戦争と平和 第一編, レフ・トルストイ

十一


沈黙が続いた。伯爵夫人は気持ちよくほほ笑みながら客を眺めた。とは言え「もしあなたが立ち上がってお帰りになっても、決して残念には存じません」といった心持ちを隠そうともしなかった。客の令嬢は相談するような目付きで母の顔を眺めながら、着物を直し始めた。と不意に次の間から、入口の戸へ向けて走って来る四、五人の男女の足音と、椅子を突き飛ばしたり、倒したりする騒々しい物音が聞こえた。と思う間もなく、部屋の中へ十三ばかりの女の子が、短いレースの袴(ペチコート)で何か包みながら駆け込んで、部屋の真ん中に立ち止まった。察する所、彼女は無考えで一生懸命に走っている中、こんな遠い所まで飛び込んでしまったものらしい。それと同時に戸口の所へ真紅な襟の制服を着た大学生と、若い近衛の将校と、十五ばかりの女の子と、短い上衣を着た頬ぺたの赤い丸々した男の子が現れた。

伯爵は飛び上がって、よろよろしながら両手を拡げて、駆け込んだ女の子を抱き寄せた。

「ああ、ナターシャか!」と彼は笑いながら叫んだ。「お祝いの本尊です! マ・シェール、お祝いの本尊です!」

「Ma chère, il y a un temps pour tout(ねえお前、何事でもそれぞれ時というものがあります)」と伯爵夫人は怖い顔をしながら言った。「あなたがいつも甘やかしなさるからですよ。エリー(ロシア名「イリヤー」のフランス風の呼び方)」と彼女は良人に向かって言い足した。

「Bonjour, ma chère, je vous félicite(こんにちは、お嬢さん、お祝いを申します)」と客は言った。「何という可愛いお子さんでしょう」今度は母夫人の方へ向きながら付け足した。

目が黒くて口の大きい、美しくはないけれど生き生きした女の子は、余り早く走ったために、小さな子供らしい肩を着物の陰でひくひく動かしていた。黒い渦を巻いて後ろに溢(こぼ)れた髪、露わな細い手、レースの袴(ペチコート)に甲の開いた靴を穿いた小さな足などを見ていると、彼女が今ちょうど世俗の所謂(いわゆる)、「娘はもう子供でないが、子供は未だ娘にならない」という可愛い年齢に達してる事が分かった。彼女は父の手から脱け出して母の方へ走って行った。そしてその厳(いか)つい言葉には少しも注意を向けないで、真赤になった顔を母のレースの婦人外套(マンチリヤ)に隠して笑い出した。彼女は袴(ペチコート)の下から人形を取り出して、千切れ千切れに何か言っては笑うのであった。

「ほら?……人形が……ミーミィが……ほら」

ナターシャはそれから先が言えなかった(彼女は何もかも可笑しく思われたのである)。彼女は母の胸に倒れて、大きな声でからからと笑いくずれた。一同は――気取った女客さえつい我ともなしに笑い出した。

「さあ、あっちお出でお出で、その不具者(かたわ)を持って!」母夫人はわざと怒ったように娘を突き退けながらこう言った。「これがわたしの乙娘でございます」と今度は客の方へ向いた。

ナターシャはちょっとその顔を母のレース織の首巻から放して、笑い泣きの涙の隙から母の顔を打ち仰いだが、またすぐに顔を隠してしまった。

この家庭団欒の舞台面(シーン)を見せ付けられた女客は、ちょっとお愛嬌にその仲間へ入らなければなるまいと考えた。

「ねえお嬢さん」と彼女はナターシャに向かってこう言った。「このミーミィさんはあなたの何に当たりますの? きっと娘さんでしょう?」

小児同士の会話へお義理に口を入れた客の調子が、ナターシャの気に入らなかったので、彼女は何にも答えないで、真面目に客の顔を見詰めた。

その間に若い連中(ドルベツカーヤ夫人の息子なる士官のボリース、伯爵の長子ニコライ、伯爵の姪に当たる今年十五のソーニャ、末子のペトルーシャ)は、みんな客間の中に席を取った。そして未だ彼らの顔面筋肉の一本一本に躍動している活気と喜悦とを、礼譲という節度の中に抑え込もうと努めているらしかった。察する所、ああして驀地(まっしぐら)にここへ走って来る前に、奥の間で彼らの交換していた会話は、この客間における他人の陰口や、時候の挨拶や、伯爵夫人(コムテス)アプラクシンの話より、ずっと愉快なものであったに相違ない。時々彼らは互いに顔を見合わせて、やっとの事で笑いを堪(こら)えていた。

二人の青年、即ち大学生と将校は幼い頃からの友達で、年齢も同い年、そして二人とも美男子であったけれど、互いに似た所と言っては少しもなかった。ボリースは背の高い、亜麻色の髪をした、輪郭の繊細に整った、落ち着いた美しい顔立ちの青年であった。ニコライは背の余り高くない、髪の渦を巻いた、顔の表情の明け放しな若人であった。その上唇にはもう黒い髭が見え、顔全体に突進的な感激性が表われていた。ニコライは客間に入るや否や真赤な顔をした。多分、何を言おうかと考えたけれど、適当な言葉を発見しなかったものらしい。ボリースは反対にすぐ頓知の才を現わして、落ち着いた冗談まじりの口調で、自分はこの人形のミーミィを若い娘の時分から知っていて、その頃は未だ鼻も欠けていなかったが、彼が記憶してから五年の間にすっかりお婆さんになって、頭蓋骨に一杯ひびが入ってしまった、などと語った。語り終わって彼はナターシャを見た。ナターシャはくるりと彼に背を向けて弟の方を見ると、ペトルーシャは目を細くしながら、声も立てずに体を揺すり揺すり笑っていた。と、もう堪らなくなって飛び上がり、素敏(すばしっ)こい足に有りたけの力を籠めて、大急ぎで部屋を駆け出してしまった。ボリースは笑わなかった。

「あなたも矢張りお出掛けなさる筈でしたね、お母さん! 馬車が要るでしょう?」微笑を帯びて母の方へ向きながら、彼はこう言った。

「ああ、早く行って支度するように吩咐(いいつ)けておくれ」ほほ笑みながら母は言った。

ボリースは静かに戸口を出て、ナターシャの後を追った。肥った男の子――ペトルーシャは自分の仕事を掻き回されたのを口惜しがるように、腹立たしげに二人の後から駆け出した。