ニコライ・アンドレーヴィッチ・ボルコンスキイ公爵の領地なる禿山では、若公爵アンドレイ夫妻の到着を毎日のように待ち兼ねていた。けれどこの期待の情も公爵家の整然たる生活の秩序をば、些かも乱すような事はなかった。le roi de Prusse(プロイセン王)のあだ名を持っている大将ニコライ公爵は、パーヴェル一世(パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ(一七五四年-一八〇一年)。ロシア皇帝。母エカチェリーナ二世の死後にロシア皇帝に即位。暴君、暗君として知られ一八〇一年にクーデターによって暗殺される。)の治世に田舎へ遷されて以来、禿山から一歩も出ないで、娘のマリヤとその友ブリエンヌと一緒に暮らしているのであった。治世が変わって両首都に入る事を許されたけれど、彼は誰でも自分に用事があるなら、モスクワから禿山まで、百五十露里(露里(ヴェルスタ)はロシアの長さの単位の一つ。一露里は約一・〇六六八キロメートル。)の道を乗り着けるがよい、自分には何人も何物も必要がないと言って、相変わらず村から少しも外へ出ないで暮らした。
彼に言わせると、人間には二つの悪行の源がある、それは怠惰と迷信である。また同じくただ二つの善行がある、それは活動と知識である。彼は自分で娘の教育に従ったが、この二つの徳性を発達させるために、二十歳の年まで彼女に代数と幾何の日課を授け、彼女の生活全部を不断の勉学に割り当ててしまった。また彼自身も絶えず何か彼か仕事をしていた。時には自分の備忘録を書いたり、時には高等数学の問題を解いて見たり、時には轆轤で煙草入れを削ったり、時には庭いじりをしたり、また公爵の領地で絶え間なしに起工される、建築の監督をしたりするのであった。事務に要する第一の条件は秩序であるというので、彼の生活の様式においては秩序が極度の正確に達していた。彼は常に変わる事なき一定の条件の下に、時間は愚か分まで決めて食堂へ出る事になっている。令嬢から下男に至るまですべて周囲の人に対して、彼は恐ろしく峻厳で、常に変わらぬやかましい要求を固持するのであった。それ故、残忍な質ではないけれど、非常に残忍な人さえ容易に獲得する事の出来ないような、恐怖と尊敬の念を人々に呼び醒ます力を持っていた。
彼は今、非職になっているので、公の事業に関して何らの権威をも有していないにも拘わらず、同県に勤めるすべての長官は、時々彼の許に伺候するのを義務と考えていた。そして建築技師や庭作りや令嬢マリヤなどなど同じように、天井の高い侍僕室で、定めの時に公爵が出て来るのを待っていた。そして大きな高い書斎の戸が開いて、手の小さくかさかさした、半白の眉を長く垂らした(この眉は彼が顔を顰める度に、悧口そうな、若々しく輝く目の光を蔽うのであった)、髪粉をつけた鬘を被った、あまり背の高くない老人の姿が現れると、侍僕室に待っている人は誰でも尊敬――というよりむしろ恐怖を覚えるのであった。
若夫婦到着の日の朝、令嬢マリヤは例に依って朝の挨拶をするために、課業の時間に侍僕室へ赴いた。そして恐れを抱きつつ十字を切って、心の中で祈りをした。毎日、彼女はこの部屋へ入って来るとき、この日の対面が無事で終わるようにと祈るのであった。
侍僕室に坐っている髪粉をつけた老僕が静かに立ち上がって、小声で「お入りなされませ」と言った。
戸の向こうからは規則正しく回る轆轤の音が聞こえた。令嬢は容易く滑らかに開かれる戸に手を伸ばしながら、入口の所で立ち止まった。公爵は轆轤台に向かって仕事をしていたが、ちょっと振り返っただけでまた仕事を続けた。
大きな書斎は日常使用されているらしい道具類に充たされていた。書籍や設計図の載っている大きな卓、硝子戸に鍵のついた図書戸棚、立ったままで書く高い卓(その上には本が開かれたまま載っていた)、轆轤とそれに付属する諸道具、そして鉋屑――これ等すべての物は様々な秩序立った仕事が止み間なく行われている事を語っていた。銀糸で縫った韃靼風の靴を穿いた小さな足、筋だらけのがさがさした手などの、しっかりした運動に依ってみると、多くの物に堪え得る執拗な初老の力が、公爵の内に残っていることが察せられた。
四、五遍、輪を回した後、彼はペダルから足を外して、鑿を拭い、それをば台に打ち付けてある皮の袋に放り込んだ。彼は今日一度も自分の子を祝福した事がない。で、今日は未だ剃刀を当てぬ、剛い毛のごそごそしている頬を差し出しただけで、厳しいけれど同時に注意深い、優しい目付きで娘を眺めながら、「達者かな? では坐れ!」と言った。彼は自分の手で書いた幾何の手帳を取って、足で安楽椅子を引き寄せた。
「明日の分だ!」手早く必要な頁を探し出し、固い爪で節から節まで印を付けながらこう言った。
令嬢は卓の上なる手帳の方へ屈み込んだ。
「ちょっと待て、お前に手紙が来てる」と言って老公爵は卓の上に作り付けてある状差しの中から、女の手で上書をした封書を取り出して、卓の上へ投げ出した。
令嬢の顔はこの手紙を見ると共に赤い斑点だらけになった。彼女は急いでそれを取り上げて、その方へ屈み込んでしまった。
「エロイーザから来たのか?」冷たい微笑と共に、未だ堅固な黄味がかった歯を見せながら、公爵はこう訊いた。
「はい、ジューリイから来たのでございます」令嬢は臆病げに父を見上げて、臆病そうにほほ笑みながらこう言った。
「もう二通は許すが、三通目のは読んでしまうぞ」と公爵は厳かに言った。「大方、下らん事ばかり書いてるんだろう。三通目のは読んでしまうぞ」
「これも構いませんからお読み下さいまし、お父さま」令嬢は赤くなって、手紙を差し出しながらこう答えた。
「三通目のだ、三通目のだと言ってるではないか」と公爵はぶっきら棒に怒鳴って、手紙を突き戻した。そして卓に肘突きしながら、幾何図のついた手帳を引き寄せた。
「さてと、」老公爵は近々と娘の傍へ寄って手帳の方に屈み掛かり、令嬢の坐っている肘椅子の背に片手を載せながら、説明を始めた。令嬢は久しい以前から嗅ぎ馴れた、父の老人くさい匂いと、煙草の匂いに四方から取り囲まれたような気がした。「さてと、この三つの三角形は相等しい、いいかよく見ろ、角ABCは……」
令嬢は自分のすぐ傍に輝く父の目を怯えたように見上げた。例の赤い斑が顔中に拡がった。見た所、彼女は何にも分からないらしい。ただ恐ろしさが一杯で、父の説明がどんなに明瞭であっても、恐怖の念に妨げられて、どうしても理解出来なかったのである。教える方が悪いのか、但しは習う方が悪いのか、とにかく毎日毎日同じ事ばかり繰り返された。令嬢は何時も目の中がぼうとしてしまって、何一つ見も聞きもしなかった。ただ自分のすぐ傍にある厳めしい父の顔、その息遣い、その匂いを感じながら、どうかして早くこの書斎を出て、自分の部屋でゆっくり問題を咀嚼したいものだ、とそればかり考えていた。老公爵はよく癇癪を起こして、自分の坐っている椅子を、がたがたと前へ寄せたり後へ退けたりしながら、激昂すまいと自分を抑制するのであったが、ほとんど毎度のように夢中になって怒鳴りつけ、時には手帳を放り出す事さえあった。
令嬢は答えを誤った。
「ふん。だから馬鹿と言うのだ!」と手帳を飛ばして、他方を向きながら公爵は叫んだ。が、すぐに立ち上がって部屋を一回りし、ちょっと両手で令嬢の髪に触ってみてから、また腰を下ろした。
彼は椅子を引き寄せて説明に掛かった。
「駄目だ、駄目だ、」令嬢が問題のついている手帳を取って頁を閉じながら、もう出て行く支度を始めた時、公爵はこう言った。「数学というものは偉大な仕事だぞ、マリヤ。わしはお前を世間並みの馬鹿な奥さん達の仲間にしたくない。辛抱しているうちに面白くなって来るよ(と彼は手で娘の頬を軽く叩いた)。そうすれば馬鹿な考えも頭の中から飛びだすだろうて」
マリヤが立ち去ろうとすると、彼は仕方で娘を押し止めて、高い卓から未だ頁を切ってない書物を取った。
「そら、お前のエロイーザが『神秘の鍵』というものを送って来たよ。宗教の本だ。わしは他人の信仰には決して干渉しない……ただちょっと目を通して見た。さ、持って行け。もう行って宜しい、行って宜しい」
彼は娘の肩をぽんと叩いて、自分で娘の出た後の戸を閉めてしまった。
マリヤは沈みがちな怯えた表情をして、自分の居間へ帰って来た。この表情は常に彼女に付き纏って、その美しくない病的な顔を一層醜く見せるのであった。彼女は小さな肖像画を飾り、手帳や書物を放り出した写字台に向かって腰を掛けた。令嬢は父が几帳面であるのと同じくらいな程度に乱雑であった。彼女は幾何の手帳を置いて、もどかしそうに手紙の封を切った。それは令嬢に取って誰よりも親しい幼馴染の手紙であった。この友達というのはロストフ家の命名日に来合わせていた、かのジューリイ・カラーギナである。
ジューリイはフランス語で次のように書いていた。
「Chère et excellente amie(懐かしく尊き我が友よ)、別離とは何という恐ろしい残忍なものでしょう? わたしは幾度か心の中で、わたしの存在と幸福の大半はあなたの中に在る、たとえどれだけの距離が二人の間を隔てていようとも、二人の心は断つ事の出来ない絆で繋がれている、とこう考えて見るのですけれど、それでもわたしの心は運命に反抗の声を上げます。数々の愉楽と慰安がわたしを取り囲んでいるにも拘わらず、あなたとお別れして以来絶えず心の底で経験している、一種の隠れたる憂愁をし圧しつける事が出来ませんの。どうしてわたし達は去年の夏のように、あなたの大きな書斎にある水色の長椅子――『告白の長椅子』の上へ、一緒に腰掛ける事が出来ないのでしょう? ちょうど三月前のようにあなたのつつましやかな、落ち着いた、物を見透すような目の中に、新しい精神的な力を汲み出す事が、どうして今のわたしに出来ないのでしょう? わたしはあなたの目が大好きなんですの。今こうして書いている時にも、わたしは目の前に見るような気が致しますわ」
ここまで読んで来て、マリヤは右手に立っている姿見を眺めた。鏡は美しくない弱々しい体と痩せた顔とを映し出した。何時も沈みがちな目が、今は殊に頼り無げに鏡の中なる自分の顔を見詰めた。「お世辞を言ってるんだわ」と思って令嬢は向き直り、続いて手紙を読み出した。けれどもジューリイはお世辞を言ったのではない。実際大きな碧い、光を放つようなマリヤの目は(ちょうど暖かい光が何かの拍子で束になって、放散するような具合であった)、実に見事で、顔全体は美しくないけれど、この目だけが顔の美に増して人の心を引く事がしばしばであった。けれども彼女が自分の事を考えない時に、その目がどんなに見事な表情を帯びるか、マリヤは少しも知らなかったのである。実際どんな人でも鏡に向かうや否や、不自然なわざとらしい、嫌な表情を帯びるものである。マリヤは読み続けた。
「モスクワ中はただ戦争の事ばかり話していますの。わたしの二人の兄弟のうち一人は外国に居りますし、一人はこれから国境へ遠征に出掛けようという、近衛師団に入っています。我が愛すべき皇帝陛下はペテルブルクを見捨て、恐ろしい戦場の偶然に、玉体をお委ね遊ばす事と予想されて居ます。願わくば神の冥護を以て、慈悲深き天帝が我らの支配者と定め給いし天使のみ手に依って、かのヨーロッパの平和を乱すコルシカの怪物を、高き位より貶されんことを! 二人の兄弟の事は申すまでもありませんが、この度の戦いはわたしの胸に最も近しい友の一人を奪いました。わたしの申すのはニコライ・ロストフといって、生来感激性の激しいままに無為に堪える事が出来ないで、軍務に服するため大学を中途で退学した青年でございますの。マリヤさま、白状致しますが、未だごく年若な方ですけれど、この人の出発はわたしに取って大きな悲しみでした。昨年の夏あなたにお話ししたこの青年は、滔々たる現代の二十歳くらいの若年寄の間に、滅多と見る事の出来ない真の若々しさと、真面目さを持っております。この方は飾り気のない、正直なハートを持っていらっしゃいます。純潔で詩趣に充ちています。それ故わたしとこの方との交際は、至って慌ただしいあっけないものでしたけれど、もう多くの苦痛を経験したわたしの哀れな胸に取って、最も甘い歓びの一つでした。わたし、その中に二人の別離の事だの、別離の時、話し合った事だの、すっかりあなたにお話し致しましょうね……今はまだそれ等の記憶が余り新し過ぎますもの!……ああマリヤ様、こうした焼け付くような快楽と、焼け付くような悲哀を御存じないあなたは、実に幸福ですわねえ。何故と言って、普通悲哀の方が快楽より強いものですからね。ニコライ伯爵は余り若い方ですから、わたしのために親友以上の何物かになる事がないのは、わたしも存じています。けれどもこの甘い友情、この詩的で清浄な交わりは、わたしの心の要求だったんですの。
今の所モスクワ中の注意を惹いている新しい出来事は、ベズーホフ伯爵の死去とその遺産の事でございます。まあどうでしょう、三人の公爵令嬢は幾らか少しばかり譲られただけで、ワシーリイ公爵には何もなく、ピエールが一切の相続者となり、おまけに伯爵の嫡子と認められたのですから、従ってベズーホフ伯爵として、ロシアでも一番大きな財産の所有者と認められた訳なんですの。噂によるとワシーリイ公爵は、この事件で卑劣な役回りを演じたとかで、すっかり面目玉を潰してペテルブルクへ帰りました。実の所を申しますと、わたしはこの遺言事件をあまりよく知りません。けれどただ一つ知っているのは、今までわたし共が単にピエールという名で呼んでいた一人の青年が、突然ベズーホフ伯爵となり、ロシア全国でも有数の財産家となった事です。で、年頃の娘を持ったお母さん達やまた当のお嬢さん方の、この青年に対する調子が変わって来たさまを観察して、わたしは一人で興がっていますの。わたしに言わせると何時もあの方は(これは内緒のお話ですけど)、つまらない人のように思われますわ。もう二年越し皆がわたしの花婿を探して面白がっていましたが、今度モスクワの結婚新聞は、わたしをベズーホフ伯爵夫人にしようとしていますの。けれどあなたも察して下さるでしょうが、わたしはそんな事を少しも望んでいませんわ。
ついでにもう一つ結婚の事を書きましょう。御存じか知りませんが、あの『社交界一般の伯母さん』と言われているドルベツカーヤ夫人が、あなたの結婚計画を極内々でわたしに打ち明けてくれました。相手の方は外でもありません、ワシーリイ公爵の御子息アナトーリですの。それはこの人を金持ち名誉ある令嬢と結婚させて、身持ちを固めさせたいというご両親の希望でして、その白羽の矢があなたに立った訳なんですの。あなたこの事をどう御覧になるか知りませんが、わたしはとにかくお知らせするのを義務と考えました。アナトーリさんは大変美男子で、そして恐ろしい暴れ者だそうでございます。わたしがこの人について知り得たのはこれだけでございます。
お喋りはもう沢山。もう二枚目も大方お終いになりそうですわ。お母さまがアプラクシン様へ晩餐に行こうと、わたしを呼びに参りました。
わたしのお送りした神秘主義の本をお読み下さいまし。この本はわたし共の間で大層な評判なんですの。あの中には人間のはかない知力で理解出来ない所もありますが、何と言っても優れた本ですわ。あれを読むと精神が落ち着いて向上します。では左様なら、お父上様はじめブリエンヌ様にも宜しく。心の底より固くあなたを抱きしめます。
ユリヤ
PS お兄様とそして美しいお義姉様の事をお知らせ下さいまし」
マリヤは物思わしげな微笑を洩らしつつ考え込んだが(このとき彼女の顔は輝かしい目の光に照らされて、すっかり見違えるようになった)、不意に立ち上がって重々しく足を運びながら、卓の方へ席を移した。彼女は紙を取り出して、その上にすらすらと手を走らせ始めた。彼女は同じくフランス語でこう返事を書いた。
「Chère et excellente amie(懐かしく尊き友よ)、十三日付のお手紙はわたしに非常な悦びを与えました。あなたは矢張りわたしを愛して下さいますのね、詩的なユリヤさま。しかし、あなたのいろいろ情けない事を仰しゃる別離も、通常有りがちな影響をあなたに与えなかったようでございますね。もしあなたが別離などという事をお訴えなさるのでしたら、わたしのように大切な人をことごとく奪われてしまった者は、何と言ったら宜しいのでしょう?(もし思い切って言わせて戴いたらですよ。)ああ、もし宗教という慰藉が無かったら、わたしの生活はどんなに悲しいものになったでしょう。ですけど、あなたはあの若い方に対する思慕の情を語る時に、何故あんな鹿爪らしい見方をわたしに押し付けようとなすったのでしょう? この事についてわたしが厳格なのは、ただ自分に対してのみです。他の人の事なら、わたしもこの感情を理解します。そして自分に経験がありませんから、それを讃美しないまでも、決して非難しようとは思いません。けれども若い男の美しい眼が、あなたのように詩的な、情の深い、若い娘の心に呼び起こす感情よりも、キリスト教の愛、隣人に対する愛、敵に対する愛の方が立派で、甘くて、美しいようにわたしには思われますの。
ベズーホフ伯爵死去の報知はあなたのお手紙より以前に、わたし共の耳へ入りました。そして父はそれを聞いて大層感じた風でございます。伯爵は偉大なる御代の最後から二番目の代表者であった、今度は自分の番だが、その番がなるべく遅く回って来るように、自分の力に叶うだけの事をするなどなど父は申しています。どうかしてわたし共はこの不幸を逃れたいものでございます。
わたしはピエールさんについて、あなたと御意見を共にする事が出来ません、あの方は未だほんの子供の時分から知っていましたが、何時も美しい心を持っていらしたように思われます。わたしは人間のもっている物の中でこの資質を一番尊重します。またあの方の相続と、それに関してワシーリイ公爵の演じた役回りに至っては、わたしはただ両方ともお気の毒に存じます。ねえジューリイ様、富める者の天国に入るよりも、駱駝の針の耳を潜らん方いと易し、と申された救世主の御言葉は、恐ろしいほど真実でございます。わたしはワシーリイ公爵を憫れみますが、それにも増してピエールさんをお気の毒に思います。あのような若い方がああした大財産の重荷に苦しめられなすったら、どれくらい多くの誘惑を潜り抜けて行かねばならぬ事でしょう! わたしはもし人から、この世の中で何が一番望ましいかと聞かれたら、わたしは乞食の中で一番貧しい者より、もっと貧しくなりたいと答えるでしょう。
また都で大評判の喧しい御本をお送り下さいまして、幾重にも御礼申し上げます。とは言えお言葉によると、この本の中には立派な思想の間々に、人間のはかない知恵の及ばぬ点もあるとの事ですから、そういう分からない本を読むのは無駄な事のように思われます。何故と申して、その『分からない』という事一つだけで、この本が何の益も与えてくれない事は、明らかでございますから。世間にはよく人の心に疑惑のみ増すような、神秘主義の書物を耽読して、自分の思想を混乱させ想像を刺激させ、キリスト教の単純素朴に全然反対な誇大癖を養う人がありますが、わたしそういう人の心持ちがどうしても分からないのでございます。それよりか寧そ使徒行伝や福音書を読みましょう。そしてたとえこういう物を読みましても、その中の神秘的方面には、あまり深く没頭したり、探求したりしないように致しましょう。何故と申して、人間と永遠との間に見透す事の出来ない帷を垂れる、肉の衣を身に着けて居る以上、わたし達のような哀れな罪人に、どうして神の恐ろしい神聖な秘密を知る事が出来ましょう。今の所。救世主がこの地上において、私達の道しるべとして残して下すった、偉大なる教訓の研究に満足した方が宜しゅうございます。まあ努力してその教訓を実践いたしましょう。出来るだけ自分の心に放縦を許さぬようにすれば、神より発しないすべての知識を斥けられる、神の御旨にかなうものだという事や、そしてまた神の思し召しで隠した方がよいとせられた事柄に深入りしなければ、神はその尊い叡知を以て、却って早くそれを啓示して下さるものだという事を、心底から体得したいものでございます。
父は結婚の事など何も申しませんが、ただワシーリイ公爵から手紙を頂いたので、御来訪を待っているとだけ話がございました。またわたしに関する結婚の計画につきましては、わたしはあなたにこう申しましょう。結婚はわたしの考えでは、どうしても従わねばならぬ神の掟でございます。
わたしは自分がどんなに苦しくとも、もし神様がわたしに妻として、また母としての義務を負わせるのを嘉と見られるならば、わたしは神が良人として授けて下すった人に対する、自分の感情など深く考えようとしないで、出来るだけ正しくその義務を果たすように努力致しましょう。
わたしは兄から手紙を受け取りましたが、兄は義姉と同道でこちらへ来るように申しています。しかしこの悦びは長く続きますまい。何故と申して、兄はわたし達一同がどうして、何のためという事も分からずに巻き込まれている、あの戦争に参加するため、わたし達を棄てて行く事になっているのですから。事件の中心たる都ばかりでなく、普通、都の人達が想像するように、畑仕事や静寂に包まれたこの田舎でも戦争の余波は見えて、わたし達は重苦しい心持ちでそれを感じずにはいられません。父はもう行軍とか進軍とかそんな事ばかり申していますが、わたしには少しも分かりません。一昨日わたしは何時ものように村の通りを散歩していますと、ふと腸をかきむしられるような光景が目に入りました。それは召集されて軍隊へ送られる村の新兵の一隊でした。わたしは出発する人達の母、妻、子供達の悲惨な様子を見、送り送られる人達の慟哭の声を聞かねばなりませんでした。そこでわたしは心ならずも、こういう事を考えさせられました。屈辱の許容と博愛を教えて下すった神の子の掟を忘れて、人は互いに殺し合う技術の中に、主なる自分の価値を発見しているのでございます。
さらば、懐かしく優しき友よ。尊き神の子と聖母とが、清く力あるみ袖の下におん身を守り給わん事を。
マリヤ」
「Ah, vous expédiez le courrier, princesse(ああ、あなたも手紙をお出しになるんですね)。わたしもう自分のを出してしまいましたわ。可哀そうなお母さまに当てて書きましたの」何時も笑顔のブリエンヌがRを不明瞭に発音しながら、気持ちのいい潤いのある声で早口に言った。彼女が入って来ると共に、沈んだ物悲しげな凝集したマリヤの雰囲気の代わりに、気軽で快活な自足したような、まるで正反対の空気が部屋を占領したのである。
「Princesse, il faut que je vous prévienne(お嬢様、前もってお知らせして置きますが)」と彼女は声を低めつつ付け足した。「le prince a eu une altercation(公爵が大変お叱りになりましたの)」この altercation という語を、特に気取って発音しながら、自分で自分の発音に聞き惚れるのであった。「ミハイル・イワーヌイチをね。大層御機嫌が悪くって、怖い顔をしてらっしゃるのでございますよ。わたし前もってお知らせ申して置きますけれど、御存知ですか……」
「あら、あなた、お父様がどんな御機嫌でいらっしゃろうと、そんな事は決して言わないで下さいって、前からお願いしてあるじゃありませんか。わたし自分でお父さまの事をかれこれ言いませんし、また他の人がかれこれ言うのも望ましくないんですの」とマリヤは答えた。
マリヤは時計を眺めたが、ピアノの練習に使わねばならぬ時間を、五分ばかり過ごしてしまったのに気がついて、びっくりしたような顔をして長椅子室へ赴いた。かねて決まった一日の時間割によると、十二時から二時まで公爵は休息をし、マリヤはピアノを弾く事になっていたのである。