戦争と平和 第十三編, レフ・トルストイ

十八


この報知を受け取ってから戦争の終わるまで、クトゥゾフの全活動は、ただ一事に傾注されていた。それは権力と機知と懇願によって麾下(きか)の軍隊を抑制し、無益な攻撃や策動や、自滅しつつある敵との衝突を回避せしむる事であった。ドフトゥーロフは小(マロ)ヤロスラーヴェッツへ進んだが、クトゥゾフは全軍を率いて逡巡を続けながら、カルーガ撤退の命令を発した。カルーガの彼方へ退却することは、極めてあり得べき事と思われたのである。

クトゥゾフは到るところ退却ばかりしていた。しかし敵は彼の退却を待たずして、反対の方向へ逃走するのであった。

ナポレオン史家は、タルーチノ及び小(マロ)ヤロスラーヴェッツ方面における彼の巧妙な策動を叙述して、もしナポレオンが豊饒な南方の諸州に侵入していたなら、果たして如何なる結果を生じたろうか、と言うような想像をめぐらしている。

しかし、ナポレオンがこの南方諸州へ入るのを妨げるものは、何一つなかったのである(何故と言って、ロシア軍はナポレオンのために進路を開いていたからである)。が、それは別にしても、ナポレオン軍を救い得るものが何一つとしてなかった事を、歴史家は忘れているのである。なぜと言って、ナポレオン軍は既にその当時、避け難い滅亡の条件を自分自身の中に蔵していたからである。モスクワで豊富な糧食を見出しながら、それを維持する事が出来ないで脚下に蹂躙したナポレオン軍、スモレンスクへ入った時も糧食を整理せずに、掠奪をほしいままにしたナポレオン軍が、モスクワと同じように、燃えついたものをことごとく焼き尽す性質を持った火を有し、同じロシア人を住民としているカルーガ県で、どうして頽勢(たいせい)を挽回することが出来よう?

ナポレオン軍はどこへ行っても、頽勢(たいせい)を挽回し得る筈がなかったのである。この軍隊はボロジノ会戦とモスクワ掠奪の後、もう一種の化学的解体の条件を自分自身の内に含んでいたのである。

かつて軍隊を組織していた人々は(ナポレオンをはじめ一兵卒に到るまで)、現在の行き詰まった境遇から少しでも早く、自分一人だけでも逃れたいと言う希望を抱きながら、所属部隊の指揮官と共にあてもなく走った。彼らは自分の境遇が行き詰まったことを、漠然ながら意識したのである。

ただこの一つの理由によって、小(マロ)ヤロスラーヴェッツの会議の席で、彼ら――将軍達――は様々な意見を持ち出しながら、如何にも評議をしているような風を粧(よそお)っていたが、最後に率直な一兵卒のムートンが、出来るだけ早く逃げ出した方がよいと言う意見、即ちすべての人が腹の中で考えていることを表白した時、将軍達はみな口を噤(つぐ)んでしまった。そして誰一人として――ナポレオン自身でさえ、一同の意識しているこの真理に、一言も反対することが出来なかった。

こうして一同は退却の必要を知っていたけれど、しかし逃走しなければならぬと言う意識を、恥ずる心持ちがまだ残っていた。この羞恥心を征服するには、外部的衝動が必要であった。しかもこの衝動は必要な時に現れた。それはフランス人の所謂(いわゆる) le Hourra de l'Empereur(皇帝の伏兵)であった。

会議の翌日ナポレオンは軍隊を検閲し、過去及び将来の戦場を観察すると言う口実の下に、朝早く幕僚の諸元帥や護衛兵を従えて、軍隊配備線の中央に馬を進めた。かねて獲物の付近を彷徨出没していたコサックの一隊が、偶然皇帝の一行にぶっ突かって、危うく彼を生捕にするところであった。この時、コサック兵がナポレオンを生捕にしなかったのは、フランス軍を滅したと同じ原因が、彼を救ったからであった。それは他でもない、コサック兵がここでもまたタルーチノと同様に、人間には眼もくれず鹵獲品(ろかくひん)に飛びかかったのである。彼らはナポレオンに気がつかないで、獲物の方へ飛んで行ったので、ナポレオンはその間に逃れ去ることが出来た。

Les enfants du Don(ドン川の子ら)がこう言う風に皇帝自身を、友軍のただ中で、ほとんど生捕にすることさえ出来たとすれば、今はもう覚えのある手近な道を、出来るだけ早く逃げるより他、方法がなくなったと言うことは明らかである。いかにも四十男らしい便々(べんべん)たる腹を抱えたナポレオンは、もう以前の敏捷と勇気がなくなったのを感じながら、この暗示を理解したのである。彼はコサック兵から受けた恐怖に支配されながら、すぐさまムートンの意見に同意して、歴史家の言葉を借りれば、スモレンスク街道へ退却の命令を発した。

ナポレオンがムートンの意見に同意して、軍隊が退却を始めたと言うことは、彼が退却を命じたと言う事実を証明するものではない。ただ全軍に働きかける力――モジャイスク街道伝いに軍隊を進めた力が、同時にナポレオンにも働きかけたことを示すに過ぎないのである。