戦争と平和 第一編, レフ・トルストイ

九


ピエールが友の許(もと)を辞したのは、もう夜の一時過ぎであった。それは六月のペテルブルクによくある白夜であった。ピエールは真っ直ぐに家へ帰るつもりで辻馬車に乗った。けれども次第に家へ近付くにつれて、彼はこの夕方か朝に似た夜を、安らかに寝付く事の出来ないのをしみじみと感じた。がらんとした往来はずっと向こうの方まで見透された。今夜はアナトーリの所で例の歌留多(カード)の集まりがあって、それが済んだら通常、酒盛りが始まり、その後はピエールの好きな或る遊びで終わる事になっている。ピエールは道々この事を思い出した。

「クラーギンの所へ行ったら面白いだろうなあ」と彼は考えた。

しかしすぐに彼はアンドレイに立てた誓い――以後決してクラーギンの所へ行かぬという誓いを思い浮べた。が、普通ぐうたらといわれる人達に間々(まま)ある慣らいで、彼は自分に馴染みの深いああした放恣(ほうし)な生活を、もう一度だけ経験したいという欲求が堪え難くなって、とうとう出掛ける事に決心した。

するとすぐにこういう考えが浮んだ――アンドレイに誓った言葉などは何の意味も持っていない。何故なれば、未だアンドレイよりも先にアナトーリに今夜行こうと誓ったから……で、とうとう彼は考えた――もし明日にでも自分が死んでしまうか、さなくば潔白不潔白の詮索をする余裕の無いほど、異常な事件が自分の身に起こると仮定したら、ああいう誓いの言葉は皆、確(かく)とした意味を持たぬ、一種条件的なものになってしまうではないか。こうした風な推論はしばしばピエールの脳中に生じて、一切の決心や予想を形なしにしてしまうのであった。彼はクラーギンの所へ出掛けた。

アナトーリの住んでいる近衛騎兵連隊に近い、とある大きな家の車寄せに乗り付けると、彼は明るい階段を上って行って、開け放してある戸口へ入(はい)った。控室には誰もいなかった。ただあき壜やマントや上靴(オーバーシューズ)などが転っているばかり、酒の匂いがぷんと鼻をついて、遠い話し声や叫びが聞こえて来る。

勝負も晩餐も終ったが、客は未だ散らずにいた。ピエールはマントを脱ぎ捨てて、第一の部屋に足を踏み入れた。残肴の乱れている中で一人の従僕が、誰も見ていないと思って、飲みさしのコップを内緒で干している所であった。三つ目の部屋からどたばた騒ぐ音、笑い声、聞き覚えのある叫び、そして熊の唸る声などが聞こえる。八人ばかりの青年が開け放した窓の傍に、心配らしく集って居たが、三人の者は熊を相手に騒いでいた。一人が熊の鎖を取って引き回しながら、他(ほか)の者を脅しているのであった。

「俺はスチーヴンスに百ルーブリ賭ける!」と一人が怒鳴った。

「用心しろ、とても勝てないぞ!」と今一人が叫んだ。

「僕はドーロホフに賭ける!」とまた一人の者が怒鳴った。「おいクラーギン、審判しろよ」

「ようミーシュカ(熊の異名)を打っちゃってしまえ、今、賭けをやってるんだぜ」

「一息に飲(や)れよ、でないと敗けっちまうよ」とまた一人が怒鳴った。

「ヤーコフ、壜を持って来い、ヤーコフ!」と主人公自ら叫んだ。彼は背の高い美男子であったが、胸の真ん中を開けた薄い襯衣(シャツ)一枚きりで、群集の只中につっ立っていた。「諸君、待ち給え。これはペトルーシャ(ピョートル(フランス名:ピエール)の愛称)と言って、僕の親友だ」彼はピエールの方へ向いてこう言った。

今一人背は余り高くないが、うすい空色の目をした男が、これらの酔っ払いらしい声の中に交って、ただ一人驚く程しっかりした調子で窓の傍から叫んだ。「ここへ来てよく賭けを見てくんな!」これはドーロホフというセミョーノフスキイ連隊の士官で、アナトーリと一緒に住んでいる、有名な賭博打ちの暴れ者であった。

「何にも分からないね。一体どうしたんだい?」

「待ち給え。この男は酔ってないぞ。おい壜を寄越せ」アナトーリはこう言いながら卓からコップを取ってピエールに近付いた。

「まず第一に飲めよ」

ピエールは一杯一杯とコップを干してゆきながら、再び窓の傍に集った酔客の群を額越しに眺め、その話し声に耳を傾けた。アナトーリは彼に酒を注ぎながら、ドーロホフがちょうどこの場に居合わせた英国水兵のスチーヴンスと、賭けを始めた次第を物語った。それはドーロホフが三階の窓に、足を外側へ垂して腰掛けたまま、ラム酒を一壜飲み干そうというのである。

「さあ、すっかり飲んでしまえ!」アナトーリはピエールに最後の一杯を勧めながら言った。「さもないと放さないぞ!」

「いやだ、もう欲しくない」アナトーリを突き放しながらこう言って、ピエールは窓の傍へ寄った。

ドーロホフはイギリス人の手を捉えて、主にアナトーリとピエールに聞こえるように、はっきりと一語一語分けながら、賭けの条件を説明していた。

ドーロホフは髪の渦を巻いた、うすい空色の目を持った中背の青年であった。年は二十五、一般歩兵将校の習わしで髭を立てて居なかったので、彼の顔の中で一番見事な点――口がすっかり見えていた。この口の線は著しく繊細に屈曲していた。上唇の真ん中が鋭い楔形をなして、ぐっと下唇に食い込み、両隅には何時も一つずつ何かえくぼのような物が刻まれていた。こうしたすべてのものが強い、傲慢な、そして怜悧そうな眼付きと一緒になって、気を付けてこの顔を見ずに居られないような印象を与えるのであった。ドーロホフは何の縁戚もない、あまり金を持たぬ男であった。けれどアナトーリが年(ねん)に幾万という金を使うにも拘わらず、彼はアナトーリと同居して、アナトーリその他の知人が、彼をアナトーリ以上に尊敬する程の地位を作ったのである。ドーロホフはすべての勝負に出掛けては、ほとんど常に勝ちを占めていた。彼はどんなに飲んでも、決して頭脳の明晰を失う事がなかった。クラーギンもドーロホフも、当時ペテルブルクの乱暴者、道楽者仲間で名物男であった。

ラムの壜は運ばれた。外へ突き出た窓の斜面へ坐るのに邪魔な窓枠は、二人の従僕が毀して外しに掛かった。彼らは周りの人々が横口を出したり、怒鳴ったりするので、恐ろしくせかせかして臆気(おじけ)づいた様子であった。

アナトーリは持ち前の勝ち誇ったような顔をして窓へ近寄った。彼は何か壊して見たくなったので、二人の従僕を押し退けて窓枠を引っ張ったが、それは彼の意に従わなかった。彼は硝子(ガラス)を打ち破った。

「おい君やって見ないか、力持ち」彼はピエールにこう言った。

ピエールが横木に手を掛けてうんと引くと、樫の窓枠はめきめきと音を立てて曲がってしまった。

「みんな引っ剥(ぺが)してくれ。そうしないと、手でも掛けるように思われるから」とドーロホフが言った。

「イギリス人が威張ってるぜ……え?……いいだろう?」とアナトーリが言った。

「いいなあ」ピエールはドーロホフを見ながらこう言った。こっちは両手にラムの壜を持って窓の傍に近寄った、そこからは空の明かりと、朝焼けの一緒になった光が見えた。

ドーロホフはラムの壜を手にして窓の上に飛び上った。「聞き給え!」と彼は窓仕切りの上に立って、部屋の方へ振り向きながら叫んだ。一同はしんとした。

「俺は賭けをする(彼はイギリス人に分かるようにフランス語で言った。が、この言葉はたいして上手でなかった)。俺は五十インペリアール(ロシアの十五ルーブリ金貨を指す)で賭けをする。お望みなら百にしようか」と彼はイギリス人に向かってこう付け足した。

「いや、五十だ」とイギリス人は答えた。

「宜しい、五十インペリアール――で俺は口から壜を放さずにラム酒を飲んでしまう。窓の向こう――ほらここんところへ坐って(と彼は屈み込んで、穴の向こうに突き出た壁の斜面を指さした)、そして何にも摑まらないで飲むんだ……そうだね?」

「大いにそうだ」とイギリス人が言った。

アナトーリはイギリス人の方へ向いて、その燕尾服のボタンを摑まえたまま、上の方から見下すようにしながら(イギリス人は背が低かった)、英語で賭けの条件を繰り返し始めた。

「待てよ、」ドーロホフは自分の方へ注意を引くために、壜で窓を叩きながら怒鳴った。「待て、クラーギン、聞き給え。もし誰か俺と同じ事をする者があったら、俺は百インペリアール出す。分かったか?」

イギリス人は頷いたが、この新しい賭けに賛成するのかしないのか、一向分からなかった。アナトーリは何時までもイギリス人を放さなかった。こっちはしきりに頷いて、すっかり呑み込んだという事を知らせているのに、しつこくドーロホフの言葉を英語に訳して聞かせるのであった。この晩、歌留多(カード)に負けた近衛の軽騎兵――痩せた若い青年が窓に攀(よ)じ上って、体を突き出しながら下を眺めた。

「う!……う!……う!……」彼は歩道の石だたみを見下ろしながらこう言った。

「気を付けえ!」と叫んでドーロホフはこの軽騎兵を窓から突き下ろした。こっちは拍車をからませて無様な恰好をしながら、部屋へ飛び下りた。

取る時都合のいいように壜を窓仕切りへ置いて、ドーロホフは用心深くそっと窓の向こうへ下り始めた。足をぶら下げて両手で窓の端を支えながら、彼は加減を計って位置を定め、ちょっと左右に体を動かしてみて壜を取った。もうすっかり辺りが明るくなっているのに、アナトーリは蠟燭を二本持って来て、窓仕切りの上に立てた。白い襯衣(シャツ)を着たドーロホフの背中と、その渦を巻いた頭とが、両側から照らし出された。一同は窓の傍に群れをなした。イギリス人が一番前に立っていた。ピエールはただほほ笑むのみで何も言わなかった。一座の中で一番年取った一人が怯(おび)えたような、同時に腹立たしげな顔付きで前の方へ進み出て、ドーロホフの襯衣(シャツ)を捉まえようとした。

「諸君、馬鹿馬鹿しいじゃないか。ドーロホフは落ちて死んじまうぜ」この幾分、分別のありそうな男が言った。

アナトーリは彼を引き留めた。

「触っちゃいけない、君は却ってドーロホフをびっくりさせて、あれを殺すようなもんだぞ。うむ?……そしたらどうする?……うむ?」

ドーロホフはまた両手を支えて居住まいを正しながら振り向いた。

「もし誰かまだ俺の傍へ寄る奴があったら、」と食いしばった薄い唇の間から、ぽつりぽつりと言葉を発しつつ、彼はこう言った。「俺は其奴をここから突き落とすぞ。さあ!……」

「さあ!」と言って彼はまた向き直り、両手を下げて壜を取って、口のほとりへ持って行った。そして頭を後ろへ反らしながら、重心を取るために空いた手を上へ差し上げた。硝子(ガラス)のかけらを拾いに掛かった一人の従僕は、腰を屈めたまま立ち止まって、ドーロホフの背中と窓から眼を放さなかった。アナトーリは目を睜(みは)って棒立ちになっていた。イギリス人は唇を突き出しながら横の方から眺めていた。この賭けを止めようと試みた男は部屋の隅へ走って行って、壁の方へ顔を向けたまま、長椅子の上に横になってしまった。ピエールは手で顔を隠した。弱々しい微笑が置き忘られたように顔の上に残っていたが、それはただ恐怖を表すのみであった。一同静まり返っていた。ピエールが手を目から放して見ると、ドーロホフは前と同じ姿勢で坐っていたが、ただ頭が後の方へ反り返って、渦巻いた髪の毛が襯衣(シャツ)の襟に触るくらいになっていた。そして壜を持った手が次第に高く上って震えている所は、如何にも苦しい努力をしているようであった。壜の酒は大分減って来たらしく、段々と上の方にあがって、頭を後ろへ押し曲げた。

「何だってこんなに長いのだろう?」とピエールは考えた。彼にはもう半時間以上も経ったように思われた。不意にドーロホフは背中をちょっと動かした。そしてその手が神経的に震え出した。これだけの微動も、斜面に坐っている体全体を動かすのに十分であった。彼の体はずり下って、手と頭は激しい努力をしながら、段々ひどく慄え出した。片々の手は上へあがって窓仕切りを捉まえようとしたが、また下へおりた。ピエールは再び目を閉じて、もう決して二度と開けまいと誓った。突然彼は周囲がざわめき出したのを感じた。ちらと目を開けて見ると、ドーロホフは窓仕切りに立っていたが、その顔は青ざめていたけれど愉快そうであった。

「空(から)だよ!」と彼は壜をイギリス人に放り出した。こっちは巧みにそれを捕まえた。ドーロホフは窓から飛び下りたが、その口から激しいラムの匂いがした。

「立派立派! 偉いぞ! 成程、大した賭けだ! こん畜生!」などなどいう叫びが方々から聞こえた。

イギリス人は金入を取り出して金を数え始めた。ドーロホフは眉を顰めて黙っていた。ピエールは窓へ飛び上って、「諸君! 誰か僕と賭けをするものはないか? 僕もあれと同じ事をするぞ」と不意に彼は叫んだ。

「いや僕、賭けはいらない、そうだ。壜を取って来るように吩咐(いいつ)けてくれ。僕はやる……吩咐(いいつ)けてくれ」

「やらせろ! やらせろ!」とドーロホフは微笑を含みながら言った。

「君、何を言うんだ? 気でも違ったのか? 誰が君にそんな事をさせるものか。君は階子段(はしごだん)の上でも眩暈(めまい)がするんじゃないか」と四方から言い出した。

「僕飲んでしまう、ラムの壜を寄越せ!」ピエールは酔っ払いらしい断固たる手付きで、卓(テーブル)を叩きながらこう嘆いて、窓の外へ這い出した。

人々は彼の手を摑まえたが、非常な腕力を持っている彼は、自分の傍へ近付くものを遠くまで突き飛ばした。

「駄目だ、それじゃ決してあの男をへこませる事は出来ない」とアナトーリが言った。「待て、僕が騙してやるから。おい、僕が君の賭けの相手になる。しかしそれは明日だ。今夜はこれから皆で一緒に***へ行こうじゃないか」

「行こう!」とピエールは怒鳴った。「行こう!……そしてミーシュカも連れて行くんだ」

こう言って彼は熊を捕まえて、抱いたり抬(もた)げたりしてから、熊と一緒に部屋の中をくるくる回り初めた。