戦争と平和 第七編, レフ・トルストイ

六


老伯爵は帰宅した。ナターシャとペーチャはすぐに帰ると約束して居残った。未だ早かったので猟を続ける事にした。正午、一行は若木の密に茂っている谷間へ追犬(ゴンチイ)を放った。ニコライは刈入れ跡の畑に立って、手下の猟師ら一同を見守っていた。

ニコライの真向かいには、青々とした秋蒔畑があって、そこでは高い胡桃の茂みの陰に、一人の勢子が穴の中に立っていた。一同が追犬(ゴンチイ)を放つや否や、彼は耳馴れた一匹の犬――ヴォルトールンの吠え声が、間を置いて起るのを聞き付けた。他の犬もそれに和して、しばらく鳴き止んだかと思うと、また吠え始めるのであった。一分の後、森の中から狐の真似声が聞こえた。と、猟犬は全部ニコライの傍を離れ、渓に沿うて青い畠の方へ、一塊りになって追って行った。

彼は赤い帽子を冠(かむ)った幾人かの猟犬係が、木の一杯茂った谷の端を走って行くのを見た。犬の姿までちゃんと指摘された。彼は向こう側の畠の中に狐が現れるのを、今か今かと待ち構えていた。

穴の中に立っていた猟師が動き出して犬を放した。その時ニコライは、一匹の背の低い奇妙な赤狐を見た。狐は尻尾を円く膨らませながら、急がしげに畠中を走っている。犬がその方へ追い付き始めた。とうとうすぐ傍まで近寄った。狐は輪を描いてその間を飛び回り出した。その輪が段々目まぐるしくなって来て、狐は太い尻尾をくるくる振り回し始めた。遂に誰かの白犬が躍りかかったと思うと、その後から黒いのが続いた。やがて何もかも一緒に入り交ると、犬は色んな方向に尻を並べて星形を作りながら、ざわざわと蠢きつつ狐の周りに首を集めた。犬の方へ二人の猟師が駆けつけた。一人は赤い帽子を被っていたが、今一人見覚えのない方は、緑色の上衣を着ていた。

『一体何事だろう?』とニコライは考えた。『あの猟師はどこから出て来たんだろう? あれは小父さんのでもない』

二人の猟師は狐を取り上げてから、鞍の後ろに結え付けようともしないで、長く徒歩のままで立っていた。馬は綱に繋がれたまま鞍を聳(そび)やかしながら立っているし、犬はごろごろ寝そべっていた。二人の猟師は手を振り回しながら狐をどうかしていた。やがてそこからラッパの響きが起こった――それは猟師仲間の約束となっている争闘の合図であった。

「あれはイラーギンの猟師が、家のイヴァンと何か口論していますので」とニコライの馬丁が言った。

ニコライは妹と弟を呼びに馬丁をやって、猟人掛かりが追犬(ゴンチイ)を集めている場所をさして、ゆるゆると馬を進めた。幾人かの猟師は喧嘩の方へ駆け出した。

ニコライは馬を下りて、ちょうど来合わせたナターシャやペーチャと共に犬の傍に佇みながら、喧嘩がどんな風に終わるかと知らせを待っていた。やがて喧嘩をしていた当の猟師が、鞍の後ろ紐に狐を結え付けて、森の外れから現れて若主人の傍へ近付いた。彼は遠くから帽子を取って、丁寧な言葉で話し掛けようとしたが、その顔は青ざめて息使いは忙しく、毒々しい表情をしていた。彼は片目を酷く打たれていたが、多分自身では気が付かないのであろう。

「一体貴様らはあそこで何をしていたのだ?」とニコライが訊いた。

「何だってかんだって、あいつ人の犬を出し抜いて猟をしようとしやがるんです! それに押さえたのもわっしの牝犬でさあ。あの肉の固い犬なんでがす、まあどこへでも行って聞いて貰うがいい! 人の狐に手を掛けやがるから、わっしもあいつを狐のように引っ転がしてやったんでさあ。御覧下さい、この通り鞍紐につけて参りやした。ほんとに此奴でも食(くら)いたいと言うのか……」猟師は七首を指さしながらこう言った。大方まだ敵と話してるような気がしたのであろう。

ニコライは猟師と口を利かないで、妹と弟に少し待つように吩咐(いいつ)けて、この憎むべきイラーギン一行のいる所へ出掛けた。

勝利者たる猟師は仲間の群へ乗り入って、同情と好奇の眼を向ける人々に取り巻かれながら、自分の手柄話を始めるのであった。

それはつまりこうであった。以前からロストフと不和の間柄で、訴訟問題を起こしているイラーギンが、いつも習慣上ロストフ家に属している猟場で狩りをしていたが、今日もまるでわざと狙ったように、ロストフ家の狩りしてある森へ近付いて、手下の猟師によその犬を出し抜いて猟をさせたのである。

ニコライは一度もイラーギンを見た事がないけれど、いつも判断や感情に中庸を知らぬ彼の性質として、この地主の乱暴放恣(らんぼうほうし)を噂に聞いただけで心から彼を憎み、最も呪うべき仇敵と決めてしまっていた。彼は今、憤怒と興奮に駆られて、手に固く鞭を握りしめながら馬を進めた。次第に依ったら、思い切って危ない事をもし兼ねない勢いであった。

彼が森の窪みから外へ出るか出ないかに、美しい青馬に跨り、ビーバーの帽子を被って、出会い頭にやって来る肥った紳士を認めた。二人の馬丁が後ろに付き添っていた。

イラーギンは仇敵どころか、却って若伯爵との知己を希望している、礼に篤い立派な地主だ、という事をニコライは発見した。イラーギンは近寄りながら、ビーバーの帽子をちょっと取って、自分は先程の出来事を大変心配している、そして無礼にも人の犬を出し抜いて猟をした勢子を罰するように命じたという話をして、ニコライに今後、心安く願いたいと申し入れた。そして猟のために自分の狩場を提供したのである。

ナターシャは、兄が何か恐ろしい事を仕出かしはせぬかと心配して、胸を躍らせながら少し離れて後をつけて来たが、二人の仇敵が仲好さそうにしているのを見て、その傍へ寄って来た。イラーギンは前よりもっと高くビーバーの帽子を抬(もた)げて、気持ちよく微笑しながら、お嬢さまは狩猟の趣味と評判の美貌とで、ダイアナ(ローマ神話に登場する首領、樹木、月の女神。「ディアーナ」とも。)に彷彿していると言った。

イラーギンは手下の猟師の罪を償うために、一里ばかり離れた山の麓にある、自分の取って置きの場所へ行こうとロストフを説いた。そこには彼の言葉によると、兎がうようよする程いるとの事であった。ニコライは承諾した。で、今までの倍に増えた猟隊はまた先へ進んで行った。

イラーギンの狩場へ行くには、原を通らなければならなかった。猟師は列を揃えて進んだ。主人側の人達は一緒になった。小父さんとロストフとイラーギンは、気取られないようにそっと人の犬を見回して、不安の念を抱きながら、我が持犬の競争者を探すのであった。

イラーギンの飼犬の中、特に見事な姿でロストフを驚かしたのは、黒い目の飛び出した、鼻面の細い、肉の堅い、余り大きくない、純ロシア種の赤斑の牝犬であった。彼は兼ねてイラーギンの犬の活発な事を聞いていたが、この美しい牝犬においてミルカの競争者を見出した。

イラーギンは今年の収穫の事を、物々しい調子で話し出したが、ニコライはその話の途中で赤斑の牝犬を指さしながら、「あなたのこの牝犬はなかなか見事ですね!」彼はさりげない調子でこう言った。「活発ですか?」

「これですか? ええ、これはちょっといい犬です、中々捕(と)りますよ」イラーギンは自分の赤斑のエルザの事を、無関心な調子でこう言った。その実一年ばかり前この犬が欲しさに、三家族の百姓を近所の人に譲ったのである。「で、伯爵、あなたの方の収穫(みいり)はあまり感心しませんか?」彼は一旦始めた話を続けるためにこう言った。そして伯爵にも同じ辞令を以て報いるのを礼儀と考えたので、イラーギンは相手の犬を見回して、幅広い体格の目に立つミルカを選び出した。

「あなたの方ではあの黒い斑が結構ですな――よく整っている!」と彼は言った。

「左様、悪くもないです、中々走りますよ」とニコライは答えた。『ああ今に親兎が原中を駆け出したら、これがどんな犬だか見せてくれるんだがなあ!』と彼は考えた。そして馬丁に向かって、寝ている兎を見付けたものには、一ルーブリ遣ると触れ出した。

「わたしは何ですよ」とイラーギンは語を続けた。「他の人が犬や獲物を羨むのが、合点が行かないですよ、自分だけの意見を申しますとね、伯爵、わたしはただ馬に乗って歩き回るのが愉快なんです。こうしてあなたのようなお連れと一緒になれば……これより愉快な事はありませんよ(と彼はまたしてもナターシャに向いて、例のビーバーの幅をちょっと抬(もた)げた)。所で、獲物を幾ら持って帰ったなんて事は――わたしに取ってはどうだって同じなんですよ!」

「いや、全く!」

「あるいは獲物を捕まえたのが自分のでなくって、他人の犬だというようなことは、どうだって構やしません――わたしは猟を見てさえいりゃ面白いんですからね。そうじゃありませんか、伯爵? ですからわたしの考えは……」

「やッ、居たぞ!」この時歩みを止めた一人の猟師が、引き伸ばしたようにこう叫ぶのが聞こえた。彼は刈入れ跡の小高い所に立って鞭を振り上げ、今一度言葉尻を引きながら繰り返した。「居たぞ――居たぞ!」(この言葉の響きと振り上げた鞭とは、彼が目の前に臥(ね)ている兎を見付けた事を示した)。

「ああ、見付けたらしいですな」イラーギンは無頓着らしくこう言った。「どうです、伯爵、一つ追って見ますかね!」

「そうですな、傍へ行って見ましょう……所で、どうです、一緒にやっては?」エルザと小父さんの赤犬ルガイを見つめながら、ニコライはこう答えた。この二匹の競争者と自分の犬とを、彼は未だ一度も較べた事がなかったのである。『さあ、これから俺のミルカをどんな風にへこますか、一つ拝見しましょうよ!』イラーギンと小父さんと轡(くつわ)を並べて、兎の方へ近付きつつ彼はこう考えた。

「親兎か?」始めて見付けた猟師に近寄って、イラーギンはこう訊いた。そして幾分胸を躍らせつつ振り返って、エルザを口笛で呼んだ。

「所で、ミハイル・ニカノールイチ、あなたはどうなさる?」と彼は小父さんの方を向いた。小父さんは眉を顰めつつ馬を進めていた。

「なんの、わたしなんか出しゃばる幕じゃありませんよ。実際あなた方の犬は――いよう素敵素敵――と言いたい程ですよ。何しろ犬一匹に村一つ投げ出した千金の代物ですからな。まあ、あなた方は御自分の犬を試して御覧(ごろう)じ、わたしは見物と出掛けましょうよ!」

「ルガイ! 来い来い」と彼は叫んだ。「ルガーユシカ!」と言い足したが、この砕けた呼び方の中に、赤い牡犬に対する希望と愛情とが、知らず識らず現れていた。ナターシャはこの二人の老人と兄との間に隠れた興奮を、見もし感じもして、自分まで一緒に興奮していた。

高みに立った猟師は鞭を差し上げている。主人側の人達は並足でその傍へ近寄った。ほとんど地平線の上を進んでいた追犬(ゴンチイ)は、兎を避けて方向を変えた。勢子達も動き出した。すべてのものは静々と物々しく進んで行った。

「どっちへ頭を向けて臥(ね)てるんだ?」高みに立っている猟師から百歩ばかり手前へ来た時、ニコライはこう訊ねた。

しかし猟師の答える暇もない中に、不意に兎は身近く迫った危険を嗅ぎつけると、居堪まらなくなって飛び上がった。二匹ずつ繋がった追犬(ゴンチイ)の群は唸り声を立てながら、驀地(まっしぐら)に兎を追って山を馳せ下った。紐をつけていない猟犬が四方から、追犬(ゴンチイ)と兎を目がけて飛び出した。今までのゆっくりと動いていた一行のすべては、一度にどっと原中を駆け始めた。猟犬係は「止まれえ」と叫び、猟師らは「それッ」と喚いてし嗾(けしか)けながら、犬をまごつかすのであった。落ち着いたイラーギンも、ニコライも、ナターシャも、小父さんも、自分がどこへどう走っているかも知らず、ただ犬と兎のみに目を注ぎながら、一瞬間も猟の経過を見逃さないように、夢中になって飛んで行った。

兎は親兎の敏捷な奴であった。飛び起きた時もすぐに駆け出さないで耳をくるくる回しながら、急に四方から起こった叫び声と、馬の足音に耳を傾けるのであった。始めは余り急がず十歩ばかり跳ねて、犬を自分の方へ近寄せたが、やがて遂に危険を悟って方向を定めると、耳をぴたりと臥(ね)かせて全速力で疾駆し始めた。兎が臥(ね)ていたのは刈入れ跡の畑であったが、前の方は秋蒔畑で歩きにくい泥土であった。兎を見付けた猟師が連れていた二匹の犬は、一番近くに居合わせたので、真先に気が付いて追い始めた。しかしそう近くまで追い詰めないうちに、その後からイラーギンの赤斑のエルザが躍り出た。そして犬一匹の距離しかあまさぬ所まで近付いて、兎の尻尾を狙いながら恐ろしい速力を以て飛び掛かった。エルザはもう摑まえた事と思って、独楽(こま)のように転がった。兎は背中を高く曲げて、なお猛烈に速力を増した。エルザの陰から、尻の大きい黒斑のミルカが乗り出して、みるみる兎に追い付いた。

「ミールシカ! やってくれ!」というニコライの勝ち誇ったような叫びが聞こえた。もう今にもミルカは兎を打ち倒して押さえそうに見えた。が、ミルカは追い越して駆け抜けてしまった。兎がちょっと交(かわ)したのである。再び美しいエルザは立ち直って、今度こそ失敗(しくじ)らないで、股(もも)を咥えようと狙いを付けるかのように、兎の尻尾のすぐ上に首を差し伸べていた。

「エルザンカ! 別嬪さん!」という泣くような、自分のものとも思われぬイラーギンの声が聞こえた。けれどエルザは彼の哀願を容れなかった。確かに咬み付いたと思った瞬間に、兎はちょっと身をかわして、秋蒔畑と刈入れ跡との境へ飛び出した。またもやエルザとミルカとは二頭立ての馬のように、並行して兎を追っ掛け始めた。境の畦道では兎の方に勝手がよかったので、犬はそう早く近付く事が出来なかった。

「ルガイ! ルガーユシカ! いよう素敵素敵!」この時また別な声がこう叫び出した。背の丸い小父さんの持犬――ごろごろした赤い牡犬のルガイが、一杯に伸ばした背をうねらせながら、先頭の二匹に追い付いたと思う間もなく、もうその先に乗り出した。そして恐ろしい命懸けの勢いで速力を増して、いきなり兎の真上に躍りかかり、畦道から青い秋蒔畑へ追い出したが、また前より一層獰猛な勢いで泥深い畑の中を、膝まで埋りながら速力を出した。と思うと、背を泥だらけにして、独楽(こま)のように兎と一緒に転がったのが、目に入ったばかりである。多くの犬は直ちに星形になってそれを取り巻いた。

一分の後、一同は群がる犬の傍に立っていた。ただ一人有頂天になった小父さんは、馬を下りて兎の足を切り落とした。血をきってしまうために死骸を振りながら、手足の置き場がないと言ったような風付で、目をきょろきょろさせながら、不安げに辺りを見回した。そして自分でも誰を相手に、何を言ってるか分からないで、「いや、実に素敵素敵……実に立派な犬だ……千万金の犬をどれもこれも抜いてしまった、いよう素敵素敵」息を切らして憎々しげに一同を見回しながら、彼はこう言った。それはちょうど誰もかれも俺の仇だ、皆が俺に恥をかかせた、しかし今こそとうとうその恥を雪(そそ)いだぞ、とこう一同を罵るような語調であった。「あなた方の千金の名犬というのはそんなものですよ――いや、素敵素敵!……」

「ルガイ、それ足をくれてやる!」彼は泥の付いた足を投げつつこう言った。「大手柄だ――いや、素敵素敵」

「ミルカは弓折れ矢尽きたんだ、三度も追っ付いたんだがなあ」ニコライは矢張り誰の言う事も聞かず、また人が聞いていようと居まいと頓着なしにこう言った。

「一体これァ何のこったい、まるであべこべだ!」とイラーギンの馬丁が言った。

「ああ、惜しい所で頓挫したものだ。ああ追いつめられた所なら、そんじょそこらの番犬にだって摑まるわけさ」と同時にイラーギンが言った。走ったのと気が立ってるのとで、赤い顔をしながらやっとの事で息をついでいた。それと同時にナターシャは息もつかないで、耳ががんというほど甲高い声で、嬉しそうに有頂天になって叫んだ。彼女は他の人達が一斉に発した色々の言葉と同じ意味を、この叫びで現したのである。この叫び声は実に奇麗なものであった。もしこれが他の場合であったら、ナターシャ自身もこの粗野な声を恥ずかしく思い、他の人もびっくりしたに相違ない。小父さんは巧みに元気よく、馬の尻へぽんと兎を放り上げて、自分で鞍紐へ結び付けたが、その放り上げる手付きで以て、皆の者に対する非難を示したようであった。彼は誰とも口を利きたくないと言った様子で、栗毛の馬に跨ってどんどん歩き出した。小父さん以外のすべての者は、侮辱されたような浮かぬ顔をしててんでに動き出した。そして大分しばらく経つまでは、以前の取りつくろった、平気な態度に立ち帰ることが出来なかった。人々はしばらく赤毛のルガイを見守っていた。ルガイは丸い背中を泥まみれにして、鎖をがちゃがちゃ鳴らしながら、勝利者らしい落ち着いた風付で、小父さんの馬の足下について歩いて行った。

『何でもありません、猟に関係のない時は、わたしだって他の犬と同じこってすよ。しかしいざとなると、気を付けなきゃ駄目ですぞ?』ニコライはこの犬の顔付きが、こんな事を言ってるように思われた。

大分経った後、小父さんはニコライの傍へ寄って話し掛けた。ニコライはあんな事があった後にも拘わらず、小父さんが自分と口を利いてくれたので、何だか嬉しいような気持ちがした。