ヨーロッパの結束へ向けて, ジョージ・オーウェル

ヨーロッパの結束へ向けて


現在の社会主義者はほとんど望みのない症例を診る医者の立場にある。医者であれば患者を生きながらえさせること、つまり少なくともこの患者には回復の可能性があると考えることがその責務である。一方で科学者であれば事実と向き合うこと、つまりこの患者はおそらく死ぬと認めることがその責務である。社会主義者としての私たちの活動は、社会主義を打ち立てられると私たちが考えている場合にのみ意味を持つ。しかしもしそれが実現されるだろうと考えることを私たちが止めれば私たちに勝ち目はないと認めざるを得ないと私は思う。私が賭けの胴元で、自分の願望を斟酌せずにたんに可能性だけを計算したとすれば、これからの数百年を文明が生き残れるかに関しては悲観的な賭け率を設定するだろう。私の理解している範囲で言えば将来の可能性は三つある。

1.アメリカ人たちは自分たちが原子爆弾を持っていてロシア人たちが持っていない間に原子爆弾を使うことを決める。おそらくこれは何も解決しない。現在、ソビエト連邦によってもたらされている特定の危機は排除されるだろうが、新しい帝国、新たな対抗勢力、さらなる戦争、さらなる原子爆弾といったものの隆盛を引き起こすことだろう。とはいえ、私が考えるところでは、これは三つの結末のうちでは最も起きなさそうなものである。なぜなら予防戦争は犯罪であり、まがりなりにも民主主義の名残りを留める国には容易には手を出せないものだからである。

2.現在の「冷戦」はソビエト連邦、そして他のいくつかの国が原子爆弾を手に入れるまで続く。そしてつかの間の休息をおいてロケットのうなり声が起きる! 飛び交う爆弾の一撃! 世界の産業中心地は拭い去られる。おそらく復興は不可能だ。たとえもしひとつの国家、あるいは国家群がこうした戦争から技術的勝者として生まれたとしても、新たな機械文明を構築することは不可能だろう。つまり世界は再び自給自足の農業で生活を営む数百万から数億の人間の住処となり、おそらく二、三世代後には金属精錬の知識以上の過去の文化は残らない。もしかするとこれは望ましい結末かもしれないが、明らかに社会主義とは無縁なものである。

3.原子爆弾やいまだ姿を見せていない他の兵器によって呼び起こされる恐怖はあまりに巨大で全員がその使用をためらう。これこそが全ての中で最悪の可能性であるように私には思われる。それが意味するのは二つか、三つの巨大な超国家による世界の分割である。この超国家は互いに征服できず、また内部からの反乱によって打ち倒すこともできない。まず間違いなくそれらの構造は階層的であり、上部には半ば神の如きカーストがいて底部には完全な奴隷がいる。そしてそこでの自由の廃絶は世界がこれまで目にした何物よりもひどいことだろう。それぞれの国家の内部では外界からの隔離、そして途切れなく続く対立国家とのまやかしの戦争によって必要とされる精神的雰囲気が維持される。こうしたタイプの文明は数千年に渡ってそのまま続くことも考えられる。

私が概略を語ってみせた危機のほとんどは現に存在し、原子爆弾が発明されるずっと以前から予測できたものだった。私が思い描くことのできるこれらの危機を避ける唯一の方法はどこかに大きな規模で存在する、人々が比較的自由かつ幸福で、生活における主要な動機が金銭や権力の追求でない社会の光景を示して見せることである。つまり民主社会主義がどこか広大な地域全体で実践されなければならない。しかし近い未来でそれが実践されるかもしれない地域は唯一、西ヨーロッパだけなのである。オーストラリアとニュージーランドを別にすれば、民主社会主義の伝統が存在――たとえ不安定な存在に過ぎないとしても――していると言えるのは、スカンジナビア、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、スイス、低地帯諸国低地帯諸国:オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを指す。、フランス、イギリス、スペイン、イタリアだけだ。これらの国々にのみ「社会主義」という言葉に魅力を感じ、それを自由、平等、国際主義と結びつける人々がいまだ多く存在しているのである。他の場所ではこの言葉は足がかりを持たなかったり、別の何かを意味したりする。北アメリカでは大衆は資本主義に甘んじており、資本主義が崩壊を始めた時に彼らがどのような道を選ぶかは誰にもわからない。ソビエト連邦ではいわば寡頭制集産主義が広がっていて、支配者である少数派の意思に対抗しなければそれが民主社会主義へと発展することはできない。アジアについて言えば「社会主義」という言葉さえほとんど浸透していない。アジアの国家主義運動はファシスト的特徴を持つか、モスクワを志向しているか、あるいはその両方の態度を組み合わせようとしている。そして現在のところ有色人種の人々による全ての運動が人種的神秘主義の色合いを帯びているのだ。南アメリカのほとんどでも状況は基本的には似たようなもので、アフリカや中東でも同様である。社会主義はどこにも存在しないが、たとえ理想としてだけであるにせよ、今のところ確かにヨーロッパでだけは有効なのである。もちろん世界中に広がるまでは厳密には社会主義が確立されたとは言えないが、その過程はどこかしらで始まらなければならない。そして西ヨーロッパ国家連合を経由せずにそれが始まるとは私には想像できない。それこそが植民地属国を持たない社会主義共和国群へと姿を変えるのである。従ってヨーロッパ社会主義合衆国こそが現在、目指すべき唯一の政治的目標であるように私には思われるのだ。この連合はおおよそ二億五千万の人々からなり、そこには世界における熟練産業労働者の約半分が含まれるだろう。こうしたものを実現する困難がいかに大きく、恐るべきものであるかについては教えてもらう必要はない。そのうちのいくつかについてはすぐに列挙しよう。しかし、それは本質的に不可能であるとか、国々は互いにあまりに異なっていて自発的に団結したりはしないだとかいう風に私たちは思うべきではない。西ヨーロッパ連合はそれ自体としてはソビエト連邦やイギリス帝国よりも蓋然性の高い結合なのである。

次にその困難さについてである。中でも最大の困難はあらゆる場所における人々の無関心と保守主義、危機に対するその無知、新しいものを何ら想像できないその無能――総じて言えば、バートランド・ラッセルが最近述べたように、自身の生存に賛同しようとしない人類の意志薄弱さである。しかしまたヨーロッパの結束に反対して精力的に活動する極めて有害な勢力の存在や、ヨーロッパの人々がその生活水準の礎として依って立つ、真の社会主義とは相容れない既存の経済関係の存在もある。私が考える四つの障害を列挙し、それぞれについてできるだけ手短に説明しよう。

1.ロシアの敵対心。ロシア人たちは自身の統制下にないヨーロッパ連合に対しては敵意を持たざるを得ない。その理由は上辺のものも本心からのものも明らかである。従って予防戦争の危機についても、もっと小さな国々による組織的威嚇についても、あらゆる場所での共産党のサボタージュについても考慮する必要がある。とりわけヨーロッパの大衆がロシアの神話を信じ続けるという危険である。それが信じられている限り、社会主義ヨーロッパという理想が必要な努力を呼び起こすだけの十分な魅力を持つことはないだろう。

2.アメリカの敵対心。合衆国が資本主義を維持し、またとりわけ輸出のための市場を必要としている場合、合衆国が社会主義ヨーロッパを友好的に見ることはあり得ない。暴力的介入の可能性がソビエト連邦以上に低いことは疑いないがアメリカの圧力は重要な要素である。なぜなら、それはロシアの影響圏の外にいる国のひとつであるイギリスにいとも簡単に行使できるものだからだ。一九四〇年以来、イギリスはヨーロッパの独裁者に背を向けて立っていて、その代償としてほとんどアメリカ合衆国の属領と化している。イギリスがアメリカから解放されるとしたら間違いなくそれはもうひとつのヨーロッパの大国となるアメリカの試みを断念させた時だけだ。英語圏の自治領、植民地属国(おそらくアフリカは別だろうが)、さらにはイギリスへの石油供給源は全てアメリカの手の中にある人質となっている。それゆえに合衆国がイギリスを引きずり出すことでヨーロッパの連合を崩壊させる危険は常に存在するのである。

3.帝国主義。ヨーロッパ、とりわけイギリスの人々は長い間、その高い生活水準のために有色人種の人々を直接的・間接的に搾取してきた。こうした関係は公にされている社会主義者のプロパガンダでは決して明確にされないし、世界的な水準からすれば高い所得で暮らしているイギリスの労働者はそうしたことを教えられる代わりに自身を過剰労働を強いられる虐げられた奴隷だと考えるよう教えられている。どこであれ大衆にとって「社会主義」が意味する、あるいは少なくともそれと関連しているのはより高い賃金、より短い労働時間、より良い住居、あらゆる面での社会保険といったものである。しかし私たちが植民地の搾取から得ている利益を投げ捨てた場合にそうしたものを手にする余裕があるかどうかは全く定かではない。たとえ国民所得が平等に分配されたとしても、所得が全体として落ちれば労働階級の生活水準は間違いなくそれとともに落ちる。どんなに良くても長く不快な再構築の期間は免れないが、その覚悟ができている世論はどこにも存在しない。しかし同時に、国内に真の社会主義を確立しようとするならばヨーロッパの国々は外国に対する搾取者たることを止めなければならない。ヨーロッパ社会主義連合への第一歩は、イギリスの場合、インドからの退出である。しかしそれは別の事態も伴う。ヨーロッパ合衆国が自給自足してロシアやアメリカに屈しないようにしようと思えばアフリカと中東をその中に含めなければならない。しかしそれが意味するのは、そうした国々の現地の人々の地位を今とは全く違ったものへ変えなければならないということだ――モロッコやナイジェリア、アビシニアは植民地や半植民地であることを止め、ヨーロッパの人々と完全に対等な自立した共和国とならなければならない。これには考え方のとてつもなく大きな変化と流血無しには収まらないであろう辛く複雑な戦いが伴う。窮地に追い込まれた時には帝国主義の力は極めて強力であることが明らかになり、イギリスの労働者は、もし彼らが物質主義的な言葉遣いで社会主義について考えるよう教えられていれば、アメリカに従属することを代償に帝国の力を維持した方が良いと最終的に決断するだろう。多かれ少なかれヨーロッパの全ての人々、つまりこの提示された連合の一部をともかくも形作る人々はこれと同じ選択に直面させられることだろう。

4.カトリック教会。東西の間での争いがあからさまになっていくにつれて、民主社会主義者とたんなる反動主義者が手を組んで一種の人民戦線を作る危険がある。両者の間の架け橋となる可能性が最も高いのが教会だ。いずれにせよ、教会はヨーロッパの結束を目指す全ての動きを全力で捕らえ消毒しようとするだろう。教会の危険性はそれが通常の意味においては反動でないということだ。自由放任レッセ・フェールな資本主義とも既存の階級制度とも結びついていないので必ずしもそれらと共に滅ぼされはしないだろう。自身の立場が保障されるならば社会主義と折り合いをつける、そうでなくとも表面上はそのように振る舞うことが完全に可能なのだ。しかしもし強力な組織として生き残ることを許せば教会は真の社会主義の確立を不可能にしてしまうだろう。なぜならその影響は思想と言論の自由に反対するもの、人類の平等に反対するもの、世俗的な幸福を促進しようとする全ての社会形態に反対するものであり、常にそうならざるを得ないからである。

これらやその他の困難について考え、また起きざるを得ないであろうとてつもない精神的再調整について考えると、ヨーロッパ社会主義合衆国の出現は極めて可能性が低い出来事のように私には思われる。人々の大部分が受け身で、そのための覚悟がないと言いたいわけではない。私が言いたいのは、わずかでも権力を手に入れる可能性があって、同時に何が必要か理解して必要となる犠牲を自分の支持者たちに要求するだけの独創的な理解力を持つ人物や集団が見当たらないということなのだ。しかし今のところは他の有望な目標も見当たらない。イギリス帝国を社会主義共和国の連合へ作り変えることができるとかつて私は信じていた。しかし、もしこれまでにそのチャンスがあったのだとしてもそれはインドの解放の失敗や有色人種の人々に広く向けられる私たちの態度によって失われた。ヨーロッパは没落し、長期的には何かより良い社会形態がインドか中国から現れるのかもしれない。しかし原子爆弾の投下を防ぐのに十分なだけの短い時間で民主社会主義が現実のものとなる場所があるとしたら、それはヨーロッパをおいて他にないと私は信じている。

もちろん、楽観的にはなれなくとも、少なくともいくつかの点で判断を保留できるだけの理由がある。大戦争がすぐには起こりそうもないことは私たちが同意できる点のひとつだ。私が思うにロケット弾を撃ち合うような戦争は起きるかもしれないが数千万の人間の動員を伴うような戦争は起きないだろう。今のところ、あらゆる巨大な軍隊はただ消え去りつつあり、この流れは十年、あるいは二十年は続くだろう。そうした期間のどこかで何か予期せぬことが起きるかもしれない。例えば強力な社会主義運動が「資本主義的」な合衆国に初めて現れるかもしれない。資本主義的傾向は何か不変なもの、目や髪の色のようなある種の人種的特徴であるかのように考えられている。しかし実際のところそれは不変なものではあり得ないのだ。なぜなら資本主義自体に未来が無いことははっきりしていて合衆国で起きる次の変化が良い方向への変化ではないと前もって断言することはできないからだ。

そしてまた次世代以降の戦争が回避された場合にソビエト連邦でどのような変化が起きるかもわからない。ああした種類の社会では考え方の劇的な変化は永遠に起こらないように思える。公には野党が存在しないというだけでなく、教育や報道といったものを完全に掌握した体制は自由な社会であれば自然に起きるであろう世代間の意見の振り子運動を意図的に妨げようとするからである。しかし私たち全員が知っているようにひとつの世代は前の世代の考えを拒絶する傾向を持ち、それはNKVDNKVD:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部。秘密警察や強制収容所の管理を担当していた。でさえも根絶できないだろう。そうした場合、一九六〇年には独裁と忠誠を示すための行進に飽きて、もっと自由を求め、西側に友好的な態度を示す数百万の若いロシア人が存在することになるだろう。

しかしまた世界が三つの征服不可能な超大国へと分裂する可能性も十分あり得る。その場合、世界の中のイングランドとアメリカの区域では自由主義の伝統は十分な力を持ち、生活を耐えるに足るものにし、さらにはいくらかの進歩の希望を提供してくれるだろう。とはいえこれらは全て当て推量である。実際の見通しは私が可能性を勘案する限りでは非常に暗い。そしてそれがどんなものであれ真剣な思索はこうした事実から開始されなければならないのだ。

1947年7月
Partisan Review

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