戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

十二


翌日、元帥は晩餐会を兼ねて舞踏会を催した。それには皇帝も臨席の光栄を与えた。クトゥゾフはゲオルギイ一等勲章を授けられ、皇帝から最高の敬意を示された。しかし皇帝がクトゥゾフに不満を抱いている事は、すべての人に知れ渡っていた。表面の礼儀は固く守られて、誰より先に皇帝がその範を示したけれど、とにかくあの老人は失策をしている、あれはもう何の役にも立たない、ということは誰でも承知していた。舞踏の時クトゥゾフは旧いエカチェリーナ時代の習慣に倣って、皇帝が舞踏室へ入って来る時、鹵獲(ろかく)した軍旗を皇帝の足下へ横たえるように命じた。そのとき皇帝は不快そうに顔を顰めて、何やらぶつぶつ言った。幾人かのものは「老いぼれた道化役者」と言う言葉を小耳に挟んだ。

クトゥゾフに対する皇帝の不満は、ヴィリナへ来てから一倍強くなった。それはクトゥゾフが目前に迫っている戦役の意義を、理解しようともしなかったし、また理解することも出来なかったからである。

翌朝、皇帝が参集した将校達に向かって、「諸子は単にロシアを救ったのみならず、ヨーロッパをも救ったのである」と言った時、一同はすぐその瞬間、戦争はまだ終らないのだなと悟った。

ただ一人クトゥゾフは、その意味を理解しようとしなかった。そして、第二次の戦争はロシアの国状を改善することも、その国威を発揚することも出来ないばかりでなく、却ってロシアの現状を害(そこな)い、いまロシアが享有している最高の名誉を減ずるに過ぎない、こういう意見を公然と発表した。彼は新たに軍隊を徴集する事の不可能を、皇帝に証明しようと努めた。そして国民困苦の状態と敗戦の可能を説いた。

こうした気持ちをもっていた元帥が、来たるべき戦役の障碍であり、制動機であると思われたのは、きわめて当然の事である。

老人との衝突を避けるために、自然と一つの方法が見出された。それはアウステルリッツの時や、また戦役の当初バルクライに対したのと同じように、当人には何一つ言わないで、一切不安を感じさせないようにしながら、総指揮官の足下から権力の地盤を抜きとって、それを皇帝目身に移すことであった。

この目的をもって総司令部は次第に改革された。クトゥゾフの司令部の中堅は全滅されて、皇帝の方へ移管された。トール、コノヴニーツイン、ウェルモーロフなどは別な任命を受けた。そして誰も彼も口を揃えて、元帥が非常に衰弱して、健康を害(そこ)ねたと、仰山(ぎょうさん)に言い立てた。

彼は自分の地位を後継者に譲るために、病身な者となる必要があった。しかも実際、彼の健康は衰えていた。

クトゥゾフがトルコからペテルブルクの議院へ帰って、民兵を募った後、次いで軍隊へ出て行ったのが、自然で単純で必然の順序を踏んでいたのと同じように、今クトゥゾフの役割が演了されたとき、新しい要求に応じた活動家が彼の代わりに現れたのも、矢張り自然の順序を踏んで単純に行われたのである。

一八一二年の戦は、ロシア人の魂にとって貴重な国民的意義のほかに、なお別な意義――全欧的の意義を持たなければならなかった。

諸民族が西から東へ移動した後、その逆に東から西への移動を見なければやまなかった。この新しい戦争のためには、クトゥゾフと異なった資質と見解を有し、別種の動機に動かされる新しい活動家が必要であった。

ちょうどクトゥゾフがロシアを救い、その国威を高めるために必要だったのと同じように、アレクサンドル一世は、諸民族が東から西へ移動するために、また各国民がその国境を回復するために、必要かくべからざる人物であった。

クトゥゾフはヨーロッパとか、勢力平均とか、ナポレオンとか言うことが、何を意味しているのか理解しなかった。彼はそれを理解する事が出来なかったのである。敵が滅されてロシアが自由となり、名誉の最高点に達してしまうと、ロシア人の代表者たる彼は、もっともロシア人らしいロシア人たる彼は、もう何もすることがなくなった。国民戦争の代表者は、ただ死ぬより他に仕方がなかった。こうして彼は死んだ。