戦争と平和 第三編, レフ・トルストイ

一


ワシーリイ公爵は、自分の計画を深く考えるような事をしなかった。彼はまた己の利益のために、他人に禍いを及ぼそうなどとは、なおさら思っていなかった。要するに、彼はただ単に社会で成功して、その成功を習慣とした人に過ぎなかった。彼の心中には四囲(しい)の事情とか、他人の接近とかに依って、常に様々な計画や考案が出来上がっていくのであった。そして彼自身もそうした計画や考案を、明白に意識して居なかったけれど、それが彼の生活興味の全部なのであった。こういう計画や考案は一つや二つでなく、二十も三十も彼の頭の中で運用されていた。その中にはやっと心に浮び始めたばかりの物もあり、また着々進捗している物もあり、また立ち消えになってしまう物もあった。彼は決して腹の中で「この男は中々権勢があるから、俺はこの男の信用と友誼を得て、その助力で一時金の下賜を受けねばならぬ」とか、もしくは「あのピエールは財産家だから、あの男を唆(そその)かして娘を娶(めあわ)せ、俺に入り用な四万ルーブリの金を借りなくちゃならぬ」などという考えを起こしはしなかった。しかし権勢ある人に邂逅(かいこう)するとすぐその瞬間に、この男は何かの役に立つかも知れないぞ、と本能が彼に囁くのであった。で、ワシーリイ公爵はその人に接近して、機会の有る度に、別段下用意をする訳ではないけれど、生来の本能に依ってお世辞を言ったり、馴々しく口を利いたりしながら、自分に必要な話をするのであった。

モスクワではピエールがちょうど彼の鼻先に居たので、ワシーリイ公爵は彼のために、当時に在っては今の三等官に相当する、侍従武官の地位を周旋(しゅうせん)した上、自分と一緒にペテルブルクへ行って、自分の家へ落ち着くようにと、熱心にピエールを説いた。ちょっと上辺は何の気もないようだけれど、同時に是非そうしなくちゃならんのだ、という確乎たる自信を以て、ワシーリイ公爵はピエールに娘を娶(めあわ)すのに必要な、すべての手段を尽したのである。もしワシーリイ公爵が予め自分の計画を熟考したなら、地位の上下に拘わらずあらゆる人に対して、かくまで自然に、かくまで単純に、かくまで馴々しい態度を取る事は出来なかったであろう。彼は始終自分よりも強く且つ富める人の方へ、何者かの力に依って引きずられていた。彼は他人を利用する必要と、可能の兼ね備った一瞬間を捕えるのに、稀有な天賦の才能を持っていたのである。

ついこの間まで孤独で呑気な身の上であったピエールは、突然、財産家のベズーホフ伯爵となって、急に多くの人々に取り巻かれる忙しい体になったので、夜、床(とこ)に入った時、やっと一人きりになれるような心持ちがした。彼は書類に署名したり、彼自身はっきりした理解を持たない諸官省と交渉したり、何かの事を総支配人に訊ねたり、モスクワ付近の領地へ出掛けたり、多数の人を引見したりしなければならなかった。以前、彼らはピエールの存在など知ろうともしなかったが、今ではもし彼が会いたくないなどと言おうものなら、それこそ腹を立てたり、悲観したりするようになった。これ等の種々雑多な人々――事務家、親戚、知人などは、ことごとくこの年若い相続者に対して愛想がよかった。彼らは疑いもなくピエールが優れた資質を持っている事を、あくまで信じ切っているらしかった。二言目には、「世にも珍しく親切なあなたの事ですから、」とか、「あなたのような美しい心を持っていらっしゃるお方は、」とか、「伯爵、あなた御自身実に純潔なお方です、」とか、あるいは「もしあの人があなたくらい賢い人間でしたらねえ、」と言ったようなことを口にする。で、ピエールは段々と心底から、自分は並々ならぬ親切な男で、非凡な才能を持っていると信じるようになった。まして彼は以前から心の奥の方で、実際自分は非常に親切な賢い男だ、というような気持ちがしていたのである。

そればかりでなく以前、彼に対して意地悪く、明らかに敵意を抱いているらしかった人達すら、急に彼に対して優しく愛想よくなって来た。あれほど怒りっぽかった一番上の公爵令嬢(例の長い胴をした、人形のようにぴったり髪を撫で付けた令嬢)までが、葬式が済んだ後わざわざ彼の部屋へやって来た。伏し眼になってひっきりなしに顔を真赤にしながら、彼女は自分とピエールとの間に生じた誤解を、非常に残念に思っている事を述べ、ああ言う打撃を受けた今となっては、自分はもう何を言う権利もない、ただこれまで非常に愛していたこの家――自分が多くの犠牲を捧げたこの家に、たった二、三週間、逗留の許しを乞うよりほかはないと言った。こう言った時、彼女は堪え切れなくなって泣き出した。あの石像のような令嬢がこうも変わるものかと、ピエールはすっかり感動して彼女の手を取りながら、自分でも何のためか分からずに赦しを乞うのであった。この日から令嬢はピエールのために絹の襟巻を編み始めた。そして全く彼に対する態度を変じてしまった。

「ねえ君、どうかあれのためにそうしてやってくれ給え、何と言っても、あれは故人の事で随分苦労したんだからね」何か令嬢の利益を図った書類に署名を求めながら、ワシーリイ公爵はこう言った。

ワシーリイ公爵の考えでは、何と言ってもこの骨片(ほねぎれ)を――三万ルーブリの手形を、可哀そうな公爵令嬢に放ってやらねばならぬ。それは例のモザイクの折鞄(ポートフォリオ)事件にワシーリイ公爵が関係した事を喋り散らされては大変だから、そんな考えを起こさせまいための魂胆であった。ピエールは手形に署名した。それからというもの、令嬢は彼に対してますます親切になって来た。二人の妹令嬢も同様に愛想よくなったが、殊に黒子(ほくろ)のある可愛い末の令嬢は、ピエールの姿を見る度に恥ずかしそうに微笑んでは、彼をまごつかすのであった。

ピエールはすべての人がことごとく自分を愛してくれるのが、極めて自然に思われた。だから、もし誰かが彼を愛さなかったら、恐ろしく不自然に感じたに相違ない。彼は自分を取り巻く人々の真情を疑う訳にいかなかった。それに、彼はこれ等の人々の真情・不真情を顧みる暇がなかったのである。彼はいつも忙しくて、何時もつつましく楽しい酣酔(かんすい)の状態にあった。彼は自分が何かしら重大な世間全体の運動の、中心になっているような気がした。また自分が何かしら或る物を、絶えず人々から期待されているような感じもした。で、もしそれを果さなかったら、彼は多くの人々を悲しませ、その希望を奪う事になる。もしそれを果せば一切の事がよくなるのだ――こう考えて彼は要求される通りをして行った。けれどもこの何かしら善い事は、何時も前の方に取り残されるのであった。

この最初の時期に、誰よりも一番余計にピエールの事務ばかりでなく、ピエール自身までも自由にしていたのは、ワシーリイ公爵であった。ベズーホフ伯爵の死後、彼は少しもピエールを手放さなかった。そして『わたしはいろんな仕事に悩まされて、疲れ切っているのだけれど、この哀れな若者――しかも莫大な財産を持った親友の忘れがたみ(これが一番大事な事だ)を、運命の神や悪者共の掌中に翻弄させるのは、情において忍びないのだよ』と言ったような顔付きをしていた。ベズーホフ伯爵の死後、彼がモスクワに過ごした幾日かの間に、彼は度々ピエールを自分の居間へ呼び寄せたり、また自分からピエールの部屋へ出掛けたりして、ピエールのなすべき事を一々指図するのであった。その疲れたような、しかも確信に充ちた調子は、まるで『君も知っての通り、わたしは両手に余る程の仕事を抱えている。だからわたしが君の世話を焼くのは、全くの慈悲心から出る事なんだよ。そればかりでなく、わたしが君に言ってる事は、実行し得べき唯一の方法なんだから、それを承知して貰いたい』とでも言うようであった。

「ねぇ、君、明日はいよいよ一緒に立つんだよ」ある時、彼は目を閉じて、指で相手の肘をさぐりながら、ピエールに向かってこう言った。それはまるで今自分の言ってる事は、もうとっくに二人の間で決められた事で、その他にはもう何とも決めようがない、と信じ切っているような調子であった。「明日はもう出発するんだよ。君の席はわたしの幌馬車の方で用意するからね。実に嬉しい。ここの主な用件はすっかり片付いてしまった。わたしももうとっくに帰って居るべき筈だったんだよ。所で、これはわたしが総理大臣から受け取った手紙だ。わたしは君の事を依頼して置いたが、君も今度いよいよ外交団に編入されて、侍従武官になったんだよ。これで君のために外交官としての道が拓(ひら)かれた訳になる」

この言葉を発する際に用いられた疲労と確信の調子は、強い力を持っていたにも拘わらず、長い間、一生の方針について思い煩ったピエールは、あわてて言葉を返そうとした。けれどもワシーリイ公爵は例の鳩の鳴くようなバスで彼を遮った。この声は是が非でも相手を説き伏せねばならぬという、非常な場合に応用されるもので、これを遮る事は不可能であった。

「Mais, mon cher(いいや、君)、これはわたしが自分のために、自分の良心を満足さすためにしたのだから、礼なぞ言う事は決して要らない。人から愛され過ぎて不平を言う者は、一人も有りやしないよ。それに君は自由の身だから、明日にもすぐこの職を投げうつ事が出来るじゃないか。まあとにかくペテルブルクへ出て見たら、すっかり自分で分かるさ。それに君はもうとっくに、この恐ろしい記憶から遠ざかるべき筈だったんだよ(ワシーリイ公爵は吐息をついた)。そうなんだよ、君、そうなんだよ……所で君の馬車にはわたしの従僕でも乗せてやったらいい。ああ、そうだ、わたしは危うく忘れる所だった」とワシーリイ公爵は言い足した。「実はねえ、君、わたしと故人との間にちょっとした勘定が残っているのだ。わたしはリャザンの領地から受け取ったものがあるんだが、しばらくこのままにして置こう、君は別に必要が無いんだからね。そのうちによく勘定しよう」

ワシーリイ公爵が「リャザンの領地から受け取ったもの」と言ったのは、幾千ルーブリかの人頭税で、ワシーリイ公爵が自分の手許に残して置いたのである。

ペテルブルクでもモスクワと同じように、優しい愛に充ちた人々の雰囲気がピエールを取り巻いた。彼はワシーリイ公爵の肝入ってくれた職、というよりもむしろ官位を(なぜと言って、ピエールは何もしなかったからである)辞退する事が出来なかった。そして知己や招待や社会上の仕事が山のようにあったので、ピエールはモスクワにいた時よりも、一層ぼうっとしたようなせかせかした感情と、絶えず近付いてはいるけれど、未だに成就されない或る幸福を感じた。

以前の独身者仲間の多くはペテルブルクにいなかった。近衛師団は遠征の途に上り、ドーロホフは奪官され、アナトーリは地方の師団に勤務しているし、アンドレイ公爵は外国へ行っていたので、ピエールは以前好んだような風に夜な夜なを過ごす事も、また時々畏敬する年長の友と隔てのない物語りをして、気晴らしをする事も出来なかった。始終、彼は晩餐会や舞踏会で時を送ったが、主としてワシーリイ公爵の許(もと)で、肥えた公爵夫人や美人のエレンなどと一座して遊び暮らす事が多かった。

アンナ・シェーレルも矢張り一般社交界の人達と同じように、彼に関する意見の変化を示した。

以前ピーエルはアンナ・シェーレルの前へ出ると、何時も自分の言う事はみんな不躾でぶっきらぼうで、不必要な事ばかりで、頭の中で用意してる間は実に気が利いていると思った話も、一旦口に出すや否や馬鹿げたものになってしまって、却ってイッポリートの愚にも付かぬ話の方が気が利いて愛嬌がある、と言うように思われていた。所が今はどんな事でも彼の言った事は、ことごとくcharmant(愛想よく)に聞こえるようになって来た。もっともアンナ・シェーレルはそれを口に出して言わなかった。実際は口に出したくて堪らないのだけれど、ピエールの謙遜の徳を尊重するために、やっとの事で堪えているのだ。それは彼にも分かっていた。

一八〇五年から一八〇六年へ亘(わた)る冬の始めに、ピエールはアンナ・パーヴロヴナから、例の薔薇色の招待状を受け取った。その中には Vous trouverez chez moi la belle Hélène qu'on ne se lasse jamais voir(当夜はかの眺め飽きせぬ美しきエレンの君も参らるべく候)という文句が付け足してあった。

ここの所を読んでいるうちにピエールは、他人に依って承認された一種の関係が自分とエレンとの間に形成されている事を、初めて感じたのである。この想念は、まるで堪え得られぬ義務が落ち掛かったかのように、彼を怯えさせもしたが、また同時に愉快な想像として気に入りもした。

アンナ・シェーレルの夜会は以前と同じようであったけれど、ただ一つ女主人が客を歓待(もてな)すのに利用した新顔の人は、あのモルテマールでなくて、今度ベルリンから帰って来た外交官であった。この人はアレクサンドル皇帝のポツダム行在や、二人の高貴なる親友が人道の敵に対して、あくまで正道を防守せんがために、固き同盟の誓いを立てられた事など、実に珍らしい詳細な報道を齎(もたら)した。アンナは愁(うれ)いの陰を帯びてピエールを迎えた。この愁(うれ)いの陰は、察する所ピエールを襲うた最近の不幸――ベズーホフ伯爵薨去(こうきょ)に関係しているらしかった(この頃すべての人がピエールに向かって、あなたは父親の死のために大変悲しんでいらっしゃいます、と絶え間なしに言って聞かせるのを自分の義務か何ぞのように思っていた。その癖、彼は父親の顔を碌々知らなかったのである)――しかもこの愁(うれ)いの陰は、皇太后陛下マリヤ・フョードロヴナの名を口にする時、アンナの顔に現れる神聖なる愁(うれ)いの表情と、全然同じものであった。ピエールは万更(まんざら)悪い気もしなかった。アンナは何時もの技巧を以て、自分の客間におけるグルーブを整理した。ワシーリイ公爵や将軍達のいる大きいサークルは、外交官の話を聞く事が出来た。今一つのサークルは茶の卓に近く陣取った。ピエールは大きい方のサークルへ交ろうとした。ちょうど戦場における軍司令官のように、無数の新しく華々しい想念が一時に浮んで来るために、それを実行する暇がなくて苛々していたアンナは、ピエールの様子を見付けて指でちょっとその袖に触った。

「Attendez, j'ai des vues sur vous pour ce soir(待って下さい、わたくしこの夜会であなたを当てにしてる事がございますの)」と言って彼女はエレンの方を振り向き、微笑して見せた。「ねえエレンさん、どうぞお慈悲に可哀そうな私の叔母の所へ行ってやって下さいませんか。叔母は常々あなたを崇拝しているのでございますよ。ちょっと十分ばかり居てやって下さいましな。でね、あなたが余り酷く退屈なさらないためには、ここに伯爵がいらっしゃいます。伯爵もあなたのお伴をするのを嫌だと仰しゃらないでしょう」

美しいエレンは叔母さんの方へ向かって行った。しかしアンナは、まだこれから最後の肝要な手配をしなければならぬ、と言った風なふりをして、ピエールを自分の傍へ引き留めた。

「そうじゃありませんか。全くほれぼれするようでございますね?」静かに離れて行く気高いエレンの姿を指さしながら、彼女はピエールに向かってこう言った。「Et quelle tenue(それにあの立ち居振る舞いは何でしょう)ああいう若い娘さんの身で、もうあんな手腕――あんな立派な立ち居振る舞いのこつを心得ていらっしゃるんですものね! これはあの方の優しいお心から出るのでございますよ! あの方を自分のものになさる殿御は、本当にあやかり者でございますわ! あの方と夫婦になったら、どんな交際下手の方でも、自然と社交界で花形の位置を占める事が出来ますわ。そうじゃございませんか? わたくしただちょっとあなたの御意見を伺って見ただけでございますの」と言ってアンナはピエールを放した。

ピエールはエレンの鮮やかな立ち居振る舞いの巧みな事を、心底から賛成した。実際もし彼が何時かエレンの事を考えたとすれば、それは全く彼女の美貌と、社交界にあって無言の中に品位を保つ、落ち着き払った非凡な手腕なのである。

叔母さんは自分の陣取っている片隅に二人の若者を迎え入れた。しかし見た所、エレンに対する尊敬を押し隠して、むしろアンナに対する恐怖を表わそうと望んでいるらしかった。彼女はこの人達をどうすればいいのかと訊くように、ちょいちょい姪の方を振り返った。この連中の傍を離れる時、アンナはまた指の先でピエールの袖に触ってこう言った。

「J'espère que vous ne direz plus qu'on s'ennuie chez moi(多分あなたはこの次に、アンナの所は退屈だなぞと仰しゃらないでしょうねえ)」こう言って彼女はエレンをちらと見返った。

エレンはにっこりしたが、その顔付きはまるで「誰にもせよ、わたしを見て感激せずにいられる人が有るなんて、そんな筈はありません」と言いたそうであった。叔母さんは一つ咳払いをして唾を呑み込みながら、エレンに逢って大に嬉しいとフランス語で言った。それから今度はピエールに向かって、同じ挨拶を同じ顔付きで繰り返すのであった。何の興もない躓きがちな会話の中頃に、エレンはピエールを振り返って、彼女があらゆる人に対して用いる、例の明るい艶(あで)やかな微笑を浮べた。ピエールはこの微笑に馴れてしまっているので、格別それに注意も払わなかった。それ程この微笑は彼に取って表情の少ないものであった。叔母さんはこの時、ピエールの父ベズーホフ伯爵の持っていた、煙草入れの蒐集(コレクション)のことを何やら話しながら、自分の煙草入れを出して見せた。公爵令嬢エレンはこの煙草入れの上に細工してある、叔母さんの良人の肖像を見せてくれと頼んだ。

「これはきっとヴィネスの作でしょう」当時有名な小物細工師(ミニアチュリスト)の名を言いながら、ピエールは煙草入れを手に取ろうとして卓の方へ屈み込み、今一方の卓の会話に耳を傾けた。

彼はぐるっと回って行くつもりで腰を浮かした。が、叔母さんはエレンの後ろから、真っ直ぐにその肩越しに煙草入れを渡した。エレンは邪魔せぬように前へ屈んで、ほほ笑みながら振り返った。彼女は何時も夜会に出る時のように、前後とも恐ろしく開いた当時流行の服を着けていた。いつも大理右のようだとピエールの思っている彼女の上半身(ビュスト)は、ピエールの近眼にも自然(ひとりで)にはっきりと、肩から首筋の生き生きした美しさを見分けられるほど近い所にあった。そして彼女に触れようと思えば、ただちょっと屈めさえすればよいほど、彼の唇はエレンの肩に近かった。彼はエレンの体の温み、香水の匂い、ちょっと身動きする度に響くコルセットの軋みなどを聞いた。彼は着物と融合して或る一つの物を形造っている、エレンの大理石のような美しさを見なかった。彼はただ着物一枚で隠されているに過ぎない、女の肉体美を見、且つ感じたのである。一旦正体を明かされたら同じ迷いを繰り返す事が出来ないように、彼は一度それに気が付くと、もうどうしても他の見方が出来なくなってしまった。

『まあ、あなたはわたしがどんなに綺麗だかって事に、今までお気が付かなかったんですの?』こうエレンが言ってるように思われた。『わたしが女だって事に、あなたはお気が付かなかったんですの? ええ、わたしは誰にでも、またあなたにも自由にされ得る女ですの』と彼女の目付きが語った。この瞬間ピエールは単に可能というくらいの程度でなく、必ずエレンは自分の妻とならねばならぬ、それより他には有りようがないと感じた。

この瞬間、彼はエレンと結婚の式に列(つら)なったと同じくらい正確に、この事の真実さを悟ったのである。どうして何時それが実現されるかという事は、彼にも分からなかった。またこれが果たしていい事かどうか、それも矢張り分からなかった(彼は何故かむしろよくない事だ、と言うような感じさえした)。しかし、それが必ず実現されるという事は、彼も信じていた。

ピエールは一旦目を落としてまた上げた。そして更に彼女を、今まで毎日見ていたと同じような、自分に取って縁のない、遠方の美女として眺めようと試みた。が、もうそれは出来ない事であった。ちょうど以前、霧の中でブリヤーン(荒野に生える茎が太く背の高い雑草の総称。「Бурьян」。)の葉を見て木だと思っていたが、後で草の葉だと気付いてから、もう二度と再び木と見る事が出来ないのと同じであった。エレンは恐ろしく彼に近しいものとなった。そして彼に対して威力を持って来た。もう二人の間には彼自身の意志の障碍よりほか、何らの障碍も無くなったのである。

「Bon(結構でございますね)わたくしあなた方をその隅っこへ打っちゃって置きますわ。そこにいらっしゃる方が、お具合がよろしそうでございますから」というアンナの声が聞こえた。

ピエールはどきりとして我に返りつつ、何か法に外れた事をしはせぬかと、赤くなって周りを見回した。何だか一同の者が、今自分の心に生じた事を、自分と同じくらいよく知ってるような気がしてならなかった。

ややあって彼が大きなサークルへ戻った時、アンナは彼に向かって、「あなたペテルブルクのお館を修繕していらっしゃるそうでございますね」と言った。

それは本当である。技師がそうしなくてはならないと言ったので、ピエールは自分でも何のためやら分からずに、ペテルブルクの大きな家を修理させる事にしたのである。

「C'est bien(結構でございますわ)。けれどワシーリイ公爵のお家から、お引っ越しなさらない方がようございますよ。公爵みたいな友達をお持ちになるのは、全くいい事でございますもの」ワシーリイ公爵にほほ笑み掛けながら彼女はこう言った。「わたくしそれについて幾分存じ寄りの事もございますの。そうじゃありませんか? あなたはまだお若いのですから、親切な忠言が必要でございます。でも、わたくしがこうしてお婆さんの権利を行使するのを、お腹立ちにはなりませんでしょうね」

何時も女が自分の年の事を言った後で口を噤(つぐ)むように、彼女は何やら待ち設けながら口を噤(つぐ)んだ。「もしあなたが結婚でもなさるなら、それなら別問題でございますわ」こう言って、彼女は二人を一つの視線の中に結び合わした。ピエールはエレンを見なかったし、エレンもまた彼を見なかったが、彼女は依然として恐ろしいほど自分に近く思われた。彼は何やら口の中でもぐもぐ言って顔を赤くした。

家へ帰ってからも、ピエールは今日の出来事を考えて、寝就く事が出来なかった。出来事と言って、一体何だろう? 何でもない。彼はただ子供の時から知っている女――「エレンは美人だね」と言われると「ああ綺麗だ」と気にも止めず言った女が、自分のものになり得るという事を了解したばかりである。

『しかしあの女は馬鹿だ、俺が自分で馬鹿だと言ったんじゃないか』と彼は考えた。『あの女が俺の心に呼び醒ました感情の中には、何かしらん穢らわしいものがある、何か禁じられたようなものが有る。何でも、兄のアナトーリがあれに惚れ込めば、あれもアナトーリに惚れ込んで、何だかごたごたがあるので、そのためにアナトーリは他へ遣られたって噂を聞いた。あれの兄のイッポリート……あれの父のワシーリイ公爵……どうもいけない』彼は考えた。しかし彼がこんな風に反省している時、未だこれ等の反省が完了しないうちから、彼は何時しか微笑している自分に気が付いた。そしてこれ等の反省の陰から、また別な反省が浮かび出るのを意識した。彼は彼女のやくざ加減を考えていたが、それと同時にエレンが自分の妻となった時の事や、彼女が自分を愛する様子などを心に描いた。事に依ったら、まるっきり生まれ変わったような女になるかも知れない、そして彼女について自分で考えたり、また人から聞いたりした事は、みな間違っているかも知れない、などと空想を逞しうするのであった。

またしても彼はエレンをワシーリイ某の娘として見ずに、ただ灰色の着物で蔽われた彼女の肉体のみを眺めていた。『しかし駄目だ、それならどうして以前そういう考えが俺の頭に浮んで来なかったのだ?』こう考えて、彼はそんな事は到底不可能だと自分で自分に宣告した。この結婚の中には何かしら穢らわしい、不自然な、卑劣なものが含まれているように感じられた。彼は彼女の以前の言葉や眼付き、それから自分ら二人を並べて一緒に眺めた人達の言葉や眼付きなどを想い起こした。彼はまた家の事を自分に話し掛けた時の、アンナの言葉と眼付きを想い起こし、ワシーリイ公爵その他の同じような、無数の謎めいた言行を想い起こした。と、彼は急にぞっとした。明らかに善くない、決してしてはならぬと信じている事について、何か自分で自分を縛るような行為をしたのではあるまいか? こう思いながら、また同時に心の一方の隅から、かの女らしい美に充ちたエレンの姿が浮び出るのであった。


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