戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

二


一般にすべての人から離れたいと言う感情の他、ナターシャはこの頃、自分の家族に対しても、一種特別なうとうとしい感じを経験していた。自分の身内の者は――父も、母も、ソーニャも――すべて余りに近しく見慣れたために、日常茶飯的な気持ちを帯びているので、彼らの言葉や感情などは、最近自分の住んでいる心の世界を、侮辱するもののように思われた。で、ナターシャは彼らに対して冷淡なばかりでなく、敵意の眼さえ向けていた。彼女は、ピョートル・イリッチとか、不幸とか言うドゥニャーシャの言葉を聞いたが、その意味を悟ることが出来なかったのである。

「あの人達にどんな不幸があるんだろう。不幸なんか有る筈がないわ。あの人達のもっているものは、何もかもおきまりの、古くさい、慣れ切った、暢気なものばかりだわ」ナターシャは心のうちでこう言った。

彼女が広間へ入ったとき、父親が急ぎ足に夫人の部屋から出て来た。その顔は皺だらけで、涙に濡れていた。彼は胸に迫るすすり泣きを思う存分声に出そうとして、部屋から駆け出したものらしい。ナターシャを見ると自暴(やけ)に両手を振って、いきなり病的にしゃくり上げながら、すすり泣きを始めた。そのために彼の丸い柔い顔は醜く歪んで来た。

「ペ……ペーチャが……行きなさい、行きなさい。お母さんが呼んでいる……」とこう言ってから、彼は子供のように慟哭(どうこく)しながら、弱った足を小さく刻んで椅子に近づき、両手で顔を覆うたと思うと、ほとんど倒れるように身を投げた。

ふいに電気の流れのようなものが、ナターシャの全身をさっと走った。何やら恐ろしい力で、痛いほどナターシャの心臓を打った。彼女は恐ろしい痛みを感じた。胸の中で何かが千切れて、今にも自分が死にかかっているように思われた。けれどその痛みに続いて、彼女は今まで自分の体に置かれていた生活の禁制が、一瞬の間に解き放されたのを感じた。父親の姿を見、戸の陰から響く母の恐ろしく荒々しい叫び声を聞くと、彼女はたちまち自分と自分の悲哀を忘れてしまった。

彼女は父の傍へ駆け寄った。けれどこちらは力なく片手を振りながら、母の居間の戸を指さした。蒼い顔をしたマリヤが、下顎を慄わしながら戸口から出て来て、何やら言いながらナターシャの手を取った。ナターシャはマリヤを見もしなければ、その言葉を聞きもしなかった。彼女は急ぎ足に戸の中へ入ると、自分自身と戦うかのようにちょっとの間、立ち止まったが、いきなり母の傍へ駆け寄った。

伯爵夫人は妙に窮屈らしく体を伸ばしながら、安楽椅子の上へ横になって、頭を壁にぶっ突けていた。ソーニャと小間使い達がその手を摑んでいた。

「ナターシャを、ナターシャを!……」と伯爵夫人は叫んだ。「そんな事はない。そんな事はない……あの人は嘘を言ったのです……ナターシャを!」自分を取り囲んでいる者を突き退けながら、彼女はこう叫んだ。「みんなあちらへ行っておくれ、そんな事はない! 殺されたって!……はっ、はっ、はっ! そんな事があって堪るものか!」

ナターシャは安楽椅子に膝をついて、母の上に屈みかかった。そしてじっと彼女を抱き締めながら、思い掛けない力で持ち上げて、自分の方へ顔を向けさせると、母に体をぴったり押し当てた。

「お母様!……お母様!……わたしここにいてよ、お母様、お母様!……」とナターシャは一秒の止み間もなく母の耳に囁いた。

ナターシャは母を放すまいとして、優しく闘い続けた。そして枕や水を持って来させたり、母の服のボタンを外したり、きれを引き裂いたりした。

「お母様、ねえ……お母様、お母様」と絶え間なく囁きながら、彼女は母の頭や手や顔を接吻した。そして母の涙が鼻や頬を擽(くすぐ)りながら、止めどなく滝のように流れるのを感じるのであった。

伯爵夫人は娘の手を握ったまま、しばらく眼を閉じてじっとしていたが、突然、例になく身早く起き上がって、無意味にあたりを見回した。ふとナターシャに気が付くと、力いっぱいその頭を抱き締めにかかった。やがて苦痛のために皺められたナターシャの顔を、自分の方へ向け直して、長い間じっと見入っていた。

「ナターシャ、お前はわたしを愛してくれるね」相手を信じ切ったような声で、母親は静かにこう囁いた。「ナターシャ、お前はわたしを騙しゃしないねえ? お前はありのままを言ってくれるね?」

ナターシャは眼に涙を湛えて母を見つめた。その顔にはただ赦しと愛の祈りが現れているだけであった。

「お母様、わたしの大好きなお母様」彼女は愛の力をいっぱいに緊張させて、どうかして母を圧倒している悲哀の過剰を、自分に引き受けようとしながらこう繰り返した。

再び母は現実との戦いに負けてしまった。あれほど生に充ちていた愛児が殺されたと聞いては、自分などが生きて行かれようとは信じたくなかった。彼女はまた現実から狂乱の世界へ逃避してしまった。

ナターシャはこの日とこの夜、また次の日と次の夜が、どう言う風に過ぎたやら、まるで憶えていなかった。彼女は一睡もしないで、母の傍から離れなかった。執拗な我慢強いナターシャの愛は、説明や慰藉としてでなく、生へ招き返す呼び声として、絶えず四方から母親を取り囲んでいるような塩梅であった。

三日目の夜、伯爵夫人はちょっとのあいだ落ち着いた。ナターシャは安楽椅子の腕木に凭(もた)れて眼をつぶった。と、寝台がぎいと軋んだ。ナターシャは眼を見開いた。伯爵夫人は寝台の上に坐って、低い声でこう言うのであった。

「お前よく帰ってくれたね、わたしどんなに嬉しいか分からないよ。お前さぞ疲れたろうね、お茶でもほしくないかえ(ナターシャは母の方へ近づいた)。お前だいぶ男振りがよくなったねえ、そして大人大人してさ」伯爵夫人は娘の手を握って語り続けた。

「お母様、あなたは何言ってらっしゃるの!……」

「ナターシャ、あの子はいない、もう帰って来ない」

伯爵夫人は娘を抱きしめながら、初めて泣き出したのである。