こうした様々な会話が、客間や令嬢の部屋で交換されている時、ピエールと(迎えの使者がロストフ家へ来たのである)ドルベツカーヤ夫人(これは是非ピエールと一緒に出掛ける必要があると考えたので)を乗せた馬車が、ベズーホフ伯爵家の邸内に曳き込まれた。馬車の轍が窓下に敷かれた藁の上を柔らかく響き始めた時、ドルベツカーヤ夫人はピエールに向かって、慰めの言葉を発したが、彼が馬車の隅で寝込んでいるのを確かめて揺り起こした。ピエールは目を覚まして、ドルベツカーヤ夫人の後から馬車を出たが、それと同時に、瀕死の父との対面が目前に控えている事を思い出した。彼は自分らが正面玄関から入らずに、裏手の車寄せへ乗り付けたのに気がついた。彼が馬車の踏み段から足を下ろした時に、町人らしい服装の男が二人車寄せから壁の陰へ、こそこそと駆け込んだ。ピエールが立ち止まって透して見ると、家の両側の物蔭に未だ幾人も同じような男がいた。けれどドルベツカーヤ夫人も、侍僕も、馭者も、この男達が目に入らぬ筈はないのに、少しも注意を払わなかった。「して見るとこれが当たり前なんだな」とピエールは独りで決めて、ドルベツカーヤ夫人の後に従った。
夫人はせかせかした足取りで薄い灯りに照らされた、狭い石の階段を上って行ったが、時々立ち止まって遅れがちなピエールを呼んだ。ピエールは一体何のために、伯爵の所へ行かなければならないのか分からなかったが、何故自分が裏梯子から上って行かなければならないか、という事はなおさら以て合点が行かなかった。けれどドルベツカーヤ夫人の忙しそうな、信ずる所ありげな様子から推して、どうしてもこうしなくてはならないのだろう、と決めてしまった。階段の中程で長靴をかたく鳴らしながら、バケツを提げた人達が駆け下りて、危うく二人を突き飛ばさないばかりであった。彼らは壁にぴたりと身を寄せて、ピエールとドルベツカーヤ夫人を通した。そして二人の姿を見ても、少しもびっくりしたような風を示さなかった。
「ここはお嬢様方のお部屋へ行く道かえ?」とドルベツカーヤ夫人が彼らの一人に訊いた。
「そうですよ」と僕は今こそ何をしたって構わないと言ったように、図々しい大声で答えた。「左側の戸がそうですよ、奥さん」
「伯爵は僕を呼ばなかったのかも知れませんね」と階段の平台へ出た時ピエールは言い出した。「僕、自分の部屋へ帰った方が宜かあないでしょうか」
ドルベツカーヤ夫人はピエールと肩を並べるために立ち止まった。
「Ah, mon ami!(まあ、あなた!)」と彼女は今朝息子に試みたと同じ手付きで、ピエールの手にちょっと触った。「わたしだってあなたに劣らず苦しんでいますよ。だけどどうぞ男らしくして下さい」
「でも、本当に僕、行きましょうか?」眼鏡越しに優しくドルベツカーヤ夫人を眺めつつ、ピエールはこう訊ねた。
「Ah, mon ami!(まあ、あなた!)、世間の人達があなたに対して、不公平だった事を忘れておしまいなさい。そしてあの方は何と言っても、あなたのお父さまだと言う事を覚えていらっしゃい……もしかしたら、今、臨終の苦しみをしてらっしゃるかも知れません」と彼女は嘆息した。「わたしはね、すぐにあなたが我が子のように好きになってしまいましたの。わたしを信用して下さいまし、ピエールさん。わたしは決してあなたの利害を忘れは致しませんから」
ピエールは何にも分からなかったが、何事も皆こうあるのが本当だろうという感じが、また前よりも余計強くなって来た。で彼は、もう戸を開けている夫人の後に従順しく付いて行った。
その戸は裏口から来る客の控室に通じていた。令嬢付の老僕が片隅に坐って、靴下を編んでいた。ピエールは邸内のこの部分へ来た事もなければ、こんな部屋のある事すら知らなかった。ドルベツカーヤ夫人は小間使いが水差しを載せた盆を持って、二人を追い越して行くのを摑まえて、いい子だの可愛い子だのと世辞を並べながら、令嬢達の健康の事など訊いてから、また暗い廊下を先へ先へとピエールを引っ張って行った。廊下に沿うて左側にある最初の扉は、令嬢達の住まいに当てられた幾つかの部屋へ通じていた。水差しを持った小間使いが取り急いで(この家ではこの時すべての事が急いで行われた)戸を閉め忘れたので、ピエールとドルベツカーヤ夫人は通りすがりに、何心なく部屋の中を覗いて見た。そこでは一番上の令嬢とワシーリイ公爵が、近々と寄り添いながら話し込んでいた。通り過ぎた二人の姿を見ると、公爵は苛立たしげな身振りをして、急につと背を伸ばした。令嬢は立ち上がって一生懸命な力で、やけに叩き付けるように戸を閉め切った。
その身振りは何時もの落ち着き払った令嬢の態度に比べて、余りと言えば似ている所が少なかったし、それにワシーリイ公爵の顔に現れた恐怖の色は、彼の物々しい平素の様子に不似合いであったので、ピエールは立ち止まって、眼鏡越しに自分の指導者を訝しげに見詰めた。ドルベツカーヤ夫人は驚きの色を示さずに、ただ微かにほほ笑んで嘆息した。それはちょうど、わたしもこれを予期していました、という意を見せたのである。
「Soyez homme, mon ami(あなた、男らしくなさいまし)、わたしはきっとあなたの利益を守ってさし上げます」ピエールの物問いたげな眼付きにこう答えて、彼女はなお足早に廊下を進んで行った。
ピエールは何が何だか分からなかったが、「あなたの利益を守る」というのは何の事やら、なおさら合点が行かなかった。そしてただ何もかもこうあるのが本当だろう、とだけ合点したのである。廊下を通り抜けて、二人は伯爵の応接室に隣合っている、うっすら灯りのついた広間に出た。これはピエールが何時も表玄関から入りつけた、寒いけれど贅沢に飾られた部屋の一つである。しかしこの部屋にも真ん中に空の湯槽が置かれてあって、毛氈には湯の溢れた跡があった。出会い頭に召使いと香炉を持った僧とが、二人の者には目もくれず、爪先立ちで出て来た。二人はピエールに馴染みの深い応接室に入った。そこにはイタリア風の窓が二つ付いて、庭園へ下る出口があり、大きな胸像とエカチェリーナ女帝を描いた等身大の肖像が飾ってあった。すべての人々はほとんど以前と同じ位置に腰掛けて、ひそひそ囁き交していた。一同はぴたりと話を止めて、泣き出しそうな蒼白い顔をして入って来るドルベツカーヤ夫人と、頭を垂れて従順しくついて来る、肥えた大きなピエールの方へ振り向いた。
ドルベツカーヤ夫人の顔には、いよいよのるかそるかの時が来たという自覚が現れた。彼女はピエールを傍から放さないで、事務的なペテルブルク婦人の態度を以て、今朝ほどより尚大胆に部屋の中へ入って行った。自分は臨終の病人が会いたいという人を連れているのだから、自分の行動はちゃんと保証されている。こう思って彼女は部屋に居合わす一同を、ちらと一目に見て取ったが、伯爵の懺悔僧が目に入ると、彼女は急に背を屈めた――という訳でもないが、何となく不意に背丈を小さくしながら、小刻みな飛ぶような足付で僧の方へ近寄った。そしてまず一人の、次に今一人の僧の祝福を恭しく受けるのであった。
「有難い事に、やっと間に合いました」と彼女は僧に言った。「わたし共は親族の者ですが、本当に心配いたしました。あの若い方は伯爵のご子息でございます」と彼女は声を低めて付け足した。「恐ろしい時が参りましたね!」
こう言って彼女は医師に近付いた。
「Cher docteur, ce jeune homme est le fils du comte(ドクトル、この若い方は伯爵のご子息でございます)……まだ望みがございましょうか?」と彼女は医師に言った。
医師は無言のまま目と肩をひょいと上へあげた。ドルベツカーヤ夫人も全くそれと同じ動作で目と肩を上げたが、その目は閉じてしまっていた。そして嘆息しながら医師を離れて、ピエールの方へ帰って来た。彼女は特に恭しく、そして優しい憂愁を帯びた調子でピエールにこう言った。
「Ayez confiance en Sa miséricorde(神様のお恵みにお頼りなさい)」と彼女は言いながら小形の長椅子を指して、坐って待っていろという意味を悟らせ、自分は人々の注意の焦点となっている例の扉の方へ、そっと音のしないように歩き出した。そして聞こえるか聞こえないくらいの音と共に、その蔭に姿を隠したのである。
ピエールは万事この指導者の言うがままになろうと決心して、彼女の指し示した長椅子に向かって歩き出した。ドルベツカーヤ夫人が隠れると同時に、部屋に居合わす一同の視線が、好奇心や同情以上の或る物を以て、自分の方に注がれているのに彼は気付いた。彼は一同が目付きで自分の方を指しながら、恐怖とも屈従とも見える一種の表情を浮べつつ、囁き合っているのに気付いた。人々はこれまでかつて無かったような尊敬を彼に示すのであった。僧達と話していた見知らぬ一人の婦人は、自分の席を立って彼に坐れと勧めた。副官はピエールの落とした手套を拾って、彼に差し出した。医師達は彼が傍を通る度に恭しく口を噤んで、彼に道を与えるために片寄るのであった。ピエールは始めその婦人の邪魔にならぬように、他の席に坐るつもりでいたし、手套も自分で拾い、決して通路の邪魔にならぬよう、医師達をも避けて通るつもりであった。しかし不意に彼はそうするのが、作法に適わぬ事のように思われた。今夜自分は一同から待ち設けられている、ある恐ろしい儀式を行わねばならぬ人なので、それ故、自分は他人から与えられる親切を受けなければならぬのだ、といったような気持ちがした。彼は黙って副官の手から手套を受け取り、例の婦人の席に腰を掛け、エジプトの彫像のような無邪気な姿勢で、几帳面に並べた膝の上に大きな手を置いた。そしてこうなるのが本当だ、今夜は取り逆上せて馬鹿な事をしないために、万事自分の一人考えで行動しないで、自分の体を指導してくれる人の手に、すっかり委ねてしまわなければならぬと決めた。
それから二分と経たぬ中に、ワシーリイ公爵は勲章の三つ付いたロシア式上衣を着て、首を高く反らしながら、威風堂々と部屋へ入って来た。今朝から見ると彼はまた痩せたように思われた。彼が部屋を見回してピエールを見付けた時、その目は何時もより大きかった。彼はピエールに近付いてその手を取り(以前彼は決してこんな事をしなかった)、しっかりして居るか居ないか試して見るように、その手を下の方へぐっと引くのであった。
「Courage, courage, mon ami(しっかりしな、しっかりしな、ピエール)。伯爵が君に会いたいと言われる、まことに結構な事だ」と言って彼は立ち去ろうとした。ピエールは何か訊かなければならぬと思ったので、「御容体はどんなですか、あの……」と言い掛けて彼はまごついてしまった。伯爵と言っていいかどうか分からなかったし、それかと言って、お父さんと言うのも気が咎められたのである。
「三十分ばかり前に il a eu encore un coup.(また一遍打撃があったよ)また打撃があったよ」とロシア語で言い直した。「しっかりしな、ピエール」
ピエールはすっかり思考力が鈍って居たので、打撃という言葉を聞いた時、何か人が体に受ける殴打のような物を想像した。彼は怪訝そうにワシーリイ公爵を眺めたが、やっと病気を打撃という事に気が付いた。ワシーリイ公爵は通りすがりに、ロルランに二言三言いって、爪先立ちで戸の方へ進んだ。しかし彼は本当に爪先で歩く事が出来なかったので、無器用に体全体で飛び上がるようにして歩いた。その後から一番上の令嬢が入って行くと、続いて僧達も進んだ。召使い達も矢張り同じく戸の中へ入って行った。この戸の向こうで何やら物を移すような気配がしたが、やがて遂にドルベツカーヤ夫人が、色は依然として蒼白いけれど、義務を遂行しようという決心のために、引きしまった顔付きをしながら駆け出した。そしてピエールの手に触りながらこう言った。
「La bonté divine est inepuisable.(神様のお恵みは無限でございます)これから塗油式が始まります、さあ参りましょう」
ピエールは柔い毛氈を踏んで戸の向こうへ入った。すると副官も、見知らぬ婦人も、それから召使いの誰かも、まるでこの部屋へ入るのにもう許可を求める必要はない、といわんばかりの様子で、一同、彼の後から続いて来た。