火を起こす, ジャック・ロンドン

火を起こす


夜が明けた。風は冷たく空は暗い。きわめて冷たくきわめて暗い。男はユーコンの本道を外れ、高い土手を登っていた。その道はいかにも頼りないものだったが、東へ、トウヒの森の向こうに通じているはずだった。急峻な土手を登りつめ、息を整える。それをごまかそうと懐中時計をとりだす。九時。太陽はその気配すらない。が、空が曇っているわけでもない。空は澄みきっていた。それでもあたりのものは不透明な幕がはっているようだった。日を暗く染めるかすかな闇。太陽がないからだ。だからといって男は困惑したりしなかった。太陽がないのには慣れている。太陽が昇ったのは数日前、だから、お天道様が南の地平線から顔を出し、即座に引っ込むのが見られるのはあと何日か経ってのことだと知っていた。

男は今きた道を振り返った。ユーコン川は一マイルにわたって厚さ一メートルの氷の下に閉ざされている。この氷の上にもやはり一メートルほどの雪。氷雪が風に吹かれて波のようにうねる白銀の世界。北も南も目の届くかぎり見事なほどの白さだった。ただ、トウヒが密生する島から南にかけて黒い線がほっそりと曲がりくねっているのを除けば。その線はさらに曲がりくねって北に向かい、トウヒが密生する、先とは別の島のところで消えている。この細い黒線が道――本道――であり、これを五百マイル南に下ればチルクート・パスに続きダイーを抜けて海に出る。北に何マイルかいけばドーソンがあり、そこからさらに千マイル進めばヌラトがあり、さらに千五百マイルの道のりを経てベーリング海に面するセント・ミカエルに達する。

けれどもどれもみな――頼りない長大な道も、太陽のない空も、猛烈な寒気も、この地の不可思議さはどれもみな――男の心に訴えるものではなかった。そうしたことに長く慣れ親しんでいたからではない。男は新参者であり、この地の冬を体験するのもこれがはじめてだった。想像力の欠如、それが問題だったのだ。日々の物事には聡かったが、物事についてのみであり、その真意には疎かった。華氏マイナス五〇度華氏マイナス五〇度:摂氏だと約マイナス四五度。氷点下八〇度あまり。それを凍てつく不快なものだととらえることはできたが、それで終わりだった。そこから自分が温度変化に弱い生物だということを省みたりはしなかったし、一定の温度範囲内でしか生きられないという人間に共通する弱点にも思いが至らなかった。そしてもちろん、そこから、不死性という憶測上の分野や宇宙における人間の立場といったことへと思いをはせることもなかった。マイナス五〇度、つまりミトンや帽子や厚い靴下で防ぎうる寒さ。男にとって、マイナス五〇度はまさしくマイナス五〇度でしかなかったのだ。それ以上の意味があるとはまったく思いもしなかった。

男は向き直って何気なく唾を吐いた。何かが爆ぜたような鋭い音が男を驚かせた。もう一度唾を吐く。するとふたたび、唾は雪の上に落ちることなく、空中で弾け飛んだ。マイナス五〇度で唾を吐くと雪に触れたとたん弾け飛ぶのは知っていたが、今は空中で弾け飛んだ。間違いなく今はマイナス五〇度どころではないのだ――いったい何度になっているのか、見当もつかなかった。しかし気温などどうでもいい。男は前からの約束を果たさなければならなかった。ヘンダーソン・クリークを左にいったキャンプでは子どもたちがもう待っているはずなのだ。かれらが分水嶺を渡ってインディアン・クリークからそこに向かっている間、男はユーコンの島々から湖に沈んでいる丸太を回収できないものか確かめるため、回り道をしていた。六時までにはキャンプについておきたかった。着く少し前に真っ暗になってしまうが、子どもたちは火と夕食を用意しておいてくれるだろう。昼は大丈夫だ。男はジャケットの膨らみをなでた。ハンカチで包んだランチがシャツの中に素肌と直接触れる形で入れてある。こうしないとサンドイッチは凍りついてしまう。男はひとりサンドイッチのことを思ってにやついた。どれも、切れ目をいれてベーコンオイルを塗りこみ、豪勢にフライドベーコンをはさんである。

トウヒの大木が立ち並ぶ林に分け入った。道はかすか。最後のそりが通った後に三十センチもの雪が積もっていた。そりを置いて身軽な格好できたのは正解だったと思った。事実、男はハンカチに包んだランチ以外に何も持っていなかった。けれども寒さには閉口していた。寒すぎる、と断じつつ、ミトンにくるまれた手でかじかんだ鼻と頬をこすった。髭は濃いほうだったが、凍てつくような空気にさらされている高い頬と突き出た鼻は髭でどうなるものではなかった。

男は足元に犬を一匹従えていた。この地で生まれた大型ハスキーで、灰色の毛に覆われている。狼との合いの子であり、見た目にも性格的にもその兄弟に当たる野性の狼と違いがなかった。この動物も猛烈な寒さに元気をなくしていた。今は旅ができる時期ではないのを知っていた。その本能は、男の理性よりも正しいことを告げていた。現実として、気温はマイナス五〇度より低い、どころではなかったのだ。マイナス六〇度よりも、マイナス七〇度よりも低かった。マイナス七五度マイナス七五度:摂氏だと約マイナス六〇度。氷点はプラス三二度だから、氷点下一〇七度ということになる。犬は温度計のことなどまったく知らなかった。おそらく、頭の中での理解にかけては男のほうがより鋭く知覚していたことだろう。しかし、獣には本能があった。本能から、その漠然としてはいるが圧倒的な不安を感じとり、力なく男の後に従いつつ、男が予期せぬ行動をとるたびに、キャンプに入ろうとしているか、あるいは火を起こせる避難所を探そうとしているのではないかと期待して、熱心にその様子を見守った。犬はすでに火のことを学習しており、いままさに火を欲していた。そうでなければ、雪に穴を掘って潜りこみ、体温を奪う空気から身を守ろうとしたことだろう。

吐き出す息に含まれる水分が霧氷となって毛にからみつく。特に、あごや鼻や睫毛は真っ白に染まっていた。男の赤い髭も同様だったが、こちらの場合は、暖かくて湿った息を吐き出すたび、雪達磨式に量を増やしていった。また、煙草を噛んでいるために鼻から息をせねばならず、そのせいで口元がコチコチに凍りついてしまい、唾を吐くときに口を大きくあけることができなくなっていた。結果、氷結した顎鬚と琥珀の氷柱はあごの先からどんどん伸びていった。もしそれをかき払おうものなら、まるでガラスのように、粉々に砕け散ってしまう。だが、男はあごの荷物を気にしていなかった。それはこの地で煙草を噛む者が払わなければならない代償だ。以前も二度、寒い時期に出かけたことがあった。そのときがこれほどまでに寒くはなかったのは分かっているけれど、シックスティ・マイルのアルコール寒暖計が指し示した温度はそれぞれマイナス五〇度とマイナス五五度だったのも知っているのだ。

男は数マイルにわたって広がる森に入り、縺れ絡まる木々の枝根をとびこえかいくぐりながら進んだ。やがて森は終わり、凍りついた小川に沿う土手にぶつかる。ここがヘンダーソン・クリークだ。分かれ道まであと十マイル。時計を見た。十時。一時間で四マイル進んでいる。計算では十二時半には分かれ道につく。着いたらそこでランチにするとしよう。

男が河川敷を歩き出すと、犬は尾を力なく引きずりながらふたたびその足元を追った。かつてのそり道ははっきりと目に見えていたが、最後のそりが通ってから数十センチの雪が積もっていた。一ヶ月もの間誰一人としてこの静かな入り江にきたものがなかったのだ。男はどんどん先に進んでいった。なにかを考えたりすることもなかった。そもそも、分かれ道でのランチや六時には子どもたちの待つキャンプに入りたいという予定以外にはとりたてて考えるべきことがなかった。話相手もいなかったし、仮にいたとしても、口をあけることができない以上話などできるはずがなかった。だから、黙々と煙草を噛んでは琥珀色の顎鬚を伸ばしつづけた。

思い出したように、ひどい寒さだ、こんなに寒いのははじめてだと考えることもあった。歩きながらミトンにくるまれた手の甲で頬骨と鼻をこする。男はそれを、ときどき手を変えながら、機械的に繰り返した。けれどもいくらこすっても、手を止めたとたんに頬骨が感覚を失い、次の瞬間には鼻が感覚を失った。頬の凍傷は間違いなかった。それを知って、バドが寒い時期に使っていたような鼻あてを作っておかなかったのをふと後悔した。それから両頬にまたがって寒さを防ぐあてものを。だが、結局のところそれはたいしたことではない。頬の凍傷がなんだというんだ? 軽い痛み、それだけじゃないか。深刻なものじゃない。

頭の中が空っぽになるにつれ研ぎ澄まされる観察力で、入り江のくぼみやたわみ、潅木の変化に留意する。そして、たゆむことなく鋭敏に足を置くべき場所を見ぬく。一度だけ、たわんでいるあたりに近づいてしまったが、とっさに、まるで驚いた馬のように後ずさりし、前歩いていた場所を迂回して、道に沿いながら何歩か後退した。クリークは底まで凍りついているのを男は知っていた――この地の冬に水をたたえる入り江など存在しない――が、同じく、丘の中腹から湧きたち、雪の下をくぐってクリークの氷の上を流れる泉があることも知っていた。そして、こうした泉がいちばん寒い時期にでも完全には凍りつかないのを知っていた。そしてその危険さも。それは罠なのだ。雪の下には十センチ、ときには一メートルもの水が隠されている。ときには厚さ〇・五インチ程度の氷しか張っておらず、その上に雪が積もっている場合もある。ときには複層的に氷が張っていることもあり、一枚めを踏み割ったとたん次々に割っていくことになり、ときには腰の辺りまでずぶぬれにしてしまうこともあった。

だから男はそれほどまでに慌てふためいて後ずさりしたのだ。男は足元のたわみを感じ取り、雪に隠された薄氷が割れる音を聞き取っていた。このように寒い中で足を濡らしてしまうのは厄介な、危険な事態だ。最低でも予定が遅れる。というのも、火を起こし、靴下と靴を乾かす間、無防備になる足を守らなければならないからだ。男は立ったまま入り江の河川敷と土手を調べ、水は右手から流れてきていると判断した。鼻と頬をこすりながらしばし考え、左に迂回し、慎重に慎重に、一歩ずつ足場を確かめながら歩を進めた。危険地帯は抜けた。新しい噛み煙草をとりだし、これまでの四マイルに及ぶ道のりをふりかえる。

次の二時間も何度か同じような罠に出くわした。大抵、隠された水たまりの上に積もった雪は落ちくぼんでおり、見た目がキャンディー状になっていたから、危険はすぐに察知できた。だが一度だけ、今度も間一髪のところで免れたときがあった。そして一度など、危険そうな気がしたために、犬を先に行かせようとした。犬は行きたがらなかった。無理やり前に押し出すと、猛スピードでひびひとつない白色の表面を突っ切ろうとした。突如、足元が崩壊したため、犬は固い地面まで死に物狂いで逃げた。犬は足を四本とも濡らしてしまっていた。そしてその水はあっという間に凍りついた。犬はすぐに足をなめて氷をはがし、爪の間にできた氷は噛み落とした。これは本能によるものだった。その氷を張りつけたままにしておいたとしたら足を傷めてしまっていたことだろう。だが、犬はそんなことは知らなかった。ただその存在の根底から湧き上がってきた不可思議な処理命令に従っただけのことなのだ。だが男はそれを知っていた。問題の件に判断をつけながら、右手のミトンを外し、細かい氷をかき落とすのを手伝う。そうして指を外気にさらしていたのは一分ほどでしかなかったのに、そこから感覚がなくなっていくその早さには驚かざるをえなかった。あわててミトンをつけ、その手を激しく胸にたたきつけた。

十二時、空がもっとも明るくなった。といっても、太陽は冬特有の南すぎる軌道をとるせいで、地平線の上には出てこなかった。ヘンダーソン・クリークと地平線との間にある地面はふっくらと膨らんでいる。そこを、いま男は、明るい空の下、影を投げることなく歩いていた。十二時半、クリークの分岐路に到着。男はその歩みの順調さに喜んだ。この調子でいけば、六時には子どもたちに会える。ジャケットの前を開き、シャツの中からランチを取り出した。その行為が要したのは若干十五秒ほどにすぎなかったが、むきだしの手からはあっという間に感覚がなくなっていった。男はそれでもミトンをつけずに、その代わり、指を脚に鋭く打ちつけた。そして雪に覆われた丸太に腰を下ろす。手を打ちつけたときに感じたちくちくとする痛みが失せるその早さに男は驚いた。これでは一口もサンドイッチを口にできない。手指を繰り返し打ちつけ、ミトンに入れ、逆の手からミトンをとってサンドイッチをにぎりなおした。そして口を大きくあけようとしたが、口元が凍りついていてうまくいかなかった。火を起こして口をとかすのを忘れていたのだ。男は自分の間抜けさに思わず笑い出した。笑っているうちに、指に広がる無感覚さに気がついた。それと同じく、腰をおろしたときに感じられたつま先の刺すような痛みが、いまはなくなっているのに気がついた。足は大丈夫だろうか。靴の中でつま先を動かしてみたところ、感覚を失ってしまっているようだった。

ミトンをつけなおした男はあわてて立ちあがった。少し怖くなってきた。何度か足踏みして、足に刺すような痛みを取りもどそうとする。本当に寒い、そう思った。サルファ・クリークからきたあの男は本当のことを言っていたんだな。この地がときに、どれほどの寒さに包まれるか。あのときおれは笑い飛ばしたものだった! 過信は禁物、というやつだ。たしかに間違いない、寒い。男は足踏みを繰り返し、また腕を打ちすえつづけた。やがて、体が暖まり、元気が出てきた。それから焚火にとりかかることにした。以前の湧き水がなぎ倒した藪に、年経た小枝が散らばっていた。これを薪にすることにした。注意深く作業をはじめると、すぐにパチパチと爆ぜる焚火が生まれた。その熱気で顔の氷を溶かし、その保護の下、サンドイッチを食べはじめた。しばらく、周囲の寒気は薄らいだ。犬は火を喜び、暖をとるのに適度な、毛を焦がさない程度の距離で体を伸ばした。

食事を済ませると、男はパイプに葉をつめ、食後の一服を満喫した。それから両手にミトンをつけ、帽子の耳当てを耳の周りにしっかり固定し、クリークの分岐点を左に歩きだした。犬は焚火から離れようとしなかった。この男は知らないのだ。ひょっとしたら、その祖先も誰一人として知らなかったのかもしれない。寒さを、本当の寒さを、氷点下一〇七度の寒さを。けれども犬は知っていた。その祖先もみな知っていた。その知識は脈々と受け継がれてきたのだ。そして、このような寒さの中を歩き回るのは下策だと知っていた。こういうときは、雪穴に潜りこみ、大地を包みこんで、外の世界から入りこんでくる寒さをさえぎってくれる雲のカーテンが引かれるのを待つべきなのだ。一方で、犬と男との間には厳しい関係が築かれていた。一方は一方の奴隷であり、これまで受けた愛撫は鞭による愛撫しかなく、かけられる言葉は鞭の風切音を模した脅迫的な声しかなかった。だから、犬は自分が気にしていることを男に伝えるような、無駄な努力はしなかった。焚火から離れようとしなかったのは、男のためを思ってのものではなく、ただ自分自身のためだった。だが、男が口笛を吹き、鞭の風切音を発すると、犬は男の元に急ぎ、その後に従った。

男は煙草を噛みだし、新しい琥珀の髭を伸ばし始めた。そしてまた、湿った息が顎鬚や眉や睫を白粉で飾った。ヘンダーソンから左の道にはあまり水が湧いていなさそうだった。三十分は、なんの表れも見られなかった。そのとき、それは起きた。なんの表れもない、雪が普通に積もり、下に堅固な足場があると見えたところが、足を踏み入れたとたん割れたのだ。深くはなかった。ふくらはぎあたりまで濡らしながら、男は固い地面にあがった。

男は腹を立て、自分の運のなさに悪態をついた。子どもたちの待つキャンプに六時につきたいと思っていたのに、これで一時間は遅れる。履物を乾かすために火を起こさなければならないからだ。これは気温の低いときは絶対不可欠なことだった――それはいたいほど知っていた。男は土手に向かい、登った。頂上は、トウヒの若木をとりまく藪にからめとられるように、高潮のさい、乾いた薪が寄せ集められていた――主に小枝や木片だったが、年経て、乾いた枝もそこそこ転がっていたし、去年の草もあった。大きめのものを何本か雪の上に投げ出す。これを土台とし、雪溶けで起きたばかりの火が消えないようにする。ポケットからとりだした樺の樹皮にマッチで火を点ける。これは紙よりもよく燃えるのだ。その起こしたての火を土台に乗せ、枯草や乾いた小枝をくべていった。

ゆっくりと、慎重に作業を進める。自分の身の危険にするどく意識しながら。だんだんと、炎が勢いを増すにつれ、男もくべる小枝のサイズを大きくしていく。雪の中にうずくまり、藪から小枝を引き剥がしては火にくべていく。失敗は許されないのを知っていた。マイナス七五度の世界では、火造りに失敗してはならないのだ――つまり、足を濡らしてしまっているならば。足が乾いているのなら、たとえ失敗しても、道に沿って〇・五マイルも走れば体も温まる。けれど、濡れ、凍えた足は、マイナス七五度の世界を走って回復することなどない。いかに速く走ろうとも、濡れた足は前よりもひどく凍えるだけだ。

男はそれを知っていた。以前に落ちたとき、サルファ・クリークの古参者から教わったのだ。そしてそのアドバイスに感謝していた。火を起こすにはミトンをはずさざるをえなかった。指はすぐに感覚を失った。前まで、時速四マイルで進んでいたときは、体の隅々まで血が巡っていた。だが足を止めたとたん、心臓の働きは鈍くなった。周囲の寒気は大地の無防備な出っ張りを襲う。男は、無防備な出っ張りとして、その力に目一杯さらされていた。その力の前に血液は引き下がっていた。血は生きていた。犬のように。そして犬のような、恐怖に満ちた寒さから身を守る毛皮を欲していた。時速四マイルで歩いていたときは、否応なく、男が血液を循環せしめていた。が、いまやそれは潮が引くように、体の奥の安全な場所で息を潜めていた。体の先端部こそが血液の不在を最初に感じ取った場所だった。濡れた足はますますスピードを上げて凍えていき、素手の指先は、まだ凍えはじめてはいないけれど、ますますスピードを上げて感覚を失っていく。鼻と頬はすでに凍えつつあり、全身の皮膚はといえば、血の気を失い冷え切っていた。

けれども男は安全だった。つま先や鼻や頬に凍傷を負うだけのことなのだ、火は勢いよく燃えはじめているのだから。いまはもう指ほどの太さの小枝をくべていた。一分もすれば、手首ほどの太さの枝をくべられるようになるだろう。そうすれば、履物を脱ぎ、それが乾くまでの間、素足を焚火で暖めてやればいい。もちろん最初に、雪でこすって。火はうまく起こった。安全だった。男はサルファ・クリークの古参者がくれたアドバイスを思いだし、にやりと笑った。とても真剣そうに、マイナス五〇度以下のクロンダイクをひとりで旅してはならない、というお達しをくれたっけ。だがどうだ、おれはここにいる、アクシデントがあった、おれはひとりだ、そして、おれは自分で自分を守った。要するに頭さえ働かせておけばいいんだ、そうすれば誰だって大丈夫。男ならどんなやつだって一人旅できる。だが、頬と鼻の凍えていくスピードには驚かされた。それに、指がこれほど短時間に活力を失っていくことがあるとは思ってもみなかった。まさに活きる力がなかった。小枝一本つかもうとすることができず、まるで体から落ちてしまいそうな感じだった。小枝に触れるときは、それを握っているかどうか目で確認しなければならなかった。自分と自分の指を結ぶ神経が完全にダウンしていた。

それもみな些細なことだ。焚火は目の前にある。炎の舌をちらつかせるたびにパチパチと爆ぜかえっている。男はブーツの紐をほどきはじめた。靴の表面は凍りついていた。ドイツ製の厚い靴下はふくらはぎまである鉄鞘のようだった。そして靴紐は何かの災害時によじれまがった鉄の棒のようだった。しばらく感覚のない指で引っ張りまわしていたが、ふと、その馬鹿らしさに気づき、ナイフを鞘ごと取りだした。

だが靴紐を切り払う間もなく、それは起こった。それは男の過ちというより、むしろ、男の見当違いだった。男はトウヒの下で焚火をするべきではなかった。開けた場所を選ぶべきだったのだ。たとえ、藪から小枝を引っ張り出し、ただちに焚火にくべるには木の下のほうが便利だったとしても。さて、その木は雪の重みにたわんでいた。数週間にわたって風が吹いておらず、どの枝も枝一杯に雪を積もらせていた。小枝を藪から引きぬくたびに、木を微かに揺らしていた――男の感覚からいえば感知できないほどの揺れだったが、災難をもたらすには十分な揺れだった。上のほうの枝が積もらせていた雪を落とした。それは下の枝々に落ち、そこに積もっていた雪も落ちた。こうして雪崩のように膨れ上がった雪は、前置きもなく男と焚火の上に落ちた。火はかき消えてしまった! それが燃えていたところはでたらめに積み重なった新雪に覆われてしまった。

男は呆然とした。それは死の宣告を受けたにも等しかった。しばらく、男は座ったまま火があったところを見つめていた。徐々に冷静さがもどってきた。おそらく、サルファ・クリークの古参者は正しいんだろう。もし誰かを連れて旅をしていたとしたら、こんな危険にはさらされなかったはずだ。連れが火を起こしてくれたはずだから。とにかく、自力で火を起こすしかない。今回もまた失敗するようなまねは許されない。うまくやったとしても、足の指の何本かはほぼ間違いなく壊死するだろうが。足はもう恐ろしく冷え切っていた。次の火が起きるまで、それはさらにひどくなっていくことだろう。

と、男は考えたが、座って考えていたわけではない。そういう考えがよぎる間ずっと忙しくしていた。新しい土台を組んでいた。今度は開けた場所、焚火をかき消してしまいそうな厄介な樹木が立っていないところに。次に、高潮がうちよせた小枝や枯草を集める。つまもうとも指を合わせることができなくなっていたが、それでも手全体を使ってかき集めることができた。この方法では、要りもしない腐った小枝や青々とした苔も集めてしまうが、それが男にできる最善のことだった。抜かりなく、火が勢いを増したときにくべるための大枝も、腕一杯に集める。その間犬は、ものほしそうな、恋焦がれるような目つきで男の姿を見守っていた。というのも、犬にとって今の男は火を与えてくれる人物であり、そして、問題の火はなかなか現れようとしないからだ。

準備がみな整うと、二枚めの樺の樹皮をとりだそうとポケットに手を入れた。そこにあるのは知っていたが、指先で感じ取ることはできず、ただそれと指とがこすれあってたてるかさかさした音が聞こえてくるばかりだった。何度試してみても、つかみとることはできなかった。その間ずっと、念頭に、一瞬ごとに凍っていく足のことがあった。それを思うとパニックに陥りそうだったが、必死に抗い、落ちつきを保った。歯を使ってミトンをつけ、両腕を前後にうち振って、両手を脇腹に力一杯たたきつける。座ったままその運動を行った男は、立ってから続けようとした。その一方で犬は雪の中にうずくまり、狼のようにふさふさした尻尾を暖かそうに前足にからませ、狼のような耳は、熱心に男を見守っていることを告げるかのように、前方に突き出されていた。腕と手を打ちすえながら、男はその生き物を羨ましく思った。それは生まれつき寒さから守られているのだと考えたのだ。

しばらくすると、打たれた指先から極々微かな感覚が伝わってきた。それは次第に大きくなり、やがて刺すような、激しい痛みに高まった。が、むしろ男はそれに満足し歓迎した。右手からミトンを外し、樺の樹皮をポケットから引っぱりだす。次にマッチの束をとりだす。が、途方もない寒さはもう指先から活力を追いたてていた。束から一本だけ抜こうと努めてみたものの、束ごと落として雪にめりこんでしまった。それを雪の中から拾い上げようとしたが、うまくいかなかった。息絶えた指では触ることもつかむこともできなかった。深く念を入れる。凍っていく足を頭の中から追い払う。鼻と頬も無視し、全身全霊を一本のマッチに集中させる。こらした目に、触覚のかわりに視覚を用いたのだ。指がマッチの束の両側にあると見えたとき、指を閉じる――というか、閉じようと志した。というのは神経は働かなくなってしまっていて、指は男の意志に従わなかったからだ。右手にミトンをつけ、膝に激しくたたきつける。それから両手で、ミトンをしたまま、マッチを大量の雪ごとすくいあげ、膝に広げた。けれどもそこからはうまくいかなかった。

何度かやっているうちに、ミトンにくるまれた両手の付け根の間に、なんとかマッチの束をはさみこんだ。そうやって口元に運んだ。氷が砕ける派手な音をたてながら、強引に口をあける。顎をひき、上唇をまくりあげて、前歯でひっかけるようにしてマッチを一本だけひきぬこうとする。うまいこと一本だけ抜け、膝の上に落ちた。けれどもそこからはうまくいかなかった。それをつまみあげることはできなかったのだ。それから、違うやり方を思いついた。歯でくわえあげ、脚で擦る。二十回ほど擦ったところで、ようやく火がついた。燃え上がるそれを歯でくわえたまま、樺の樹皮へと近づける。だが硫黄の燃える臭いが鼻腔をつき、肺に入りこみ、せきこんでしまった。マッチは雪に落ち、消えた。

サルファ・クリークの古参者は正しい、自制した絶望の中で男はそう思った。マイナス五〇度以下のときはパートナーを連れて旅するべきなのだ。男は手で体をたたいてみたが、なんの感覚も感じられなかった。とつぜん男は、歯を使って、両手からミトンをはぎとった。マッチを束ごと、両手首ではさむ。腕の筋肉はまだ凍りついていなかったから、マッチをしっかりと両手首でつかむことができた。それから、脚で一気に擦った。七十本のマッチが一時に燃え上がる! 風は吹いておらず、吹き消される心配はなかった。煙たさに顔を背けながら、樺の樹皮に燃え盛るマッチの束を近づける。そのままこらえているうちに、手に感覚があるのに気付いた。肉が焼けていた。その臭いがたちこめた。皮膚のずっと奥で、それを感じることができた。その感覚は痛みとなり、その痛みはどんどん増していった。それでも男は、燃え盛るマッチの束を樹皮に押しつけたまま、耐えつづけた。男の両手が炎の大部分を遮ってしまっていたから、火はなかなか点かなかった。

とうとう男はこれ以上耐えられなくなり、腕を広げた。燃え盛るマッチは雪に落ち、ジュッという音を立てて消えた。が、樹皮には火が点いていた。男はその上に枯草や小枝を乗せはじめた。両手首でつかむことしかできなかったから、選んで乗せることはできなかった。小枝にこびりついていた腐った木片や青々とした苔は、歯で削るのはもちろん、ときには噛みとったりもした。男はその炎を、慎重に、ぎこちなく慈しんだ。それは生命を意味するのだ。絶やしてはならない。体表にはますます血がめぐらなくなり、震えが襲ってきた。それでますます動きがぎこちなくなった。青い苔の塊がその小さな火の上にまともに落ちた。指でそれを突き払おうとしたが、震えのせいで的外れな場所を突いてしまい、小さな火の中心を崩してしまった。火が点いていた枯草や小枝がばらばらに散らばる。今度は散らばったものを突き寄せようとしたが、気を張り詰めて試みたのに、震えのせいでまったくうまくいかず、火種はあえなく散らばっていった。それぞれがすうっと煙を上げ、消えた。火造りは失敗した。無表情に周囲を見渡し、ふと犬に目を留める。犬は焚火の残骸の向こうに、雪の中、そわそわして座っていた。前足を前後にせわしなく動かすその様子は、熱心に何かを求めるときのものだった。

犬を見たとたん、乱暴なアイデアが頭に浮かんだ。暴風雪に襲われたとき、難を逃れようとして連れていた牛を殺し、その死体を盾にして実際難を逃れた男の話を思い出したのだ。犬を殺し、両手をまだ暖かい体に突っこんで感覚をとりもどす。それからもう一度火を起こしなおせばよい。男は犬に話しかけ、呼び寄せようとした。けれども、その声には滅多にない怖れの色が表われていたため、その動物は怯えた。男からそのような口の聞き方をされるのは始めてだったのだ。何かがある、そしてそれを動物の疑り深い天性から危険ととらえた――どんな危険だかは知らないが、脳の片隅に、どういうわけか、男に対する不信が湧き上がってきたのだ。男の声の響きに、犬はぺたんと耳を閉じた。まえよりも激しくそわそわし、前足を前後に動かしはじめたが、どうしても男のそばにはやってこようとしなかった。男は四つん這いになって犬のほうに向かってきた。この常ならぬ姿勢はふたたび疑惑を湧き起こさせ、動物はつんとして男を遠ざけた。

男はなんとか落ちつこうとしながら雪の上に立ちあがった。それからミトンを、歯ではぎとり、足につけた。一瞬目を下にやり、自分が本当に立っているかどうかを確かめた。感覚のない足では地面とのつながりが分からなくなっていたのだ。立ちあがった男の姿勢それ自体が、犬の頭に疑惑の網をはりはじめた。断固とした、鞭の風切音の口真似を交えた口調で話しかけると、犬は習慣づけられた忠誠心を発揮して男の元にやってきた。手の届く範囲にまでやってきたときにはもう、自制できなかった。腕をさっと伸ばす。が、自分の手にはつかむことができず、曲げることすらできなくなっているのを知り、また感覚が微塵もなくなっているのを知って、正真正銘の驚きを体験した。両手が凍えてしまっており、なお凍えていきつつあるのを忘れていたのだ。ここまで、あっという間だった。犬は、逃げきる前に、男の腕にからめとられていた。男はそのまま雪の上に座った。犬は唸り、鼻を鳴らし、もがいた。

けれども男にできたのはそこまでだった。犬をかき抱いたままそこに座る。殺せない、と悟った。やりようがない。この役に立たなくなった手ではナイフを握ることも、その鞘を払うことも、犬を屠ることもできない。放してやると、犬はまだ唸りながら、尾を足の間にいれて猛烈な勢いで男のそばを離れた。十数メートルほど離れたところから男を不思議そうにながめる。両耳をぴんと立てて。男は、見下ろして、自分の両手の位置を確かめた。腕の先にぶらさがっている。ふと、可笑しくなった。自分の手がどこにあるのか、目で見ないと分からない、なんてことがあるとはね。男は手を大きく前後に振って、ミトンをした手を脇腹に打ち付けはじめた。ひたむきに五分間やりつづけると、心臓がばくばくと脈打って体表を温め、震えはおさまった。だが、手には何の感覚もなかった。手はまるで両腕の先端にぶらさがる重りみたいな感じだった。けれどもその感覚を追求しようとすると、それは消え去ってしまう。

死の恐怖が男の頭の中にどんよりとたちこめた。この恐怖はすぐに強烈なものになり、男を刺激した。もはや手や足の指を、あるいは手足もろともを壊死させずにすむかどうかという問題ではなく、生きるか死ぬかの問題が男につきつけられていた。それに気付いた男はパニックに陥り、河川敷の消えかかっている道を走り出した。犬がその後を追う。これまで生きてきた中で一度も経験したことがないほどの恐怖に、男は無我夢中で走りつづけた。ざくざくと雪を蹴立てているうちに、ゆっくりと、現実が見えるようになってきた――クリークの土手、古い潅木、葉を落とした木々、大空が。走ったおかげで体の調子はよくなっていた。震えはおさまっている。あるいは、さらに走りつづければ足も温まるかもしれない。そして、さらにさらに走りつづければ子どもたちのいるキャンプに着けるかもしれない。どう考えても手や足の指を何本か失い、顔も一部損なわれているだろう。けれどもキャンプにつきさえすれば、子どもたちが手当てをしてくれる。それで無事だった部分は救われるはずだ。同時に、違う考えが頭をよぎった。それは言う。おまえは絶対にキャンプにたどりつくことなどないのだ。あまりに遠いし、寒さも苛烈。おまえはもうすぐ凍え死んでしまうのだよ。男はその考えを払いのけ、深く考えないようにした。ときどきしゃしゃり出ては耳を貸せと強いてきたが、男はそれを頭の奥に押しこみ、他のことを考えようとした。

おもしろいな、と男は思った。足は凍えてしまって地面を蹴る衝撃も自分の体重も感じられないというのに、それでも走れるだなんて。まるで宙に浮いたまま、すべるように飛んでいるみたいだ。いつかどこかで翼を広げたマーキュリーを見たことがあったけれど、マーキュリーもまた空を飛ぶときはこのように感じるものなのだろうか。

男の疾走論は、キャンプにいる子どもたちのもとにたどりつく前にある欠点が見出された。持久力不足。何度もつまづき、やがてよろよろと歩くのが精一杯になり、ついには倒れてしまった。立ちあがろうとしたが、うまくいかなかった。座って休まねばならない。そう決めた。次はただ歩くだけにしてとにかく前に進みつづけよう。座って息を整えると、ふと体が心地よく暖まっていることに気付いた。震えはおさまり、胸から腹にかけて火照っているように思えた。ただ、鼻と頬に触ってみたところ、やはり感覚はなかった。頬や鼻は走って温めることはできない。同じく、手足も。考えてみると、間違いなく凍ってしまった部分は広がりつづけている。男はそのことを深く考えず忘れようとし、何か他のことを考えてみた。深く考えるとパニックに陥りそうな気がしていた。パニックに陥るのは嫌だった。けれどもどうしても他のことを考えることができず、ついに自分の全身が氷づけになったところを想像してしまった。もうたくさんだ、男はふたたび道に沿って狂ったように走り出した。一度は失速して歩きはじめたが、体がますます凍えていくのを思い、ふたたび走り出した。

犬はずっと男にしたがって走りつづけていた。ふたたび男が倒れると、犬も座りこんで尻尾を前足にからませ、期待に胸をふくらませて男と向かい合った。その元気な姿が男を苛立たせ、悪しざまに罵った。犬はなだめるように耳をぺたんと閉じた。今回は、前よりも早く震えが襲ってきた。男は寒さの前に屈しようとしていた。それはあらゆる方向から男の体の中へと忍びこんでくる。そう思うと男はいてもたってもいられなくなり立ちあがったが、わずか三十メートル走ったところでふらつき、どうと倒れた。それが最後のパニックだった。息を整え自制心を取りもどすと、座りなおし、心楽しませることで尊厳ある死を構想しようとした。といっても、自分の死が尊厳あるものとは思えなかった。自分の行動を省みると、自分がまるで道化師のように思えた。首を切られたまま走りまわる鶏――そういうたとえが頭に浮かぶ。さあ、とにかくおれは凍死するときまった。だったらそれを素直に受けいれたほうがいい。この新たな安らぎを見出すとともに眠気が襲ってきた。グッドアイデアだ、と思った。眠りながら死ぬのは。麻酔をかけられたようだった。凍死は人が思っているほど悪くない。もっとひどい死に方は山ほどある。

明日になって子どもたちが自分を発見する場面が浮かびあがった。ふと気がつくと、そばには子どもたちがいた。子どもたちは男を捜しに道をたどってきたのだ。それから、やはり子どもたちと一緒に、意識をもうろうとさせたまま、雪に埋もれている自分を見出すところが。男の体はもはや男のものではなく、体の外から、子どもたちと並んで雪に埋もれた自分を見下ろしていた。本当に寒い、と思った。アメリカにもどったら、本当の寒さとはどんなものか教えてやれるな。そしてサルファ・クリークの古参者が現れた。その姿ははっきりと見えた。暖かそうに、快適そうに、パイプをふかしている。

「あんた正しかったよ、親父。あんたが正しかった」と、男はサルファ・クリークの古参者に向かってつぶやいた。

そして男はゆっくりと眠りに落ちていった。それは男にとって、これまでなかったほど快適で満ち足りたもののように思えた。犬は男に面と向かって座り、待った。早くも日が暮れ、長い長い夕闇が近づいてきた。火が起こされる気配はない。人間が雪の中に座り火を起こさないとは、前代未聞のことだった。夕闇があたりをつつむころになると、火への渇望は圧倒的になり、前足をひっきりなしに動かしながら甘えるように鼻を鳴らし、ふてくされたように耳をぺたんと閉じた。けれども男はなんの反応も示さなかった。少し経って、今度は大きく鼻を鳴らした。さらに少し経って男のそばにちかよってみると、死臭がかぎとられた。それをかぎとると動物は毛を逆立たせて後ずさりした。程なく、寒空にきらきらと舞う星々に向かって遠吠えを響かせる。それから男に背を向けると、自分が知っているキャンプに向かって駆け出していった。そこではまた別の人間が食料と火を与えてくれるのだ。


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