ナターシャが慣れた手付きでアンドレイ公爵の病室の戸を開けて、公爵令嬢を先に通した時、マリヤはもう喉まですすり泣きが込み上げているのを感じた。どんなに落ち着こうと心構えをしても骨を折っても、涙なしには兄を見られないことが分かっていた。
二日前にあれが始まったと言うナターシャの言葉が何を意味しているのか、マリヤは合点が行った。その言葉は、アンドレイ公爵の気持ちがにわかに和らいだ事を意味していた。この心の和らぎと感激は死の前兆なのである。彼女は戸口に近づきながら想像の中で、もうアンドリューシャの顔を思い浮べていた。それは彼女が子供の時に見なれた、優しくつつましい、感激に充ちた顔であった。こう言う顔つきは滅多に見ることが出来なかっただけに、一層強くマリヤに働き掛けるのであった。兄は自分に向かって、ちょうど、父が臨終に言ったような、静かな優しい言葉で話しかけるに違いない、すると自分は堪らなくなって、兄の上へ泣き伏すに相違ない、とこうマリヤは覚悟していた。けれどそれは遅かれ早かれ起るべき事である。彼女は部屋の中へ入った。彼女が近視の眼で段々はっきりとアンドレイの姿を見分け、彼の輪郭を探し出すに従って、すすり泣きはいよいよ近く彼女の喉へ込み上げて来た。とうとう彼女は兄の顔を認めて、眼と眼を見合わせた。
彼は幾つも枕をまわりに積んで、栗鼠皮の寛衣にくるまったまま、長椅子の上に横たわっていた。痩せ衰えた蒼い顔をしていた。透き通るほど白い痩せ細った片手に手巾を持ち、今一方の手では静かに指を動かしながら、伸びた細い口髭をいじっていた。彼の眼は入って来る人達を見詰めていた。
マリヤは兄の顔を見て、眼と眼を見合わせると、不意にその歩調を緩めた。そして涙が急に乾いて、すすり泣きが止まったように感じられた。兄の顔色と眼つきを見ると、彼女はにわかに怖気づいて、何だか自分が悪いことでもしているような気がした。
『一体どんな悪い事をしたのだろう?』と彼女は自問した。『それはお前が生きていて、生きた者のことを考えているからだ。まあ、おれを見ろ……』とアンドレイの厳つい冷ややかな眼が答えた。
彼がおもむろに妹とナターシャとを見やった時、内から外を見るのでなしに、自分の内部ばかり見詰めているような深い眼の中には、ほとんど敵意に近い心持ちが現れていた。
公爵とマリヤは何時もの習慣で、互いに手を接吻し合った。
「ご機嫌よう、マリイ、よく無事に来られたね?」その眼付きと同じように静かな冷たい声で、彼はこう言った。
もし彼が命懸けの甲高い声で叫んだとしても、この声ほどマリヤの心を寒くはしなかったであろう。
「ニコーレンカもつれて来たかね?」彼は矢張り落ち着いた静かな調子でこう言ったが、これだけ思い出すのにさも骨が折れるらしかった。
「いま兄さんの容態はどんなですの?」自分で自分の言葉に驚きながらマリヤはこう言った。
「それは、お前、医者に訊かなけりゃ分からないよ」と彼は言った。そして愛想よくしようと努力しているらしく、ただ口先だけで(彼は自分の言うことを少しも考えていないらしい)こう言った。
「Merci, chère amie, d'être venue(有難うお前、よく来てくれたね)」
マリヤはその手を握りしめた。彼は妹の握手のために微かに顔を顰めた。そして黙っていた。彼女は何と言っていいか分からなかった。彼女はこの二日の間に兄の身に起こったことを悟った。彼の言葉にも、言葉の調子にも、殊にその眼付きにも――冷淡な、ほとんど敵意を抱いているような眼つきにも――生きた人間にとって恐ろしい、この世のすべてから隔離してしまったような心持ちが感じられた。見受けたところ、彼はすべての生ある物を理解するのに骨が折れるらしかった。しかしそれと同時に、彼が生あるものを解し得ないのは、理解の力を失ったからでなく、生きた人達が理解してもいないし、また理解することも出来ない或るものを理解して、それに全幅を領せられてしまったためだ、という事が感じられた。
「そう、実に不思議な運命の引き合わせだったよ!」沈黙を破ってナターシャを指さしながら、彼はこう言った。「この人が始終わたしの看病をしてくれてね」
マリヤはアンドレイのこういう言葉を聞きながら、どうしてそんな事が言えるのか合点が行かなかった。敏感な優しいアンドレイ公爵が、愛し愛されている女の前で、どうしてこんなことが言えるのだろう! もし彼が生きることを考えていたなら、こんな冷ややかな侮蔑的な調子で、こんなことは言わなかったに違いない。もし自分が死ぬという事を知らなかったら、どうして女の前でこんなことを言うのを、惨たらしいと思わずにいられよう? これに対する説明はただ一つしかない。つまり彼にとってはどうでもいいのである。そのどうでもいいと言う訳は、他にもっと重大な或る物を発見したからである。
会話は冷たくちぐはぐで、しょっちゅう途切れがちだった。
「マリイはリャザンを通っていらしたんですのよ」とナターシャは言った。
アンドレイ公はナターシャが、自分の妹をマリイと言ったのに気が付かなかった。けれどナターシャは、アンドレイの前でマリヤをこう呼んだので、初めて自分でそれと気付いたのである。
「それでどうしたの?」と彼は言った。
「モスクワが焼けてしまったという噂をお聞きになりましたの、すっかり。何でも……」
ナターシャは言葉を切った。言うことが出来なかったのである。彼は聞こうと努力したらしかったが、矢張り駄目であった。
「そう、焼けたそうだね」と彼は言った。「実に惜しいことをした」彼はこう言って、ぼんやり指で口髭を捻りながら、前の方を見まもり始めた。
「ところで、マリイ、お前はニコライ伯爵に会ったそうだね?」アンドレイ公爵は不意にこう言い出した。それは相手にお愛想でも言うつもりらしかった。「あの人はここへ手紙をよこしたが、お前が大変気に入ったように書いてあったよ」と彼は平気な落ち着いた語り調子で続けた。生きた人間に取って、自分の言葉がどのくらい複雑な意味を持っているか、それが充分理解できなかったらしい。「もしお前が同じようにあの人を愛しているなら……いいんだがなあ……結婚すると……」彼は長いあいだ捜していた言葉を、やっと見付け出したのを喜ぶように、少し早口にこう言い足した。
マリヤは彼の言葉を聞いていたけれど、彼が今すべての生あるものから、限りなく遠く距たっていることを証明するよりほか、その言葉はマリヤに取って何の意味も持たなかった。
「わたしのことなんか言ったって仕様がありませんわ!」彼女は落ち着いてこう言った。そしてちらとナターシャをふり向いた。
ナターシャはその視線を感じて、マリヤの方を見なかった。一同はまたしばらく黙っていた。
「André(アンドレイ)、あなたはあの……」マリヤは突然、慄え声で言った。「あのニコーレンカに会いたくはありませんか? あの子は始終あなたのことばかり言っていたのに」
アンドレイ公爵は初めてあるかなきかの微笑を洩らしたが、彼の表情を知悉しているマリヤは、それが喜びの微笑でもなければ、わが子に対する愛情の微笑でもなく、自分が兄の感情を呼び醒ます最後の方法と信じて、ニコーレンカを持ち出した気持ちに対する、静かなつつましい嘲笑だと言うことを悟って、思わず慄然としたのである。
「そうか、わたしは非常に嬉しい。ニコーレンカは丈夫かね?」
ニコーレンカはアンドレイ公爵の所へつれられて来ると、怯えたように父親を見たが、しかしそれでも泣かなかった。誰も泣いていなかったからである。アンドレイ公爵はニコーレンカに接吻した。彼はわが子に何を言っていいか分からなかったらしい。
ニコーレンカを連れて行った後で、マリヤはもう一度、兄に近づいて接吻した。と、もう我慢しきれないで泣き出した。
彼はじっと妹を見つめた。
「お前はニコーレンカのことで泣いてるの?」と彼は訊いた。
マリヤは泣きながら頷いた。
「マリヤ、お前は知っているだろう、聖書……」と彼は言いかけたが、急に口を噤んだ。
「何を仰しゃったの?」
「何でもない。ここでは泣いちゃいけない」矢張り例の冷ややかな眼ざしで妹を見ながら、彼はこう言った。
マリヤが泣き出した時、これはニコーレンカが父なし子になるからだな、とアンドレイは悟った。彼は並々ならぬ努力をもって生に帰ろうとつとめた。そしてやっと他の人達の見地に移ることが出来た。
『そうだ、なるほどこの人達には悲しく思われるに違いない!』と彼は考えた。『だが、これは実に単純なことなんだがなあ!』
『空なる鳥は蒔かず刈らざるなり、されど汝らの父は彼らを養い給う』彼は心の中でこう言って、それを妹にも言おうとした。『いや、よそう。二人ともこれを自己流に解釈するだろう。この人達にはとても分からないんだ! この人達が大切にしているこう言うさまざまな感情は、単に我々人間のものに過ぎない、そしてこの人達に恐ろしく重大に思われる種々雑多な思想は、全く不用なものなんだ、それがこの二人の女には理解出来ないのだ。我々はお互いに理解し合うことが出来ない!』こう考えて彼は口を噤んだ。
アンドレイ公爵の幼い息子は七つであった。彼はやっと本が読めるだけで、まだなにも知らなかった。彼はその後、知識や観察や経験などを得て、多くの事を味わったが、たとえ彼がその当時、こういう様々な後天的の才能をもっていたとしても、父とマリヤとナターシャの間に現出された光景の意味を、その時より以上に深く理解することが出来なかったであろう。彼は何もかも理解した。そして泣かずに部屋を出ると、後から出て来たナターシャの傍へ黙って近寄りながら、物思わしげな美しい眼で内気そうにナターシャを見上げた。ちょっと持ち上がった赤い上唇はぴくりと慄えた。彼はナターシャに頭をもたせながら泣き出した。
この日から彼はデサールを避けるようになった。また自分を可愛がってくれる老伯爵夫人をも避け始めた。そしてただ一人でじっとしているか、でなければマリヤの傍や、叔母よりもっと好きになったらしいナターシャの傍へ、おずおずと近づいて行って、しずかに内気らしく甘えかかるのであった。
マリヤはアンドレイ公の部屋から出ると、ナターシャの顔が物語っていることを残らず悟ってしまった。彼女はもう兄の命が助かればいいなどと言う話を、ナターシャに向いてしなくなった。彼女はナターシャと代わる代わる、アンドレイの長椅子に付き添いながら、もう今さら泣こうともしないで、永久に測り難い神に(現在瀕死の病人の傍では、殊にその存在がはっきりと感じられた)心ひそかに向かいながら、絶えず祈り続けるのであった。