一八一〇年、モスクワで急に評判を上げたフランスの者があった。背の高い美男子で、フランス人の常として愛想がよく、モスクワ全市の評判によると、並々ならぬ腕を持った医者である――名をメチヴィエと言った。彼は医者としてでなく、対等の人として上流の家庭に出入りしていた。
医術を馬鹿にしていたボルコンスキイ公爵も、近頃ブリエンヌの諫めを容れてこの医師を近付け、大分、彼に馴れて来た。メチヴィエは週に二度、彼の許へやって来た。
ニコライ日、即ち老公爵の命名日には、モスクワ全市が公爵家の車寄せへ集まった。しかし彼は誰も通してはならぬと吩咐けて、ただ少数の名前を書き抜いたものをマリヤに渡し、その人達だけを食事へ招待するように命じた。
朝のうちに、医師の資格で祝賀に来たメチヴィエは、de forcer la consigne(禁を犯すのを)――これは彼がマリヤに言った事である――作法に適ったことと考えて、老公爵の書斎へ通って行った。所が、不幸にしてこの命名日の朝は、殊に老公爵の機嫌の悪い時であった。彼は朝じゅう家の中を歩き回りながら、すべてのものに突っ掛かって、人の言う事も自分に分からなければ、自分の言う事も他人に通じないと言うような風を粧っていた。マリヤはこの静かな落ち着きのない不満の状態が、通常憤怒の発作で終わる事を承知していたので、まるで装填して引金を上げた鉄砲でも目の前に控えているように、避け難い発射を待ち設けながら、朝のうちじゅううろうろしていた。医師の来るまでこの朝は無事に過ぎた。医師を通してから、マリヤは本を持って客間の戸口に坐った。ここから書斎で起きる事が、はっきり聞き取れるのであった。
初めのうちメチヴィエの声が聞こえた。やがて父の声と、二つの声が一緒に何か言い始めた。やがて扉がさっと開いて、黒い髪を鶏冠のように立てたメチヴィエのおびえたような美しい姿と、室内帽子に部屋着をつけた公爵の姿が敷居の上へ現れた。彼は憤怒のために顔を醜く歪めて瞳を伏せていた。
「分からないって?」と老公爵は喚いた。「わしにはよく分かっとる。フランスの犬だ、ボナパルトの奴隷だ、犬だ、とっととわしの家から出て行け! 行けと言うのに……」彼はばたりと戸を閉めた。
メチヴィエはひょいと肩を竦めながら、怒号の声を聞き付けて、隣室から駆けつけたブリエンヌに近寄った。
「公爵はあまり御健康でないようです――la bile et le transport au cerveau(癇が高ぶった上に脳に血が上ってるのです)。しかし御心配はいりません。明日また参ります」と言ってメチヴィエは唇に指を当てながら、忙しげに出て行った。
戸の向こうで上靴を履いた足音と怒号の声が聞こえた。「犬め、謀叛人め、どこもかしこも謀叛人ばかりだ! 自分の家に居ながら一分間も安心な時はありやしない!」
メチヴィエの去った後、公爵は令嬢を呼び寄せた。そしてあらゆる憤怒は、マリヤ一人に浴びせかけられるのであった。彼女が犬を通したのが悪かったのである。「現にわしが名簿を作って置いて、その名簿にない者は通してはならんと、吩咐けといたじゃないか。お前にちゃんと吩咐けといたじゃないか。何だってあの畜生を通したのだ! 何もかもみんな貴様がもとだ。貴様と一緒にいたら一分間も安心が出来やせん、安心して死ぬ事も出来ん」と彼は言った。
「駄目だ、なあ、別れよう。別れよう! それはお前にも承知して貰おう、よいか! わしはもうこの上、我慢が出来ん」と言って彼は部屋を出た。けれど、もし彼女が何とか勝手な理屈を付けて、自分で自分を慰めるような事があっては困る、こう思ったらしくまた引っ返して、落ち着いた様子を見せようと努めながら言い足した。「今のを腹立ち紛れに言った事だと思ったら間違うぞ。俺は落ち着いてよく考えた挙句に言ったのだ。必ず今言ったようにするから――別れてしまうんだから、勝手に自分の居場所を探すがいい!……」けれども彼は我慢し切れなくなって、愛する人にのみ見られるような憤怒の色を浮べつつ、自分でも苦痛を忍ぶように拳を震わせてこう叫んだ。
「本当にどこかの馬鹿が、こいつを嫁に貰ってくれるといいんだがなあ!」彼はぱったり戸を閉めてブリエンヌを呼び寄せ、書斎の中でひっそりと静まり返ってしまった。
二時には六人の選り抜きの名士が食事に集った。
客は――有名なラストープチン伯爵(フョードル・ヴァシーリエヴィチ・ラストープチン(一七六三年-一八二八年)。ロシアの軍人、政治家。パーヴェル一世の寵臣、一八一二年のナポレオンによるモスクワ遠征時にモスクワ総督を務めていた。)、ロプーヒン公爵とその甥、チャトロフ将軍――これは老公爵の古い戦友である――それから若い連中ではピエールとボリース・ドルベツコーイ――これ等の人が客間で老公爵を待っていた。
先日賜暇を得てモスクワへ来たボリースは、ボルコンスキイ老公爵に面接の光栄を熱望していたが、巧く老公爵に取り入った。そしてこれまで独身の若い人を家へ入れなかった老公爵が、彼のために除外例を作るまでに漕ぎ付けた。
老公爵の家は『社交界』というような性質のものでなかったが、一種の小やかなサークルを形作っていて、市中にはあまり名が聞こえなかったけれど、その中へ入れられるのは何より名誉と思われていた。ボリースがこれを知ったのは一週間前である。ちょうど彼のいる席で総司令官が、ラストープチンをニコライ日に招いた時、彼はそれを辞退してこう言った。
「わたしはこの日いつも、ボルコンスキイ老公爵の御遺骨を拝みに参りますのでね」
「ははあ、成程」と総司令官は答えた。「どうです、老公爵は!」
食事の前に天井の高い、古い家具類を並べた、旧式の客間へ集った小人数の一座は、物々しい法官会議の光景に彷彿していた。一同は黙りがちで、たまたま話しても小さい声であった。老公爵は真面目な顔をして無言で出て来た。マリヤはいつもより余計静かで臆病に見えた。客は彼女が話どころでないのを見て取って、あまり話し掛けようとしなかった。ラストープチン伯爵は、最近の新しい市中や政治上の出来事を話しながら、一人で会話の糸を繋いでいた。ロプーヒンと将軍は、時々その仲間に入った。
ニコライ老公爵は、ちょうど裁判長が部下の報告を聞くような態度で耳を傾けていた。そして時々発する簡単な言葉と沈黙とを以て、人々の報告は参考のために聴いて置く、という心持ちを示すのであった。誰一人今の政界の出来事に同意を表する者はない、それは分かり切ったことだ、こういう調子が全体の会話に窺われた。事態が次第に険悪になって行くのを、証明するような出来事のみが語られた。しかしどんな物語や議論が始まっても、論鋒が皇帝の人格に触れる境目まで来ると、いつも話手は自分から口を噤むか、または傍から噤まされてしまう。これが著しく目に立った。
食事のあいだ話題は政界の近況――ナポレオンのオルデンブルク公国占領、ロシアからヨーロッパ各国の宮廷へ送った、ナポレオン排斥の通牒などに転じた。
「ボナパルトのヨーロッパに対する態度は、まるで海賊が自分の掠奪船に対するようですよ」もう幾度となく言い古した警喩を繰り返しつつ、ラストープチン伯爵はこう言った。「ただ各国元首の隠忍と盲目に呆れざるを得ませんな。今度は事が法王にまで及びました。ボナパルトは無遠慮にも、カトリック教の元首を引きずり下ろそうとしているのに――みんなそれを黙過しているじゃありませんか! ただ一人わが皇帝陛下が、オルデンブルク公国の占領に抗議を申し込まれましたが、それも……」もうこの上、議論を許されない境目に立ったのを感じて、ラストープチン伯爵は口を噤んでしまった。
「そこでオルデンブルク公国の代わりに、他の領地を提出したものさ」とニコライ老公爵が言った。「まるでわしが自分の百姓を禿山から、ボグチャーロヴォやリャザン在へ移すと同じように、あの男は大公連を自由に動かしている」
「Le duc d'Oldenbourg supporte son malheur avec une force de caractère et une résignation admirable(オルデンブルク大公は、驚くべき意力と諦めを以て、御自分の不幸を忍んでおられます)」とボリースは恭しく会話に口を挿んだ。
彼がこう言ったのはペテルブルクから来る途中、大公に拝謁の光栄を有したからである。ニコライ老公爵はこれに対して、何か言いたそうに彼の顔を眺めたが、それにしては相手が余り若輩すぎると思ってやめてしまった。
「わたしはオルデンブルク事件に関する我が国の抗議文を読みましたが、文章の拙いには驚きましたね」よく知り抜いている事柄を議論する人のように、ラストープチン伯爵は気の無い調子でこう言った。
ピエールはどうして抗議の文章の巧拙が気になるのかと、子供らしい怪訝の念を感じつつ、ラストープチンを見遣った。
「もし内容さえ力が籠っていたら、」と彼は言った。「文章なんかどうでもいいじゃありませんか」
「Mon cher, avec nos 500 milles hommes de troupes, il serait facile d'avoir un beau style(だって君、五十万の兵を有する我が国に取って、立派な文章で書くくらい訳ない事じゃありませんか)」とラストープチン伯爵は言った。
抗議文の巧拙がラストープチン伯爵の気に掛かる理由を、ピエールは初めて悟った。
「へぼ文士がかなりうようよ出来たらしいて」と老公爵は言った。「あのペテルブルクでも皆一生懸命に書いている、それも抗議文ばかりでなくって、新法令をやたらに書いている。うちのアンドリューシャもロシアのためとやらで、大きな法令の本を一冊書き上げたよ。この節は誰でも彼でも書くようになった」と彼は不自然に笑い出した。
会話はややしばらくのあいだ途絶えた。老将軍は一つ咳払いをして、一座の注意を自分の方へ向けた。
「最近ペテルブルクの検閲で有った事をお聞きになりましたか? 新任のフランス公使が大いに発揮したものですよ!」
「あ? 左様左様、わしも何かそんな事を小耳に挟んだよ。公使が陛下の御前で、何だかまずい事を言ったそうだね」
「何でも陛下が選抜兵師団の分列式を、公使に指さしてお見せになったところ、」と将軍は語り続けた。「公使はそれに目もくれないで、無礼にも『フランスではそんな下らないものに注意致しません』とか言ったそうです。陛下は何とも仰しゃいませんでしたが、次の検閲の時には、一度も公使に言葉をお掛けにならなかったとか言う話です」
一同は黙ってしまった。陛下自身に関するこの事実には、何らの批判も加える事が出来なかったのである。
「実に生意気な奴等だ!」と老公爵は言った。「あのメチヴィエさ、わしは今日あいつを家から追い出してやった。あいつがここへ来たんだよ。誰も通してはならんと、固く吩咐けとくのに通すものだから」腹立たしげに娘を尻目に掛けつつ、老公爵はこう言った。
彼はこのフランス医師との話や、メチヴィエを間牒と信ずる理由などを、すっかり話して聞かせた。その理由は随分薄弱で不明瞭であったが、誰一人さからうものは無かった。
焼肉の時にシャンパンが出た。客は席を立って老公爵に祝詞を述べた。マリヤも矢張り父の傍へ近寄った。彼は冷たい意地悪い目で娘をじろりと見遣りながら、綺麗に剃り上げた皺だらけの頬を差し出した。『今朝言った事は忘れていないぞ。わしの決心はあの時と同じ力を保っているのだが、今はただ客が居るから口に出さないだけだぞ』とその顔の表情が言うように思われた。
珈琲を飲みに客間へ出たとき、老人連は一緒に腰を下ろした。
ニコライ老公爵は一層元気づいて、目前に迫った戦争に関して自分の意見を吐露した。
彼の説によると、我が国がドイツと同盟を求めたり、ティルジット条約に引きずられて、ヨーロッパの政状に容喙する間は、我が国とボナパルトの戦争はいつまでも不幸に終らねばならぬ。我が国はオーストリアを味方とするにせよ、敵とするにせよ、どちらにしても戦う必要はなかったのである。我が国の政略は全部東方に存しているから、対ボナパルトの関係においては、ただ国境の武備と強硬な外交さえあれば、彼は一八〇七年の役における如く、決してロシアの境に踏み込み得ないであろう。
「それに公爵、どうしてロシアがフランスを相手に戦争なんか出来るものですか!」とラストープチン伯爵は言った。「一体自分の先生や神様に手が上げられますか? まあ、今の若い人や奥さん方を御覧なさい。我々の神様はフランス人です、我々の天国はパリです」
彼は皆に聞かせるためらしく、一層声を張り上げてこう言った。
「着物もフランス、思想もフランス、感情もフランスです! あなたは今日メチヴィエを、フランス人でやくざ者だからと言って、追ん出してしまわれましたが、そんじょそこらの奥さん方は、あいつの後ろを四つん這いになって這い回っています。わたしは昨日ある夜会に出ましたが、奥さん方五人のうち三人まではカトリック信者で、法王のお許しを得て日曜に刺繍をしています。そしてその恰好と言ったら、失礼な話ですが、ほとんど丸裸で湯屋の看板みたいじゃありませんか。いや、今の若い人達を見ると、博物館からピョートル大帝の古い樫棒を取って来て、ロシア風に脇っ腹をどやし付けてやったら、馬鹿の夢が醒めるかも知れない、と言うような気がしますよ」
一同は黙っていた。老公爵は顔に微笑を浮べてラストープチンを眺めながら、同意するように頭を振っていた。
「では閣下、失礼致します。どうか病気などしないで下さい」ラストープチンは持ち前のせかせかした身振りで立ち上がって、老公爵に手を差し伸べつつこう言った。
「左様なら――実に弁士だ、いつもこの男には聞き惚れてしまうよ」老公爵はその手を握って、接吻のために頬を差し出した。ラストープチンと同時に他の人々も立ち上がった。