戦争と平和 第六編, レフ・トルストイ

二十


ある朝、アドルフ・ベルグ大佐がピエールを訪ねて来た。ピエールはモスクワとペテルブルクの人をことごとく知っていたから、このベルグをも承知していた。ベルグはさっぱりした仕立卸しの軍服をつけ、皇帝と同じように髪を前の方へ撫でつけていた。

「わたしは今、奥様の所へお邪魔に上がったのですが、不幸にして願いを諾(き)いて頂けませんでした。伯爵、あなたはきっとわたしを幸福にして下さる事と信じますが」彼は微笑しながらこう言った。

「何ですか、大佐? お役に立つ事ならわたしは悦んで……」

「実は、今度、新しい住居に落ち着きましたので、」この事実は誰が聞いても不快な筈はない、と信じ切ったような調子で彼は披露した。「それでわたし達夫婦の知人のために、ちょっとした夜会を催したいと思いまして(と彼はまた一層気持ちよく笑った)、何もございませんがお茶でも飲んで、夜食でも召し上がって頂くように、ご令閨(れいけい)並びに伯爵のお出でを願いたいと存じたのですが」

所が、エレンはベルグ風情と席を共にするのを、自分の体面に関わることと思って、没義道(もぎどう)にこの招待を断ってしまった。ベルグはなぜ自分が少数の優れた人々を自宅に集めたいと思うか、なぜそれが自分に取って愉快であるか、なぜ自分が歌留多(カード)とか何とかいう悪い事には金を惜んでも、優れた人々と一座するためには少しくらいの費用を厭(いと)わないかという訳を、事理明白に述べ立てるので、ピエールは断り兼ねて出席を約した。

「但し伯爵。あまり遅くならないようにお願いします、勝手がましゅうございますけれど、八時十分前にお願いします。ボストンの勝負もある筈です。わたし共の将軍閣下もお出でになりますから。閣下はわたしに大変親切にして下さるのです。夜食でも一緒に頂きましょう。ねえ、伯爵、どうぞ宜しくお願いします」

いつも遅刻の癖があるピエールも、今日は珍しく八時十分前の所を、十五分前にベルグの宅へ着いた。ベルグ夫婦は夜に必要なものを調べて、もう客を迎えるばかりにしていた。

胸像(ビユスト)や絵画や新しい道具を飾り付けた、清潔な、明るい、新しい書斎には、ベルグ夫婦が坐っていた。ベルグはきちんとボタンをかけた、新しい軍服を着て妻の傍に座を構え、常に知己というものは自分より上の人を選ばなければならない、そうしてこそ始めて交友の快味があると言う事を、くどくどと妻に説いて聞かせるのであった。

「何かの事も習い覚えるし、何かの依頼も出来るというものだ。早い話がわたしの任官以来の勤めぶりさ(ベルグは自分の生涯を年代でなしに、主立った行賞に依って勘定していた)。わたしの同僚は未だ一向名も出さないでいるが、わたしはもう連隊長心得の栄位を占めている。そしてあなたの良人たるの光栄を有している(彼は立ち上がってヴェーラの手を接吻したが、そのついでにめくれている絨氈の隅を直した)。しかもだね、何によってこれを得たと思う? 外(ほか)ではない、主として交友の選択が巧かったからだよ。そりゃ勿論、徳もなくちゃならんし、規律的でもなくちゃならんがね」

ベルグはか弱い女性に対する自己の優越を感じて微笑した。この可愛い妻も、畢竟(ひっきょう)ずるに ein Mann zu sein(男であること)――男子の器量の何たるやを、充分理解する事の出来ぬ、か弱い女性であると考えたからで。ヴェーラもこの時、矢張り、良人に対する自己の優越を感じて微笑した。ヴェーラの考える所では、彼は徳の高い立派な人であるけれど、それでもすべての男子の常として、人生を正しく解していない。ベルグは自分の妻を標準として、あらゆる女を弱い愚かなものと思っているし、ヴェーラは自分の良人一人を基とした観察を拡張して、あらゆる男性は理性というものを、自分だけの独占物のように思っていながら、そのくせ何にも分からない、傲慢な利己主義者(エゴイスト)だと考えた。

ベルグは立ち上がった。そして高い価を払ったレースの襟巻を皺にしないように、そっと妻を抱いて唇の真上に接吻した。

「ただね、あまり早く子が出来なければいいがねえ」自分に取っても無意識な連想作用で、ベルグはこんな事を言った。

「ええ」ヴェーラは答えた。「わたしもそんな事ちっとも望みませんわ。社会のために生活しなくちゃなりませんもの」

「ちょうどこんな風なのをユスーポヴァ公爵夫人も掛けていたっけね」ベルグは幸福げな人の好い微笑を浮べて、襟巻(ショール)を指さしつつこう言った。

この時、取次がベズーホフ伯爵の来着を報じた。夫婦はどちらもこの光栄を自分の手柄にしながら、得意の笑みを浮べて顔を見合わせた。

『つまりこれを上手な知己の選みかたと言うのだ』とベルグは考えた。『つまりこれを上手に立ち回るというのだ!』

「ただお願いですからね、」とヴェーラは言った。「わたしがお客様の相手をしている時に、あなた傍から口を出さないで下さい。どういうお客様の相手はどんな具合にするものか、またどんな席ではどんな事を言うものか、わたしちゃんと知っていますから」

ベルグはただにやりと笑った。

「そりゃいけない。場合に依っては、男の相手は男でなければならない事があるもの」と彼は言った。

ピエールは小新しい客間へ通された。そこは均整(シンメトリイ)と清潔と秩序を破らずには、どこへも坐れない程きちんとしていた。それ故ベルグがこの珍客のために、安楽椅子か長椅子の均整を破る事を快(こころよ)くピエールに薦めながらも、自分自身この点に付いて、病的なほど思い迷っているらしく、仕方なしに問題の解決を客の選定に任せたのも、敢えて怪しむに足らぬ。ピエールは一つの椅子を自分の方へ引き寄せて、部屋の均整を破ってしまった。と同時に、ベルグとヴェーラは互いに遮り合いながら、客のお相手をしに掛かった。で、夜会は始まった。

ヴェーラはピエールのお相手をするには、フランス公使館の話がいいと腹の中で決めてしまって、すぐにその話を始めた。ベルグはまた、男には男らしい話も必要だと決めながら、妻の話を遮って、オーストリア戦争の問題を持ち出した。そして何時の間にか一般の問題から外(そ)れて、自分がこの役に出征しろと勧められた事だの、それを承諾する事が出来なかった訳だの、自分の身の上話などに飛んでしまった。談話は纏まりのないものであったし、ヴェーラが男性の容喙(ようかい)に憤慨したりしたけれど、それでも夫婦の者は大恐悦であった。客は一人しかないにしろ、夜会は具合よく始まった。そして談話、茶、蠟燭の明かり、すべての様子が他所(よそ)の夜会と瓜二つほど似ている、と心の中で感じたからである。

間もなくベルグの旧友ボリースが来た。彼は幾分優勝者、保護者という気味合を以てベルグ夫婦に対していた。ボリースの後から或る夫人が大佐と一緒にやって来た。続いて主賓たる将軍を始め、ロストフ家の人々が現れたとき、夜会はもはや全然疑いもなく、すべての他所の夜会に似通って来た。

こうした客間の中の運動や人々の会釈を見、取り留めのない話しや衣摺(きぬず)れの音を聞いた時、ベルグとヴェーラは悦びの微笑を禁じ得なかった。すべてがほかでする通りである。殊に将軍が夫婦の住居を褒めて、ベルグの肩をぽんと叩いたり、父親か何ぞのように無遠慮な態度で、ボストン卓(テーブル)の配置を指図したりする所など、もうそっくりそのままであった。将軍は自分に次いで一番の主賓たる、ロストフ伯爵の傍に座を占めた。老人は老人同士、若い者は若い者同士、そして主婦は茶卓の前に坐った。卓の上にはバーニン家の夜会とそっくりそのままの菓子が、銀の籠に入っている。何から何まですっかり他所(よそ)と同じであった。