戦争と平和 第十一編, レフ・トルストイ

二十八


ピエールは例の計画を遂行するまで、自分の身分もフランス語の知識も、人に知らさない方がよいと腹の中で決めていたので、フランス人が入って来るとすぐ身を隠そうと思いながら、半ば開かれた廊下の戸口に立っていた。しかしフランス人が入って来ても、ピエールは矢張り戸の傍を離れなかった。押さえ難い好奇の念が彼を押しとどめたのである。

フランス人は二人づれだった。一人は将校で、背の高い活発な美しい男であったが、もう一人の方は見たところ兵士か従卒らしく、背のずんぐり低い、痩せて日に焼けた男で、頬のこけた顔に鈍い表情を浮べていた。将校は杖に縋(すが)って跛(びっこ)をひきながら、先頭に立っていた。幾足か踏み込んで見て、これは中々いい家だと、独りぎめに決めたらしく立ち止まった。そして戸口に立っている兵士らの方を振り返って、上官らしい大きな声で、馬を入れろ、と怒鳴った。この仕事が済むと、将校は気取った様子で、片肘を高く上げながら口髭を捻ると、ちょっと片手で帽子に触った。

「Bonjour la compagnie!(皆さん、こんにちは!)」にこにこ辺りを見回しながら、彼は快活にこう言った。

誰も何とも答えなかった。

「Vous êtes le bourgeois?(あなたが主人ですか?)」と将校はゲラーシムに言った。

ゲラーシムは怯えたように物問いげな眼付きで将校を見やった。

「Quartire, quartire, logement(宿舎だ、宿舎だ、宿だ)」将校は幾分遜(へりくだ)ったような人の好い微笑を浮べて、背の低い老人を上から見下ろしながらこう言った。「フランス人は可愛い坊っちゃんだよ、お爺さん。どうしてどうして、決して喧嘩なんかしやしないよ」びっくりして押し黙っているゲラーシムの肩を叩きながら、彼はこう言い足した。

「A ça!(どうだね!)一体ここにはフランス語を話せる人が誰もいないのかね?」彼はこう言い足して辺りを見回す拍子に、ピエールと目を見合わせた。ピエールは戸口から身を退いた。

将校はまたゲラーシムの方へ向いた。彼はゲラーシムに部屋を見せろと要求した。

「主人いない――分からない……わたしあなたの……」とゲラーシムはことさら不規則な言い方をして、自分の言葉を分かりよくしようと努めた。

フランスの将校はにやにや笑いながら、ゲラーシムの鼻先で両手を拡げて、こっちもお前の言うことが分からない、と言う意味を悟らせようとした。そして跛(びっこ)をひきながら、ピエールの立っている戸口へ歩み寄った。ピエールはそこを離れて身を隠そうとしたが、ちょうどこの時、台所の戸が開いて、その中からマカール・アレクセーヴィッチが、手に拳銃を持って顔を覗けるのが目に入った。マカール・アレクセーヴィッチは、狂人独特なずるい目付きでフランス人を一瞥すると、拳銃(ピストル)を持ち上げてじっと狙いをつけた。

「さあ、衝突(アボルダージ)だ……」酔漢は拳銃の引金を押さえようとしながらこう叫んだ。フランス将校は声のする方へ振り向いた。と、その瞬間、ピエールは酔漢に飛びかかった。ピエールが拳銃を摑んで持ち上げた時、マカール・アレクセーヴィッチの指はとうとう引金を探り当てた。耳を聾するような発射の音が響き渡り、火薬の煙が一同を包んだ。フランス人は真青になって戸の方へ飛びしさった。

フランス語の知識を見せまいと言う決心も忘れて、ピエールは拳銃をもぎ取って投げ棄てると、いきなり将校の傍へ駆け寄って、フランス語で話しかけた。

「Vous n'êtes pas blessé?(あなた怪我はありませんでしたか?)」と彼は言った。

「Je crois que non(いや何ともないようです)」将校は自分の体に触って見ながらこう答えた。「まあ、今度はいい具合に難をのがれましたよ」彼は落ちた壁の漆喰を指さしながらこう言い添えた。「一体あれは何者です?」将校はきっとピエールを見つめながら訊ねた。

「Ah, je suis vraiment au désespoir de ce qui vient d'arriver(わたしはこの出来事を衷心から遺憾に思います)」すっかり自分の役回りを忘れて、ピエールは早口にこう言った。「あれは不幸せな気ちがいなんです。自分で自分のした事が分からないのです」

将校はマカール・アレクセーヴィッチに近づいて、その襟髪を摑んだ。

マカール・アレクセーヴィッチは唇を開けたまま、まるで寝てでもいるように、壁に凭(よ)りかかってふらふら体を揺すっていた。

「Brigand, tu me la payeras!(強盗奴、今に思い知らせてやるぞ!)」と将校は手を放しながら言った。「我々は戦勝後、慈悲を旨としているのだが、しかし諜叛人を容赦する訳に行かん」顔に陰鬱な威厳を浮べて、美しく力強い身振りをしながら、彼はこう付け加えた。

ピエールはなおもフランス語で将校に向かって、この酔っ払った気ちがいの責任を問わないように頼んだ。フランス人は陰鬱な表情を変えないで、無言のままじっと聞いていたが、突然にこにこしながらピエールの方へ向いた。彼は幾秒かの間、黙ってピエールを見詰めていた。彼の美しい顔は悲劇的な優しい表情を帯びて来た。彼は手を差しのべた。

「Vous m'avez sauvé la vie! Vous êtes français(あなたはわたしの命を助けて下すった! あなたはきっとフランス人でしょう)」

フランス人にとってこの断定は疑う余地もない事であった。偉大な行為をなし得る者はフランス人よりほかにない。しかも彼、すなわち第十三軽兵連隊付大尉たる、ムッシュ・ラムバールの命を助けると言うことは、疑いもなく最も偉大なる行為であった。

しかしこの断定と、この断定に基づく将校の信念が、どれほど疑う余地のないものであったとしても、ピエールは将校の夢を醒まさなければならないと思った。

「Je suis russe(わたしはロシア人です)」とピエールは早口に言った。

「チェッ、チェッ、チェッ à d'autres(そんなことは他の者に言って下さい)」フランス人は自分の鼻先で指を振りながら、微笑を浮べてこう言った。「今にすぐ一部始終を白状してしまいますよ。国の人に会って非常に愉快です」と彼は言った。「ところで、この男をどう処分したものでしょう?」もう兄弟か何ぞのような調子で、彼はピエールに向いてこう言い足した。

たとえピエールがフランス人でないとしても、一旦この世界最上の名称を受けたら、それを辞退することは出来ない筈だ、こう言う心持ちがフランス将校の表情にも、語調にも現れていた。最後の問いに対して、ピエールは更にマカール・アレクセーヴィッチの身の上を話した。ちょうど彼らの来るすこし前に、この酔っ払った気ちがいが、装填した拳銃を盗み出して、それを取り返す暇がなかったのだ、という事の次第を説明して、彼の行為を見逃して欲しいと頼んだ。

フランス人は胸を突き出して、王者のような手つきをした。

「あなたはわたしの命を助けて下すった。あなたはフランス人です。じゃ、あの男を赦してくれと言われるんですね? 承知しました。この男をつれて行け」自分の命を助けた功によって、フランス人に昇進させたピエールの腕を組みながら、フランス将校は早口に元気よくこう言った。そして一緒に家の中へ入った。

庭にいた兵士らは、銃撃を聞きつけると玄関へ入って、何時でも犯人を罰して見せるぞと言う意気込みを示しながら、何事が起こったかのと訊ねた。しかし将校は厳しく一同を制した。

「On vous demandera quand on aura besoin de vous(用がある時にはこっちから呼ぶよ)」と彼は言った。

兵士らは出て行った。もう今の間に台所へ行って見た従卒は、このとき将校の傍へ近づいた。

「大尉殿、ここの台所には、肉汁(スープ)と羊の焼肉があります」と彼は言った。「持って参りましょうか?」

「Oui, et le vin(ああ、それから酒も)」と大尉は答えた。