戦争と平和 第十二編, レフ・トルストイ

十二


死刑執行後、ピエールは他の被告達から引き離されて、荒れ果てて汚くなった会堂の中に、たった一人取り残された。

日暮れ前に衛兵の下士が、二人の兵卒をつれて会堂へ来た。そしてピエールに向かって、お前はいよいよ無罪になったから、今度は俘虜を収容するバラックへやられるのだと言い渡した。何を言われたのやら分からずに、ピエールは立ち上がって兵士らと一緒に出かけた。野原の上の方に、焼け板や、焼け丸太や、削ぎ板などで幾つかのバラックが建ててあった。彼はその中の一つへ入れられた。種々雑多な人が二十人ばかり、暗やみの中でピエールを取り巻いた。ピエールはそれらの人々を見やったが、一体どこの何者なのか、何のために来たのか、何を自分に求めているのか、そんなことはまるで分からなかった。彼は皆の話しかける言葉を聞いたが、その言葉から結論や説明を見出そうとしなかった。言葉の意味が分からなかったのである。彼は訊かれる事に返事をしたが、聞き手がどういう人間で、自分の答えがどう解釈されるだろうか、というようなことは考えても見なかった。彼は人々の顔や姿を眺めていたが、それがみんな同じくらい無意味なものに思われた。

自ら望まない人々によって遂行された、あの恐ろしい殺人を見た瞬間から、ピエールの心中において一切のものを支え、それに生命を与えていたバネが急に引き抜かれて、すべてが一つの無意味な塵芥(ちりあくた)の塊に化したように思われた。彼自身、明瞭に意識こそしなかったけれど、この世界の安寧、人間および自己の魂、神――こういうものに対する信仰が、彼の心中から消え失せたのである。こう言う状態は前にも経験したことがあるが、今ほど強く感じた事はかつてなかった。以前こういった種類の疑惑に襲われた時、この疑惑の源をなしていたのは彼自身の罪であった。そう言う時、彼はその絶望や疑惑の救いが、自分自身の内部にあることを心の奥底で感じていた。けれど今は世界が眼の前で崩壊して、ただ無意味な廃墟が残っているのみに過ぎない。しかもその原因は自分の罪でないと感じた。そしてもう生に対する信仰を回復することは、自分の力に及ばないと直覚したのである。

彼の周りには大勢の人が暗やみの中で立っていた。見受けたところ、彼らは何かひどくピエールに興味を感じているらしかった。何やら話したり訊いたりした挙句、一同は彼をどこかへつれて行った。こうして彼はとうとうバラックの一隅に立って、大勢の人と並んでいる自分自身を発見した。人々は四方八方から話しかけたり、笑ったりしていた。

「ところでよ、兄弟……あのプリンスさ、そら例の……」バラックの向こう側の隅から誰かの声が、『そら例の』と言う言葉に特別力を入れながらこう言った。

ピエールは壁に近い藁の上に、黙ってじっと坐ったまま、眼を開けたり閉じたりしていた。けれど彼が眼を閉じるが早いか、あの恐ろしい――殊にその単純な表情のために恐ろしく思われる職工の顔と、それからあの不安な色のために尚一層恐ろしい心ならぬ殺人者達の顔が、眼前に浮んでくるのであった。彼は再び眼を開けて、闇をすかして無意味に辺りを見回した。

彼のすぐ傍に一人の小柄な男が、背中を屈めて坐っていた。体を動かす度に放散する強い汗の匂いで、ピエールは始めからその男の存在に気がついていた。男は暗闇の中で自分の足をどうかしていた。ピエールは顔こそ見なかったけれど、その男が始終自分を眺めているような気がした。闇の中をよく見透しているうちに、ピエールは男が靴を脱いでいることに気がついた。やがて彼はその男のやり方に興味をいだき始めた。

男は一方の足を縛った紐を解くと、その紐を丁寧にきちんと巻いて、ちょいちょいピエールを眺めながら、すぐ今一方の足に取り掛かった。まだ一方の手は解いた紐を掛けているのに、もう一方の手は別の足の紐を解き始めるのであった。こうして少しもぐずぐずせずに、丸みを帯びたような、手順のいい動作を次々と続けながら、規則正しく靴をぬいでしまうと、頭の上に打ちつけてある木釘に靴を掛け、さて今度は小刀(ナイフ)を取り出して何か切った後、小刀を畳んで枕の下へ入れた。それから坐り具合を直して、立てた膝を両手で抱きながら、ピエールをまともにじっと見詰めた。この手順のいい運動にも、片隅に設けた具合のよさそうな世帯振りにも、またその男の匂いにさえも、何かしら気持ちのいい安心させるような、丸みを帯びたある物がピエールに感じられた。で、彼は眼を放さずにその男を観察していた。

「ねえ、旦那、お前さんは随分不自由な目に合いなさったろうね? え?」突然、小柄な男がこう言った。

その歌うような声の中には、何とも言えない愛撫と淳朴の表情が響いていたので、ピエールは返事をしようとしたけれど、顎が慄えて涙がこみ上げるのを感じた。小柄な男はその瞬間、ピエールに困惑を現す余裕を与えないで、依然たる気持ちのいい声で言い出した。

「なあに、旦那、くよくよなさるこたあ有りませんよ」例の歌うような、優しい、愛撫のこもった声で、彼はこう言った。それは年取ったロシアの農婦によく見受けられる調子であった。「お前さん、くよくよしなさんな。苦労は一時、暮らしは一生だからなあ! え、旦那、そうじゃないかね。現にわしもここにこうして暮らしているが、お蔭で何も嫌な目には遇わないよ。おなじ人間でも、悪い人も善い人もあるからね」と彼は言った。そしてこんな事を言っているうちに、しなやかな身振りで膝の上へ屈みながら起き上がると、咳をしいしいどこかへ行った。

「やあ、こん畜生、やって来たな!」バラックの向こうの端で、例の優しい声でこう言うのが、ピエールの耳に入った。「来たな、畜生、よく憶えてるなあ! よしよし、もう沢山だよ」

兵卒は飛びつく小犬を押しのけながら、また自分の場所へ帰って腰を下ろした。手には何か布片(きれ)に包んだ物をもっていた。

「さあ、旦那、一つ食べてご覧なさいよ」彼はまた以前の恭しい語調に帰りながら包みを開けて、幾つかの焼いた馬鈴薯をピエールに差し出した。「お昼には汁があったけれど、この馬鈴薯も飛び切り上等ですよ!」

ピエールは一日ものを食べなかったので、馬鈴薯の匂いが並はずれてうまそうに思われた。彼は兵卒に礼を言って食べにかかった。

「え、そのまま食うのかね?」兵卒はにこにこしながらこう言って、馬鈴薯を一つ取った。「お前さん、こうするもんだよ」

彼はまた折り込みの小刀(ナイフ)を出して、掌の上で馬鈴薯をちょうどま二つに切り、布片(きれ)に包んだ塩を振りかけてピエールに薦めた。

「飛び切り上等の馬鈴薯だ」と彼は繰り返した。「お前さん、こうやって食べてみなさい」

ピエールは今までこれほど甘いものを、食べたことがないように思われた。

「なに、僕はどうなったって平気だよ」とピエールは言った。「だけれど、何のためにあの不幸せな人達を射ち殺したんだろう!……一番後のはまだ二十歳そこそこだった」

「ちぇ……ちぇ……」と小柄な男は言った。「罪だ、全く罪だ……」彼は急いで付け足した。それはちょうど言葉がいつも口の中で待っていて、ひょいひょい飛び出すような具合であった。「どうして、旦那、お前さんはモスクワに残っていなさったんだね?」

「奴らがこんなに早く来ようと思わなかったのさ。僕は偶然残ったんだよ」とピエールは言った。

「だが、旦那、どうして捕まりなすったね、家でかね?」

「いや、火事を見に行って、そこで捕まったんだ。そして放(つ)け火の疑いで裁判されたのさ」

「裁きがあれば嘘がある、だ」と小柄な男が口を挟んだ。

「だが、お前は前からここにいるのかね?」最後の馬鈴薯を食べ終りながら、ピエールはこう訊いた。

「わしかね、日曜日にモスクワの病院で捕まったんだよ」

「お前は何者だね、兵隊かね?」

「アブシェロン連隊の兵隊さ。わしは熱病で死にかかっていたのに、一向何の話もなかったもんだから、みんなで二十人ばかり臥せっていたけれど、こんな事とは夢にも思いがけなかったよ」

「どうだね、ここにいて淋しくないかね?」とピエールは訊いた。

「旦那、そりゃ淋しくなくって何とするもんだね。時にわしの名はプラトンで、あだ名はカラターエフと言うんだよ」と彼は付け足した。それはピエールが自分を呼び掛けるとき、楽なようにと言う思い遣りらしかった。「隊では鷹々と言われていたよ。旦那、どうして淋しくねえで済むもんかね! モスクワはロシアの町の母だからなあ、この有様を見てどうして心細く思わないで居られよう。だけど、虫は玉菜を噛っても、食べ切れないうちに死んでしまうってな、年寄り達はそういう風に言ったものさ」と彼は早口に言い足した。

「え、何と言ったい?」ピエールは訊いた。

「わしかね?」とカラターエフは問い返した。「結局人間の知恵でなしに、神様の裁きで決まるものだ、とこう言ったんだよ」前に言ったことを繰り返しているつもりで、彼はこう言った。そしてすぐ語り続けた。「どうだね、旦那、お前さん先祖伝来の土地をお持ちだろうね? 家屋敷もあるだろうね? それじゃ、なみなみついだ盃だ! かみさんは? 年寄りたちは、ふた親は息災かね?」と彼は訊いた。

ピエールは闇の中でよく見えなかったけれど、兵卒がこう訊いた時、愛想のいい控え目な微笑に唇を皺めたのを感じた。彼はピエールが両親、殊に母を持たないのに落胆したらしかった。

「女房は相談相手、姑は話相手というけれど、生みの母親ほどいいものはないでなあ!」と彼は言った。「じゃ子供衆は?」彼は続けて訊いた。

ないと言うピエールの答えは、再び彼を落胆させたようであったが、彼は急いで言い添えた。

「なにまあ、若い身そらだから神様が授けて下さるよ。ただ仲よく暮らしてさえいればな……」

「だが、今となってはどうだって同じ事だ」ピエールは我ともなしにこう言った。

「まあ、お前さん何を言うんだね」とプラトンは言い返した。「乞食袋と牢屋とは、決して嫌がるもんでないよ」

彼はちょっと居住まいを直して、長物語でもしようとする人のように咳払いをした。

「わしもね、お前さん、家では楽に暮らしておったもんだ」と彼は言い出した。「地主様の身上(しんしょう)と言ったら豊かなもので、土地も沢山あったから、百姓達もみんな暢気に暮らしていたよ。わしの家もお蔭で何ひとつ不自由しなかった。親父さんはまだ自分で家の者をつれて草刈りに出るという風で、まあ、結構に暮らしておった。本当のキリスト信者らしい人間だったよ。ところが……」

それからプラトン・カラターエフは、人の森へ木を伐りに行って、番人に捉まって叩かれた顛末から、裁判沙汰になった挙句軍隊へ遣られた、一部始終の長物語をした。

「ところで、旦那」微笑のために調子の変わった声で、彼はこう言った。「初めはそれを災難のように思っていたが、どうして、却って幸せだったよ! もしわしが悪い事をしなかったら、弟が行かなけりゃならなかったんだからね。ところが、弟には小さいのが五人からあるのに、わしには女房一人しかない。もっとも女の子が一人あったけれど、わしが兵隊へ出る前に、神様の傍へお召しになったよ。一度賜暇(しか)で家へ帰ったことがあるがね、お前さん、見ると家じゃ前より楽に暮らしているじゃないか。屋敷は畜類で一杯になっているし、家には女達がいて、兄弟二人は稼ぎに出ているという有様だ。家にいるのは一番下のミハイラだけだったが、親父さんが言うには、『わしの目から見りゃどの子もみんな同じ事だ、どの指を咬まれてもみんな痛い。もしあの時プラトンが取られなかったら、ミハイラが行かなけりゃならなかったんだからのう』それからわし達をみんな呼び集めてね――まあ、どうだろう――聖像の前へ立たせるじゃないか。そして言うことには、『ミハイラ、ここへ来て、あれの足もとに辞儀をするがいい。嫁女、お前も辞儀するんだ。孫達も辞儀をしなさい。分かったか?』ってね。こう言う訳なんだよ、お前さん。運命の神様は罰を受ける人を捜してくれる。それだのに人間はやれあれが悪いの、やれこれが不都合だのと理屈ばかり言ってるんだからね。人間の運なんてものは、お前さん、網の中に入った水のようなもので、引いてる時には膨れるが、上げてしまうと何もありやしない、まあこんなもんだよ」

プラトンは藁の上で坐り直した。

しばらく無言の後、プラトンは立ち上がった。

「どうだね、大方もう眠いだろうね?」と彼は言った。そして急いで十字を切りながら、お祈りを唱え出した。

「主イエス・キリスト、聖者ニコーラ、フローラ、ラヴラ(正教の聖人。ニコーラは子供や貧者の守護聖人。フローラ、ラヴラはローマ時代の石工の兄弟で殉教者、馬の守護聖人とされる。いずれもロシアの農民の間でよく信仰されていた。それぞれ聖ニコラス、聖フロルス、聖ラウルスとも呼ばれる。)! 主イエス・キリスト、聖者ニコーラ、フローラ、ラヴラ! 主イエス・キリスト、われ等を憐れみ、われ等を救い給え!」とこう結んで、彼は地面に頭のつくほど拝をした。それから立ち上がって太息(といき)をつきながら、自分の藁の上へ坐った。「さあ、これでよしと、神さま、石ころのように寝て、パンのように起こして下されまし」と彼は言って、外套を引っかぶりながら横になった。

「今お前が唱えた祈祷は何だね?」とピエールは訊いた。

「あ?」とプラトンは言った(彼はもう眠りかけていた)。「何を唱えたかって? 神様にお祈りをしたんだよ。一体お前さんはお祈りをしないのかね?」

「いや、僕もお祈りはするがね」とピエールは言った。「お前何と言ったんだね、フローラ、ラヴラだって?」

「だってそうじゃないかね?」とプラトンは早口に答えた。「馬の祭日だもの。畜類だって可哀がってやらにゃならないからね」とカラターエフは言った。「やあ、畜生、丸くなってやがるな。この犬ころめ、いい気持ちに温まってやがらあ」彼は足もとに寝ている犬に触ってこう言ったが、またごろりと寝返りしてすぐに寝入ってしまった。

外ではどこか遠くで泣いたり叫んだりする声が聞こえた。バラックの隙間からは火が見えていた。けれど中は静かで暗かった。ピエールは長いあいだ寝付くことが出来ないで、傍に臥せっているプラトンの静かないびきに聞き入りながら、闇の中で眼を開けたまま、依然として元の場所に横たわっていた。そして一旦彼の心中で破壊された世界が、今また新しい美に飾られながら、何かしら新しい、確乎たる基礎の上に築き上げられるような気持ちがした。