ジョージ・オーウェル

ドナルド・マッギルの芸術


安い文房具店の窓の「滑稽画」、体の線が露わとなる水着姿の豊満な女性が無数に描かれた一、二ペニーのカラーの絵はがき、またその粗雑な絵と見るに堪えない色、とりわけヨーロッパカヤクグリの卵のような淡色と郵便局のような赤色と言われてわかる者がいるだろうか?

この問いはやや言葉が過ぎるものだろうが、こうした物の存在に多くの人々が気がついていない、あるいはミンストレル・ショーミンストレル・ショー:顔を黒く塗った白人によって演じられた舞台演芸。差別的な内容であったため1960年代アメリカでの公民権運動以降は姿を消した。の芸人やペパーミント味の砂糖菓子のように避暑地の浜辺でだけ目にするものだと漠然と考えていることは興味深い事実である。実際のところ、これらはいたるところで売られているし……例えばほとんどどこのウールワースウールワース:日用雑貨チェーン店であろうと買うことができるはずだ……膨大な量が生産され、絶えず新しいシリーズが現れていることは明らかだ。またこれらはいろいろな他の種類のイラストが描かれた絵はがき、例えば子犬や子猫、あるいは子供たちの恋の様子を悪用したポルノじみたウェンディー風のものとははっきりと区別される。それらは独自の一分類を成していて、姑や赤ん坊のおむつ、警官のブーツといった種類のジョークに見られるようにユーモアの程度が非常に「低俗」なところが特徴で、芸術を装う素振りが無いという点で他の全ての種類のものから判別可能なのだ。発行しているのは半ダースばかりの出版社だが、どの時点においてもそれを描いている人々はそう多くはないように思える。

私にとってこうした物にとりわけ強く結びついているのはドナルド・マッギルという名前だ。最も多作で同時代の絵はがき画家の中でも飛び抜けて優れているというだけでなく、その最たる典型であり、その伝統を最も完全な形で受け継いでいるからだ。ドナルド・マッギルがどのような人物か私は知らない。明らかに商売のための名前で、少なくともひとつの絵はがきのシリーズはしっかり「ドナルド・マッギル画」として出版されているが、彼がひと目見てそれとわかる画風を持った現実に存在する人物であることに疑う余地はない。彼の絵はがきを大量に調べた者であれば誰しも、その多くがスケッチとして見ると低俗というよりはむしろ何らかの直接的な美的価値を持つかのように装った道楽趣味ディレッタンティズム的なものであることに気がつくだろう。絵はがきはジョーク、それも決まって「低俗」なジョークを描いていて、問題とされるのはそれが笑いを誘うことができるか否かだけだ。それ以上となるとそこにあるのは「観念的」な関心だけである。マッギルは顔を描くことにおいては真の風刺家の筆致を持った巧みなスケッチ画家だが、彼の絵はがきの持つ特別な価値はそれらが完璧なまでに典型に当てはまっていることだ。いわばそれらは絵はがきの規範を表しているのである。少しの模倣もないにも関わらず過去四十年間の絵はがきの有様そのままであり、そこからその分類全体の意味と目的を推し量ることが可能なのだ。

こうした絵はがきを一ダースほど手に入れてみて欲しい。できればマッギルのものがいい……積まれた中からあなたが面白いと思えるものを取り出してみれば、おそらくそのほとんどがマッギルのものであることに気がつくことだろう……そしてそれをテーブルの上に広げてみて欲しい。何がわかるだろうか?

最初に感じる印象はとてつもなく下品であるということだ。これまで存在したどんなわいせつな物とも、また色彩の醜悪さともまったくかけ離れている。それらから醸し出される精神的雰囲気のまったくの低俗さはそこに描かれたジョークの性質だけでなく、もっと言えばグロテスクで、詮索的で、露骨なそのスケッチの性質によるものだ。その図案は子供の描くそれのように太い線と何も描かれていない空間で満ちていて、描かれた人物は全員、身振りや姿勢にいたるまで意図的に醜く描かれ、その顔には愚かしいにやにや笑いが浮かべられている。女性は怪物じみたパロディーとして描かれ、その下半身はまるでホッテントットホッテントット:南西アフリカのコイサン族に対して過去に使われていた蔑称。肉体的特徴として女性は大きな臀部を持つ。のようだ。しかし次に感じる印象は言葉にできない懐かしさである。これらの物が思い出させるのはいったい何だろうか? いったい何と似ているのだろうか? もちろんまず最初に思い出させるのは子供時代に目にしたであろう、それらとよく似た絵はがきのことだ。しかしそれ以上に、本当にそこに映し出されているのはギリシャ悲劇と同じくらい伝統的な何か、醜い下半身と骨ばった姑によるある種の下位世界、西ヨーロッパ人の意識の一部であるそれなのだ。そこに描かれたジョークのひとつひとつは必ずしも古びたものではない。決まって猥雑であることを除けば、絵はがきは評判の高い雑誌に掲載されるジョーク記事よりもよっぽど同じことの焼き直しが少ない。しかしその基本的な主題、狙いを定めたジョークの種類は決して変わらないのだ。本当にウィットに富んだ、マックス・ミラーマックス・ミラー:二十世紀前半に活躍したイギリスのコメディアン的スタイルのものもわずかだがある。例を挙げてみよう。

「経験豊富な女の家庭を見たいものだわ」

「私は経験豊富じゃない!」

「あなたは家庭も持っていないじゃない!」

「私は貧乏で何年も毛皮のコートを買えないでいるのに。あなた、それをどうやって手に入れたの?」

「貧乏から抜け出したのよ」

判事:「どうもはっきりしませんね、ご主人。あなたはこの女性と寝たんですか、寝てないんですか?」

離婚裁判の共同被告:「一睡たりともしていません、判事殿!」

しかし一般的に言えば絵はがきのジョークはユーモラスではあるがウィットに富んでいるというわけではない。そしてとりわけマッギルの絵はがきに言えることだが、描かれているスケッチの方がその下につけられたジョークよりもずっと面白いことが多いのだ。滑稽画の人目を引く特徴がそのわいせつ性であることは明らかで、それについては後ほどもっと詳しく議論しなければならないだろう。しかしここではよく取り上げられている題材について、必要な場合には以下のように注釈をつけておおまかな分析をしておこう。

性的なもの……ジョークの半数以上、おそらくは四分の三ほどが性的なジョークで、その範囲は無邪気なものから出版不可能としか言えないものにまで及ぶ。一番好まれているのはおそらく私生児についてのものだろう。典型的な説明文は「赤ん坊の哺乳瓶につけたこのお守りを取り替えてくれませんか?」、「彼女には洗礼式を頼まれていないのだから、結婚式に行くつもりはない」といったようなものだ。また新婚夫婦、高齢の未婚女性、裸像、水着の女性についてのものも多い。こうしたものは全て、その存在自体IPSO FACTOが愉快で、それについて言及するだけで笑いを引き起こすものだ。妻を寝取られることをネタにしたジョークはめったに使われず、同性愛に関しては一切触れられることはない。

性的ジョークの決まりごとは次の通りである。

(ⅰ)結婚は女にしか利益がない。全ての男は誘惑を企んでいて、全ての女性は結婚を企んでいる。自発的に未婚を貫く女性は存在しない。

(ⅱ)性的な魅力は二十五歳あたりで消える。若い時期を過ぎてもなお若々しく見栄えが良い人々は決して描かれない。情熱的な新婚旅行カップルは後に険しい表情の妻と不格好で口ひげを蓄えた赤鼻の夫として再登場するが、その移行の段階は決して描かれない。

家庭生活……性的なものに次いで、尻に敷かれた夫は好まれるジョークだ。典型的な説明文は次のようなものである。「病院では奥さんの顎のX線写真を撮ったんですか?」……「いいえ、代わりに動画を撮っていましたよ」。

決まりごとは次の通り。

(ⅰ)幸福な結婚などというものは存在しない。

(ⅱ)口げんかで女に勝てる男はいない。

酔っぱらい……酔っぱらいも絶対禁酒主義も存在自体が愉快なものだ。

決まりごとは次の通り。

(ⅰ)酔っ払いは誰しも幻覚を見る。

(ⅱ)酔っぱらいは中年男性に特有のものである。酔っ払った若者や女性は決して描かれない。

トイレにまつわるジョーク……これらはそう多くはない。尿瓶は存在自体が愉快なものだし、公衆便所もそうだ。典型的な絵はがきの説明文は「窮した友人」というもので、頭から飛ばされて女性用トイレの中へと転がって消える帽子が描かれている。

労働階級の間でのスノッブさ……こうした絵はがきの多くは比較的裕福な労働階級や比較的貧しい中流階級をターゲットにしている。言葉の誤用マラプロピズム、文盲、Hの抜けた発音、スラムの住人のマナーに欠けた振る舞いを扱ったたくさんのジョークがある。無数の絵はがきで「淑女にあるまじき」不品行をおこなっているわざとらしい清掃婦風の野暮ったい中年女性が描かれている。典型的な文句は「あなたが石像で、私が鳩だったら良かったのに!」といったものだ。戦争で疎開が始まってからは反疎開者的な観点から生み出されたものも一定数ある。ホームレス、物乞い、犯罪者についてのお決まりのジョークもあるし、滑稽な女中は頻繁に登場する。滑稽な土方、船頭なども同様だ。しかし反労働組合的なジョークはまったく無い。おおまかに言えば週給五ポンドよりもずっと多いか、ずっと少ない稼ぎの者は全員、笑いの対象と見なされている。「流行の服を着ている者」はスラムの住人と同様にたいてい自動的に笑いの対象となる。

ステレオタイプな人物像……外国人はほとんど、あるいはまったく登場しない。お国柄ジョークの定番はスコットランド人で、ネタが尽きることはまず無い。弁護士は決まって詐欺師扱いだし、牧師は決まって神経質な愚か者で間違ったことを言い募る。エドワード朝時代とほとんど変わらない「クヌート」や「マッシャー」がいまだに登場し、彼らは時代遅れの形のイブニング服を着てオペラハットをかぶり、さらにはスパッツを履いたり節くれだったステッキを手にしていることさえある。もうひとつの生き残りは婦人参政権論者サフラジェットだ。これは一九一四年以前の時代の有力なジョークのネタのひとつで、捨て去るにはあまりに貴重なものだったのだ。彼女たちは以前とまったく変わらない姿で、フェミニストの講演家や禁酒主義の狂信者として再登場している。ここ数年の特徴は反ユダヤ的な絵はがきが完全に消えたことだ。「ユダヤ人ジョーク」は「スコットランド人ジョーク」よりも決まっていくぶん悪意があるものだが、ヒトラーが登場するやいなや急速にその姿を消した。

政治……愉快な題材になりそうな昨今の出来事、熱狂、活動(例えば「自由恋愛」、フェミニズム、ARP空襲警報、ヌーディズム)は何であれ速やかに絵はがきに取り入れられるが、全体的な雰囲気は極めて古風なものだ。そこで暗に示される政治的見解は一九〇〇年ごろがお似合いの改革主義である。たんに平時においては愛国的な内容ではないというだけでなく、「王陛下万歳ゴッド・セーブ・ザ・キングゴッド・セーブ・ザ・キング:イギリスの事実上の国歌。女王が統治している場合には「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン」になる。」やユニオンジャックといったものについてのジョークで愛国心の薄い人々を取り込もうとさえしている。ヨーロッパ情勢がそれらに反映され始めたのはほんのつい最近、一九三九年のある時期からで、それも最初のうちはARPの滑稽な面を通してのことだった。現在に至ってさえ、いくつかの絵はがきはARPのジョーク(アンダーソン式防空壕アンダーソン式防空壕:第二次世界大戦中に使用された家庭用防空壕。内務大臣だったジョン・アンダーソンの名前から「アンダーソン式」と呼ばれる。の入り口に詰まった太った女性、灯火管制を忘れて窓の近くで着替える若い女性を見て任務を怠る監視官たち、などなど)以外には戦争に触れていない。あまり敵対的ではないものの反ヒトラー感情を表明しているものもわずかだがある。マッギルのものではない、あるひとつでは常のごとく肥大した尻を持ったヒトラーがかがんで花を摘んでいる様子が描かれている。説明文には「何がしたいんだい、君?」と書かれている。どの絵はがきでも愛国心の高揚はせいぜいがこの程度だ。三文週刊誌とは異なり絵はがきは巨大な寡占企業の産物ではないし、世論の形成において何ら重要な役割を果たしていないと見られていることは明らかである。そこには支配階級が受け入れることのできる見解を含めようという態度をうかがわせるものはまったく無い。

絵はがきの際立つ、極めて重要な特徴の話へ戻ろう……そのわいせつ性だ。誰もがこうした絵はがきを憶えているのはそれによってだし、また見方によってはただちにそれとわからなくとも、それこそがこうした絵はがきの目的の中核を成しているのだ。

絵はがきでたびたび登場するほとんど支配的といってもいいモチーフが尻をどこかに詰まらせて立ち往生した女性だ。おそらく絵はがきの半数、あるいはそれ以上で、ジョークの要点が性的なものと関係ない場合でさえ同じような女性の姿が描かれる。それは肉付きのいい「官能的な」姿で、その衣服はもうひとつの皮膚のようにぴったりと体に張り付き、豊かな胸や尻はその向きに従って極端に強調されている。こうした絵が非常に広範に存在する抑圧を暴き出していることは疑いない。若い女性が貧相なほど痩せている傾向の強い国にあってはごく当然のものだろう。しかし同時にマッギルの絵はがき……そしてこれはこうした分類の他の全ての絵はがきにもあてはまるのだが……はポルノグラフィーではなく、むしろもっと狡猾なもの、ポルノグラフィーの風刺を意図したものなのだ。ホッテントットのような女性の姿はイギリス人男性の秘められた理想像を描いたものというよりはそれを戯画化したものだ。マッギルの絵はがきをさらに詳しく調べれば、彼独特のユーモアは非常に厳格な道徳律との関係においてだけ意味をなすものであることに気がつくだろう。例えばエスクワイア紙やラ・ヴィ・パリジェンヌ紙といった新聞ではジョークの架空の舞台は常に入り乱れ、あらゆる道徳規範が完全に崩壊している。一方でマッギルの絵はがきの舞台は決まって結婚なのだ。主要なジョークは四つで、裸体、私生児、高齢の未婚女性、そして新婚夫婦だ。非常に退廃的な社会ではもちろん、「洗練された」社会においてさえこれらはどれも滑稽なものには見えないことだろう。新婚夫婦を扱っている絵はがきには、初夜の床に鈴を縫い付けるのが声を上げて笑うほど愉快なことだといまだに考えられている、村の結婚式に見られる熱のこもった猥雑さがある。例えばある絵はがきでは若い新郎が結婚初夜の朝にベッドから起きる。「僕たちの小さな我が家の最初の朝だよ! ハニー!」彼は言う。「ミルクと新聞を取ってきたら君に紅茶をいれてあげるよ」。添えられているのは玄関の前の絵で、そこには四つの新聞と四つのミルクの瓶が置かれているのだ。もしそう呼びたければ卑猥とは呼べるかもしれないが不道徳とは呼べない。この絵はがきの言外の意味……それはエスクワイア紙やニューヨーカー紙であれば何としてでも取り除きたいであろうものだろうが……は結婚とは非常に刺激的で重要なもの、平均的な人間の人生において最大の出来事であるということなのだ。

口やかましい妻や暴君のような姑についてのジョークも同様である。少なくともそれらは婚姻が永続的で、家族への誠実さが当然とされる安定した社会を強く暗示している。そしてこれは先に私が書いたこと、つまり若い時期を過ぎた見栄えのいい姿の人々はめったに、あるいはまったく描かれないという事実と深く結びついている。「仲睦まじい」夫婦といがみ合う中年夫婦は存在するが、その中間は存在しないのだ。不義密通、フランスのマンガ新聞では定番のジョークである不道徳だがいくらかの品位を保った浮気が絵はがきの題材となることはない。そしてこれは青年時代と冒険……そしてもちろん個人としての生活のほとんど……は結婚によって終わることを当然とする労働階級の物の見方を戯画という水準において反映してのことなのだ。階級区別とは対照的にイングランドにいまだ存在する数少ない確固とした階級格差のひとつは労働階級の方がずっと早く老け込むことだ。幼年期さえ越えれば彼らが短命なわけではないし、肉体的な活動量を早く失ってしまうということもない。しかし彼らは極めて速やかに若々しい姿を失うのだ。この事実はあらゆる場所で観察可能だが、兵役登録している高齢者集団のひとつを観察することで最も容易に確かめることができるだろう。中流階級……そして上流階級に属する者の容姿は平均的に見てそれ以外よりも十歳は若い。普通、これは労働階級が生き抜かなければならないより過酷な生活によるものとされるが、現代においてそうした説明が可能なほどの違いが存在するかどうかは疑問である。労働階級が早く中年に達するのは彼らがそれを早く受け入れるからだという方がずっと真実に近いのではないだろうか。つまり三十歳を過ぎて若々しい容姿を保てるかどうかの大部分はそれを望むかどうかの問題なのだ。こうした一般化は高給の労働者、特に公営住宅や省力化アパートに住むような者たちにはあまり当てはまらないが、彼らに関しても考え方の違いという点では十分に当てはまる。それに関して言えば普通、彼らは、四十歳になっても体操や化粧品、あるいは出産を避けることで若さを保とうとする裕福な女性よりもずっと伝統を重んじ、キリスト教的な過去に従っている。何をおいても若さにしがみつき、自身の性的魅力を維持しようと試み、中年になっても自分の子供だけでなく自分自身の未来についても考えるという強い欲求は最近になって発達したものであり、極めて不安定にしか成立していない。私たちの生活水準が低下して出生率が上昇すればおそらくは再び消え失せてしまうだろう。「人間いつまでも若くない」という言葉はありふれた伝統的な態度を表現したものだ。新婚夫婦と魅力を失った父母の姿の間の移行段階を無視している時、マッギルと彼の仲間によって映し出されているのはこの古くからの知恵である。そしてそれが無意識のものであることは疑いない。

マッギルの絵はがきの少なくとも半分は性的なジョークで、おそらく割合で言えば十パーセントほどは現在イングランドで印刷されている他の何よりもはるかにわいせつなものである。それを売っていることを理由にときおり新聞販売店が告発されるし、もしその最も広く知られているジョークがダブルミーニングによって常に守られていなければもっとずっと多くの告発がなされることだろう。その手法がどのようなものかについては例をひとつだけ挙げるだけで十分だろう。「彼女の言うことは信じられない」という説明文がつけられたある絵はがきでは若い女性が手振りで二フィートほどの長さの何かを数人の知り合いに示してみせ、知り合いは口をあんぐりと開いている。彼女の背後の壁にはガラスケースに入れられた魚の剥製があり、その横には裸同然のスポーツ選手の写真が掛けられている。彼女が話しているのがその魚のことでないのは明らかだがそのことは決して証明できないだろう。さて、こうした種類のジョークを掲載できる新聞がイングランドに存在するかどうかは疑問だし、そうしたことを習慣的におこなっている新聞が無いことはまず間違いない。刺激の少ないポルノグラフィーは数え切れないほどあるし、女性の足で稼いでいる写真入りの新聞は無数にあるが、性の「卑猥」で滑稽な側面に特化した大衆的な文芸は存在しない。一方でまさにマッギルのもののようなジョークはレビューショーや大衆演劇場の舞台のありきたりなちょっとした変形であり、また検閲官が気まぐれに承諾した時にラジオで聞くことができるものである。イングランドにおいては口に出して言えることと印刷して出版できることの間の断絶は極めて例外的に大きい。舞台上であればほとんど誰も異議を唱えない発言や身振りでもそれらを新聞上で再現しようとすれば世論の激しい抗議を引き起こすことだろう(マックス・ミラーの舞台での話芸とサンデーディスパッチ紙での彼の週刊コラムを比較してみるといい)。絵はがきはこのルールに存在する唯一の例外、実に「低俗」なユーモアが出版対象候補となる唯一の媒体なのだ。尻をどこかに詰まらせて立ち往生するだとか、犬と街灯だとか、赤ん坊のおむつだとかいった種類のジョークが自由に駆使されるのは絵はがき、そして演劇舞台でだけのことだ。これを憶えておくとこうした絵はがきが控えめなやり方ながらどんな役割を果たしているのかについて理解ができる。

これらがおこなっていることはサンチョ・パンサ的な人生観、かつてレベッカ・ウェスト氏が「地下の台所で尻をひっぱたくことから可能な限りの愉しみを引き出すこと」と要約した人生への態度を表現することなのだ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの二人組はもちろん純粋に肉体と魂の古くからの二元性をフィクションの形で表現したものだが、過去四百年間の文学において、それはたんに模倣として説明できるよりもずっと頻繁に繰り返されている。何度も何度も無数に形を変えて現れるのだ。ブヴァールとペキュシェブヴァールとペキュシェ:フランスの作家ギュスターヴ・フロベールの小説「ブヴァールとペキュシェ」の登場人物、ジーヴスとウースタージーヴスとウースター:イギリスのユーモア作家P・G・ウッドハウスによる短編小説シリーズの登場人物、ブルームとディーダラスブルームとディーダラス:アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスによる小説「ユリシーズ」の登場人物、ホームズとワトソン(ホームズとワトソンのパターンは並外れて捉えにくいもので、それは通常の二人のパートナーの肉体的特徴が入れ替えられているためだ)。それが私たちの文明に存在し続けている何かと対応していることは明らかである。それはこれら登場人物のどちらかを現実生活で「純粋な」状態として見つけ出せるという意味ではなく、二つの原則、貴族的な愚かしさと底辺における分別がほとんど全ての人間の中に隣り合って存在するという意味である。自らの精神を覗き込んだとして、あなたはドン・キホーテだろうかサンチョ・パンサだろうか? まず間違いなくその両方だろう。英雄や聖人たろうと願う部分がある一方で、別の部分は危険の無い人生を過ごすことの長所を極めて明確に理解している小がらな太った男なのだ。彼は公にできない自己であり、魂に対して抗議する腹の中の声だ。その嗜好は安全で柔らかいベッド、働かずに過ごすこと、ビールジョッキ、「官能的」な姿の女性へと向かいがちだ。彼はあなたの立派な態度に水を差し、最高権力者に気を配るだとか、妻を裏切るだとか、恩義に背くだとかいったあれやこれやをするように勧めてくる。あなたが彼による影響を受け入れるかどうかは別の問題だ。しかし自分の内に彼はいないと言えばそれはまったくの嘘になる。同様に自分の内にドン・キホーテがいないと言えばそれも嘘だ。語られたり書かれたりすることのほとんどはそのどちらかの嘘によって作り上げられているが、普通は初めの方の嘘であることが多い。

しかしさまざまに姿を変えつつも彼は文学における典型的な人物像のひとつであるにも関わらず、現実の生活、とりわけ秩序だった社会ではその考えに耳が傾けられることはない。彼は存在しない、あるいは少なくともたいして重要でないと偽装する全世界的な共謀が決まって存在するのだ。法律、道徳、あるいは宗教の体系における規範には人生に対する滑稽な考え方のための場所は決して存在しない。それが何であれ愉快なものは転覆的であり、あらゆるジョークは究極的にはカスタードパイなのだ。そして大半のジョークがわいせつなものの周りを取りまいているのは、あらゆる社会は生存競争の結果として性道徳において非常に高い基準を主張しなければならないためなのだ。もちろん下品なジョークが道徳に対して深刻な攻撃を仕掛けているというわけではないが、それはある種の精神的な反逆、物事が別のあり方だったらという束の間の願望なのだ。他のあらゆるジョークについても同じことが言える。それらジョークは臆病や怠惰、不誠実やその他の、社会がその奨励を許容できない性質の周りを常に取りまいているのだ。社会は無謬と自己犠牲を要求し、その臣民が熱心に働き、税を納め、自分たちの妻に誠実であることを期待する。社会が前提とするのは男たちは戦場での死を栄光あるものと考え、女たちは出産によって擦り切れていくということだ。公的な文学と呼ばれるであろうものは全てこうした前提の上に築かれている。開戦前の司令官の布告、総統や首相の演説、パブリックスクールや左派政党の団結のための歌、国歌、禁酒のパンフレット、賭博や避妊に反対する教皇の回勅や説教を読むと私は決まってその背後にこうした高尚な感情に同調しない数百万の大衆から起きるブーイングの合唱が聞こえるように思えるのだ。しかしそれでも最後に勝利するのはいつだってこの高尚な感情なのだ。血と労苦と涙と汗を提示する指導者は安全と安楽を提示する者より決まって多くの支持者を得る。危機を迎えた時、人間は英雄的になるのだ。女たちは産褥とデッキブラシを受け入れ、革命家は拷問部屋でその口を閉ざし、甲板を波に洗われて沈んでいく時にも戦艦は砲を撃つ。それが私たち全員の内なる者の別の要素だというだけの話だ。怠惰で臆病で借金を踏み倒す浮気者である彼を完全に押し殺すことは決してできず、時にはその声に耳を傾ける必要がある。

絵はがきは彼の物の見方のひとつの表れなのだ。それは控えめなものであり大衆演劇場よりも重要性は低いが、それでもなお注目に値するものだ。いまだ根本においてはキリスト教的な社会ではそれらは性的ジョークに自然と集中していく。全体主義的な社会では、もしそこに表現の自由が少しでもあればのことだが、それらはおそらく怠惰か臆病、いずれにせよ何らかの形態の非英雄的なものに集中することだろう。それらがわいせつで醜いということを理由に非難すべきではない。それはまさにそう意図されてのことなのだ。それらの持つ全ての意味と美徳はその救いようのない低俗さの中、わいせつという意味だけでなくあらゆる方向の全ての物事に対する低俗な考え方の中にあるのだ。「高尚」なるものの影響がほんのわずかでもあればそれら絵はがきは完全に台無しになることだろう。それらが象徴するのは地虫の目線に立った人生観、大衆演劇的世界なのだ。そこでは結婚が下品なジョークや滑稽な災難になり、家賃は常に滞って衣服は常に質に入っていて、弁護士は決まって詐欺師でスコットランド人は決まって守銭奴で、新婚夫婦は浜辺の宿屋の法外な宿賃のベッドの上で自ら笑いものになり、酔っ払った赤鼻の夫は午前四時に帰宅して玄関を背に待ち構えるポーカーを手にしたリネンの寝巻きの妻に出くわす。それらの絵はがきの存在、つまり人々がそれらを欲しがるという事実は現象として重要なものである。大衆演劇場のようにそれらはある種の農神祭であり、美徳に対する無害な反逆なのだ。それらが表しているのは人間の精神におけるひとつの傾向に過ぎないが、その傾向は常にそこに存在していて水のように自身のはけ口を見つけ出すのだ。全般的に言って人間は善良になろうと欲するが、善良になり過ぎることはないし、常にすばらしい存在であるわけでもない。

公正な人がその公正さによって滅びることがあり、邪な人がその邪悪さによって命を永らえることがある。汝、公正に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。どうして自らを滅ぼしてよいことがあろうか? 邪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。どうして自らの時が来る前に死んでよいことがあろうか?公正な人がその公正さによって……:旧約聖書の「コヘレトの言葉(7:15-7:17)」からの引用

過去においては絵はがきの持つ雰囲気が文学の主流に流れ込むこともあっただだろうし、マッギルのものとほとんど変わらないジョークがシェイクスピア悲劇の殺人の場面で何気なく口に出されることもあっただろう。それも今では不可能である。一八〇〇年かそのあたりまで私たちの文学にとって不可欠だったユーモアの領域全体はこれら粗雑な絵の絵はがきにまで収縮し、安い文房具店の窓の中の非合法すれすれの存在へと変わっていったのだ。それらが物語る人間の心の片隅が荒廃していっていることは簡単に示せるだろう。そしてそれゆえに私はそれら絵はがきが消えていくのを見て残念な気持ちにならざるを得ないのだ。

1941年9月
Horizon

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