眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

暗闇の戦い


もう彼はホールにはいなかった。彼は都市を横断するあの動くプラットフォームの巨大な通りの一つの上空にかかる空中廊下を進んでいた。前後にはしっかりとした足取りの護衛がついている。下の動く道の凹部全体で、密集した人々の群れが行進を繰り広げていた。叫び声をあげ、手や腕を振り回しながら左に向かって足音をたてて進んでいる。広大な光景に沿ってわき出し、叫びながら現れ、叫びながら通り過ぎ、叫びながら小さくなっていく。電気の光を放つ球が遠く小さくなって地面に近づき、群れ動くむき出しの頭を隠すまでそれは続いていた。だん、だん、だん、だんという音が聞こえた。

今では歌はとどろきとなってグラハムの耳に届いていた。もう音楽によって高められてはおらず、荒々しく耳障りだった。その上、あの打ちつけるような行進の足音である。だん、だん、だん、だん。それが高い方の道に沿ってわき出てくる、混乱した群衆のとどろくような不規則な足音と織り混ざった。

不意に彼は正反対のものに気づいた。道の反対側のビルには人がいないように見え、その通路につながるケーブルや橋は人けが無く暗かった。ここも人々があふれるに違いないという考えがグラハムの頭に浮かんだ。

彼は奇妙な感覚を覚えた――拍動だ――とても速い! 彼は再び立ち止まった。目の前の警護は進んでいったが、周囲の警護は彼とともに立ち止まった。その顔に不安と恐怖が浮かんでいるのを彼は見て取った。拍動はライトと何か関係があるようだった。彼は見上げた。

最初、事態はライトだけが関係する単独の現象で、その下にあるものとは関係しないように彼には思えた。目もくらむような白光の巨大な球体のそれぞれが、吊るされたまま、収縮期には圧縮され、その後に一時的な拡張期が続き、再び握りつぶされたように収縮する。暗くなり、明るくなり、また暗くなる。すばやく入れ替わっていった。

グラハムはライトのこの奇妙な振る舞いが下にいる人々と関係していることに気づいた。建物や道の様子、密集した群衆の様子はあざやかな光と不意に落ちる影に混然となっていた。群衆となった影が好戦的に変わっていくのが見え、それは着実な速さで駆け上り、広がり、幅を増し、増大していくように思われた――不意に後ろに飛び退き、それから力を増して戻っていく。あの歌と足音は止んでいた。足並みを揃えた行進が止まっていることに彼は気づいた。今は渦巻き、脇へと流れ出し、「ライトだ!」という叫びが起きていた。声は一斉に一つのことを叫んでいた。「ライトだ!」そう声は叫んでいた。「ライトだ!」彼は下を見た。このライトの舞い踊るような死の中で、通り一帯では突然、恐ろしい争いが引き起こされていた。巨大な白光の球体は紫白色に、そして赤みがかった輝きの紫へと変わり、明滅した。明滅の間隔はどんどん短くなっていき、光と闇の間を揺れ動き、明滅が終わったかと思うと広大な薄暗がりの中で赤く輝くたんなる消えゆく点へと変わった。十秒のうちにこの消灯は完了し、あとに残されたのはとどろき声の響く暗闇、あのきらびやかな無数の人々を突然飲み込んだ怪物のような漆黒だけだった。

目には見えなかったが彼は自分の周囲に複数の人影を感じた。彼の両腕がつかまれる。何かが彼のすねに鋭く当たった。耳元で声が怒鳴る。「何も問題ありません――大丈夫です」

グラハムは最初の驚きの麻痺から目覚めた。額をリンカーンにぶつけ、彼は怒鳴った。「この暗闇は何事です?」

「評議会が都市のライトの電源を遮断したんです。私たちは待たなければ――動かないで。人々は前進します。彼らは――」

その声がかき消された。たくさんの声が叫んでいた。「眠れる者を守れ。眠れる者は無事なのか」一人の警護がグラハムにつまずき、意図せず手にした武器で一撃を加えて彼の手に痛みを与えた。周囲で激しい騒ぎが巻き起こり、それは大きくなっていった。一瞬ごとに騒ぎ声は大きく、高く、怒りを増していくように思われた。判然としない物音が切れぎれに彼に届き、それを聞き取ろうと耳をすますやいなや消え去っていった。声は互いに矛盾する命令を叫んでいるようで、他の声がそれに答えている。突然、足元で鋭い悲鳴が何度も起きた。

耳元で声が怒鳴った。「赤警だ」そして彼の問いの届かない彼方へすばやく去っていく。

ぱちぱちという音が聞こえてきて、それとともに遠くの道の端に沿ってかすかな閃光が跳ね回る。グラハムは、その光に照らされた無数の人間の頭や体を見て取った。自分の警護のものと同じような武器で武装し、つかの間、ぼんやりとした薄暗がりへ消えた。そこら中でぱちぱちという音が起こり始め、わずかな瞬間だけ光の筋が走り、それからまた不意にカーテンのように暗闇があたりを覆う。

強烈な光が彼の目をくらませ、膨大な数の逆巻き膨れ上がる争う人々に彼の頭は混乱した。叫び声、わき起こる歓声が道を飛び交った。彼は見上げて光の源を確認しようとした。はるか頭上、上方のケーブルから一人の男がぶら下がっていた。暗闇を背景に走り抜けるまばゆい星を一本のロープで固定して持っている。

グラハムの目が再び道の方へと下ろされる。景色に沿って少し進んだところにある赤いくさびが彼の目に留まった。見たところ、それははるか上方の道へと押し込まれた赤い服の男たちの密集した群れで、ビルの無慈悲な断崖を背に、敵対する大勢の群衆に囲まれていた。彼らは戦っていた。武器が輝き、上へ下へと振り回される。戦いの境界では頭が消え、別の頭がそれと入れ替わり、緑色の武器が放つ小さな閃光は光があるうちにも灰色の煙の小さな噴流へと変わっていった。

不意にその強烈な光が絶え、道は再びインクのような暗闇に変わって、騒ぎは覆い隠された。

何かが自分に押し付けられるのを彼は感じた。彼は空中廊下を押されながら進んでいった。誰かが叫び声をあげている――たぶん彼に向かって。それが耳に届かないほど彼は混乱していた。彼は壁に押し付けられ、大勢の人々がまごつきながら彼の近くを通り過ぎていく。自分の護衛も互いに争っているように彼には思えた。

突然、あのケーブルにぶら下がった、星を持つ人物が再び現れ、あたり一面が白くまばゆく照らされた。赤い上着の一団がさらにはっきりと近くに見えた。一番高いところにいる者は中央通路に向かう道の半ばにいる。それから目を上げたグラハムが見たのは、たくさんの同じような男たちが同様に反対のビルの暗い低層の空中廊下へと姿を現し、下にいる仲間の頭越しにさらに下の怒り狂う混乱状態の人々に向かって発砲している様子だった。だんだんと状況が彼にもわかり始めていた。人々の行進は最初から待ち伏せされていたのだ。ライトが消えたことで混乱状態へと陥ったうえに、今まさに彼らは赤警によって攻撃されているのである。次の瞬間、気がつくと彼は一人きりになっていた。警護とリンカーンは、暗闇になる前にやって来た方向に空中廊下を戻っていた。見ていると彼らは彼に向かって大きく身振りをしながら、走って戻って来た。道の反対側から大きな叫び声が聞こえる。まるで真っ暗な反対側のビルの全面に赤い服の男たちが散らばってその形を縁取っているかのように見えた。そして彼らが彼を指さして叫んでいるのだ。「眠れる者だ! 眠れる者を救い出せ!」無数の喉から叫び声があがった。

彼の頭上の壁に何かがぶつかる。衝撃に見上げると、銀色の金属的な星型のしぶきが見えた。見るとリンカーンは彼の近くにいた。腕をつかまれるのを感じた。その瞬間、ぱん、ぱんという音が聞こえたが、二度とも彼からは逸れた。

しばらくの間、彼は状況を理解できなかった。街路、その他全てが隠されて彼には見えなかった。二度目の強烈な光も燃え尽きた。

リンカーンはグラハムの腕をつかんで、空中廊下に沿って彼を引っ張っていった。「次の光の前に!」彼は叫んだ。彼の焦りが伝染していく。グラハムの自己保存の本能が信じがたい驚きによる彼の麻痺状態を凌駕した。しばし彼は死の恐怖に周りが見えなくなった動物へと変わった。走り、暗闇の視界の悪さにつまずき、彼とともに走り出した護衛に突き当たってまごついた。ただ急ぐことだけが彼の欲求だった。自分があらわになっている危険な空中廊下から逃げ出すのだ。三度目の強烈な光が先のものの近くに現れた。それとともに大きな叫び声が道の向こうから聞こえ、道からはそれに応えるように騒ぎが起きた。見ると、下の方の赤い上着の者たちは今ではもう中央通路のほとんどを占領していた。その数えきれない顔が彼の方に向けられ、叫びだした。反対の建物の白い正面は赤い点で密に覆われていた。これら大層な物の全てが彼に関係していて、彼を中心に巻き起こっているのだ。あいつらは彼を奪い返そうとしている評議会の衛兵なのだ。

彼にとって幸運だったのは、こうした弾丸が怒り任せに放たれたのが百五十年ぶりだったことだ。頭上で跳ねる銃弾の音が聞こえ、溶けた金属の飛沫が自分の耳に跳ねかかるのを感じて、彼は見るまでもなく、反対の建物の正面全体で、姿を現した赤警の伏兵が群れ集まって怒鳴りながら自分に向かって発砲していることに気づいた。

彼の前で護衛の一人が倒れたが、グラハムは止まることもできずに、もだえるその体を飛び越えた。

次の瞬間には彼は無傷のまま暗い通路へと飛び込み、それと同時に誰かが勢い余っておそらくは横方向から激しく彼とぶつかった。完全な暗闇の中で彼は階段へと投げ出された。よろめきながら立ち上がったところで、再び突き当たられて彼は壁に手をついた。争いあう肉体の重みに押し潰され、翻弄され、彼は右へと押しやられた。とてつもない圧力が彼を釘付け状態にした。息ができず、あばら骨が音をたてたように思った。一瞬、力が緩められるのを彼は感じたが、次の瞬間には人々の群れ全体が一斉に動き出し、ついさっきそこからやって来た大劇場へ向かって彼を運ぶようにして戻っていった。彼の足が地面に着いていない瞬間さえあり、それから彼はよろめきながら押されるように進んでいった。「やつらが来る!」という叫びが聞こえ、押し殺したような叫びが近づいてきた。彼の足が何か柔らかいものに当たり、足の下でしわがれた金切り声があがるのが聞こえた。「眠れる者よ!」という叫びが聞こえたが、混乱した彼は何も言えなかった。あの緑色の武器がたてる音が聞こえる。つかの間、彼は自分の意思を失い、パニック状態の盲目的で思考停止し機械的に動く一原子へと変わった。彼は突き進み、押し返し、周りからの圧力に身をよじらせた。やがて段差にけつまずくようになり、気がつくと彼は斜面を登っていた。不意に周囲の人々の顔が暗闇から飛び出し、見えるようになった。どの顔も青白く、驚きと恐怖と汗にまみれて鉛色の強烈な光に照らされていた。一人の若者の顔は彼のすぐそばにあって、二十インチも離れていなかった。その時には何の感情もわかないつかの間の出来事でしかなかったが、後になってそれは彼の夢に現れるようになった。しばらくの間、人混みの中にくさびのように立っていたこの若者は、撃たれてほとんど死にかけている状態だったのだ。

ケーブルにぶら下がった者によって四つ目の白い星が灯されたに違いなかった。その光は大きな窓やアーチ状の門を通してぎらぎらとあたりを照らし、グラハムに周囲の様子を示して見せた。彼は今、あの大劇場の低層部を押し戻されていく駆け足の黒い影の集団の一人となっていた。今度の光景は鉛色の切れぎれなもので、黒い影によって斜めの切込みや縞が走っていた。自分のほんのすぐ近くで赤い衛兵たちが人々をかき分けて進みながら戦っているのを彼は目にした。そいつらが自分に気づいているのかどうか、彼にはわからなかった。彼はリンカーンと護衛たちを探した。リンカーンは劇場のステージの近くにいた。黒いバッジをつけた革命派の人混みに囲まれて、背伸びをしながら彼を探すようにあちらこちらに目をやっている。気がつくとグラハムは人混みの反対側の端近くにいた。バリケードで区切られた背後は今は空になった劇場の座席がスロープ状に延びている。唐突な思いつきが彼の頭にひらめき、彼はバリケードに向かって人混みをかき分けて進みだした。そこにたどり着くと同時に強烈な光は燃え尽きた。

すぐさま彼は、動きづらいばかりかひどく目立つ自分の大きなコートを脱いで肩から払い落とした。床に落ちたコートに誰かがつまずく音が聞こえる。次の瞬間には彼はバリケードによじ登り、向こう側の暗闇へと飛び降りた。それから手探りで進んでいった。彼がいるのは座席の間を上へと延びる通路の低い方の突き当りだった。あたりは暗く、銃撃の音は止んで、足音や声のとどろきは収まっていた。突然、彼は予期せぬ段差につまずいて倒れ込んだ。そうしているうちにも彼の周囲の暗闇の水たまりやそこに浮かぶ小島があざやかな光に再び照らしだされた。騒ぎ声が大きくなり、五つ目の白い星の強烈な光が劇場の壁に大きく開いた窓から輝いた。

彼は座席の間を転げながら叫び声と武器のたてるうなるような銃声を耳にした。なんとか立ち上がったが、突き当たられて再び倒れる。見ると黒いバッジをつけた大勢の人間が彼の周囲を囲んで、下の方にいる赤い集団へ向けて発砲している。座席から座席へと飛び跳ね、座席の間にかがみ込んで銃弾を込め直している。本能的に彼は座席の間にかがみ込んだ。狙いの逸れた銃弾が空気の詰まったクッションを切り裂き、座席のなめらかな金属フレームに鋭い傷を刻んだ。本能的に彼は座席の間の通路へ目をやった。彼にとって最も望みのある脱出経路だ。暗闇のヴェールが再び降りたらすぐにそちらへ進むのだ。

色褪せた青い服を着た若い男が座席の上を跳ねるようにしてやって来た。「こんちわ!」男は言うと、かがんでいる眠れる者の顔から六インチも無いところに着地した。

何かに気づく様子もなく彼は目をやり、それから銃撃を再開した。撃ち、「評議会と一緒に地獄へ落ちろ!」と叫んだかと思うと再び撃った。次の瞬間、この男の首の半分が消え去ったようにグラハムには見えた。飛沫の一滴がグラハムの頬に跳ねる。緑色の武器は少し上に向けられて止んだ。しばらくの間、男は突然無表情になったままじっと立っていたが、やがて前方へと体を傾がせた。その膝が折れ曲がる。男が倒れるのと闇が落ちるのは同時だった。男の倒れる音を合図にグラハムは立ち上がり、命がけで走って通路に駆け込み、そこでつまずいた。あわてて立ち上がり座席の間の通路を走り続ける。

六つ目の星が閃光を放った時、彼はすでに廊下の大きく開いた出入り口の近くまで来ていた。光に彼はいっそう速度を増して走り続け、廊下に入ると角を曲がって完全な闇へと再び戻った。横から突き当たられて彼は転がったが、再び立ち上がった。気がつくと彼は一方向へ押しやられる見えない逃亡者の群れの一人になっていた。今、彼の頭に浮かぶ唯一の考えを彼らもまた共有していた。この戦いから逃げ出すのだ。人を押しやり突き飛ばし、よろめきながら彼は走った。強引に割り込まれ、押しのけられ、それからまた進路が開けた。

数分の間、彼は曲がりくねった廊下に沿って暗闇の中を走り続け、それからどこかの開けた広い空間に出た。そこから長い坂を下り、最後に階段を降りると平らな場所へと行き着いた。大勢の人々が叫んでいた。「やつらが来る! 衛兵隊が来る。発砲している。戦いから抜け出せ。衛兵隊は発砲しているぞ。七番通りが安全そうだ。この道に沿って七番通りだ!」群衆の中には男性だけでなく女性と子供もいた。

群衆はアーチ状の門の一つに集まっていき、短い通路を抜けて、ぼんやりと灯りで照らされた広い空間に再び出た。彼のまわりの黒い人影は散らばると、薄明かりの下、まるで巨人の階段のように見えるものを駆け上がっていった。彼は後に続いた。人々は左右に散らばっていった……。気づいた時には彼はもう群衆の中にはいなかった。彼は一番高い階段の近くで立ち止まった。目の前には、自分が立つ床と同じ高さに、寄り集まった座席と小さな売店があった。彼はそこまで行って、その軒の影で止まると息を切らせながら周りを見渡した。

全てがぼんやりとして灰色がかっていたが、この巨大な階段が今は再び停止している連なるプラットフォームの「道」であることを彼は見て取った。プラットフォームはどちらの側に対しても斜めにせり上がっており、頭上には高いビルがそびえていて巨大な黒い亡霊のようだった。そこに書かれた文字と広告が不明瞭ながら見え、大梁とケーブルの間を淡く青白い空の帯が途切れ途切れに走っていた。大勢の人々が大急ぎで通り過ぎていく。その叫び声からするとどうやら彼らは戦いに参加しようと急いでいるようだった。他のもう少し静かな人影は影の中をこわごわと動き回っていた。

通りの向こうのはるか遠くから騒乱の音が聞こえる。しかしここがあの劇場に続く通りでないことは明らかだった。さっきまでの戦いの音は突然、途絶えて聞こえなくなったように思えた。人々は彼を巡って戦っているのだ!

しばらくの間、彼は刺激的な本を読んでいる人間のようにじっとしていたが、突然、今まで疑うこと無く受け入れていたことを疑わしく思った。以前は詳しいことがほとんどわからず、大きな驚きだけが全ての印象を占めていた。実に奇妙なことだったが、あの評議会の牢獄からの逃亡やホールにいた大群衆、群れ集まった人々への赤警の襲撃が彼の頭をいっぱいにしている間に、目覚めた時の断片的記憶やあの静かな部屋で考えを巡らせた期間のことを思い出すのに彼は努力を必要とするようになっていた。彼の記憶はまず最初にそうした物事を飛び越えて、風に煽られるペンタゲンの滝や日の差すコーンウォールの海岸の重苦しくも美しい光景へと彼を連れ戻すのだった。そのコントラストがあらゆるものに非現実的な質感を与えていた。それからその断絶が埋められ、彼は自分が置かれた状況を理解するのだった。

それはもはやあの静かな部屋でそうだったような完璧な謎ではなかった。少なくとも今では彼は奇妙ながらも最低限の概要をつかんでいた。どうしたわけか彼はこの世界の所有者であり、巨大な政治的党派が彼を手中に収めようと戦っているのだ。一方には赤警を従えた評議会がいて、どうやら彼の財産を奪い取って、おそらくは彼を殺そうと決心している。他方には彼を解放した革命派がいて、その指導者としてまだ見ぬ「オストログ」がいる。そしてこの巨大都市全体が両者の争いによって激しく揺さぶられているのだ。彼の世界は何とおかしな発展を遂げたことか! 「理解できない」彼は嘆いた。「私には理解できない!」

彼は互いに争う党派の間から抜け出てこの薄明かりの下の自由へと身を置いていた。次に何が起きるのだろうか? 何が起きているのだろうか? 自分を熱心に狩り出し、目の前の黒いバッジをつけた革命派を追い回す赤い服の人間たちを彼は思い描いた。

いずれにせよ、なんとか一息つくだけの時間はあった。彼は通行人に見つからないように潜んで、事態の成り行きを見守ることができた。彼の目は薄明かりの下のビルの複雑でぼんやりとした巨大な影を追っていったが、それは彼に限りない驚きを与えた。頭上には太陽が昇りつつあり、世界は古くから見慣れた日の光で照らされて赤々と輝いていた。少しの間、彼は息を整えていた。雪でぬれていた服はすでに乾いていた。

彼は薄明かりで照らされた道に沿って何マイルもさまよった。誰にも話しかけなかったし、誰も話しかけてこなかった――黒い人影の群れの中の一人――過去から現れた誰もが欲する男、まったく思いがけずに世界の所有者となった男。どこもかしこも濃淡はあれ人が大勢いたり、あるいはひどい興奮に包まれていて、彼は見つかることを恐れて注意しながら引き返したり、中央の階段を上がったり下がったりしながら低層階や高層階の横断道路へと進んでいった。もう戦いの場面に出くわすことは無かったが、都市全体が戦闘で揺れていた。一度など通りを掃討する群衆の行進を避けるために走らなければならなかった。屋外にいる全員がこの事態に巻き込まれているように見えた。そのほとんどは男性で、見たところ彼らは武器らしきものを手にしていた。どうやら争いは彼がそこからやって来た街区に主に集中しているようだった。ときおり遠くからとどろくような声が聞こえて遠くで衝突が起きているとわかった。警戒心と好奇心が彼の中で争いあった。しかし警戒心が勝って――判断のつく時には――彼は戦いを避けて歩き続けた。妨害されることも、疑われることも無く彼は暗闇の中を進んでいった。しばらくすると遠くの戦いの残響さえ聞こえなくなり、すれ違う人もどんどん少なくなって、ついに通りには誰もいなくなった。建物の外観はそっけないものへ、そして荒んだものへと変わっていった。どうやら空き倉庫が集まる地区にやって来たようだった。孤独が這い寄る――彼の歩みは遅くなった。

大きくなっていく疲労感に彼は気づいた。ときおり彼は道を逸れて、上の方の道に置かれた無数のベンチの一つに腰を下ろした。しかし興奮による落ち着かなさ、この争いにおける自分のとてつもなく重要な意味を知ったことが、どこにいても長く休むことを彼に許さなかった。争いはただ彼一人を巡ってのものなのだろうか?

そうしているうちに人けの無い場所を地震の揺れが襲ったのである――とどろく雷鳴のような音――冷えた空気の強い風が都市を抜けてわき起こり、ガラスを打ち砕き、崩れ落ちた石材が音をたててあたりを転がった――非常に強く激しい揺れが何度も起きた。大量のガラスと鉄骨が遠くの屋根から中央の通路へと落ちてくる。彼から百ヤードもない距離だ。遠くから叫び声と走る足音が聞こえた。彼もまた驚いてどうすれば良いかもわからずに動き回った。まず一方に走り、それから当て所無く駆け戻る。

一人の男が彼に向かって走って来た。彼の自制心が戻ってくる。「やつら何を吹き飛ばしたんだ?」息を切らせながら男が尋ねた。「大爆発だった」それからグラハムが何か話しかける間も無く男は急いで行ってしまった。

巨大なビルの群れは謎めいた薄暗がりのヴェールの向こうにぼんやりとそびえ立っていた。しかしその上の空の小川は今では日の光で輝いている。たくさんの奇妙な兆候に彼は気づいたが、その時にはどれ一つとして理解できなかった。彼は表音表記で書かれた文字の多くを読み取ることさえした。しかし崩れ落ちつつある奇妙な見かけの文字の混乱した並びを読み解いたところで何になるというのか? 目と頭を酷使した後でわかったのは「ここはイーダマイト」だとか「労働局――リトル・サイド」といったものだった。まったく馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。こうした断崖のような建物は全て彼のものなのだ!

自分の体験の異常さがあざやかに感じられた。夢想家が繰り返し想像してきた時間の跳躍を彼は実際におこなったのだ。そしてその事実を実感したことで彼は覚悟を決めた。彼の頭は、いうなれば、この大掛かりなショーのために座席に深く腰を下ろしていた。しかしショーそれ自体が展開していくことはなく、あやふやで大きな危険や無慈悲な影、暗闇のヴェールが現れたのだ。暗い迷宮の向こうのどこかで死が彼を求めて探し回っている。結局のところ、理解する前に彼は殺されてしまうのだろうか? 次の曲がり角に破滅が待ち伏せしていることさえありえるのだ。理解したいという大きな欲求、知りたいという大きな切望が彼の中でわきあがった。

彼は曲がり角が恐ろしくなった。じっと隠れ続けるのが安全であるように彼には思えた。ライトが元に戻った時、人目を引かないようにどこに隠れられるだろうか? 結局、彼は高い方の道の一つの奥まった場所にある座席に腰を下ろした。どうやらそこにいるのは彼一人のようだった。

彼は拳を疲れた両目に押し付けた。再び目を開いた時、並行して走る道の暗い谷間と耐えがたいほど高くそびえる巨大建築物が消え去ったとしたら。ここ数日の出来事の全て、目覚め、叫び声をあげる群衆、暗闇と戦いが、幻影であり、目新しい鮮烈な夢のようなものであるとわかったら。これは夢に違いない。あまりに筋が通らず、道理に合っていない。なぜ人々は自分を巡って戦っているのだ? なぜ良識に富むはずのこの世界が自分をその所有者であり主人であると見なさなければならないのか?

そう考えて彼は座ったまま目を閉じ、それから再び目を開いた。耳から聞こえるものに反して彼が半ば望んでいたものは、何か見慣れた十九世紀の生活風景が目に映ること、たぶん、自分の周りに広がるボスキャッスルの小さな入り江だとか、あるいは自宅のベッドルームだとかいったものだった。しかし現実は人間の望みを斟酌しない。黒い横断幕を掲げた一団が足音をたてながら近くの物陰を横切って争いを目指し、その向こうには、大きく暗い目もくらむような建物の正面の壁がそびえ立って、その表面にはぼんやりとした理解しがたい文字がかすかに浮かんでいた。

「これは夢じゃないんだ」彼は言った。「夢じゃない」そして彼はうつむいて顔を両手で覆ったのだった。


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