出版された当時、ジェームズ・バーナムの著書である経営者革命は合衆国とこの国の両方で少なからぬ動揺を引き起こし、そこで扱われたテーマはその枝葉末節に至るまで多いに議論された。できるだけ短く要約するとそのテーマは次のようになる:
資本主義は消え去るが、社会主義がそれに置きかわることはない。現在、現れつつあるのは新たな種類の計画的、中央集権的な社会である。それは資本主義的なものではないし、どのような意味においても民主的なものでもないだろう。この新しい社会の支配者は生産手段を効率的にコントロールする人々である。つまり企業経営者や技術者、官僚、軍人であり、バーナムがひとまとめにして呼ぶところの「経営者」である。彼らは古い資本家階級を取り除き、労働者階級を打ち負かし、全ての権力と経済的特権を彼ら自身が握る社会を打ち建てるだろう。個人の所有権は廃止され、しかし共有制度が確立されることはない。新たな「経営主義」社会は小さな独立した国家の寄せ集めではなく、ヨーロッパ、アジア、アメリカの主要な産業中心を取り巻く巨大超国家から構成される。これら超国家は地球上に残ったいずれにも所属しない部分の所有をめぐって互いに争うだろうが、一方が他方を完全に制圧することはない。内部に目を移すと各社会は才能に恵まれた貴族が頂点に立ち、大多数の半奴隷が底辺となる階層化されたものになるだろう。
続いて出版されたマキャベリ主義者たちでバーナムは元々の主張に対してさらなる詳細化と修正を加えている。本の大部分はマキャベリマキャベリ:ニッコロ・マキャベリ。ルネッサンス期のイタリアの思想家、外交官。「君主論」で政治における権謀術数について説いたことで知られる。とその近代における後継者であるモスカモスカ:ガエターノ・モスカ。イタリアの政治学者、ジャーナリスト、官僚。エリート論の代表的論者の一人。、ミヒェルスミヒェルス:ロベルト・ミヒェルス。ドイツの社会学者、歴史学者。エリート論の主要な理論の一つとして知られる「寡頭制の鉄則」を唱えた。、パレートパレート:ヴィルフレド・パレート。イタリアの技師、経済学者、社会学者、哲学者。パレート効率性、パレートの法則などで知られる。による理論の解説に当てられている。また疑問の残る言い訳とともにバーナムはそこに労働組合主義者の作家であるジョルジュ・ソレルジョルジュ・ソレル:フランス人の哲学者、社会理論家。を付け加えている。バーナムが主に証明しようとしているのは民主的社会はこれまでそれが存在したことはないし、私たちが目にできる限りの未来においても存在し得ないということだ。社会は本質的に少数独裁的であり、少数独裁的権力は常に力と不正をその基礎にしている。個人の生活において「良き」動機が働くであろうことをバーナムは否定しないが、政治が権力闘争以外の何物でもないという立場を彼は崩さない。歴史上の全ての変化は突き詰めれば結局のところある支配者階級が他にとって代わられたということなのだ。民主主義や自由、平等、友愛、全ての革命運動、全てのユートピアの目論見、あるいは「階級の無い社会」、「地上の天国」は欺瞞(必ずしもそれが自覚されている必要はない)であり、権力を奪取しようとしている何らかの新しい階級の野望を隠すためのものなのだ。イギリス清教徒、ジャコバン派、ボルシェビキはどれもたんなる権力追求者であり、自分たちのための特権的地位を勝ち取るために大衆の希望を利用した。時には暴力無しで権力を勝ち取ったり維持することもできるが不正については避けようがない。なぜならそれは大衆を利用するために必要なものであり、大衆はたんに少数の者の目的に仕えるだけと知れば協力しようとはしないだろうからだ。それぞれの大規模な革命闘争で大衆は人類の同胞愛という漠然とした夢に導かれ、その後、新しい支配階級が首尾よく権力を確立すると隷属状態へと押し戻されたのだった。バーナムの見るところではこれこそ政治の歴史全体の実態なのだ。
二冊目の著作が以前のものと異なるのは、もし事実に誠実に向きあえば全ての過程はいくらかは倫理的になり得ると主張しているところだ。マキャベリ主義者たちには自由の擁護者というサブタイトルが付けられている。マキャベリと彼の支持者が唱えているのは政治には慎みなど存在しないということで、それを受け入れれば政治の実務に対してより知性的に、より穏やかに対処することが可能になるとバーナムは主張する。権力を維持することこそが真の目的であると理解している支配者階級は同時に公共の利益に奉仕することでそれが達成しやすくなることを理解しているだろうし、世襲による貴族制を推し進めないよう努めるだろう。バーナムはパレートの「エリートの周流」理論を強く後押ししている。権力の座に留まるためには支配階級は絶えず下層から適した人間を取り入れなければならない。そうすれば最も有能な人間が常に頂点に立ち、権力に飢えた反体制者からなる新しい階級につけいる隙は与えられない。バーナムが考えるところでは、これが最も起きそうなのは民主主義的な習慣……つまり反対勢力が容認され、報道機関や労働組合といった団体の自主性が維持された……社会である。この点でバーナムは疑いなく初期の意見との間に矛盾を抱えている。一九四〇年に書かれた経営者革命では「管理に長けた」ドイツは万事においてフランスやイギリスのような資本主義・民主主義国よりも効率的であるということが当然視されていた。一九四二年に書かれた二冊目の本ではもしドイツが言論の自由を認めていれば彼らが犯したより深刻な戦略上の誤りを避けられたであろうことをバーナムは認めている。しかし主なテーマが放棄されているわけではない。資本主義は悪夢であり、社会主義は夢想だ。もし何が問題なのかを理解できれば経営者革命がどのように進むのかを私たちはある程度理解することができるだろう。しかし私たちが好むと好まざるとに関係なくその革命は進行中だ。二冊の本、とりわけ一冊目には議論されている過程の残酷さと邪悪さを楽しむかのような調子が疑いなく存在する。自分はただ事実を説明しているだけで自身の趣味嗜好を主張してはいないと彼が繰り返しているにも関わらず、バーナムが権力の繰り広げるスペクタクルに魅了されているのは明らかだ。そしてドイツが戦争に勝利しそうに見えることで彼はドイツに対して共感を覚えている。一九四五年のはじめにパルチザン・レビュー誌に発表された、ごく最近のエッセイ「レーニンの後継者」ではこの共感がソビエト連邦へのものに乗り換えられていることが見て取れる。アメリカの左派系報道界に激しい議論を引き起こした「レーニンの後継者」はまだイギリスでは出版されていない。このエッセイについては後ほどまた取り上げる必要があるだろう。
バーナムの理論は厳密な意味では新しいものでない。過去の作家の多くは資本主義的でも社会主義的でもないおそらくは奴隷制に基づいた新たな種類の社会の出現を予見している。その進行が不可避であるとは考えていない点で彼らの多くとバーナムは異なるにせよだ。良い例が一九一一年に出版されたヒレア・ベロックの著作である苦役国家である。苦役国家はうんざりするような文体で書かれ、そこに示される改善のための措置(小規模な小作農による所有の復活)は多くの理由で実行不可能なものだ。しかしそれでもその著作は優れた洞察によって一九三〇年頃から後に起きたさまざまな出来事を予言しているのだ。また秩序だったやり方ではないがチェスタートンは民主主義と個人の所有権の消滅、そして資本主義的または社会主義的と呼ばれる奴隷社会の勃興を予測している。ジャック・ロンドンは鉄の踵(一九〇九年)でファシズムの本質的な特徴を予言しているし、ウェルズの今より三百年後の社会(一九〇〇年)やザミャーチンのわれら(一九二三年)、オルダス・ハクスリーのすばらしい新世界(一九三〇年)といった作品は全て資本主義の抱える特殊な問題を自由や平等、真の幸福といったものを全く持ち出さずに解決してみせた想像上の世界を描いている。さらに最近になるとピーター・ドラッカーやF・A・フォークといった作家がファシズムと共産主義は本質的に同じものであると主張している。そして確かに計画的で中央集権的な社会は少数独裁的で専制的なものへと発展する傾向が常に見て取れるのだ。伝統的な保守主義者にはこれを理解することができなかった。彼らを安心させるのは社会主義は「機能しないだろう」という考え、資本主義の消滅は混沌と無政府主義を意味するだろうという考えだったからだ。また伝統的な社会主義者もこれを理解できないだろう。自身がほどなく権力を手に入れると希望を抱き、それゆえに資本主義が消滅すれば社会主義が取って代わると考えているからだ。結果として彼らはファシズムの高まりを予見することも、それが姿を現した後で正しい予測を立てることもできなかった。後になるとロシアでの専制政治を正当化する必要、そして共産主義とナチズムの間の明らかな類似を釈明する必要から事態はさらに不透明なものとなった。しかし産業主義が独占によって終わりを告げるという考え、そして独占は専制を暗示するという考えは驚くべきものではない。
ほとんどの他の思想家とバーナムの違うところは「経営者革命」がどのように進むのかを世界規模で正確に描こうと試みているところであり、また全体主義へと向かう傾向は抵抗しがたいもので、例えわかっていても立ち向かうことはできないだろうと考えているところだ。バーナムが一九四〇年に書いたところによれば「経営主義」はソビエト連邦で最高度の発展を遂げたが、それはまたドイツでも同じくらい発展し、合衆国でもその姿を現している。彼はニューディール政策を「原始経営主義」と表現している。しかしその傾向は同じようにいたるところ、ほとんど全ての場所でも見られる。レッセフェール的資本主義が計画と国家による干渉に道を譲り、たんなる所有者は技術者と官僚に対する力を失っている。しかし社会主義……つまりかつて社会主義と呼ばれていたもの……が現れる気配はない。
擁護者の中には「機会が与えられていない」と言ってマルクス主義を擁護する者もいる。これは真実とはほど遠い。マルクス主義やマルクス主義政党には多くの機会が与えられた。ロシアではマルクス主義政党が権力を握った。ほどなくしてその党は社会主義を放棄した。はっきりとそう言葉にしてはいないとしても少なくとも行動はそう示している。ほとんどのヨーロッパの国では第一次世界大戦の最後の数ヶ月とその直後からの数年に機会が与えられていた。社会危機によってマルクス主義政党に広く扉が開かれたのだ。そして権力を得てそれを維持することができないことを例外なく彼らは証明した。多くの国……ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オーストラリア、ニュージーランド、スペイン、フランス……で改革的なマルクス主義政党が政府を運営したが、一様に社会主義の導入や社会主義に向かう足場を築くことに失敗した……。それらの党は実質的に全ての歴史的試練……それは多くあった……に遭遇して社会主義の実行に失敗するか、それを放棄したのだ。これこそが社会主義に対する最も熾烈な敵対者も最も熱心な友も消し去ることのできない事実だ。理解している人もいるだろうが、この事実によって社会主義が掲げる理想の倫理的性質について何かが明らかにされるわけではない。しかしその倫理的性質がどうあれ、これは社会主義が実現することはないという直視せざるを得ない証拠の一端をなすものだ。
もちろん、ロシアやナチス・ドイツの体制に似たこの新しい「経営主義」体制が社会主義的と呼ばれるであろうことをバーナムが否定しているわけではない。彼はただ、マルクスやレーニン、ケア・ハーディケア・ハーディ:スコットランドの社会主義者、労働運動家。労働党の源流である独立労働党の創設者の1人で、イギリス初の独立労働党議会議員。、ウィリアム・モリスウィリアム・モリス:イギリスの作家、デザイナー。初期のマルクス主義者として知られる。やその他の一九三〇年以前の代表的な社会主義者が受け入れるであろう言葉の意味からすると彼らは社会主義者ではないだろうと言っているだけだ。最近まで社会主義は政治的民主主義、社会的平等、国際主義を意味していた。わずかな兆しまで含めてもこれらのどれかひとつでも達成されようとしている場所はどこにもないし、プロレタリア革命と称される何事かが起きたある巨大国家、つまりソビエト連邦は、世界的な人類の同胞愛を目指す自由で平等な社会というかつての構想から次第に遠ざかっている。革命の初期からの不屈の前進の中で自由は次第に剥がれ落ち、代議制は窒息し、一方では不平等が増大し、ナショナリズムと軍国主義が力を強めている。しかしバーナムが主張するように資本主義へ回帰する動きはまったく見られない。起きているのは純粋な「経営主義」の発達であり、バーナムに従えばそれはいたるところで進んでいるのだ。もちろんその進み方が国によってさまざまであることは確かではある。
さて、何が起きているかを考えれば、かなり過小に見積もってもバーナムの理論には非常に説得力がある。少なくとも過去十五年の間にソビエト連邦で起きた出来事は他の理論よりもこの理論によってずっと簡単に説明が可能だ。明らかにソビエト連邦は社会主義的ではないし、もしそれを社会主義的だと呼ぶことができるとしたらそれはその言葉に他の文脈とは異なる意味を与えた場合だけだ。その一方でロシアの体制が資本主義へ逆戻りするだろうと言う予言には常にごまかしが交じり、とてもそれが実現されるようには思われない。その進行過程がナチス・ドイツと酷似しているという主張に関してはおそらくバーナムも誇張しているだろうが、古い様式の資本主義から離れて血縁に依らない少数独裁者が管理する計画経済へと向かっているという点について言えば当てはまっているように思われる。ロシアにおいてはまず資本家が廃絶され、次に労働者が壊滅させられた。ドイツではまず労働者が壊滅させられたが資本家の廃絶についてはともかくも開始されただけだった。そしてナチズムが「単純な資本主義」であるという仮定に基づく予測は常に実際の出来事に裏切られている。バーナムの最大の誤りと思われるのは自由資本主義がいまだ隆盛を極めている巨大国家である合衆国で「経営主義」が広がっていると考えていることだ。しかし世界全体の動きについて考えれば、彼の懸念に反論することは難しい。たとえ合衆国であっても次に大きな経済危機が起きた時にはレッセフェールに対する広い信頼は失われるだろう。バーナムは「経営者」を過大に重要視しているという反論も存在する。つまり言葉の狭い意味での経営者……工場長やプランナー、技術者……のことだ。ソビエト・ロシアにおいてさえその言葉が意味するのはそういった人々であって、実際に権力を握っている共産党の役職者ではないように思われる。しかしそれはたいした誤りではなく、マキャベリ主義者たちでその一部は修正されている。本当に重要なのは次の五十年の間に私たちを踏みにじる人々は経営者や官僚、政治家と呼ばれる人間なのかどうか、そして現在、明らかに先行きのない資本主義が道をゆずるのは少数独裁か、それとも真の民主制なのかということなのだ。
しかし興味深いことにバーナムがその一般理論に基づいておこなう予測を調べると、調べられる範囲内に限ってもそこにごまかしがあることがわかる。それについてはすでに多くの人が指摘している。しかしバーナムの予測を仔細に追っておくことには価値が有るだろう。それらの予測は現在起きている出来事に関係するある種のパターンを描き、私が思うところでは現代における政治思想の非常に深刻な弱みを明らかにしているからだ。
まずはじめは一九四〇年に書かれた内容からバーナムが多かれ少なかれドイツの勝利を当然視していることが挙げられる。イギリスは「分解しつつある」と表現され、「過去の歴史的転換で見られた退廃的文化の全ての特徴」が現れているとされている一方で、ドイツが一九四〇年に達成したヨーロッパの占領と統合は「不可逆なもの」と表現されているのだ。「たとえどのような非ヨーロッパの同盟国と協力しようともイギリスがヨーロッパ大陸を勝ち取る見込みはないだろう」とバーナムは書いている。たとえもしドイツがなんらかの理由で戦争に敗北せざるを得ないとしても、分断されたり落ちぶれたりしてワイマール共和国のような状態になることはなく、統一ヨーロッパの中心としてその地位を維持するはずだ、いずれにしても未来の世界地図に記載される三つの巨大超国家はすでにその主要な外形を整えている、そして「それら三つの超国家の中心は将来的にそれがなんと呼ばれるかはともかく、既に存在している国家、日本、ドイツ、合衆国である」と言うのだ。
またイギリスが敗れるまではドイツがソビエト連邦に攻撃を仕掛けることはないだろうという意見をバーナムははっきりと口にしている。一九四一年の五月、六月にパルチザン・レビュー誌に掲載された彼の著作の要約、おそらくはその本自体よりも後に書かれたものの中では彼はこう言っている:
ロシア、そしてドイツの場合でも経営上の問題の三番目の部分……経営主義社会の他の部分に対する支配争い……は未来の問題である。まず起きるのは資本主義世界秩序の崩壊を確実なものにするとどめの一撃だ。とりわけ大英帝国の基礎(資本主義世界秩序の要石)に対する直接的な破壊、そして帝国の欠かざる原動力であるヨーロッパ政治構造に対する打撃を通した間接的な破壊だ。これこそがナチ・ソビエト間の講和に対する基本的な説明になる。それは互いの立場を理解せずに結ばれたものである。ドイツとロシアの間に将来的に起きるであろう紛争は経営上の性質を持ったものになるだろう。大規模な世界的経営戦争に先立って、資本主義秩序の終焉は確実なものとなる。ナチズムは「退廃的資本主義」であるという考え……それによってナチ・ソビエト間の講和を正しく説明することは不可能である。この考えからはドイツとロシアの間の戦争が常に予測として提出されるが、実際におこなわれているドイツと大英帝国の間の殲滅戦は予測されない。ドイツとロシアの間の戦争は未来に起きる経営主義戦争のひとつであって、過去と現在にわたって繰り広げられている反資本主義戦争ではないのだ。
しかしながら将来的にはロシアに対する攻撃がおこなわれ、確実に、あるいはほぼ確実にといってもいいがロシアは敗北することになる。「そう信ずるに足る十分な根拠がある……ロシアは二つに分割され、西側半分はヨーロッパに、東側はアジアに引き寄せられるだろう」これは経営者革命からの引用だ。約六ヶ月後に書かれた先に引用した記事ではもっと強くそれは主張されている。「ロシアの弱みはロシアが耐え切れずに分断され、東と西に分かれることを示している」とされているのだ。さらに一九四一年の終わりごろに書かれたとみられるイギリス(ペリカン)版に付け加えられた補遺ではバーナムはまるで「分断」がすでに起きたことかのように話している。この戦争は「ロシアの西側半分がヨーロッパの超国家に統合される過程の一部なのだ」と彼は言っている。
これらの様々な主張を整理すると次のような予言がおこなわれたことがわかる。
一、ドイツは戦争に勝利する運命にある。
二、ドイツと日本は巨大国家として存続し、それぞれの領域内に権力中枢が保持される。
三、イギリスが敗北するまではドイツがソビエト連邦に攻撃を仕掛けることはないだろう。
四、ソビエト連邦は敗北する運命にある。
しかしバーナムはこれ以外にも予言をおこなっている。一九四四年夏のパルチザン・レビュー誌の短い記事で彼は日本の全面的敗北を阻むためにソビエト連邦は日本と手を結び、一方でアメリカの共産主義者は極東での戦争終結に対する妨害工作を開始するだろうという意見を述べている。一九四四年から一九四五年の冬にかけて同じ雑誌に掲載された記事になってついに彼は、ロシアがユーラシア全体の征服に着手しているという主張を始めた。ロシアが「分断される」運命にあると彼が言ってからそう時間は経っていない。アメリカの知識人たちの間に激しい議論を引き起こしたこの記事はまだイギリスでは出版されていない。この記事についてはここでいくらかの説明をおこなっておく必要があるだろう。そのアプローチの仕方と感情的色合いには独特のものがあり、それを調べることでバーナムの理論の本当のルーツに近づくことができるからだ。
この記事には「レーニンの後継者」というタイトルが付けられていてそこではスターリンが真の、そして正統なロシア革命の守護者であることの証明が試みられている。どのような意味においても彼は「裏切り」を働いてはおらず、始めから暗黙に存在した路線に従ってことを進めているに過ぎないというのだ。多くのトロツキストが主張する、スターリンは自らの目的のために革命を歪めた取るに足らない詐欺師であり、もしレーニンが生きているかトロツキーが権力の座に留まっていれば事態は今とは違ったものになっただろうという主張よりも基本的には納得のいく意見だ。実際のところ主要な事態の進展が大きく異なったと考える大きな理由は無いのだ。一九二三年よりずっと以前に全体主義社会の芽は明らかに存在していた。レーニンが早逝したことで身の丈に合わない評価を勝ち取った政治家の一人であることは疑いない[段落の終わりの注記を参照]。もし彼が生きていればトロツキーのように追放されたか、あるいはスターリンのように野蛮な方法を用いて権力を維持したことだろう。従ってバーナムのエッセイのこのタイトルはそのもっともな主張を説明したものであり、事実に基づいて彼がそれを裏付けるであろうと当然のように期待される。
[注記:八十歳になるまで生きて、なおかつ成功者と見なされている政治家は想像しにくい。私たちに「偉大な」政治家と呼ばれるのは普通はその政策が効果を現す前に死んだ者なのだ。もしクロムウェルがあと数年長く生きていたらおそらく彼は権力の座から滑り落ちたことだろう。そうなれば現在、私たちは彼を敗北者と見なしていたはずだ。もしペタンが一九三〇年に死んでいればフランスは彼を英雄、愛国者として崇拝したことだろう。ナポレオンについても同じだ。もしモスクワに乗り込んでいる最中に偶然にも砲弾が彼に命中していれば、彼はこれまで生きた人間の中で最も偉大な男として歴史にその名を刻んだことだろう(原著者脚注)]
しかしながらこのエッセイはその明確な主題にはわずかにしか触れていないのだ。レーニンとスターリンの間の政策の連続性を本気で示そうとする者であればまずレーニンの政策の概要を説明し、その後でスターリンの政策がそれとどれほど似ているかを説明するであろうことは明らかだ。バーナムはそうしない。一、二ヵ所のぞんざいな文章を除けばレーニンの政策については何も言わないし、レーニンの名前は十二ページのエッセイでわずか五回しか現れない。タイトルを除けば最初の七ページには全く現れないのだ。このエッセイの本当の狙いはスターリンを非凡な超人的人物、いわば半神の類として描くこと、そしてボルシェビキを大地にあふれかえってユーラシアの最外縁に達するまでは押しとどめることが不可能な圧倒的な力として描くことなのだ。自らの主張を証明しようと試みるバーナムは、スターリンは「偉大な男」だと何度も繰り返す……おそらくそれは真実だがほとんど何の重要性も持たない。さらにスターリンが天才なのは疑いないと彼は強く主張しているが、彼の頭の中で「天才」という概念が残酷さや不誠実さという概念と不可分に混ざり合っていることは明らかだ。興味深い一節がある。その一節はスターリンが驚嘆に値するのは彼が引き起こす際限のない苦しみがあってこそなのだ、ということを示しているように思われる:
スターリンは自分自身が「偉大な男」であることをその壮大なやり方で証明している。訪れた要人をもてなすためにモスクワで開かれる晩餐会の様子はそれを象徴するものだ。その膨大なメニューにはチョウザメ、ローストビーフ、チキン、デザートが並び、あふれるような酒が供される。最後には何度も繰り返される乾杯だ。それぞれの賓客の背後には無口で身じろぎもしない秘密警察の人間がつく。レーニングラードの周りの飢えた群衆、前線で死にかけている数百万もの人間、人でごった返す強制収容所、わずかな食事によって生死の境で踏みとどまっている都市の人々に迫る冬には全くお構いなしだ。頭の回転の遅い凡人や低俗な人間には真似の難しいことだ。私たちがそこに強く見て取るのはツァーリ、メデスやペルシアの偉大な王たち、金帳汗国のハーンによっておこなわれたひどく絢爛豪華な催しという伝統、人間の域を超えた放漫、無関心、残忍さへの貢物として英雄時代の神々に供された祝宴である……スターリンの政治手法が示すのは凡人にはとうてい成し得ない慣習的制約からの解放なのだ。平凡な人間は慣習に囚われているものだ。多くの場合、両者の違いはその行動の規模である。例えば実生活でときおり事実を捻じ曲げようと企むのは人間にはよくあることだ。しかし何万もの人々、つまり自らの同志のほとんどが含まれる、社会全体の中で重要な位置を占める人々に対して事実を捻じ曲げるにはかなりの才能が必要で、長期的に人々の到達する結論は、そのでっち上げが真実に違いない……少なくとも「何らかの真実がそこには含まれている」……というものか、これほど多くの力が投入されるからには「歴史的必然」なのだというものか、そのどちらかとなる。知識人が言うように……国家的な理由でいくらかの人間を餓死させたところで驚くには値しないのだ。しかし熟慮の末の決定に従って数百万人を餓死させるというのは通常は神にのみ許された類の行動である。
こういった文章は皮肉を含んでいると考えていいだろうが、それでも同時にそこには魅力された感嘆のようなものがあると感じずにはいられない。エッセイの終わりに向かってバーナムはスターリンとモーゼやアショーカといった半分神話上の英雄との比較をおこなう。彼らはある時代全体が受肉したものであり、実際には彼らがおこなっていない功績をその名に帰すことが許された人物たちだ。ソビエトの外交政策とそこから想定される目的について書かれた部分では彼はさらに神格化した記述をおこなっている:
ソビエトの力はユーラシアの中心部を核とする源からちょうど新プラトン主義の一者の現実のように滴りながらあふれ出し、外に向かって流れていく。西はヨーロッパ、南は中近東、東は中国、既に太平洋、黄海やシナ海、地中海、ペルシア湾の浜辺へと打ち寄せているのだ。不可分の一者の場合では、進むにつれてそれは知性、精神、物質の段階を経て下っていき、最後に消え去って自身に返ってくる。それと同様にソビエトの力は完全な全体主義の中心から流れ出し、併合(バルト、ベッサラビアベッサラビア:現在のモルドバ共和国、ブコビナブコビナ:現在のウクライナ、ルーマニアにまたがる地域、東ポーランド)、支配(フィンランド、バルカン、モンゴル、華北、そして将来的にはドイツ)、指向された影響(イタリア、フランス、トルコ、イラン、華中と華南……)と外に向かって広がっていく。その勢いが衰えるのはマーシャル諸島のあたりで、そこがユーラシアの境界を超えた物質的な支配権の外側となる。そしてそこではつかの間の宥和と侵犯がおこなわれる(イギリス、合衆国)。
この一節で使われている不必要な表記上の強調が読者に対する催眠効果を狙ったものだと言われても私は非現実的だとは思わない。バーナムは恐ろしい抵抗不可能な権力の姿を描き出そうと試みている。侵犯という通常の政治的策略を侵犯と強調することでそこに何か不吉なものを付け加えようとしているのだ。ぜひこのエッセイの全文を読んでみるべきである。平均的なロシア好きの人間が受け入れられるであろう賛辞といったものは無いし、おそらくバーナム自身は自分は厳密な客観性に基づいていると主張するだろうが、それにも関わらず彼が実際のところ演じているのは敬礼、あるいは自己卑下とさえ呼べるようなものである。しかし一方でこのエッセイは私たちに考慮すべきもうひとつの予言を与えてくれる。つまりソビエト連邦はユーラシア全体を征服し、おそらくはそれ以上のことおこなうだろうということだ。そしてバーナムの基礎理論はそれ自体に未検証のまま残された予言を含んでいることを忘れてはならない……つまり何か他のことが起ころうとも社会の「経営主義」体制は広がっていく定めにある、という部分だ。
バーナムの初期のお告げ、つまりこの戦争でのドイツの勝利とドイツを核としたヨーロッパの統一は実現されなかった。その主要な概略だけでなくいくつかの重要な細部まで外れたのだ。「経営主義」はたんに資本主義民主主義やマルクス社会主義よりも効率的であるだけでなく、大衆にとってより受け入れやすいものであるとバーナムは主張し続けている。民主主義と民族自決主義のスローガンはもはや大衆には魅力を持たないと彼は言う。対照的に「経営主義」は熱狂を引き起こし、わかりやすい戦争の目的を生み出し、いたるところに第五列を設立させ、その兵士たちに対して狂信的士気を鼓舞することができると言うのだ。イギリスやフランスなどの「無感動」や「無関心」と対比されるドイツの「狂信」は多いに強調され、ナチズムはヨーロッパを吹き荒れる「感染によって」その理念を広げる革命勢力と表現されている。ナチの第五列を「一掃することはできず」、民主主義国家がドイツやその他の大衆に対して新しい秩序のための何らかの調停案を提案することは不可能だろう。どちらにせよ、民主主義国がドイツを打ち負かすことができるとしたらそれは「いまだドイツが到達してないほどの経営手法を徹底」した場合だけだ。
これら全体の中には一片の真実がある。戦争前の混乱と苦闘の日々によって民主化された比較的小さなヨーロッパの国々はそれを成し遂げたよりもずっと早く崩壊し、もしドイツがその約束を守れば、ことによると新しい秩序を受け入れるだろうということだ。しかし実際のところドイツによる支配はほとんど瞬時に世界がまず目にしたことがない規模の憎悪と報復の嵐を巻き起こす。一九四一年の始めから後、積極的な戦争目標が必要とされることはほとんど無くなった。ドイツを取り除く、それだけで十分な目標となったのだ。倫理的疑問とそれに対する国民の連帯との関係は不透明なものとなり、証拠の捏造がひどくなったためにほとんどどのようなことでも証明できるようになってしまった。しかし、殺人による受刑者の割合や売国行為の多寡を見れば、全体主義国家が民主主義国家と比較してひどい状態であることがわかるだろう。何万ものロシア人が戦争遂行中にドイツへと脱出したように思われるし、それと同じくらいの数のドイツ人とイタリア人が戦争が始まる前に連合国へと脱出した。それと比較してアメリカ人とイギリス人の裏切り者の数はずっと少ないはずだ。軍事的な志願者を得る上での「資本主義思想」の無力さの例として、バーナムが引用しているのが「イングランド(そして大英帝国全体)と合衆国における義勇兵募集の完全な失敗」である。これを読むと全体主義国家の軍隊は義勇兵によって人員をまかなっていると書かれていることがわかる。しかし実際のところはどのような目的のためであれ義勇兵募集を重視している全体主義国家は存在しないし、歴史全体を見ても自発的手段によって巨大な軍隊が組織されたことはない[段落の終わりの注記を参照]。バーナムは似たような主張を数多く挙げているがどれも見るべき価値は無い。重要なのは、少なくともヨーロッパにおいてドイツは軍事的戦争と同様にプロパガンダ戦争でも勝利をおさめるに違いないと彼は考えているが、これには何ら実際の出来事による裏付けがないということだ。
[注記:大英帝国は一九一四年から一九一八年の間の戦争の初期に百万からなる義勇軍を組織した。これが世界記録であることは間違いないだろうが、そこで使われた圧力を考えればその募集が自発的と表現できるかどうかは疑問である。最も「イデオロギー的」な戦争であっても大部分は押し付けられた人間によって戦われたのだ。イングランド内戦、ナポレオン戦争、アメリカ南北戦争、スペイン内戦などではどちらの陣営も徴兵か強制徴募に頼っていた(原著者脚注)]
バーナムの予測は検証可能な場合にたんに間違っているとわかるだけでなく、ときに驚くべきやり方で互いに矛盾しているように思われる。終わりの方の事実は重要である。政治的予測は普通は外れるものだ。それらが願望的考察に基づいているからではない。そこに兆しに対する見積もりが含まれるからであり、それが急激に変化する場合にはとりわけ外れやすくなる。しばしばそれを明らかにしてくれるのがそれらの予測がなされた日付けである。バーナムのさまざまな著作が書かれた日付けはその内部の証拠から、そしてそこに何が書かれていないかからかなり正確に推定できる。次のような関係を見て取れるのだ:
「経営者革命」でバーナムが予言したのはドイツの勝利、イギリスが敗北するまでロシアとドイツの間の戦争が先延ばしされること、そしてその後に続くロシアの敗北だった。この本のほとんどは一九四〇年の後半に書かれている……つまりドイツが西ヨーロッパを制圧し、イギリスを爆撃し、ロシアが彼らと緊密に連携するか少なくとも宥和的な雰囲気があった時期だ。
この本のイギリス版に付け加えられた補遺を見るとバーナムはソビエト連邦が既に打ち負かされていて、分断の動きが始まっていると考えているようだ。これが出版されたのは一九四二年の春なので書かれたのはおそらく一九四一年の終わりだろう。つまりドイツ人たちがモスクワ郊外に到達していた時期だ。
ロシアが日本と手を組んでアメリカ合衆国に対抗するという予測は新しい日露条約が締結されて間もない一九四四年の初めに書かれた。
ロシアの世界征服という予言が書かれたのは一九四四年の冬で、ロシアが急速な勢いで東ヨーロッパへと前進し、一方で西側連合国がいまだイタリアと北フランスで足止めされていた時期だ。
それぞれの時点でバーナムが予測しているのはその時に起きていることがそのまま続いたらどうなるかであるように見える。こういったやり方は、よく考えれば修正可能なたんなる不正確さや誇張以上に悪いものである。それは深刻な精神の病であり、その根底にあるのは一部は臆病であり、また一部は臆病と交じり合って分離不能になった権力に対する崇拝である。
一九四〇年にイギリスで「ドイツが戦争に勝つと思うか?」という質問のギャラップ世論調査ギャラップ世論調査:世論調査会社であるギャラップ社による世論調査。標本抽出方式の世論調査で精度が高いことが知られる。があったとしよう。奇妙なことに「はい」と答えるグループに含まれる知識人……例えばIQ一二〇以上の人々としよう……の割合は「いいえ」と答えるグループよりもずっと高くなったことだろう。一九四二年の中盤であっても同じことが言える。今度の場合はそこまで刺激的な設定ではないが、もし「ドイツ人たちはアレクサンドリアアレクサンドリア:エジプトの都市を占領すると思うか?」とか「日本人たちは占領している地域を維持できると思うか?」と聞けば、やはり「はい」と答えるグループに知識人が集中するという明確な傾向が現れるはずだ。どの場合でも才気に欠ける人物の方が正しい回答を下せることだろう。
これらの例から判断すれば、高い知能と間違った軍事的判断は不可分なものなのだと考えたくなるところだ。しかし事はそう単純ではないのだ。全体的に見てイギリスの知識人階層は大衆よりも敗北主義的である……中にはどう見ても戦争に勝っている時にも敗北主義に走る者もいる……それは一部にはこれから先に横たわる戦時の陰鬱な年月をより明確に思い描くことができるからだ。彼らの士気が低いのは彼らの想像力がたくましいからなのだ。戦争を終らせる最も手っ取り早い方法は負けることだ。そうであれば耐え難い長期戦になる兆候を見つけた時には勝利の可能性を疑うのは自然なことだ。しかしさらなる理由もある。知識人の多くは不満を抱いているものであるが、それゆえに彼らはイギリスに敵対する国の側に味方せずにはいられなくなるのだ。またとりわけ大きな理由となるのがナチ体制の権力やエネルギー、残酷さに対する感嘆……しかしその感嘆が意識に上ることはほとんどない……である。左派の報道機関を調べ、一九三五年から一九四五年の間におこなわれたナチズムに対する敵対的な言及を全て数え上げるという仕事は退屈なものだろうが、しかし価値のあるものになるだろう。私が考えるに最もそういった言及が多かったのは一九三七年から一九三八年、そして一九四四年から一九四五年の期間であり、目に見えて減るのは一九三九年から一九四二年……つまりドイツが勝利するかに思われた期間である。また同時に一九四〇年に和平を唱えたのと同じ人々が一九四五年にはドイツの分割に賛同しているということにも気がつくだろう。そしてもしイギリスの知識人階層のソビエト連邦に対する反応や印象を調べれば、そこでもまた権力と残酷さに対する感嘆とないまぜになった実に進歩的な衝動を発見することだろう。権力崇拝が原動力となるのは公平に言えばロシア好きの人間だけではないが、それが彼らの原動力のひとつであることは確かだ。そして知識人階層においてはおそらくそれこそが最も強い原動力なのだ。
権力崇拝は政治的判断を曇らせる。なぜならそれは現在の情勢がそのまま続いていくという信念をほとんど不可避に抱かせるからだ。その瞬間に勝利しているのが誰であろうとその人物が常に無敵であるように思えてくるのだ。もし日本人が南アジアを征服したのであれば彼らは永遠に南アジアを占領し続けるだろうし、もしドイツ人がトブルクトブルク:エジプトに近いリビア東部の港湾都市を占領したのであれば間違いなくカイロを占領するだろう、もしロシア人がベルリンに到達しているのであれば彼らはほどなくロンドンに到達するだろう、といった具合だ。この思考の癖からはまた、実際におこなわれるよりも事態はもっとすばやく完璧で破滅的に起きるという信念が導かれる。帝国の興亡、文化や宗教の消滅は突然の地震のように起きると考えられ、ようやく始まったばかりの過程はまるですでに終わりにさしかかっているかのように語られる。バーナムの著作は終末的なビジョンに満ちている。国家や政府、階級や社会システムは膨張し、あるいは収縮し、腐敗し、溶解し、転覆し、砕け、崩れ落ち、結晶化され、概して不安定で芝居がかったやり方で振る舞うものとして描かれるのが常である。歴史的変化の遅さ、どのような時代であっても常に前の時代のものを多く含んでいるという事実は決して十分には考慮されない。このような思考の仕方は間違った予言に到達せざるを得ないのだ。もし事態の行方を正しく捕らえていたとしてもその速度の目算を誤るためだ。五年という期間の間にバーナムはドイツによるロシアの支配とロシアによるドイツの支配を予言した。どちらの場合も彼は同じ直感に従ったのだ。その時々の征服者に頭を垂れる、目の前の動きを不可逆なものとして受け入れるという直感だ。このことを頭に置くと彼の理論をより広い視野から批評することが可能になる。
私が指摘した誤りによってバーナムの理論が反証されるというわけではないが、それらの誤りは彼がその理論を抱くに至ったであろう理由に光を投げかける。それに関して言えばバーナムがアメリカ人であるという事実は考慮にいれざるを得ない。どのような政治理論であれそれは特定の地域の色合いを帯びるものであり、どのような国家、どのような文化であってもそこには特有の偏見とまだらになった無知が存在する。観察者の地理的状況に従うそれぞれの視点を離れて観察をおこなうことはほとんど不可能である、という避けがたい問題が存在するのだ。そしてバーナムが選んだ態度、つまり共産主義とファシズムをまったく同じものと分類し、同時にその両方を受け入れる……少なくともどちらに対しても暴力的な戦いをおこなう必要はないと考える……という態度は本質的にはアメリカ人のものであり、イギリス人やその他の西ヨーロッパの人間にはほとんど成し得ないものだろう。共産主義とファシズムを同じものと考えるイギリス人作家であればその両者を命をかけて戦わざるを得ない怪物的な邪悪と見なさずにはいられない。一方で共産主義とファシズムを正反対のものと信じるイギリス人であればどちらかの側に付かなければならないと感じることだろう[段落の終わりの注記1を参照]。この考え方の違いの理由はごく単純なありふれたもの、つまり願望的考察と深い関係がある。もし全体主義の勝利と地政学者の夢が現実のものとなれば大国としてのイギリスは消え去り、西ヨーロッパ全体が同じひとつの大国に飲み込まれることになるだろう。イギリス人にとってこれは私情を離れて考えることが難しい展望だ。イギリスが消え去ることを望まないか……その場合、その人は自分が望む事態を導く理論を構築することだろう……ごく少数の知識人たちのように自分の国が滅びたと判断してどこか外国の勢力に忠誠心を移し替えるかしかない。アメリカ人が同様の選択を迫られることはない。何が起きようとも合衆国は大国として生き残り、アメリカ人の立場からすればヨーロッパを支配するのがロシアだろうとドイツだろうとたいした違いはないのだ。問題を深く考察するほとんどのアメリカ人は世界が二、三の巨大な国家の間で分割されると考えるのを好むだろう。それら国家は自然に決まる国境まで膨張し、思想の違いに囚われることなく経済的な問題について駆け引きをおこなうことだろう。このような世界像は大きさそれ自体を理由に感嘆してその成功をもっともだと感じるアメリカ人の性質に合うし、おおいに広まっている反英感情にも合う。実際のところはイギリスと合衆国は二度に渡ってドイツに対抗する同盟を強いられ、おそらくやがてはロシアに対する同盟を強いられることだろう。しかし主観的にはアメリカ人の大多数はイギリスよりもロシアかドイツを好み、ロシアとドイツの間で言えばその時々でより強そうな方を好んでいるように思われる[段落の終わりの注記2を参照]。従ってバーナムの世界観がしばしば一方はアメリカ帝国主義のそれに、他方は孤立主義のそれに著しく傾かざるを得ないのは驚くべきことではないのだ。それらは願望的考察のアメリカ的形式に合う「タフな」あるいは「現実主義的な」世界観なのだ。初期の二冊の著作でバーナムが見せたあけすけと言ってもいいナチの手法に対する感嘆、ほとんどのイギリス人読者に衝撃を与えたであろうそれは究極的には大西洋はイギリス海峡よりも広いという事実に依拠しているのだ。
[注記1:私が考える唯一の例外はバーナード・ショーバーナード・ショー:ジョージ・バーナード・ショー。アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストで、彼は少なくとも何年かの間は共産主義とファシズムが同じものだと言明し、なおかつその両者を支持した。しかし結局のところショーはイギリス人ではないし、おそらく自らの運命がイギリスのそれと固く結びついているとは感じていないのだろう(原著者脚注)]
[注記2:一九四五年の夏になってドイツに駐留するアメリカの部隊に対しておこなわれたギャラップ世論調査では五十一パーセントの者が「一九三九年以前にはヒトラーは良い行いをしたと思う」と答えている。五年に及ぶ反ヒトラープロパガンダの後にこれなのだ。引用されたところによればドイツに対して非常に強い好意が存在するわけではないが、どこであろうとアメリカ軍の五十一パーセント近くが同じ程度の好意をイギリスに対して感じるとは考えにくい(原著者脚注)]
先に述べたように現在とごく最近の出来事に関してであればバーナムはおそらく間違っていることより正しいことの方が多い。過去五十年もの間、全体的な流れはほぼ確実に少数独裁に向かって動いていた。増加の一途をたどる産業的・経済的権力の集中、個人資本家や株主の重要性の消失、科学者・技術者・官僚という新しい「経営者」階級の成長、中央集権化された国家に対する労働者階級の弱さ、大国に対する小国の無力感の増加、代議制の腐敗と警察の組織的暴力に基づく一党体制の出現、偽装された住民投票などなど。こういったものは全て同じ方向を指し示しているように思われる。バーナムはこのような動きを見て取り、それが避け難いものであると見なしたのだ。ちょうどそれは大蛇に魅入られたウサギが大蛇こそ世界で最も強い存在だと見なすようなものだ。少し入念に観察すれば彼のアイデアの全ては一冊目の本で当然視され、二冊目の本で部分的に系統立てられた二つの公理に基づいていることに気がつくことだろう。
一、いつの時代も政治は本質的には変わらない
二、政治行動は他の種類の行動とは異なるものである
まずは二番目のものを取り上げよう。マキャベリ主義者たちでバーナムは政治とはたんなる権力をめぐる闘争なのだと主張した。どのような大きな社会運動、戦争、革命、政治的計画、あるいは啓発やユートピア主義者であろうとも、その背後には権力それ自体を目的に権力の掌握を企む複数集団の野心が潜んでいるのだ。どのような倫理的、宗教的規範によっても権力を抑えこむことはできない。それができるのは別の権力だけなのだ。利他的行動に対する最も可能性のあるアプローチは、適切に振る舞えば権力の座により長く留まることができるだろうことに支配者集団が気づくことだ。しかし実に奇妙なことに、そういった一般化は政治行動にしか適用されず、他の種類の行動には当てはめることができない。バーナムが観察し認めたところによれば日常生活においてはどのような人間の行動に対しても何のために?の原理によって説明を与えることはできないのだ。人間には明らかに非利己的な傾向がある。それゆえに人は個人として振る舞うときには道徳的に振る舞うことができる動物なのだ。しかし集団として振る舞うときには人は非道徳なものへと変わる。しかしこうした一般化でさえ当てはまるのは高層集団だけだ。見たところ大衆には自由と人類の同胞愛へと向かう漠然とした憧れがあり、それは権力に飢えた個人や少数派に容易に弄ばれる。歴史は欺瞞の連続で成り立っている。そこでは大衆はまずユートピアの約束によって蜂起へと誘い出され、役目が済むと新しい主人によって再び奴隷へと落とされるのだ。
それゆえに政治行動は特殊な行動であり、無節操さこそがその特徴であり、人口の中のごく小さな集団、とりわけ既存の社会形態の下では自らの才能を思うに任せることができないという不満を持つ集団にのみ生じるのだ。人々の大多数……ここで二番目の公理が一番目の公理と結びつくのだが……はいつの時代も非政治的であると言っていい。つまり実際のところ人類は二種類に分類されるのだ。利己的で偽善的な少数派と愚かな大衆だ。大衆の運命は常に誘導されるか駆り立てるかされていて、それはちょうどその時々に応じて尻を蹴り上げられるか残飯バケツを叩き鳴らされるかして豚小屋へと戻される豚と同じことなのだ。そしてこの美しいパターンが永遠に続いていく。個々の人間は片方の階級からもう片方へと移動することもあるだろうし、階級全体が他方の階級を打ち捨てて支配的な位置へと上昇することもあるだろう。しかし支配者と被支配者という人類の分断が変わることはない。欲求や必要がそうであるように、能力という点で人間は平等でないのだ。「少数独裁の鉄の掟」が存在し、たとえもし民主主義が重要性を持たなくなったとしてもそれは力学的な理由から実行に移されるだろう。
権力闘争についての彼の発言の中でも興味深いのは、なぜ人々は権力を求めるのかをバーナムが一度も立ちとどまって問おうとしないことだ。比較的少数の人間にしか見られないという違いはあれ、権力に対する餓えは食欲と同じように説明するまでもない自然の本能であると見なされているようだ。また彼は社会の階級的分断の役割はどの時代も同じであると見なしている。これはまさに数百年に及ぶ歴史に対する無知である。バーナムの師であるところのマキャベリは、階級は逃れられないものであるだけでなく望ましいものだと書いている。生産手段が原始的である場合には人々の大多数は退屈で疲れる単純肉体労働に縛り付けられている必要があり、ごく少数の人々だけがそういった労働から解放されていた。さもなければ文明は自らを維持することができず、何の進歩も起きなかったことだろう。しかし機械の出現によって全てのパターンが変わったのだ。階級区別の理由は、もしそれがあるとすればだが、もはや同じものではあり得ない。平均的な人間がつまらない仕事を続けなければならない力学的理由は存在しないのだ。そう、確かにつまらない仕事は残っている。階級区別はおそらく新しい形態で自らを再確立し、個人の自由は下り坂にある。しかしそういった動きは今や技術的に除去可能である。そこにはバーナムが明らかにしようと試みない何か精神的な原因があるのだ。彼が問うべきであり、そして問わない疑問はこうだ。人間の人間に対する支配がその必要性を終えようとしているまさに今この時になぜむき出しの権力に対する渇望がこれほど大きな人間の原動力となっているのか? 社会主義を不可能にする「人間の本性」だとか、あれやこれやの「避けがたい法則」の主張に関して言えばそれはたんに過去を未来に投影しているだけに過ぎない。実際のところバーナムが主張しているのは自由な社会と人類の平等はこれまで一度も存在したことがない、従ってこれからも存在するはずがないと言うことなのだ。同じ議論をすれば一九〇〇年時点で飛行機の、一八五〇年時点で自動車の不可能性を証明することができるだろう。
機械が人間の間の関係を変え、その結果としてマキャベリは時代遅れになるという考えは疑う余地のないものである。バーナムがそのことを把握できていないとしたら、私が思うにそれはマキャベリ主義世界の力、欺瞞、専制が何らかの方法で終わりを迎えるという兆し全てを彼自身の権力に対する衝動が横に押しのけているためだ。私が先に述べた点を頭に留めて欲しい。バーナムの理論は現在、知識人に広く蔓延している権力崇拝の変種……アメリカにおける変種であり、その広汎性は興味に値する……に過ぎないのだ。少なくともイギリスにおいて見られるもっと一般的な変種は共産主義だ。ロシアの体制が好ましいという考えを持つ非常にロシアを好いている人間を調べれば、だいたいの場合において彼らがバーナムが言うところの「経営者」階級に属していることに気がつくだろう。狭い意味での経営者ではなく、科学者、技術者、教師、ジャーナリスト、放送事業者、官僚、職業政治家だ。自らがシステムに束縛されていると感じる中流の人々は全体的に見ていまだ貴族的な部分を残し、より大きな権力、より大きな特権に飢えているのだ。こうした人々はソビエト連邦に期待してその立場に立ってものを見る。あるいは上流階級を廃絶した上で労働者階級を今の位置に留め、自分とたいして変わらない人々に対する無制限の権力を手に入れようと考えるのだ。ソビエトの体制が疑いの余地なく全体主義へと変わった後になってからイギリスの知識人たちの大多数はそれに興味を示し始めた。イギリスのロシア好きの知識人階層は彼を否定するだろうが、バーナムは実は彼らの密かな願望を声に出しているのだ。古い平等主義的な社会主義を打ち捨て、最終的に知識人が鞭を握ることのできる階層社会を導入しようという願望だ。少なくともバーナムには社会主義は到来していないというだけの誠実さがあった。他の者はただ社会主義が到来しつつあるというだけだ。そしてその「社会主義」という言葉に新しい意味を与えて以前の意味を無かったことにしているのだ。しかし客観的な装いをしてはいるが彼の理論は願望の正当化だ。ほんのすぐ先の未来を除けば、それが私たちに未来についての何事かを告げていると考える大きな理由は存在しない。それが告げているのは「経営者」階級である彼ら自身が、あるいは少なくとも比較的思慮に富む野心的な構成員による階級が住みたいと願う世界がどのようなものであるかだけなのだ。
幸運なことに「経営者」はバーナムが思っているほどには無敵ではない。経営者革命において民主主義国の社会や軍隊の長所がいかにかたくなに無視されているかは興味深い。全ての点において証拠はヒトラーの狂った体制の強力さ、活力、耐久力を証明しているとされるのだ。ドイツは急速に膨張したが「急速な領土拡大はいつであろうとも衰退ではなく……再興を示すもの」とされる。ドイツは戦争を成功に導き、「首尾よく戦争をおこなう能力が衰退の兆しであるはずはなく、むしろその逆」なのだ。またドイツは「数百万の人々に狂信的忠誠心を喚起させている。これもまた衰退期においては見られないもの」だ。ナチ体制の残酷さと不誠実ささえ好意的に取り上げられている。「若々しく新しい上昇する社会秩序は古いものと較べて巨大な規模の欺瞞、恐怖、迫害に頼ることが多い」からだ。しかしたった五年の間にこの若々しく新しい上昇する社会秩序は粉々に自壊し、バーナムの言葉を借りれば衰退したのだ。そしてこれが起きたその理由の大部分はバーナムが感嘆した「経営主義的」(つまり非民主的)構造によるものなのだ。ドイツ人たちが敗北した直接の原因はイギリスがまだ敗北せず、アメリカが明らかに戦争の準備を整えているにも関わらずソビエト連邦にたいして前代未聞の愚かな攻撃を仕掛けたためだ。これほど重大な誤りを犯すのは、あるいは少なくとも犯す可能性が高いのは世論が何の力も持たない国々だけだ。一般市民の声が届く場合には全ての敵と同時に戦ってはならないといったような初歩的なルールが犯されることはまずない。
ともかくナチズムのような運動が何か好ましい安定した結果を生み出せるはずがないことは始めの時点から見て取ることができたはずだ。しかし実際のところ、彼らが勝利を続けている間はバーナムはナチの手法には何も間違ったところはないと考えていたようだ。彼が言うにはそういった手法が邪悪に見えるのはそれが新しいためなのだ:
礼儀に適ったやり方と「正義」こそが必ず勝利するという歴史の法則は存在しない。歴史で常に問題とされるのはそれが誰のやり方なのか、誰の正義であるかなのだ。上昇する社会階級と社会の新しい秩序はちょうど古い経済と政治制度をそうするのと同じように古い道徳律を打ち砕く。当然のことながら古い側の視点に立てばそれは怪物なのだ。勝利すればやがて彼らもやり方と倫理に気を使うようになる。
ここで言外に言われているのはその時々の支配階級がそう望めば文字通りどんなものであれ正しくも悪くもできるということだ。人間社会をひとつにまとめるのであれば行動規則の一定は監視されなければならないという事実がそこでは無視されている。それゆえにバーナムはナチ体制の犯罪と愚行がいくつかの破滅の道へと間違いなく続いていることに気がつけなかったのだ。それは彼が新たにおこなっているスターリン主義への感嘆についても言える。ロシアの体制がどのような道をたどって自壊に到るのか語るのはまだ早すぎる。もし予言する必要があると言うなら私の言えることはこうだ。過去十五年間のロシアの政策が続けば……もちろん内外の政策はおなじ物の二つの側面に過ぎない……原子爆弾による戦争しか道は残されておらず、それと比較すればヒトラーの侵略はお茶会のように思えることだろう。しかしともかくロシアの体制は民主的なものに変わるか、滅びるかのどちらかだ。バーナムが夢見ていると思われる巨大な無敵の奴隷帝国が樹立されることはないし、もし樹立されたとしても長くは続かない。なぜなら奴隷制はもはや人間社会の安定的基盤足り得ないのだ。
常に肯定的な予言をおこなえるわけでないし、時には否定的な予言をおこなわなければならない時もある。ベルサイユ条約の結果がどのようなものになるか正確に見通せた人間はいないだろうが、数百万の思慮ある人々はその結果がひどいものになるであろうことを見通せたし、実際そうした。今回はそれほど多くないとはいえ、現在ヨーロッパで推し進められている調停の結果もまたひどいものになるであろうことを大勢の人間が予見している。そしてヒトラーやスターリン……こちらもだ……への感嘆を控えるためにそれほど膨大な知的努力が必要だとは思えない。
必要なのはむしろいくらかの倫理的努力なのだ。バーナムの贈り物を受け取った人間はしばらくの間はナチズムを何か極めて感嘆すべきもの、何か実際的で永続的な社会秩序を作りあげることができるものと考えることだろう。そして現在「現実主義」と呼ばれているものを育み、現実的感覚に対してどのような損害が与えられるかを示して見せるのだ。
[注記:このエッセイは一九四六年に「ジェームズ・バーナムについて再び考える」というタイトルでポレミック誌に初めて掲載され、その後、一九四六年の夏に「ジェームズ・バーナムと経営者革命」のタイトルで、一九四七年に「ジェームズ・バーナム」のタイトルで再出版された。]