戦争と平和 第九編, レフ・トルストイ

十九


ピエールがロストフ家を辞して、ナターシャの感謝するような眼ざしを思い浮べながら、大空に掛かっている彗星を見、自分のために新しい或る物が開けたように感じたその日から、地上の一切が空虚で無意義だと言う、永久に彼を苦しめていた疑問が、もう心に浮ばないようになった。以前どんな仕事をしている時でも、必ず彼の心に現れた『何故? 何のため?』と言う恐ろしい疑問が、今では彼に取って全然別なものに変わった。それは何か外(ほか)の新しい疑問でもなければ、以前の疑問に対する答えでもなく、ただ彼女の面影であった。今はどんな下らない話を、人から聞いても自分でしても、また人間の陋劣(ろうれつ)と下らなさを本で読んでも、あるいは人から聞かされても、以前のように戦慄を感じることはなかった。すべてがこんなに蜉蝣(かげろう)の如く短命で不可解なのに、人は何のためにあくせくするのだろう? などと自問しないようになった。彼はただ彼女を思い出した、最後に見た時の彼女の姿を思い出した。するとすべての疑問がことごとく消えてしまうのであった。それは彼女がピエールの胸に浮ぶ疑問を解いてくれるからではなく、彼女の面影が彼を拉(らっ)して全然別な、明るい、精神活動の世界へ運んで行ったからである。そこでは義人も罪人もなく、ただ生きさえすればいいのである。それは美と愛の世界であった。で、彼はどんな人生の醜悪面に接しても、こう独り言つのであった。

『幾らN・Nが国家や皇室の財産をくすね取っても、また幾ら国家や皇室が名誉を以てこれに報いたって、そんな事は構やしない。あの女(ひと)は昨日、俺を見てにっこりした。そしてまた来てくれと言った。俺はあの女(ひと)を愛している。それは誰にも決して分かりっこないんだ』こう思うと、彼の心は穏やかに晴々するのであった。

ピエールは矢張り交際社会に出入りしたり、酒を飲んだりしながら、依然として取り留めのない無為の生活を続けていた。何故と言って、ロストフ家で送る時間以外の時間をも、何とかして潰さなければならなかったからである。彼がモスクワで作った習慣と交際とは、いなみ難い力を以てこうした生活へ彼を引きずって行った。彼はもう全然それに没頭してしまった。けれど近頃、戦場からますます不安な噂が伝わって来るようにもなるし、ナターシャの健康も回復して来て、以前のような用心深い憐憫の情を呼び起こさなくなったので、彼はだんだん自分自身にとって不可解な、不安の念に襲われるようになった。今の状態を永く続けることは出来ない、この生活を根こそげ引っくり返してしまうような一転機が近づいて来た―――こんな事を感じた彼はいらいらした気持ちで、あらゆるものの中にこの迫り来る一大転機の徴(しるし)を求めた。ある時ピエールは共済組合(メイソン)の一人から、ナポレオンに関する次のような予言を聞かされた。それは使徒ヨハネ(ヨハネ)の黙示録から得たものである。

黙示録の十三章十八節にこう書いてある、「ここに知恵あり、才知ある者はこの獣の数を算えよ。獣の数は人の数なり。その数は六百六十六なり」

それから同じ章の五節にはこう書いてある。「この獣夸大(おおい)なる言(こと)と讟(けが)す言(こと)とをいう口を予(あた)えられまた四十二ヶ月のあいだ働きをなすべき権を予えらる」

フランスの文字は、ヘブライの計数法に従って、最初の十文字を基数とし、残りの文字を十位に算えて行くと、次のような意味を帯びて来る。

а b c d e f g h i k l m n o p q r s t u v w x y z

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 110 120 130 140 150 160

このアルファベットによって、L'empereur Napoléon(皇帝ナポレオン)という言葉を数字で書くと、その数の総計は六百六十六となる。従ってナポレオンは黙示録に予言された獣だと言うことになる。そればかりか、このアルファベットによって Quarante deux(四十二)と言う言葉、即ちこの獣に夸大(おおい)なる言(こと)と神を讟(けが)す言(こと)を発する権を予えられた期限を書いても、この Quarante deux が現す数の総計は、矢張り六百六十六に等しい。これに依ってナポレオンの権力の際(きわ)みは、フランス皇帝の齢(よわい)四十二を過ぎた、一八一二年と帰結される訳である。この予言は強くピエールの心を打った。この獣、即ちナポレオンの権力に、終焉を与うるものは果たして何者かと言う問題を、彼は度々自分で自分にするようになった。そしてこういう風に様々な言葉を数字に書き換えて、それを加え合わす方法に依って、心にかかる疑問の解決を求めようと努力した。ピエールはこの問題の解答として L'Empereur Alexandre?(皇帝アレクサンドル?)とか、La nation russe?(ロシアの国民か?)などと言う言葉を書いて見たが、数の総計は六百六十六より多かったり、少なかったりした。ある時この計算に没頭しているうちに、彼は自分の名前を Comte Pierre Besouhoff と書いて見た。が数字の総計は合わなかった。そこで正字法を変えて、Sの代わりにZを用いたり、de を加えたり、冠詞を加えたりしたが、矢張り望みの結果は得られなかった。その時、彼は、もし求めている解答が、自分の名前に含まれているものなら、その解答には是非自分の国籍も現さねばならぬ筈だと考えついた。で、彼は Le russe Besuhof(ロシア人ベズーホフ)と書いて、その数字を算えると六百七十一になった。つまりただ五つだけ余計な訳である。五はeに当たるが、その e は L'empereur と言う場合には省かれている。で、ピエールは変則ではあるが、矢張り e を省いて L'russe Besuhof とした時、初めて六百六十六と言う望みの解答を得た。彼はこの発見に驚かされた。自分がなぜ、如何なる関係によって、黙示録に予言された大事件と結び付けられているのか、そんな事は彼には分からなかった。しかし自分が本当に結び付けられているという事は、毛筋ほども疑わなかった。ロストーヴァに対する恋、反キリスト(アンチクリスト)、ナポレオンの侵入、彗星、六百六十六、L'Empereur Napoléon、L'russe Besuhof――これ等のものがみんな一緒に成熟して、ピエールを囚えて放さない魔法の環から――モスクワの下らない習慣の世界から彼を救い出し、偉大な功績と偉大な幸福に導くべきものであった。


例の祈祷文を捧読した日曜の前日、ピエールはロストフ家の人達に、ロシア国民に対する詔勅と戦地から来た最近の報知を、近しい知り合いのラストープチン伯爵から、貰って来るように約束した。彼は朝のうちラストープチン伯爵のところへ行った。すると、たった今戦地から来たばかりの急使に出会った。それはピエールの知っている、モスクワの舞踏家の一人であった。

「お願いですから、少し荷を軽くして下さいませんか?」と急使は言った。「親許へ宛てた手紙が袋にいっぱいあるんですから」

その中には父に宛てたニコライ・ロストフの手紙があった。ピエールはこの手紙を取った。その外(ほか)ラストープチン伯爵からは、今刷り上がったばかりのモスクワ市に対する詔勅と、軍隊に関する最近の命令と、伯爵自身の新しい宣伝びらを貰った。ピエールは軍隊に関する命令を見ていたが、その中の一つに掲げられた負傷者や、戦死者や、受賞者に関する報道の間に、オストローヴナ役における勇敢な働きのため、ゲオルギイ四等勲章を授けられたニコライ・ロストフの名前を見出した。そして同じ命令に、アンドレイ・ボルコンスキイ公爵が、猟騎兵連隊長に任命されたことが記してあった。ピエールはロストフ家の人に、ボルコンスキイの事を言い出したくなかったが、愛子の行賞を報じて喜ばせたいと言う希望を、制することが出来なかった。で、明日食事に出掛ける時の土産として、詔勅や宣伝びらやその他の命令書を手許に残し、印刷になっている命令とニコライの手紙をロストフ家へ送った。

ラストープチン伯爵の談話や、その心配そうなせかせかした調子や、戦況の不利なことを暢気そうに語る急使との出会いや、モスクワで見あらわされた間諜の噂や、秋までにロシアの両首都に入ると言う、ナポレオンの誓いを記した紙片が、モスクワ中を転々していると言う噂や、明日あたり間違いなく期待されている皇帝の着御に関する話や――これ等すべてのものが新しい力を以て、ピエールの心に興奮と期待の感じを呼び起こした。それは彗星の現れた時――殊に戦争の始め頃から、ピエールの心を去ったことのない感じであった。

ピエールはもう前から軍務に就こうと言う考えを起こしていた。もし障碍がなかったら、彼はとっくにこの考えを実行していたに相違ない。障碍と言うのは外(ほか)でもない、第一に永久の平和と戦争の撲滅を宣伝する共済組合に属していたし、第二には軍服を着けて愛国心を鼓舞しているモスクワ人の群を見ると、何故かそんなことを決行するのが気恥ずかしくなったからである。しかし彼が軍務に就こうと言う計画を、実行しなかった主な原因は他にあった。つまり自分は六百六十六と言う獣の数を意味している、L'russe Besuhof であるが故に、夸大(おおい)なる言(こと)と神を讟(けが)す言(こと)を語る「獣」の権力に、終焉を与えるという大事業に関与することは、既に永劫の昔から定められている、従って何事も自ら企てないで、将来起こることを待つべきである――とこういう漠とした考えなのであった。