戦争と平和 第十二編, レフ・トルストイ

八


ニコライの祈りを実現させたソーニャの手紙は、トローイツァで書かれたものであるが、その動機は次のような事情であった。ニコライを富裕な令嬢と結婚させようと言う考えは、次第に強く老伯爵夫人の心を占めて行った。それにはソーニャが主な邪魔者だと言うことは、夫人もよく知り抜いていた。伯爵家におけるソーニャの生活は最近――殊にボグチャーロヴォ村における公爵令嬢マリヤとの邂逅(かいこう)を報じたニコライの手紙が届いて以来、次第次第に苦しくなって来た。伯爵夫人はソーニャに向かって、あるいは侮蔑的な、あるいは残酷な当てこすりを言う機会を、ただの一度も逃さなかった。

けれどモスクワ出発の四、五日前、様々な出来事に心を乱されて興奮した夫人は、ソーニャを自分の傍へ呼び寄せて、叱ったり責めたりする代わりに、涙を溢(こぼ)しながら哀願し始めた。どうか犠牲になって貰いたい、今まで色々してやった恩返しに、ニコライと切れてほしいと言うのであった。

「お前がこの事を約束してくれないうちは、わたしは安心することが出来ないのだから」

ソーニャはヒステリックにしゃくり上げて泣きながら、自分はいつでも、どんな事でもする覚悟が出来ている、と涙ながらに答えたが、しかしはっきりと約束はしなかった。夫人の要求通りにしようと言う決心が付かなかったのである。養育の恩ある家族の幸福のためには、自分を犠牲にしなければならなかった。他人の幸福のために自己を犠牲にすると言うことは、ソーニャにとって習慣になっていた。ロストフ家における境遇から言っても、彼女はただ犠牲に依って自己の価値を表現するよりほか仕方がなかった。で、彼女は自己を犠牲にすることに慣れ、かつそれを愛していた。けれど以前は、そういう自己犠牲の行為をする度に、自分は自己犠牲という方法に依って、自他の眼に映ずる己の価値を高め、世界じゅうの何物よりも愛しているニコラスの妻として、ますますふさわしい者になるのだと言う、喜ばしい意識を感じていたものであるが、今度要求されている犠牲は、犠牲の報いと生活の全意義を思い切る事なのであった。彼女は生まれて初めて、後で一層つらい思いをさせるために、自分に恩を施してくれた人達に対して怨めしさを感じた。このような辛さを少しも経験することもなければ、かつて一度も犠牲を要求されもせず、何時も自分のために他の人を犠牲にしながら、しかもなおすべての人に愛されるナターシャを、彼女は羨ましく思った。ソーニャは今度初めて、ニコラスに対する穏やかで純潔な愛が、不意に掟も徳行も宗教もことごとく超越した、熱烈な感情に成長し始めているのを感じた。何時となく内気な主他的生活に慣らされたソーニャが、この情熱に引きずられるままに、伯爵夫人に漠然とした曖昧な返事をして、なるべく夫人と話をするのを避けながら、ニコライに会うのを待とうと決心した。しかもそれは彼を自由にするどころか、かえって、永久に自分の運命に結び付けるためなのであった。

ロストフ一家がモスクワで過ごした最後の数日間の煩労と恐怖は、ソーニャを苦しめていた暗い物思いを揉み潰してしまった。彼女は喜んで実際的な活動の中に救いを見出した。けれどロストフ家にアンドレイ公爵が来ていることを知ると、ソーニャは公爵とナターシャに衷心から哀憐の情を感じたが、それと同時に、神様は自分とニコラスの別離を望まれないのだと言う、喜ばしい迷信的な感情の俘(とりこ)になったのである。これまでナターシャはアンドレイ公爵一人を愛していた、また今でも矢張り変わることなく愛している、それを彼女はよく知っていた。今こう言う悲しい事情の下に引き合わされた二人は、また互いに愛し始めるに相違ない。さすれば両家の間に生じる親戚関係のために、ニコライはマリヤと結婚することが出来なくなる――それも彼女にはちゃんと分かっていた。モスクワにおける最後の数日間と、旅行の初めに起こった様々な恐ろしい出来事にも拘わらず、この感じ――自分の一身上の事に全能の神が干渉して下さるのだと言うこの意識は、ひそかにソーニャを喜ばせたのである。

ロストフ一家はトローイツァの修道院で、この旅行中、最初の昼逗留をした。

修道院の宿泊所では、三つの大きな部屋がロストフ一家のために当てられて、アンドレイ公爵はその一つを占めることとなった。彼はこの日、非常に容体がよかった。ナターシャは彼の傍に付き添っていた。隣の部屋では伯爵と伯爵夫人が、恭しく修道院長と話をしていた。院長は前からの知り合いでもあり大檀那でもある、ロストフ一家の人を訪ねて来たのである。ソーニャもそこに腰掛けていたが、アンドレイ公爵とナターシャはどんな話をしているだろう? と言う好奇心に悩まされているのであった。彼女は戸の陰から二人の話し声を聞いていた。と、アンドレイ公爵の部屋の戸が開いた。ナターシャは興奮した顔付きでそこから出て来ると、自分に挨拶をするために腰を上げて、右手の広い袖を押さえた修道院長に気もつかず、いきなりソーニャの傍へ寄ってその手を取った。

ナターシャが祝福を受けに行くと、院長は神とその御心に適える者を頼るように勧めた。

院長が帰るとすぐ、ナターシャは友の手を取って、一緒に空いた部屋へ入った。

「ねえ、ソーニャ? あの人、助かるわねえ?」と彼女は言った。「ソーニャ、わたし本当に幸福なのよ、だけどまた本当に不幸せなのよ! ねえ、ソーニャ、何もかも元のままよ。ただあの人が助かってさえくれればねえ。あの人、死んじゃいけないわ……なぜって……なぜって……あの……」ナターシャはわっと泣き出した。

「あらそう! わたしも前からそうだろうと思ってたわ! よかったわねえ」とソーニャは言った。「あの方は助かってよ!」

ソーニャはナターシャの恐れと悲しみのために、また誰にも言わない自分一人の物思いのために、友に劣らないほど興奮していた。彼女はすすり泣きながら、ナターシャを接吻したり慰めたりした。『ただあの人さえ助かってくれればねえ!』と彼女は考えた。泣いたり、話したりした後、二人は涙を拭いて、アンドレイ公爵の戸口に近づいた。ナターシャはそっと戸を開けて、部屋の中を覗いてみた。ソーニャはナターシャと並んで、半ば開かれた戸口に立っていた。

アンドレイ公爵は三つ枕を重ねて、その上に高々とふせっていた。青ざめた顔は穏やかな表情をして、眼は閉じられていた。そしてなだらかに呼吸している事まで察しられた。

「あっ、ナターシャ!」ソーニャは不意に従妹の手を握って、戸口から身を引きながら、ほとんど叫ぶようにこう言った。

「どうしたの? どうしたの?」とナターシャは訊いた。

「あれよ、ほら、あれよ……」ソーニャは真青な顔をして、唇を慄わせながらこう言った。

ナターシャは静かに戸を閉めて、何のことかまだよく分からないままで、ソーニャと一緒に窓の方へ離れた。

「あなた憶えてて?」ソーニャはびっくりしたような、同時に物々しそうな顔付きをしながらこう言った。「わたしが……あなたの代わりに鏡を見たじゃないの……慰楽村(オトラードノエ)で、降誕祭(スヴャトキイ)前に……あの時わたしが何を見たか憶えてて?」

「そう、そう」ナターシャは眼を大きく見開きながらこう言った。あの時ソーニャがアンドレイ公爵の寝姿を見たとか言ったのを、ぼんやり思い出したのである。

「憶えてて?」とソーニャは語を続けた。「わたしあの時見たことを、あなたにも、ドゥニィーシャにも、みんなに話したでしょう。わたしあの方が床の中で寝てらっしゃる所を見たのよ」一つ一つの詳細(ディテール)を挙げる度に、指を一本立てた手で身振りをしながら、彼女はこう言った。「ね、そう言ったでしょう、あの方は眼をつぶっていて、そして矢張り薔薇色の夜具をかけて、両手を組み合わせていらしったってね」自分がたった今見た詳細(ディテール)を述べれば述べるほど、あの時もこれと同じ事を見たと言う信念がますます強くなった。

あの時、彼女は何も見たわけでなく、ただ自分の頭に浮んだことを見たと言ったまでである。けれどその時、彼女が考え付いた事はすべてその他の記憶と同じく、確かな事実のように思われた。その時、彼女はまだそのほかに、アンドレイが自分の方を向いてにっこりしたとか。何か赤い物に包(くる)まっていたとか言ったのを、単に記憶していたばかりでなく、その時アンドレイが薔薇色の――確かに薔薇色の夜具にくるまっていたことや、眼を閉じていたことなどを、見もし話しもしたものと堅く信じ切っていた。

「そう、そう、本当に薔薇色の夜具だったわねえ」とナターシャは言った。彼女も矢張り薔薇色と聞いたのを、今でも確かに記憶しているような気がした。そしてこの点に予言の奇怪さ神秘さを認めたのである。

「だけど、それはどういう訳なんでしょうねえ?」とナターシャは考え深そうにこう言った。

「ああ、それはわたしにも分からないわ。でも、本当に何て不思議なことでしょう」ソーニャは両手で頭を抑えながらこう言った。

幾分かたって、アンドレイ公爵が呼鈴を鳴らした。で、ナターシャはその部屋へ入って行った。ソーニャは彼女として珍しいほどの興奮と感激を覚えながら、この出来事の並々ならぬ意味を考えつつ、じっと窓際に立ちつくしていた。


この日、軍隊へ手紙をやるついでがあったので、伯爵夫人は我が子に消息をしたためた。

「ソーニャ」姪が傍を通りかかった時、伯爵夫人は手紙から目を離して、頭を抬(もた)げながらこう言った。「ソーニャ、お前もニコーレンカに手紙を書かないかえ?」伯爵夫人は小さな慄える声で言った。

眼鏡越しに自分の方へ注がれた夫人の疲れた眼の中から、ソーニャは今の言葉に含まれた意味をすっかり読み取った。この眼の中には哀願と、拒絶を気づかう恐怖と、哀願しなければならぬ恥ずかしさと、もし拒絶したら七生までの仇(かたき)だぞ、という憎しみの色が現れていた。

ソーニャは伯爵夫人の傍に寄り、膝をついてその手に接吻した。

「わたし書きますわ、お母様」と彼女は言った。

ソーニャはこの日のさまざまな出来事――殊にたった今見た神秘な占いの実現で、心持ちが和らいで興奮と感激の虜となっていた。それに今度ナターシャとアンドレイ公爵の関係が復活したために、ニコライと公爵令嬢マリヤの結婚が不可能になったことを知ったので、ソーニャは自分の好きな、しかも常から慣れている、自己犠牲の生活気分がよみ返るのを感じて、それを嬉しく思った。彼女は眼に涙を湛えながら、偉大な行為を実行するのだと言う悦ばしい意識を抱いて、天鵞絨(ビロード)のような黒い眼を曇らせる涙に、幾度となく筆の歩みを休め休め、あれほどニコライを驚かしたしおらしい手紙を書いたのである。