ジョージ・オーウェル

鯨の腹の中で 第三章


もし現在が文学の「学派」勃興の時期であるなら、ヘンリー・ミラーは新しい「学派」の始祖となることだろう。ともかく彼はこの振り子運動においてまったく予測せぬ軌道を描いているのだ。彼の作品では「政治的動物」は遠ざけられ、たんに個人的というだけでなく、完璧に受け身な視点……世界の流れは自身の手の外にあり、またどちらにしろそれに手出ししたいとは願っていない人間の視点……へと戻って来ている。

私が初めてミラーに会ったのは一九三六年の終わり頃で、当時、私はパリを抜けてスペインへ移動しているところだった。彼についてもっとも私の興味をそそったのは、彼がスペイン戦争にまったく興味を感じていないことだった。ただ私に対して強い言葉で、今スペインに行くのは愚か者のすることだと言っただけだ。純粋に利己的な動機、例えば好奇心からかの地へ赴くということであれば彼にも理解できただろうが、責任感からああした物事に関わり合いを持とうというのはまったくの愚行だったのだ。いずれにせよ、ファシズムと戦う、民主主義を守るなどといった私の考えは全てナンセンスなのだった。私たちの文明は一掃され、私たちからするとまず人間的なものには見えないほど異なる何かに置き換えられる運命にある……こうした展望が自分を思い悩ませることはないと彼は言った。そしてそうした考え方は彼の作品を言外に貫いている。あらゆる個所に近づきつつある大変動という感覚が見て取れ、同時にほとんど全ての個所にそれは大した問題ではないという言外の信念が見て取れる。私が知る限りでは、彼が印刷物の中でした政治的な発言は完全に悲観的なものだけだ。一、二年前、アメリカの雑誌であるマルキスト・クォータリー誌がさまざまなアメリカの作家に対して、戦争に関わるテーマに対する自身の態度を定義するよう頼むアンケートを送ったことがある。ミラーは極端な平和主義、戦いに対する個々人の拒絶という観点から返信したが、そこには他人を説得して同じ意見に変えさせようとする意思は明らかに見て取れなかった……要するに事実上の責任放棄宣言である。

しかしながらそこにある責任放棄の態度はありきたりなものではない。一般にその時々の歴史の流れによって自身を定義することを望まない作家はそれを無視するか、それに対して戦いを挑むかのいずれかをする。もし無視できるというのであれば、おそらく彼らは愚か者だろう。もし戦いたいと思うほどそれを十分に理解できているのであれば、おそらく自分たちが勝利し得ないことを悟るだけの十分な先見の明を持っているはずだ。例えば「学者のジプシー」といった詩を見るといい。そこには「現代生活の奇妙な病」に対する非難があり、最後の連は見事な敗北主義的直喩になっている。これは標準的な文学的態度、おそらく実質的に過去数百年にわたって支配的だった態度を表している。その一方で「進歩派」、恐れを知らない楽天家、ショーやウェルズのようなタイプの人々もいて、彼らは決まって未来と取り違えた自己の投影へ飛躍して抱きつくのだった。全体的に見れば二十年代の作家は一番目を、三十年代の作家は二番目を採用した。そしてもちろんのことだが、いつの時代であってもバリーバリー:ジェームス・マシュー・バリー。イギリスの作家。「ピーター・パン」の著者。やディーピングディーピング:ワーウィック・ディーピング。イギリスの作家。初期は主に歴史ロマンス小説を書いていた。、デルデル:エセル・M・デル。イギリスの作家。ロマンス小説作家として知られる。のように何が起きているのかまったく気がつかない巨大な一団が存在する。ミラーの作品で兆候として重要なのはそこにこうした態度が欠如していることなのだ。彼は世界の流れを前に推し進めることも、引き戻そうと試みることもしないが、一方で決して無視することもない。彼は近い将来における西洋文明の崩壊を大半の「革命的な」作家よりもずっと強固に信じていると私は言わざるを得ない。それに関して何かをしなければならないという責任を彼が感じていないというだけなのだ。彼は燃え上がるローマをよそにバイオリンを弾いているが、同じことをしている大多数の人々と違ってその顔を炎に向けながら弾いているのだ。

マックスと白食細胞にはひとつの暴露的な文章があり、作家はその文章で他の者について語りながらもそれによって彼自身について多くを教えてくれている。この作品にはアナイス・ニンの日記についての長いエッセイが含まれている。いくらかの断片を除けば私はこの日記を読んだことはないし、そもそも出版されてはいないのでないかと思う。ミラーは、内容はどうあれ、これこそがこれまでに書かれた中で唯一の真に女性的著作であると主張している。しかし興味を惹かれるのは彼が……完璧なまでに主観的で内省的な作家であることが明らかな……アナイス・ニンと鯨の腹の中のヨナを比較している文章である。話のついでに彼はエル・グレコの絵「フェリペ二世の夢」について数年前にオルダス・ハクスリーが書いたエッセイに言及する。エル・グレコの絵に登場する人々は決まって鯨の腹の中にいるかのように見えるとハックスリーは語り、また、「内蔵の牢獄」に入れられるという発想には言い知れない恐ろしさがあることに気がついたと告白している。それに対してミラーは鯨に飲み込まれることよりもずっとひどいことがたくさんあると反論し、その文章は、彼自身はこうした発想を非常に魅力的なものだと考えていることを明らかにしている。ここで彼はおそらく非常によく広まっているであろうある幻想に触れている。あらゆる人々、少なくともあらゆる英語話者が決まってヨナと鯨と語っていることを指摘しておくことにはおそらく価値があるだろう。もちろんヨナを飲み込んだ生き物は魚であり、聖書(ヨナ書一章十七節)にはそのように書かれている。しかし子供たちはごく自然にそれを鯨と混同し、この幼児的話法の断片は決まって後半生にまで引きずられる……おそらくこれはヨナの神話が私たちの想像力に対して持つ影響力の現れだろう。実のところ、鯨の中にいるというのは非常に安楽で、居心地がよく、くつろげそうに思えるのだ。史実上のヨナ(もし彼をそう呼べるならだが)は脱出できたことをとても喜んだが、想像や夢想の上では無数の人々が彼を羨ましがっている。もちろん理由は明白である。鯨の腹はまったくのところ大人にとっても十分な大きさの子宮なのだ。そこは薄暗く、自身にぴったりとよりそう柔らかな空間であり、自身と現実世界は厚い脂肪で隔てられ、何が起きようとも完璧なまでに無関心な態度を保つことができるのだ。世界中のあらゆる戦艦を沈める嵐があろうとその残響さえほとんど届かないだろう。鯨自体の動きさえおそらく感じない。鯨は海面の波間で遊んだり、海中の暗闇(ハーマン・メルヴィルによれば一マイルもの深み)へと潜ったりするだろうが、その違いにも気づくことはないだろう。最終的な死を除けば無責任な態度を邪魔するものは何もない。そしてアナイス・ニンがそうであったかどうかはともかく、ミラー自身が鯨の腹の中にいたことに疑問の余地はない。最高の、そして最も特徴的な彼の文章は全て、ヨナの立場、ヨナたろうとする意志から書かれたものなのだ。彼がとりわけ内省的であったということではない……まったくのところその反対である。彼の場合には偶然にも鯨は透明だったのである。ただ彼は自分が体験している一連の過程を変えようだとか、制御しようだとかいった衝動を感じていないというだけだ。彼は本質的にはヨナ的行動をおこなっている。飲み込まれ、受け身の態度を保ち、受け入れるに任せているのだ。

これが何を意味するのかを見てみよう。これは静寂主義の一種であり、完璧な懐疑か、あるいはいくらか神秘主義に近い信念を暗に意味している。「どうでもいいJE M'EN FOUS」だとか「彼がわたしを殺すとしても、なお私は彼を信頼しよう」彼はわたしを殺すとしても、なお私は彼を信頼しよう:旧約聖書「ヨブ記」13章15節からの引用といった態度はそのどちらを目指そうとも、その実際的目的は両方とも同じで、どちらの場合もそこにある道徳律は「座して待つ」ということなのだ。しかし現代のような時代においてこれは擁護可能な態度だろうか? そう尋ねずに済ますことはまず不可能であると気づくべきだ。私がこの文章を書いている時には、私たちは当然のように書籍とは常に肯定的で、真剣で、「建設的」であるべきだとされる時代を生きている。十数年前であればこうした考えは忍び笑いで迎えられたことだろう(おばさん、何かについて書いたりはしないんだよ。ただ書くのさ)。その後、芸術とはたんに技術であるという無分別な考えから振り子は離れ、とても長い距離を振れ続けている。振り子が目指すのは書籍とはそれが人生に対する「真」の展望の上に築かれている場合のみ「優れた」ものとなるのだという主張である。当然ながら、こうした主張を信じる人々は同時に自身が真理を手にしていると信じる。例えばカトリックの批評家はカトリック的傾向を持つもののみが「優れた」書籍であると主張しがちだ。マルクス主義の批評家はマルクス主義の書籍に対して同じことをさらにはっきりとおこなう。例えばエドワード・アップワード氏だ(繋がれた精神の「文学に対するマルクス主義的解釈」)。

マルクス主義であることを目指す文学批評で必要なことは……現代において書かれた作品が「優れた」ものとなるのはそれがマルクス主義、あるいはそれに近い観点から書かれている場合だけであると宣言することなのだ。

他にも様々な作家が類似、あるいは同等の発言をしている。アップワード氏が「現代において」と断りを入れているのは、例えばシェイクスピアがマルクス主義者でないからといってハムレットを否定することはできないと彼が気がついているからだ。しかしながら彼の興味深いエッセイではこの難問に関して極めて手短にしか触れられていない。過去から私たちに伝わる文学作品のほとんどは私たちにとっては間違っているか、場合によっては軽蔑に値する愚劣と思われる信念(例えば霊魂の不滅といった信念)をくぐり抜け、また実際のところそうした信念の上に築き上げられているのだ。しかし「優れた」文学かどうかの唯一の判定基準は生き残るかどうかである。アップワード氏が、数世紀前には適切なものだった信念が現在は不適切になり、それゆえに注目すべき価値を失うこともあり得ると答えるであろうことは疑いない。しかしこれは満足できる答えではない。なぜならいつの時代であろうと一時的な真理の近似であるひとつの思想体系が存在するだろうし、その時代における最高の文学は多かれ少なかれそれと調和するだろうからだ。とはいえ実際にはそのような全体的統一が存在したことは一度もない。例えば十七世紀のイングランドでは今日における左右の敵対とはっきりと類似した宗教と政治の間の分断が存在した。振り返ってみれば現代の人々のほとんどはブルジョア・清教徒的観点はカトリック・封建主義的観点よりもずっと優れた真理の近似である感じることだろう。しかしだからと言って当時の最高の作家たちの全員、あるいは大部分が清教徒だったと言えばそれはまったく事実に反する。さらに言えば、どんな時代にも間違った愚劣な世界観の持ち主と目された「優れた作家」が存在するのだ。エドガー・アラン・ポーがその一例だ。ポーの物の見方は良く言えば突飛なロマン主義、悪く言えば文字通り臨床的な意味での狂気すれすれのものである。それではなぜ黒猫や告げ口心臓、アッシャー家の崩壊といったまるで狂人によって書かれたかのような物語に対してまがい物であるという感覚を覚えないのだろうか? それはこうした物語がある枠組みの中においては真実であり、自身に固有の世界の規則を守っているからだ。ちょうど日本画とよく似ている。しかしこうした世界を首尾よく描くにはそれを信じなければいけないように思える。ポーの物語と、同じような雰囲気をでっちあげようと形ばかりの試みをしていると個人的には思えるジュリアン・グリーンのミヌイットを比較すればその違いはすぐにわかる。ミヌイットを読んですぐ感じるのは、あらゆる出来事が理由無しに起きているということだ。あらゆるものが完璧なまでに恣意的なのだ。感情の連鎖も無い。しかしポーの物語ではそうしたことはまったく感じない。それらの狂った論理は、それ自体の内部においてはまったく説得力のあるものなのだ。例えば酒飲みが黒猫を捕まえてその目をペンナイフでえぐり出す時、彼がなぜそんなことをしたのかはよく理解できるし、まるで自分が同じことをしたかのように感じさえするだろう。そうした意味で、創造性に富んだ作家にとって「真理」を手にしているかどうかは感情的誠実さよりも重要でないように思われるのだ。もちろんアップワード氏は作家に必要なのはマルクス主義の教育だけであるなどとは主張していないだろう。作家には才能も必要である。しかし見たところ、才能とはそれが正しかろうが間違っていようが自分の信念を心から信じることができるかどうかという問題なのだ。例えばセリーヌセリーヌ:ルイ・フェルディナン・セリーヌ。フランスの作家。とイーヴリン・ウォーの間の違いは感情的強度の違いである。それは心からの絶望と少なくとも一部は見せかけである絶望との間の違いなのだ。そしてそうであれば、いくらかわかりにくいもうひとつの考察が得られる。ときには「正しくない」信念が「正しい」ものよりも強く信じられることがある、ということだ。

一九一四年から一九一八年の戦争について書かれた個人的な回顧録を見れば、時間の経過の後も読むに耐えるもののほとんどが受け身の悲観的な観点から書かれたものであることに気がつくだろう。それらは何か完璧なまでに無意味なもの、空虚の中で起きた悪夢の記録なのだ。それは実際のところ戦争の真実ではないが、個人に起きた反応の真実ではあるのだ。機関銃の集中砲火へと前進したり、水浸しの塹壕で腰まで浸かって立つ兵士にわかるのはそれが恐るべき体験であり、そこにおかれた自分がまったくの孤立無援であるということだけである。全体を俯瞰して見通す力を装うよりも、自身の無力さと無知によってこそ彼は優れた作品を作り出すことができるだろう。あの戦争の間に書かれた作品に関して言えば、その最良のもののほとんどは完全に背をそむけて戦争が起きていることに気づかないよう努めた人々によるものだった。E・M・フォースター氏は一九一七年に自分がプルフロックプルフロック:エリオットの詩「J・アルフレッド・プルフロックの恋歌」を指すなどのエリオットの初期の詩を読んでいたことや、そのような時期に「公共心の発揚という罪を犯していない」詩を手にしてどれほど勇気づけられたかについて書いている。

それらは内心の嫌悪感や気後れ、そして魅力的でなかったり弱々しいがために誠実に思える人々について歌っている……そこにあるのは異議申し立て、軟弱なそれ、軟弱さへのさらなる安住である……御婦人たちの訴えや私たちの自尊心の小さなしずくを封じ込めた応接室から身をかわすことのできる彼は人類の遺産を受け継いでいるのだ。

実にうまく言ったものだ。先に私が触れた作品でマクニース氏はこの文章を引いて、いくらか気取った付け足しをおこなっている。

十年後、詩人たちによってなされる軟弱な異議申し立ては減り、人類の遺産はまったく異なる受け継がれ方をした……断片的世界に対する沈思黙考は退屈なものに変わり、エリオットの継承者たちはそうしたものを片付けてしまうことにいっそう興味を惹かれている。

同じような発言はマクニース氏の作品全体に散らばっている。彼が私たちに信じさせたいのは、方法はどうあれエリオットの「継承者たち」(マクニース氏と彼の友人たちを意味する)は連合国軍がヒンデンブルク線を攻撃していた時期にエリオットがプルフロックを出版することでおこなったものよりもずっと効果的に「異議申し立て」をおこなっているということである。いったいどこでそうした「異議申し立て」がおこなわれたのか私には見当もつかない。しかしフォースター氏の論評とマクニース氏の嘘の間の対照は、まさに一九一四年から一九一八年の戦争がどのようなものだったか知る人間とそれをほとんど憶えていない人間との間の違いなのだ。実際のところ一九一七年において思慮と感受性のある人物にできることがあるとすればそれは人間であり続けること以外にはなかった。そして無力さ、さらには軽薄さを態度で示すことはおそらくそのための最良の方法だったのだ。もし私が第一次大戦で戦う兵士だったら、一級の十万やホラティオ・ボトムリーの塹壕の少年たちへの手紙ではなくプルフロックを手にとったことだろう。フォースター氏同様、俗世を完全に離れて戦争前の感情を絶やさずにいることでエリオットは人類の遺産を受け継いでいるのだと私は感じるに違いない。そうした時に禿げ頭の中年教養人のためらいについて読むことがどれほど気晴らしになるだろうか! 銃剣での戦闘訓練とはなんと異なることだろう! 爆弾と食事に並ぶ列と入隊募集ポスターの後の人間の声! なんという気晴らしだろうか!

しかし結局のところ一九一四年から一九一八年の戦争はほとんど途切れることなく続いている危機が一時的に高まった瞬間に過ぎなかった。現在であれば、私たちの社会の崩壊やまともな人間全員が感じる増していくばかりの無力感を痛烈に感じるために戦争など必要とさえしないだろう。私が思うにそれこそがヘンリー・ミラーの作品で暗示される受け身で非共同的な態度が正当化される理由なのだ。人々が感じるべきものを表現しているかどうかはともかく、おそらくそれは人々がまさに感じている何かしらに近いものを表現しているのだ。そしてそれもやはり爆弾の炸裂の中の人間の声、親しげなアメリカ人の声、「公共心の発揚という罪を犯していない」ものなのだ。説教は無く、主観的な真実のみがある。そして明らかなのはこうした方針に従えば優れた小説を書くことはいまだ可能だということだ。読むだけの価値があり、読み終わった後も記憶に残るには啓発的な小説である必要はないのだ。

私がこのエッセイを書いている間にまたしてもヨーロッパで戦争が勃発した。この戦争は数年続いた後に西洋文明をばらばらに引き裂くか、うやむやに終わってさらなる戦争への道を切り開き、その戦争が最終的な決着をつけるものとなるかのどちらかだろう。しかし戦争とはまさに「高まっていく平和」なのだ。戦争があろうがなかろうが、明白に起きつつあるのはレッセフェール自由放任主義的資本主義とキリスト教自由主義的文化の崩壊である。最近になるまでこれが意味することは完全には予見されていなかった。一般的には社会主義は自由主義的な雰囲気を維持し、さらには増大させるとさえ想像されていたからだ。この考えがどれほど間違ったものだったかが今になって気が付かれ始めている。まず間違いないのは私たちが全体主義的独裁の時代へと突入しつつあるということだ……その時代において思想の自由は始めは死に値する罪となり、後には無意味な抽象概念へと変わることだろう。自律的な個人はその存在を踏み消されるはずだ。これは文学、つまり私たちが知っている形態のそれが少なくとも一時的に死に絶えるという害を被らざるを得ないことを意味している。自由主義的文学は終りを迎え、全体主義的文学はいまだ現れず、それがどのようなものか想像もできない。作家に関して言えば彼は溶けつつある氷山に腰掛け、たんなる時代遅れ、ブルジョア時代の残滓、カバと同じくらい先行きのない存在になるだろう。ミラーは並外れた人物であるように私には思えるが、それは同時代人のほとんどが気がつくずっと以前……彼らの多くが文学のルネサンス期についてとうとうと話している時期……から彼がこの事実を理解し、訴えていたからなのだ。ウィンダム・ルイスはそれより数年早く英語の主要な歴史は終わったと語っていたが、彼はその理由を異なる、極めて些末な理由に帰していた。しかしこれから先、創造的な作家にとって極めて重要になる事実は作家の世界にはない。これは作家が新しい社会の到来に手を貸すことができないという意味ではなく、その過程において作家として関与することはできないという意味だ。作家としての彼は自由主義者だろうが、起きつつあることは自由主義の破壊なのだ。従って言論の自由の残された期間において、読むに値するあらゆる小説は多かれ少なかれミラーが従った路線に従ったものになることだろう……私が言っているのは技術的なことや主題についてではなく、そこで示される考え方についてのことだ。受け身の態度が戻ってくるが、それは以前よりもずっと自覚的な受け身となるだろう。進歩と反動はどちらも欺瞞へと変わった。見たところ残されたものは静寂主義……完全に屈服することで、その恐怖から現実感を剥奪する……の他ない。鯨の腹の中に飛び込むのだ……厳密に言えば自分が鯨の中にいることを認めるのだ(言うまでもなくそこにいるのだから)。自らを世界の流れに明け渡し、それに抗うことやそれをコントロールしているふりを止め、ただ受け入れ、耐え、記録するのだ。これこそがあらゆる感受性ある小説家が現在、選ぶことの多い常套手段であるように思われる。もっと積極的で「建設的」な路線で、感情的な偽りのない小説というものは現在では想像することも難しい。

しかし、これらによって私が言いたいのはミラーが「偉大な著作家」であり、英語散文の新しい希望であるということなのだろうか? 決してそうではない。ミラー自身はそうしたことを絶対に主張しないだろうし、そんなものになりたいとも思っていないだろう。彼が執筆を続けていくだろうことは疑いないし……いったん始めた者は誰しも執筆を続けるのだ……彼に関連付けられる、ほとんど「学派」とでも言うべき、ほとんど同じ傾向を持った多くの作家、ロレンス・ダレル、マイケル・フランクルといった者たちが存在する。しかし彼自身は本質的には一冊の本しか書かない人間であるように私には思える。遅かれ早かれ彼は難解で欺瞞的になりさがるのではないかと予測せずにはいられない。最近の彼の作品にはその両方の兆候が見て取れる。彼の最新作、南回帰線を私はまだ読んでいない。読みたくないからというわけではなく、警察と関税当局が精力的に妨害しているためにこの本を手に入れることができないでいるのだ。しかしもしそれが北回帰線黒い春にどこかしら似たものだったら驚かされることだろう。他の何人かの自叙伝的小説家と同様、彼はひとつの完璧になすべきことを持っていてそれをやり遂げた。一九三〇年代のフィクションがどのようなものか考えれば、まさにこれこそがそれである。

ミラーの作品はパリのオベリスク・プレスによって出版されている。オベリスク・プレスはどうなっていくのだろう。今や戦争が勃発し、出版者のジャック・カタンは亡くなっている。私にはわからないが、ともかくその作品はいまだ入手可能だ。少なくとも北回帰線に関してまだ読んでいない人は是非読むことをおすすめする。少し工夫するか、少し正規の値段より多く払えば手に入れることができるし、もしその一部に嫌悪を催したとしても記憶には強く留まるはずだ。またこれは一般に使われる言葉の意味とは違った意味において「重要」な作品でもある。一般に小説が「重要」であると語られるのはそれが何事かに対する「痛烈な批判」である時か、何か技術的な革新をもたらした時である。どちらも北回帰線には当てはまらない。その重要性はたんに兆候としてのそれなのだ。私の考えでは、過去数年の間に英語話者人種の中に現れたわずかばかりでも価値のある想像力に富んだ散文作家が彼なのだ。それは大げさであると反論されるかもしれないが、それでもミラーが並外れた作家であり、注目すべき価値があることは受け入れられることだろう。そして結局のところ、彼は完璧なまでに悲観的、非建設的、非道徳的作家であり、たんなるヨナ、受け身で邪悪を受け入れる者、いわば死体に囲まれたホイットマンなのだ。兆候としてさらに重要なのは、イングランドでは毎年五千の小説が出版され、そのうちの四千九百までが取るに足らないものであるというその事実である。これは世界の動揺が収まってそれが新しい形へと変わるまで、あらゆる重要な文学あり得ないことの証明なのだ。

1940年3月11日
Inside the Whale and Other Essays

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