎつい額の印象は、彼の意識の奥処に刻みこまれていて、従卒は、二度とそれらに出くわしたくないと思った。だから彼は、つねに相手越しの遠い彼方に目をやり、上官を避けようとした。そうしながら、彼が兵役を終える三ヶ月後がくるのを、かすかな不安に戦きつつ、待ちわびた。従卒は、大尉が身際にいることに圧迫を感じるようになり、大尉がそう望んでいたより以上に、自分の身ひとつの孤独を──従卒という中立な立場にそっとしておかれることを、望んでいた。
彼はすでに一年以上も大尉に仕えていて、務めを熟知していた。あたかもそれが彼の本性であるかのように、彼にとって、仕事をこなすことは容易だった。まるで陽差しや雨風を受けるように、彼は大尉を穏やかに遇し、下される命令に難なく服従した。それは彼の個我をかき乱すことはない。
しかし仮に今、大尉との私的な交わりを強いられるとしたら、彼は、囚われの野生の動物のような想いを味わうだろうし、そうなれば、その場から逃げ出さねばならないと考えるはずだった。
ところが若い従卒の存在の精気は、すでに、士官の従来の、頑なな生の習わしに、深く彫り入り、士官の内なる自我を荒くゆさぶっていたのだった。士官は、すらりと繊細な腕を持ち、動止の洗練された紳士であり、彼の内の、本来の自我のおもむくままに振舞うことなど、およそ自分に許そうとはしなかった。士官は不断に自身を抑えつけている、烈しい気性の持ち主だった。時とすると、自制と情動とが咬み合い、兵士たちの前で感情を破裂させることもある。彼はいつも自分が堪忍の切れる瀬戸に立っているように感じていた。だが、軍人としての威儀が彼をかろうじて縛っていた。それに対して、若い従卒の方は、彼自身の暖かい生と満ち足りた本性をまっとうしており、その暖かい本性を、野生の動物ののびやかな動きに似た、魅力ある、まさに彼固有の、しなやかな動きのなかで発散しているかのようだった。そしてそれこそが、士官に我慢ならず、彼を苛立たせる当のものなのだった。
思うにまかせず、大尉は、従卒に対しての平静な態度に戻ることができなくなっていた。のみならず、ただ従卒を放っておくこともできなかった。強いられるように、彼は従卒に目をつけ、厳しい命令を与え、従卒の時間をあたうかぎり奪い尽くそうとした。ときおり大尉はにわかに激昂し、従卒をむごく虐げた。そういう場合には、従卒は、あたかも上官の怒声が遠い響きであるかのように、自身を閉ざし、鬱々と、紅潮した面差しで、騒ぎがしずまるのを待った。どんな言葉も彼の理解に触れることはなく、彼は鈍い殻に隠り、上官の情思が彼に流れこむのをふせぐのだった。
従卒の左手の親指には、付け根の関節まで及ぶ縫い目のような傷跡があった。士官はそれが痛いほど気にかかって、以前からずっと、それを詰ってやりたいと考えていた。今もそれは、従卒の若々しい、褐色の手の上に、醜く、惨たらしい痕を見せている。そしてついに、大尉の自制は折れた。或る日、従卒がテーブルクロスの折り目を伸ばしている最中に、突然、上官はその親指を鉛筆で突き、圧しとどめ、そして、訊ねた。
「その傷跡はどうしたんだ?」
若い従卒は怯え、身を引いて直立の姿勢をとった。
「木斧による傷であります、大尉殿、」と彼は答えた。
さらに続きの説明を士官は待った。しかし、それで終いだった。従卒はまた自分の職務にもどっていった。年高の男は、鬱勃とした怒りを陰にこもらせた。彼は、部下に避けられているのだ。明くる日、彼はその親指の傷跡を意識しないためだけに、意志の力をすべて集中させなければならなかった。できるなら彼は、その指を握りつかんでやりたかった、そして、そして……。赫とした熱が彼の血を駆けめぐるようだった。
士官は、遠からず、従卒が兵役を終え、解放の歓びを迎えるだろうことを、知っていた。これまでのところずっと、従卒は、自身と上官とのあいだに隔てをつくっていた。大尉の忿恨は悍しいまでにつのった。従卒が姿をあらわさなくても、従卒が傍にいても、彼の気は休まらず、彼は従卒を苦しみに歪んだ眼でにらみつけた。士官は従卒の、翳りのない暗い眼の上を走る、細い、黒々とした眉を憎んだ──また、軍の規律に縛られることのない、従卒の、形良い手足のしなやかな動止を眼にすることは、士官を赫怒につき落とすのだった。彼はいよいよ酷薄に、無体に、侮罵と嘲弄の言葉をもちいて威張り散らした。若い従卒は一に、ただ言葉すくなに、無表情になっていくばかりだった。
「人の眼をまっすぐ見られないとは、一体どんな躾けを受けて来たんだ、お前は? 俺が話しているあいだは、俺の眼を見ろ。」
すると従卒は暗い瞳を相手の顔へ向けたが、しかし、それは何も見ていない眼差しだった──彼はできる限り目色をかすかに抑え、眼差しを虚しくし、上官の青い瞳を認めてはいても、そこからどんな視線も受け取らぬようにしていた。年高の男の顔は青ざめ、赤茶けたその眉は、ひきつり顫えた。それから彼は、無要な命令を従卒に与えるのだった。
或る時、突として、士官は重い軍用手袋を若い従卒の顔に投げつけた。すると、日頃動じなかった従卒の黒い眼のうちに、藁が燃え立つときのような、光熱が、輝きゆらぎ、それを見て、士官は満足の戦きを覚えた。彼は幽かに震えながら、嘲り笑った。
だがそれも、あと二ヵ月が過ぎるまでのことのはずだった。若者はつねに自身を荒れさせぬよう、本能から気を配っていた。士官をあかたも人間ではない、抽象的な権威であるかのように遇して服していた。彼は本能的に、個我の交わりを避け、明らかな悪心も懐かぬようにした。ところが、彼の意に反して、憎悪は積み重なっていき、彼は、士官の激情にゆさぶられるようになってきていた。ともかくも、彼はそうした情念を奥処へ沈めた。そんな情念は、彼が軍隊を離れてから省みればよいものだった。生来の気性から言えば、彼は快活な男で、多くの知人友人もいる。しかも友人たちはみな驚くほど気のよい連中だった。今はしかし、知らず識らず、彼は独りでいるのを好んだ。この孤独癖は一層濃くなっていた。その孤独が彼に、兵役を最後まで堪え抜かせてくれるだろう。しかし今や、士官は日に日に尋常でない苛立ちを帯びていくかに見え、若者は、それにひどく脅かされつつあった。
若い兵士には恋人がいて、それは、山の家に育った、自分自身の働きをもっている、素朴な娘だった。二人はとても静かに、連れ立って歩いた。彼は言葉は無しに、けれど彼女の肩にまわした手で肉体の触れ合いを交わしながら、歩いた。それは彼に安らぎを与え、大尉のことを遠い出来事のように感じさせる。彼の胸に重みをあずける彼女としっかり抱き合うのは、彼にとって憩いの時だった。彼女もまた、もの言わぬやり方で、彼と交感した。彼らは互いに愛し合っていた。
大尉はそのことを知り、狂おしく憤激がつのった。彼は幾日もつづけて、夕刻のあいだずっと、若者を務めに従事させ、暗い表情が従卒の顔に浮ぶのを、喜びをもって眺めた。時として彼ら二人の目線は交錯した──若者の、頑なに隔てをつくる暗鬱な眼差しと、年高の男の、絶えず侮慢を帯びた、嘲りの眼差しとが交錯した。
士官は自身をとらえ尽くしている情動を、必死に認めまいとしていた。従卒に対する彼の感情が、決して、ただ愚かでひねくれた部下に対しての不満などではあり得ないことを、彼は知ろうとはしなかった。したがって、平素のごく無難な感情はよく把握していながら、その裏の激情は、嵩じるままにさせていた。彼の神経はしかし、切羽詰まってきていた。ついには彼は、故意に従卒の顔を、革ベルトの端で打ち叩いたことさえあった。そしてそういう時、後ろへ引き下がった若者の、眼に痛みの涙が浮び、唇に血が滲むのを見ると、一時に、震えるような歓びと羞恥とが、士官の身内を衝くのだった。
しかしこんなことを、彼は今までについぞしたことがなかったし、それを自分でも分っていた。もはや従卒の存在は、彼に苛烈な刺激となって触れてくる。このままでは彼の神経はきれぎれに滅してしまうに違いなかった。士官は幾日か休暇をとり、女のところへと逃れていった。
それは、かりそめの慰みだった。彼はいささかも女の感触を求めてなどいなかったのだ。が、休暇のあいだずっと、彼は女のところにとどまっていた。そしてそんな一時が過ぎ去ると、彼は焦げるような、身悶えするような苛立ちと、惨めな苦痛をかかえて、ふたたび帰って来た。夕刻のあいだ馬を駆りつづけ、彼はそのまま夕食の卓におもむいた。従卒は出かけていた。士官は、すらりと繊細な腕を卓の上に横たえ、まったき静けさのなかにじっと坐り、自分の体の血という血が、みな錆びていくかのように感じていた。
従卒も晩く戻って来た。逞しい、しなやかな若々しい体つきと、濃いまっすぐな眉と、ゆたかな黒髪が、士官の眼に映った。一週間のうちに若者はかつての健やかさを取り戻していたのだ。士官の腕は硬くひきつり顫え、狂おしい炎につつまれたようにさえ見えた。若い従卒は直立の姿勢で、動じず、静かに立っていた。
夕食の時は無言のうちに流れていった。しかし、従卒はいそいそと焦っているようだった。従卒の食器はかちかちと耳立つ音をたてた。
「なにを急ぐんだ?」と、士官は、部下のひたむきな、上気したような顔をじっと見て、訊ねた。従卒は応えなかった。
「おい、俺の質問に答える気はあるのか?」大尉は言った。
「はっ、」従卒は、重ねた深皿を持って立ったまま、応えた。大尉は、しばらく間をおいて、相手を見据えてから、ふたたび訊ねた。
「急いでいるのか?」
「はっ、」と応えが返った。それは閃光のように聞き手を衝いた。
「なぜだ?」
「外出の用があるのです、大尉殿。」
「だが、今晩はお前は仕事だ。」
戸惑いの一息があった。士官は奇妙に強ばった顔つきをしていた。
「はっ、」と、咽喉にこもった声で、部下は応えた。
「明日の晩も、お前には居てもらわなくちゃならない──、いや、それだけじゃない、俺が許可を出すまで、今後、お前に晩の自由な時間はないものと思え。」
若々しい髭をもつ口許がきつく結ばれた。
「はっ、」束の間唇を解き、従卒は答えた。
従卒はまた戸のほうへ向き直った。
「それと、お前はなぜ、耳に鉛筆を挟んでるんだ?」
従卒は、少し躊躇ってから、問いに答えぬまま、自分の動作の流れに沿った。戸の外にある皿の重なりに、自分の皿を置き、耳に挟んでいた短い鉛筆を服のポケットに収めた。彼はその鉛筆で、恋人のバースデイ・カードに詩の一節を書き写していたのだった。彼は卓を仕舞いまで片付けるために、ふたたび戻って来た。士官の眼は震えており、かすかな、じりじりした笑みを顔に浮べていた。
「なぜ、鉛筆を、耳に、挟んでるんだ?」彼は訊ねた。
従卒の手は積み上げた皿でふさがれていた。上官は、緑色の大きい暖炉の傍に立ち、かすかな笑みを浮べ、顎を突き出している。それを目にすると、若い従卒の心臓は、かっと燃え立った。目が眩んだ。彼は問いに答えないで、覚束ないまま、戸口に向って歩いた。彼が皿を下へ置こうとかがみ込んだ、その瞬間、不意に、背に、蹴りの一撃を受け、彼は前へ吹っ飛ばされていた。皿の山が階段をなだれ落ち、彼はかろうじて手すりの柱を掴んだ。しかし、起き直る前に、ふたたび彼は獰悪な一撃を受け、蹴られ、また蹴られ、彼は、息も絶え絶えに手すりに縋りついた。やがて上官は、素早く部屋の中へ消え、戸を閉めた。階下の料理女が、瀬戸物の破片の散らばった階段を見上げて、鼻白んでいた。
士官の心臓は躍り上がるように打った。彼は幾らか床にこぼしながら、自分でワインを注ぎ、緑色の、冷えきった暖炉に寄りかかって、それをぐいと呷った。階段で従卒が皿を拾い集めている音が聞えた。淵酔したような、蒼ざめた顔で、彼は待ち受けた。彼の部下はふたたび部屋に戻って来た。従卒が畏怖の表情で、痛みに足をぐらぐらさせているのを見ると、大尉の心臓に、喜びの疼きが、鋭く差し込んだ。
「気をつけ!」と彼は言った。
兵士はややもたついて直立の姿勢をとった。
「はっ。」
若者は士官の前に、痛ましい幼げな口髯と、暗く滑らかな額に、くっきりと綺麗な眉を見せて、立っていた。
「俺はお前に質問したんだ。」
「はっ。」
士官の声は、酸のような尖りを帯びて来た。
「なぜ鉛筆を耳に挟んでいたんだ?」
ふたたび従卒の心臓はかっと燃え立ち、息もつけぬほどになった。暗い、はりつめた眼で彼は、あたかも憑かれたように士官を見つめた。そして彼は茫漠と、堅く根を張ったように立ち尽くしていた。脅すような笑みが、大尉の眼にゆらめき、そして大尉は片足を持ち上げてみせた。
「わ──、忘れました──、大尉殿、」と、従卒は息急しく言った。彼の暗い眼と、相手の輝き揺らぐ青い眼とは、堅く交わっていた。
「その鉛筆を何に使ったんだ?」
応えの言葉を探そうとして、若者の胸落が苦しくうねるのを、士官は見た。
「書きものをしたのであります。」
「何を書いてたんだ?」
ふたたび兵士の眼差しは動揺した。士官に、従卒の苦しい喘ぎが伝わった。笑みがその青い眼に浮んできた。兵士は、涸れた咽喉に力を入れたが、声は出なかった。突として、嗤笑が士官の顔を火のように走り、と思うと、重い蹴りが従卒の腿を打った。若者は脇に一歩よろめいた。彼の黒い両目は張りつめ、顔色が死んだ。
「で、どうなんだ?」士官は言った。
従卒の口腔はからからに乾き、舌を這わせても、まるで枯れた茶色の紙を擦るようだった。彼は咽喉に力をこめた。士官は足を上げた。従卒は身を凝らした。
「ちょっとした、詩であります、」彼の声はひび割れ、あやふやな響きだった。
「詩? 何の詩だ?」病的な笑みのまま大尉は訊ねた。
ふたたび従卒は咽喉が詰まった。すると急速に、大尉の心は、重く淀んで、そして彼の立ち姿に衰色と疲れとがあらわれた。
「恋人に宛てたものであります、」と、乾いた、非人間的な響きを、士官は聞いた。
「そうか。」と彼は言い、体を背けた。「テーブルを片付けろ。」
「ごくりっ、」という音が、一度ならず、従卒の咽喉を下っていった──「ごくりっ。」それから、やや明瞭な声が立った。
「はっ。」
部屋を去った若い兵士は、足を重たげに運んで、まるで老い込んだようだった。
独り残された士官は、身を強ばらせ、何事も想い乱さぬようにしていた。彼の本能が、今は何も考えてはならないと告げていた。彼の内奥では、満足した強烈な情動が、まだ後を引いて波打っていた。だが、それから、揺りもどしのように、彼の内で、何かが無惨に裂け崩れていき、反動の凄まじい苦しみが襲った。彼はその場に一時間あまりも、身じろぎせず、飛び交う感覚に揉まれながら、しかし、何事も把握せぬよう意識を頑なに空白のままにして、立っていた。ひどく重い圧痛が過ぎ去るまで、彼は身を持し、それから酒を飲みはじめると、正体を失うほどに飲み、すべてを眠りのなかへなだれ消してしまうまでに、飲んだ。翌朝、目を醒した彼は、本能の根方まで動揺している自分に気づいた。しかし、彼は必死に彼が為したことの自覚を遠ざけた。彼は、ひたすらその事実を意識に寄せつけず、本能とともに深く抑えつけてしまい、自分はそれと何の関わりもないのだと思い込んだ。泥酔の後のような膿んだ気分はあったが、しかし、あの事件はおのずと輪郭がぼやけたようで、形を取り戻すことはなかった。激情に心を喰われてしまったという記憶を、彼は巧く自分から隔てた。従卒がコーヒーを持って入って来た時にも、彼は、それまでの朝と同じ態度をとった。彼はあたかもそれが起らなかったかのように、昨夜の出来事を、記憶から葬り、否認しとおした。彼はそんなことをした覚えなどないのだ──彼に咎はない。何が起ったにせよ、もとより、あの愚かで、反抗的な部下の咎なのだ。
従卒はその日の宵を、ずっと茫漠とした無感覚のなかで過ごした。涸びた咽喉をうるおすためにビールを飲んだが、幾らも飲まぬうちに、アルコールは昨夜の記憶を抉り出し、彼を苛んだ。あたかも、彼の内の息精が九割の余失われてしまったかのように、彼の身体は、重たるくなった。彼は憔悴したように、辺りを歩きまわった。今なお、士官に蹴られたことを想い出すと、彼は鬱屈し、また、あの部屋でさらにその後揮われた脅しを想うと、彼の心臓は燃え立ち、気が遠のき、そして彼はあの時経験したのと同じ熱をふたたび感じて、息が上ずるのだった。彼は「恋人に宛てたものです、」などと応えることを強いられたのだ──そのあまりの陰惨さに、彼は泣きたい気も起らなかった。彼の口許はまるで白痴のように、しまりなく垂れた。彼の意識は濁り、荒廃した。そしてその晩の彼の仕事ぶりは、不様に、鈍くさくへまばかりして、とりとめがなく、箒を意味なく無闇に弄ったりし、或いはまた、一度椅子に腰をおろすと、彼はふたたび立ち上がる気力をほとんど失ってしまうのだった。彼の四肢も彼の口許も、生気無く、痺れていた。しかしそんな風でありながら、彼は疲れがひどかった。ようやく寝床へつくと、身体の強ばりは緩み、彼は鉛のように眠り込んだが、それは、安らかな眠りというよりは、むしろ昏睡のようであり、ほの光る苦痛だけが射し込む、生から切り放されたような夜の眠りだった。
明くる朝には、演習が予定されていた。しかし従卒は、起床のラッパが鳴るより早く、目が醒めた。疼くような胸の痛みが、咽喉の渇きが、たえまない惨めな懊悩が、目を醒すやいなや、彼を暗澹とさせた。憮然として、彼は自分の今の状況をさとった。またもや一日が始まるのだ──彼がやり過ごさなければならない一日が。夜の闇の最後のひとひらが、部屋から追い出され消えようとしている。いずれ彼は、脱け殻のような身体を動かし、この一日を切り抜けなければならない。彼は若く、生の困難と苦しみとにいまだ無知であったので、自分の重い気分を訝しんだ。彼はただ、ずっと夜が夜のままとどまってくれればいいのにと思った──それなら闇に覆われたまま、彼はずっと静寂のうちに横たわっていられる。しかしもはや、日が昇るのを妨げ得るものはなにもなく、起床し、大尉の馬の鞍を準備し、大尉のためにコーヒーを淹れるという務めから、彼を逃れさせてくれる何ものもないのだった。すべては不可避なことだった。そして彼は、もうそれらに堪えられないと感じた。だが逃れるすべはない。床を出て、大尉へコーヒーを持っていく務めが彼に課せられている。彼はその事実をのみ込もうとして、頭がひどく眩んだ。彼が分ったのは、自分がどれほど永く無為に横たわってようとも、それらは不可避であるということだけだった──不可避なのだ。
ようやく、彼は重い気怠さに伏した身体を、引き上げるようにして、起きた。しかし彼は身の節々に力を凝らして、意気を絞って起き上がらねばならなかった。彼は茫然と、空ろさと不如意とを感じた。それから彼がベッドの手すりを掴もうとした、その瞬間、突然、鋭い痛みが走った。腿を見ると、彼の浅黒い肌に濃く黒ずんだ打ち傷が目に入った──その傷は、指で圧せば、堪えられないような激痛を発するだろうと思わせるものだった。しかし彼はそんな苦悶をあらわにしたくなかった──誰に何ごとも知られたくない、と思った。今まで誰も、彼と大尉のあいだの不穏に気づいた者はないはずだった。彼と大尉だけが、対峙しているのだ。今やこの世には二人の人間しか存在しない──彼自身と、大尉と。
そろそろと、傷をいたわりながら、彼は身じまいをして、ともかく歩き出した。彼の手近にあるものの外は、なにもかも朧ろに感じられた。しかし、どうにか一つ一つ彼は仕事をこなしていった。脚の激痛が却って、鈍くひろがっていこうとする彼の感覚を、呼び戻してくれた。もっとも避けたい仕事が最後に残った。彼は盆を手に大尉の部屋へ向った。士官は、蒼ざめた顔で、ものものしく卓に付いていた。士官に敬礼する際、従卒は突然、自分の実在がどこかへ失せてしまったように感じた。彼はじっと立ち尽くして、薄れていく自身の存在感に意識を凝らした──しばらくの後、彼の実在の手応えはふたたび寄り集まり、取り戻された、と思うと、今度は大尉の方が実体を晦ませはじめ、消え入っていき、それにつれ若い兵士の動悸はたかまった。彼は、この状況──大尉の存在感の消失という状況、彼を生き延びさせてくれるであろうこの状況──を固守しようとした。だが、コーヒーを飲もうとする士官の手が震えているのを見ると、彼の内で、すべてがまた砕け散ってしまった。分解されて、散り散りになったような自身を感じながら、彼は部屋を去った。そして、ライフル銃とナップザックを肩に突っ立ち、痛みで朦朧となっている彼の目に、大尉の、馬の背上で命令を発している姿が触れると、彼は、目を瞑らなければならない──周囲のなにもかもに対して目を閉ざさなければならない、と思うのだった。涸れ乾いた咽喉で、長い長い行軍の苦しみに身をゆだねるうちに、彼の意識は、ついには、一つの、微睡みのような、鬱勃とした意志に憑かれていった──すなわち、どうしても自分を救わねばならない、という意志に。