十一月一日、クトゥゾフは味方の斥候を通じて、麾下の軍隊をほとんど出口の無い状態に陥らせるような、恐ろしい情報を受け取った。斥候の報告によると、フランスの大軍はウィーンの橋を渡って、目下ロシア内地から進軍しつつある援軍と、クトゥゾフ軍との交通路を目掛けて進んでいるのであった。もしクトゥゾフがクレームスに留まろうと決心すれば、十五万のナポレオン軍は一切の交通路を遮断し、僅か四万の疲憊し尽した軍勢を囲んで、ウルムにおけるマックと同じ状態に陥らせるに相違ない。もしクトゥゾフが、ロシアの援軍と友軍とを繋ぐ道路を放擲すれば、彼は優越せる敵の軍勢を防ぎながら、不案内な、道もないボヘミアの山地に分け入って、ブックスホーヴデン(フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブックスホーヴデン(一七五〇年-一八一一年)。ロシアの軍人。一八〇五年のアウステルリッツの戦いではロシア・オーストリア連合軍の左翼の指揮官として働いた。)との連絡に対する、一切の望みを放棄しなければならぬ。もしクトゥゾフが増援軍との連絡を望んで、クレームスからオルミューツに向かって退却を決心すれば、ウィーンの橋を渡って来たフランス軍に途中で先んじられる恐れがある。さすれば三倍も優勢な敵に両方から挟まれたまま、すべての重砲類や輜重類に煩わされながら、行軍中の戦闘を余儀なくされる事になる。
クトゥゾフはこの最後の方法を選んだ。
斥候の報告に依れば、フランス軍は強行行程でツナイムへ進んでいるのであった。ツナイムはクトゥゾフの退却の途上に横たわっている町で、ここからは百露里以上も前方にある。フランス軍に先んじてツナイムに達するのは、つまり友軍救助の大希望を得る事となる。フランス軍をして味方よりも先にツナイムに入らせるのは、つまり確実に味方の軍隊をウルム役と同じ恥辱に陥れるか、あるいは全滅させてしまうか、二つに一つを意味するのだ。しかし全軍ことごとく引率してフランス軍に先んじるのは、到底不可能であった。ウィーンからツナイムに至るフランス軍の道路は、クレームスからツナイムに至るロシア軍の道路より、短くてしかも良好である。
報告を受け取った夜、クトゥゾフは、四千人より成るバクラチオンの前衛隊を右方の山越しに、クレームス・ツナイム街道から、ウィーン・ツナイム街道へ向けて出発させた。バグラチオンはこの行程を少しの休息もなく押し通して、ツナイムを後ろにウィーンに面して軍を留め、もしフランス軍に先んじる事が出来たなら、出来るだけ敵を抑制するという手筈であった。クトゥゾフ自身は一切の重砲輜重類を率いて、ツナイムさして出発した。
空腹を抱えた裸足同様の兵士を率い、嵐の吹きすさむ夜、四十五露里の山中を、道らしい道もなく乗り越えて、落伍者のために三分の一の兵力を減じながら、バグラチオンはウィーン・ツナイム街道なるホルラブルンに出た。それはウィーンからホルラブルンに向かって進行中なるフランス軍よりも二、三時間先の事であった。クトゥゾフが重砲類を曳いてツナイムに到着するには、未だまる一昼夜行進を続けなければならなかった。で、味方の軍を救うために、バグラチオンは僅か四千の疲れた兵士を率いて、ホルラブルンに相会した敵軍を、一昼夜の間、支えなければならなかった。が、それは明らかに不可能な事であった。けれど不思議な運命は、不可能を可能にしたのである。
かの戦わずしてウィーンの橋をフランス軍の手に与えたりの成功は、今度も同様にミュラートをして、クトゥゾフをも欺いて見ようという気を起こさせた。ツナイム街道でバグラチオンの微弱な支隊を迎え、ミュラートはこれをクトゥゾフの全軍だと考えた。この軍勢を確実に潰滅させるために、彼は少し遅れてウィーンを出発し、今前進の上にある本軍を待ち合わせることにした。彼はこの目的を以て、両軍が自分の位置を換えず、また今の場所から少しも移動しないという条件の下に、三日間の休戦を申し込んだ。ミュラートは目下、講和の義が進行中であるから、無益の流血を避けるために休戦を申し込むのだと称した。前哨に立っていたオーストリアの将軍ノスチーツ伯爵は、ミュラートの軍使の言葉を信じて、バグラチオンの支隊を曝露しながら退却した。今一人の軍使はロシアの線内に入って来て、矢張り講和条約の情報を披露し、三日間の休戦をロシア軍に提議した。バグラチオンは自分一人で休戦を承諾する事も、また拒絶する事も出来かねる由を答えて、休戦の申し込みを報告すべく副官をクトゥゾフの許へ遣わした。
休戦はクトゥゾフに取って、時日の余裕を作り出す唯一の方法であった。その間に疲れ切ったバグラチオンの支隊を休息させ、輜重や重砲類をツナイムに向けて、僅か一行程だけでも進める事が出来る(輜重類の輸送はフランス軍に隠して行われていたのである)。休戦の申し込みは友軍を救助する唯一の、しかも思い掛けない可能を与えたのである。この報告を受け取ると、クトゥゾフは早速自分の属僚たる侍従武官、ヴィンツェンゲローデ将軍を敵の陣営へ送った。ヴィンツェンゲローデは単に休戦を受諾するのみならず、降伏の条件をも提出すべき手筈になっていた。その間にクトゥゾフは副官らを後方へ遣わして、全軍の輜重類をクレームス・ツナイム街道に沿うて、出来るだけ急がすように命令した。疲れて餓え切ったバグラチオンの軍隊は、本軍と輜重隊の動作の垣をしながら、自分より八倍も優勢な敵軍と、単独に相対峙していなければならなかった。
クトゥゾフの予察は的中した。何らの義務をも生じないこの降伏の申し込みは、輜重の幾部分を通過させる余裕を与えるだろうという予想も、ミュラートの過失は即刻発見されるに相違ないという想像も、立派に的中したのである。ホルラブルンより二十五露里離れている、シェーンブルンにあったボナパルトが、ミュラートの報告と休戦及び降伏に関する案文を受け取るや否や、即座に敵の詭計を見破った。そしてミュラートに宛て、次の手紙を書いた。
ミュラート公へ。一八〇五年霧月(フランス革命時に使用された暦(革命暦、共和暦)の第二月。太陽暦(グレゴリオ暦)の十月二十二日から十一月二十日までの期間にあたる。)二十五日
午前八時、シェーンブルンにて
余は卿に対する不満を表すべく、適当の言葉を発見するに苦しむ。卿は余の前衛を指揮するのみにして、余の命令を待たずして休戦をなすの権を有せず、卿は余をして戦役の果実を失わしめたり。即刻休戦を破棄して敵に向われよ。この降伏状に署名せし将軍は、これをなすべき権利を有せざるのみならず、ロシア皇帝一人を除くの外、何人もこの権を有せずと宣告せられよ。
とは言え、もしロシア皇帝にしてこの条件を承諾なさば、余も亦これに賛同すべし。然れども、こは一個の奸策に他ならず、行きてロシア軍を潰滅せよ……卿はロシア軍の輜重と大砲を鹵獲するの便宜を有す。
ロシア皇帝の侍従武官は要するに一個の……権利を有せざる将校輩に何らの意味無し。この侍従武官も同じく権利を有せず……オーストリア軍はウィーン渡橋の際、卿の手に乗りたり。今や卿はロシア侍従武官の手に乗りつつあるなり。
ナポレオン
ボナパルトの副官はこの恐ろしい手紙を以て、全速力でミュラートの許へ馬を駆った。ボナパルト自身も、もはや将軍を信任出来なくなったので、ほとんど調理の出来上がっている犠牲を逸する事を恐れて、全軍を率て戦場に向かった。所で、バグラチオン支隊の四千人は、愉快げに焚火を囲んで、濡れたものを乾かしたり、体を暖めたり、三日目にやっと始めて粥を煮たりしながら、誰一人として目前に迫っている事を知りもしなければ、考えもしないのであった。