僧興義, ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

僧興義


殆んど一千年前、近江の国大津の名高い三井寺に、興義と云う博学の僧がいた。絵の大家であった。仏像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であった。天気の好い日で、仏事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないように捕えさせて大きなたらいに放ち、そのおよぎ廻るのを見て写生した。絵を描いてから、労りながら食物を与えて再び、――自分で湖水までもって行って、――放ってやるのがつねであった。彼の魚の絵はとうとう名高くなったので、人はそれを見に遠くから旅をして来た。しかし彼のすべての魚の絵のうちで、最も不思議なのは、写生ではなくて、夢の記憶から描いた物であった。そのわけは、ある日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐って居るうちに思わずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が余りに鮮明であったので、彼はそれを描く事ができた。そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの絵を、彼は「夢の鯉魚」と呼んだ。

興義は、彼の魚の絵を一枚も売る事を喜ばなかった。山水の絵、鳥の絵、花の絵は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするような残酷な者には、生きた魚の絵は売りたくないと云っていた。そして彼の絵を買いたがる人々は皆、魚食の人々であったから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷わされなかった。

ある夏の事、興義は病気になった。それから一週間病んだあとで、物言う事も、動く事もできなくなったので、彼は死んだと思われた。しかし読経など行われたあとで、弟子達は体に幾分の温かみのある事を発見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思われる物のわきで、見張りをする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した。そして見張りの人々にこう云って尋ねた、――

「私が人事不省になってから、幾日になりますか」

「三日以上になります」一人の弟子が答えた。「いのちがお絶えになったと思いました。それで今朝、日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まっておとむらいをいたしました。私達が式を行いましたが、お体が全く冷たくないから、埋葬は見合せました。それで今そうした事を甚だ喜んでいます」

興義は成程とうなずいてから、云った、――

「誰でもよいから、すぐにたいらすけのうちに行って貰いたい。そこでは今、若い人達が宴会を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飲んで居る)――それで、云って貰いたい、――『あるじは蘇生しました。どうか宴を止めて、即刻来て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから』……同時に」――興義は続けて云った――「助と兄弟達が、何をして居るか、見て来て貰いたい、――私が云った通り、宴会をしていないかどうか」

それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行って、助と弟の十郎が、家の子掃守かもりと一緒に、丁度興義が云った通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲団に移っていたが、三人を見て歓迎の微笑を浮べた。それから、暫らくお祝いと御礼の言葉を交換したあとで、興義は助に云った、――

「これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買いませんでしたか」

「はい、買いました」助は答えた――「しかしどうして御存じですか」

「少し待って下さい」僧は云った。……「その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入った。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎様が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べていながらその碁を見ていました――そうでしたろう」

「その通りです」助と掃守は益々驚いて、一緒に叫んだ。

「それから掃守がその大きな魚を見て」興義は続いて云った。「すぐにそれを買う事にした。それから代を払う時に、文四に皿に入れた桃をいくつか与えて、酒を三杯飲ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました。それからあなたの命令で、それをなますにして、御馳走の用意をしました。……私の云った通りじゃありませんか」

「そうです」助は答えた。「しかしあなたが、今日私のうちであった事をどうして御存じですか、実に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい」

「さあ、これからが私の話です」僧は云った。「御承知の通り殆んど皆の人達は私を死んだと思いました、――あなたも私のとむらいに来てくれましたね。しかし、三日前に私はそんなにひどく悪いとは思わなかった。ただ弱って、非常に熱いと思ったので、外へ出て少し涼もうと思った。それから骨を折って床から起き上って、――杖にすがって、――出かけたようです。……事によればこれは想像かも知れない。しかしやがてその事は皆さん御自分で判断ができましょう。私はただあった事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く軽くなったような、――籠や網から逃げ出した鳥のように軽くなったような気がした。私は段々行くうちに湖水に達した。水は青くて綺麗だったから、しきりに游いで見たくなった。着物を脱いで跳び込んで、そこら辺を泳ぎ出した。それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが実は、病気の前は游ぐ事はいつも非常に下手であった。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思われるだろうが――聴いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て来たので不思議に思って居るうちに、気がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が沢山游いでいた。私は不意に幸福な魚が羨ましくなって来た、――どんなに人がよく游げると云ったところで、魚のように、水の下で面白くは遊ばれないと思った。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の私にこう云って話しかけた、――『あなたの願いは何でもなく叶います、暫らくそこでお待ち下さい』それから、その魚は下の方へ行って見えなくなった。そこで私は待っていた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云ったあの大きな魚の背中に乗って、――王公のような冠と礼服を着けた人が浮かび上って来て、私に云った、――『暫らく魚の境遇になって見たいとの御身の願いを知らしめされた龍宮王から使いをもって来た。御身は多くの魚の生命を救って、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の楽しみを得させるために黄金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくった食物を喰べたりしないように注意せねばならない、――どんなによい香りがしても、――それから漁師へ捕えられないように、どうかして体を害をする事のないようにやはり注意せねばならない』こう云って、その使者と魚は下の方へ行って、深い水の中に消え失せた。私が自分を顧みると、私の全身が金のように輝く鱗で包まれていた、――私にはひれがあった、――私は実際、黄金の鯉と化して居る事に気がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分った。

それから、私は游いで、沢山の各所を訪れたらしい(ここで、原文には、近江八景を説明した歌のような文句が入れてある)。時々私は青い水の面で躍る日光を見たり、あるいは風から遮られた静かな水面に反映する山や木の美しい影を見たりしただけで満足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のように水の中に映っていたのを覚えて居る。……時々私は岸に余り近づいたので、通って行く人の顔を見たり、声を聞いたりする事ができた。時々私は水の上に眠っていて、近づいて来る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあった。しかし私は片瀬の漁舟のかがり火の近づいて来るのには幾度も驚かされた。天気の悪い時には、下の方へ、――ずっと下の方へ、――一千尺も、――行って湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日、面白く遊び廻っていたあとで、私は非常に空腹になって来た。それで私は何か喰べる物をさがそうと思って、この近所へ帰って来た。丁度その時、漁師の文四が釣りをしていた。そして私は水の中に垂れていた鉤に近づいた。それには何か餌がついていて、よい香りがした。私は同時に龍宮王の警告を想い出して、独り言を云いながら、游ぎ去った、――『どうあっても魚の入れてある食物は喰べてはならない』それでも私の飢えは非常にはげしくなって来たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなった。それで又鉤のところへ游ぎかえって、考えた、――『たとえ、文四が私を捕えても、私に害を加える事はあるまい、――古い友達だから』私は鉤から餌を外す事はできなかった。しかし餌の好い香りは到底私が辛抱できない程であった。それで私はがぶりと全部を一呑みにした。そうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕えた。私は彼に向って叫んだ。『何をするんだ、――痛いじゃないか』――しかし彼には聞こえなかったらしい。直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持って行ったのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎様が南の部屋で碁を打っていて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に縁側へ出て来て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大声で皆さんに、――『私は魚じゃない、――興義だ、——僧興義だ、どうか寺へかえしてくれ』と叫んだが、皆さんは喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかった。それから料理人は台所へもって行って、荒々しく爼板まないたの上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁ほうちょうが置いてあった。左の手で、彼は私を押えて、右の手で庖丁を取り上げた、―――そして私は彼に叫んだ、――『どうしてそんなに残酷に私を殺すのだ。私は仏の弟子だ、――助けてくれ』しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覚えた、――そしてその時、突然、眼がさめた。そしてここの寺に帰っていた」

僧がこの通り話を終った時、兄弟は不思議に思った。そして助は云った、――「今から想えば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いていた。しかし声は聞えなかった。……それではあの魚の残りは湖水に捨てるように、家へ使いを出さねばならない」

興義はすぐに病気が直った。そしてそれから又沢山の絵を描いた。死後余程たってから、彼の魚の絵がある時、湖水に偶然落ちた事があった。すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去ったと伝えられて居る。