戦争と平和 第十三編, レフ・トルストイ

五


翌日の早朝、もうよぼよぼしたクトゥゾフは、侍僕に命じて起こして貰うと、神に祈りを捧げ、着替えをすませ、自分の賛成しない戦争を指揮しなければならぬと言う、不快な意識を抱きながら幌馬車に乗り、攻撃軍の集合すべき地点へ赴くために、タルーチノの後方五露里に位するレタショーフカを出発した。クトゥゾフは眠ったり目を覚ましたりしながら、右の方に砲声が聞こえはしないか、戦闘が始まりはしないかと、耳を澄ましつつ馬車を駆った。けれど辺りはまだ依然として静かであった。ただ湿っぽいどんよりとした秋の日が、ようやく明け初めたばかりだった。タルーチノの近くまで来た時、行く手の道を横ぎって馬を水飼いに行く騎兵の一隊が、クトゥゾフの目に入った。クトゥゾフはじっとそれを見ていたが、やがて馬車を止めて、何連隊の兵かと訊いた。騎兵達はもうとうにずっと先の方へ行って、潜伏しているべき筈の縦隊に属していた。『間違いかも知れない』と老指揮官は考えた。しかし更にクトゥゾフが先へ進んだとき、何連隊かの歩兵が銃を組み合わせ、股引一つになって粥を食べたり、薪を運んだりしているのが見えた。彼は将校を呼び出した。将校は進出命令などまるで受け取っていないと答えた。

「どうして命令が……」とクトゥゾフは言いかけたが、すぐに口を噤(つぐ)んで、古参将校を呼ぶように命じた。彼は幌馬車から降りると、頭を垂れて苦しそうな息づかいで、無言のまま待ち設けながら、あちらこちらと歩き回っていた。召喚を受けた参謀本部付の将校アイヘンが出頭した時、クトゥゾフの顔はさっと真紅に染め出された。それはこの将校が過失の責任者であったからではなく、鬱憤を浴びせかけるだけの価値をもった人物だからである。老将軍は身を慄わしたり、息を切らせたりしながら、彼がしばしば陥りがちな、憤怒のあまり地上へ倒れるような狂的状態に襲われて、両手を振り上げたり、怒鳴ったり、車夫馬丁のような言葉で罵ったりしながら、アイヘンに食ってかかるのであった。ちょうどそこへ来合わせた、何の咎もないブロージン大尉まで、同じ運命に遭遇した。

「こいつはまた何と言う悪党だ? 射ち殺してしまえ! このやくざ者めらが!」両手を振り回したり、よろめいたりしながら、彼はしゃがれ声でこう叫んだ。

彼は肉体的苦痛を感じた。身は総指揮官の栄職にあって、公爵閣下と呼ばれ、かつてロシアでこれだけの権力を握った者はないと言われている彼が、こう言うはめに陥され、全軍の笑い草にされたのである。『あんなに心配して今日の成功を祈ったのも、みんな無駄になってしまった。夜通しまんじりともせずに考え明かしたのも、すっかり無駄になってしまった!』と彼は自分で自分のことを考えた。『俺が青二才の下級将校だった時分でも、これほどまでに俺を愚弄する者はなかったろう……ところが、今は!』彼は体刑でも受けた時のような肉体的苦痛を感じた。そして怒りに満ちた悩ましい叫び声で、その苦痛を洩らさない訳にゆかなかった。けれど間もなく彼の力は衰えた。彼は辺りを見回しつつ、余りよくないことを言い過ぎたなと感じながら、幌馬車に乗って無言のまま後へ引っ返した。

一旦流れ出た憤怒はもう返って来なかった。クトゥゾフは弱々しく瞬きしながら、ベニグセンとコノヴニーツィンとトールの弁解や釈明や(ウェルモーロフは翌日まで彼の所へ来なかった)、今日不成功に終った同じ行動を、明日もう一度実行しようと言う主張などを聞いていた。そして、クトゥゾフは再びそれに同意しなければならなかった。