戦争と平和 第八編, レフ・トルストイ

十


幕間になると、エレンの桟敷へさっと寒気が流れ込んで戸が開いた。そして傍の人に触らぬように気を付けながら、アナトーリが身を屈めて入って来た。

「ちょっとわたしの兄を御紹介させて頂きます」ナターシャからアナトーリへと、不安げに視線を走らせながらエレンがこう言った。

ナターシャは自分の美しい顔を、露わな肩越しに、この好男子の方へ向けてほほ笑んだ。アナトーリは彼女の傍近くを占めた。彼は傍から見ても、矢張り遠くから見ると同じように美しかった。自分はずっと以前ナルイシュキン家の舞踏会以来、お近付きの光栄を願っていた。あの時の事は決して忘れない、などと彼は言った。アナトーリは男連に交っているよりも、女と一座した時の方が、遥かに気が利いて淡白であった。彼は大胆なさばけた口の利き方をした。この男がかねがね話に聞いたような恐ろしい所は少しもなくて、却ってごく無邪気で、快活で、人のいい微笑の持ち主だと言う事は、ナターシャに取って甚だ奇怪でもあり、同時に快(こころよ)くもあった。

クラーギンは芝居の印象を訊ねてから、前興行の時セミョーノヴァが演技中に倒れた事を、ナターシャに話して聞かすのであった。

「ねえ、ロストーヴァさん」彼は古くからの知り合いか何ぞのように、突然彼女に向かってこう言い出した。「今、僕らは仮装の騎馬遊戯(カルセール)を計画してるんですよ。あなたにも是非加わって頂きたいんですが。中々愉快なものですよ。みんなカラーギナさんへ集まる事になってるんです。どうぞお出で下さいませんか、ほんとに、ね?」と彼は言った。

彼はこう言いながらも、ナターシャの顔や、首や、あらわな手から、微笑を含んだ目を放さなかった。ナターシャは彼が自分に随喜渇仰しているという事を少しも疑わなかった。それは彼女に取って嬉しかったけれど、しかしアナトーリと同席していると、何故か窮屈で息苦しいような気持ちになって来た。こちらで向こうを見ていない時にも、彼が自分の肩を眺めているのを感じた。そしてもうむしろ目を見られた方がいいと思って、いつしか相手の視線を捕えているのであった。けれどもそうして彼の目を見詰めているうちに、いつも他の男に対して感じる羞恥の垣が、アナトーリとの間にはもう無くなっているのに気が付いて、彼女は思わず愕然とするのであった。彼女は自分でも何故か分からなかったが、五分の後には、恐ろしいほど男の心に近付いた事を感じた。時々彼に背中を向ける時など、彼が後ろから自分のあらわな手を摑んで、首筋の辺りへ接吻しはせぬかと、ナターシャは恐ろしくて堪らなかった。彼らはごく有り触れた世間話をしたばかりだが、彼女は今までかつて感じた事のない程、この男の胸に近付いたのを自覚した。ナターシャは一体これはどう言う訳かと訊くように、エレンと父の方を振り返った。しかしエレンはどこかの将軍と話で夢中になって、彼女の目付きに答えなかった。また父の目は何時も口癖の『面白いかね。いや、それでわしも満足だ』というような表情の外(ほか)、何一つ彼女に語ってくれなかった。

ばつの悪い沈黙が襲うて来ると、アナトーリは少し出張った目で、まじりまじりと落ち着き払って彼女を眺めた。こんな時に一度ナターシャは沈黙を破るため、モスクワはお気に召しましたかと訊いた。ナターシャはこう訊くとすぐ顔を赤くした。彼女はアナトーリと話している間中、絶えず何か無躾な事をしているような気がしてならなかったのである。アナトーリはそれを励ますかのようにほほ笑んだ。

「僕は始めあまり感心しなかったです。なぜって、町を快(こころよ)く思わせるのは Ce sont les jolies femmes(美しい婦人ですからねえ)。そうじゃありませんか? 所が、今はもうすっかり気に入りました」意味ありげに彼女を見詰めながら、彼はこう言った。「騎馬遊戯(カルセール)へいらっしゃいますか、あなた? いらっしゃいよ」彼は相手の花束へ手を伸ばし、声を低めながらこう言った。「Vous serez la plus jolie(あなたはその中でも一番美しいでしょう)。いらっしゃいよ、ねえナタリヤさん、そしてその言質にこの花を僕に下さいな」

ナターシャは当のアナトーリと同様に、彼が何を言ってるのか分からなかった。しかしその訳の分からない言葉の中に、無躾な意味が含まれているのを感じた。彼女は何と答えていいか分からなかったので、聞かない振りをして顔を反けた。が、顔を反けると同時に、ナターシャは彼がついそこに、すぐ後ろに、自分の傍にいる事を考えた。

『今どうしてらっしゃるかしら? きまり悪く思ってらっしゃるかしら? 何とか取り繕ったものかしら?』と彼女は自分に問い掛けて見た。しかしどうしても振り向いて見ずにはいられなかった。彼女はひたと男の目を見詰めた。するとその位置の近い事や、恃(たの)む所ありげな様子や、人の好さそうな優しい微笑などが、遂に彼女を征服したのである。彼女はひたと男の目を見詰めながら、相手と同じような微笑を浮べた。と、再び自分とアナトーリの間に、もう何の隔てもないという事を感じて、彼女は思わずぞっとした。

再び幕が上った。アナトーリは落ち着き払って、愉快げに桟敷を出て行った。ナターシャは現在の世界にすっかり同化されて父の桟敷へ帰った。もう目の前に行われる事が、すべて彼女に取って全く自然に見えて来た。けれどその代わり、以前のように未来の良人や、小姑や、田舎の生活などを想う心は、まるで遠い遠い昔の事のように、一度も彼女の頭に浮んで来なかった。

四幕目では何か悪魔のようなものが出て来て、いつまでもいつまでも手を振りながら唱っていたが、とうとう足下の板が沈んで下へ落ちてしまった。ナターシャが四幕目の中で目を留めて見たのは、ただこれ一つ切りである。何となくそわそわして悩ましい気持ちであった。しかもこの原因は、彼女が無意識に目で追い回している、アナトーリ・クラーギンであった。劇場を出た時、アナトーリは彼らの方へ寄って来て、馬車を呼び出したり、皆の者を扶(たす)け乗せたりした。ナターシャを乗せるとき、彼は肘より少し高い辺をぐっと握りしめた。ナターシャは興奮して赤くなった顔を其方へ振り向けた。彼は目を輝かして優しくほほ笑みながら、じっと彼女を見詰めるのであった。


家へ帰って始めて、ナターシャは自分の身に生じた事を、はっきり考える事が出来た。そして突然アンドレイ公爵のことを思い出すと、彼女は思わずはっとした。そして皆のいる前で(一同は芝居から帰ると茶の卓に向かった)大きな声で「ああ」と叫んで、真赤な顔をしながら部屋を駆け出した。

『ああ、どうしよう! わたしは駄目になった?』と彼女は独り言ちた。『どうしてわたしはこんなになるまで打(う)っ棄(ちゃ)って置いたのだろう?』彼女は真赤になった顔を両手で蔽いながら、長い間じっと坐っていた。そして今日、自分の身に起こった事を、明瞭に解剖しようと努めた。しかし自分の身に起こった事はさて置いて、自分の感じている事すら了解出来なかった。彼女には何もかも朦朧として恐ろしく思われた。

あの広大な灯り目眩(まばゆ)い劇場の内――金箔のぴかぴかする短衣を着て、足もあらわなデュポールが、湿った板の上を音楽に合わして踊り回ると、令嬢も老人も、平然と誇らしげな微笑を浮べた裸のエレンも、有頂天になって善哉(ブラーヴオ)を叫ぶ劇場の内――そこでエレンの陰に坐っている時は、何もかも簡単明瞭であった。所が自分一人きりになって見ると、それが急に不可解になって来たのである。『これは一般どういう訳だろう? あの人の前で経験した恐怖は一体何だろう? そして今、心に感じる良心の苛責はどうした事であろう?』と彼女は考えた。

ナターシャが夜、寝床の中で自分の思った事を、すっかり打ち明け得る人は、母夫人を措いて外(ほか)にない。ソーニャは例の堅固で厳格な見地からして、彼女の告白を聞いてぞっとするほど恐ろしがるか、それとも何一つ分からないでしまうか、どちらかである。それはナターシャもよく承知していた。ナターシャは自分を悩ます問題を独力で解決しようと努めた。

『わたしはもうアンドレイ公爵を愛する事が出来なくなったのかしら?』彼女はこう自問したが、自ら慰めるような薄笑いを浮べつつ、答えるのであった。『まあ、こんな事を訊くなんて、わたし随分馬鹿だわ! 一体わたしにどんな事が起こったんだろう? 何にも有りやしないわ。わたしは何にもしやしない、何一つ挑発的な事もしやしない。誰も気の付く筈はない、それにわたしはもう決してあの人に会わないからいい』と独り言ちた。『だから何にも起こらなかったって事は確かだわ。何も後悔する事なんか有りやしない。それにアンドレイ公爵だって、わたしをこんな女として愛して下さるかも知れない。だけどこんな女とはどんな女だろう? ああ、どうしたらよかろう、どうしたらよかろう! どうしてアンドレイがすぐ傍に居て下さらないのだろう!』

ナターシャはちょっとの間、安心したが、すぐその後から、またしても或る本能が口を出して、それは全くだ、実際何にも有りやしなかった、けれどアンドレイ公爵に対する彼女の恋は、以前の純潔さを失ったと囁くのであった。彼女は再び心の中で、クラーギンとの会話をすっかり繰り返し始めた。そして自分の手を握ったときの、この放胆な美丈夫の額や、身振りや、優しい微笑を思い浮べていた。