ライオンと一角獣:社会主義とイギリスの特質 第三部「イギリスの革命」, ジョージ・オーウェル

第三章


愛国心パトリオティズムは保守主義とはなんの関係も持たない。実際のところ保守主義と正反対のものである。なぜならそれは常に変化し続け、それでいて不思議と同じと感じられるものへの献身だからだ。それは未来と過去の間に架けられた橋なのだ。本当の革命は決して国際主義的なものにはならない。

過去二十年、イギリス左派の間には悲観的で怠惰な考え方が流行していた。愛国心や肉体的勇敢さに対する知識人の冷笑、イギリスの道徳を削り取って快楽主義を広めようという耐えざる努力、人生に対する「それで私になんの得がある」という態度は有害以外の何物でもない。仮に私たちがこうした人々の想像する居心地の良い国々の連盟からなる世界に暮らしているとしても有害である。総統と爆撃機の時代には最悪の事態である。とはいえ私たちの中でそれを好む者は少数だろう。強靭さは生き残ることの対価である。快楽主義的な考えに慣らされた国は、奴隷のように働いてウサギのように繁殖する人々、その主な国家産業が戦争であるという人々に囲まれては生き残れない。イギリスの社会主義者はほとんど誰であってもファシズムに抵抗しようとしているが、同時に自国民が好戦的でなくなることを目指してもきた。そして彼らは失敗してきた。イギリスにおいては伝統的な忠誠心が新しいもへのそれよりも強かったからだ。しかし左派の報道機関が「反ファシスト」的英雄行為をおおいに喧伝しているとは言え、ニュー・ステイツマン誌やデイリー・ワーカー紙、あるいはニュース・クロニクル紙が望むような種類の人間に平均的イギリス人がなっていたとしたら、ファシズムとの現実の戦いがやって来た時に私たちにどんな勝機があるというのだろうか?

一九三五年までイギリスの左派は実質的に全員が漠然とした平和主義者だった。一九三五年を過ぎると彼らの中の比較的声高な者たちは熱心に人民戦線運動へとその身を投じた。それはあらゆる問題はファシズムによって生じているとする逃げ口上に過ぎなかった。「反ファシスト」は完全にネガティブなやり方……つまりなんらかの明確な方針の「支持」ではなく、ただファシズムに「反対」するというやり方……で試みられ、心の底ではいざとなればロシア人たちが戦いに手を貸してくれるだろうという弛緩した考えが抱かれていた。こうした幻想の根強さは驚くべきものである。毎週のように大量の投書が編集部に届き、保守党によらない政権ができればロシア人たちは私たちの味方に回らざるを得ないだろうと指摘してくるのだ。あるいは、私たちは仰々しい戦争目的を公表すべきで(「我が闘争」、「一億の同盟者:もし私たちが望むなら」などに類した書籍を参照)、そうすればヨーロッパの人々は間違いなく私たちを支持するだろうというのだ。常に変わらない考え方である……天啓を海外に見いだし、自分のために戦ってくれる誰か他人を見つけようというのだ。その根底にあるのはイギリスの知識人たちの恐るべき劣等意識、イギリスはもはや好戦的種族ではなく、長くは持ちこたえられないという信念である。

実際は、今しばらくのところ、私たちのために戦ってくれる誰か他の者が現れることは考えられない。中国人たちは例外である。彼らはすでに三年の間、それをおこなってくれている[下記注記3]。ロシア人たちは直接的な攻撃の事実があれば私たちの味方につかざるを得ないだろうが、もし避けられるのであればドイツ軍に対抗しないと彼ら自身がはっきりと明言している。いずれにせよ、イングランドに左派政府ができるという光景に彼らが引きつけられる可能性は低い。現在のロシアの体制は西側のどのような革命に対してもまず間違いなく敵対的である。ヨーロッパの支配されている人々はヒトラーがよろめき始めれば反乱を起こすだろうが、それもすぐには起きない。見込みのある同盟国はヨーロッパ人ではなく、アメリカ人だが、たとえ巨大なビジネスチャンスであろうとも彼らの国力を動員するには一年は必要だろう。他方、有色人種の人々はと言えば私たち自身の革命が始まらない限り私たちに同情さえしてくれないだろう。一年か二年、あるいは三年という長い間、イングランドは世界の緩衝装置になってきた。私たちは爆撃と飢え、過重労働、流感、倦怠、背信的な和平提案に直面してきた。その時間が士気を挫くのではなく、むしろ高めたことは明らかだ。左派がいつもしているように機械的に反イギリス的態度を取る代わりに、もし英語圏の文化が滅びたら世界は一体どのようになるのかについて考えた方が良いだろう。イギリスが征服されても他の英語圏の国々は……アメリカ合衆国であろうと……影響を受けないと考えるのは子供じみている。

[注記3:この個所はギリシャで戦争が勃発する前に書かれた。(原著者脚注)]

ハリファックス卿や彼のお仲間一同は戦争が終われば物事が以前と全く同じ様に戻ると信じている。ベルサイユの馬鹿げた歩道が、「民主主義」つまり資本主義が、失業者の列とロールスロイスが、灰色のシルクハットとストライプのズボンが戻って来て永遠にそれが続くのだと。もちろんそんなことは起きないことは明白だ。交渉による和平となった場合には事によるとそれに似た貧相なまがい物が実現されるかもしれないが、それもごく短い期間だけだろう。自由放任レッセフェール的資本主義は死んだのだ[下記注記4]。選択肢はヒトラーが打ち立てるであろう集産主義的社会と彼が敗北した場合に生まれるであろうそれのどちらかなのだ。

[注記4:アメリカ合衆国のロンドン駐在大使であるケネディ氏が一九四〇年の十月にニューヨークへ戻る際にこの戦争の結果「民主主義は終わる」と発言したことは注目に値する。もちろんここで彼が「民主主義」という言葉で指しているのは私的資本主義のことだ。(原著者脚注)]

もしヒトラーが今回の戦争に勝利すれば、彼はヨーロッパ、アフリカ、そして中東の支配を確固としたものにするだろうし、もし彼の軍隊がひどく消耗していなければソビエト・ロシアから広大な領土を奪い取るだろう。階級化されたカースト社会が打ち立てられ、そこではドイツの君主民族(「支配者民族」あるいは「貴族民族」)が安価な農作物の生産を職務とする奴隷や他の劣等な人々を支配するのだ。有色人種の人々は永遠に明白な奴隷身分に落とされるだろう。ファシスト国家とイギリス帝国主義の争いの真の原因はそれが崩壊しつつあることに彼らが気づいていることなのだ。現在の発展路線に沿ってさらに二十年が経てばインドは自発的な同盟によってイングランドだけと結び付いた農民の共和国となるだろう。ヒトラーが強い嫌悪感をもって語る「半猿」は飛行機を飛ばし機関銃を製造することになる。ファシストの夢見る奴隷帝国は終わりを迎える。一方で、もし私たちが敗北すれば、ずうずうしくその職に就いて何ら罪の意識を感じない新しい主人にただ私たちの犠牲者を引き渡すことになるのだ。

しかし有色人種の人々の運命だけに事は留まらない。二つの相容れない人生観が互いに争っているのだ。ムッソリーニの言うように「民主主義と全体主義の間に妥協は存在しない」。この二つの信条はほんのわずかな間であろうと共存することさえできない。それが全く不完全なイギリスのような形態であれ、民主主義が存在する限り全体主義は致命的な危機にさらされる。英語圏世界は人類の平等という考えに取り憑かれている。私たちやアメリカ人たちがこれまで私たちが表明してきたことを実践してきたと言えばそれは全くの嘘となるだろうが、それでもこうした考えはいまだ存在し、それはいつの日か現実なるのだ。もし滅びなければ英語圏の文化から自由で平等な人類による社会が最終的には生まれるだろう。しかしまさにこの人類の平等という考え……「ユダヤ的」あるいは「ユダヤ・キリスト的」的な平等概念……を打ち砕くためにヒトラーはこの世界に現れたのだ。彼がこれまで間違いなく十分にそれを語ってきた。黒人が白人と対等で、ユダヤ人が人間として扱われる世界という考えは、終わりなき奴隷制という考えが私たちに与えるのと同じ恐怖と絶望を彼に与えるのだ。

こうした二つの立場がいかに相容れないかを心に留めておくことは重要である。来年のどこかの時点で左派知識人たちの中で親ヒトラー的反応が起きる可能性は十分にある。その前兆が既に現れているのだ。ヒトラーの肯定的な成果が訴えかけるのはこうした人々の空虚さに対してであり、それが平和主義的傾向を持つ者の場合にはそのマゾヒズムに対してとなる。彼らが何を言うかは多かれ少なかれ見当がつく。まず始めに、イギリス帝国主義が別の何かへと発達していること、あるいはヒトラーの敗北はイギリスやアメリカの大富豪の勝利という以上の意味があることを認めずに否定するだろう。そしてさらに続けて結局のところ民主主義は全体主義と「全く同じ」だとか「同じくらい悪い」と論じるのだ。イングランドにはたいした言論の自由はない、従ってドイツと変わらない。失業手当を受けるのはぞっとする経験だ、従ってゲシュタポの拷問室にいるのと大差ない。総じて、黒を足し合わせれば白に、半切れのパンはパンが無いのと同じという具合だ。

しかし実際のところ民主主義と全体主義について何が真実であろうともその二つが同じであるということだけは真実でない。イギリスの民主主義が現在の段階を超えて発達できなかろうともそれは変わらない。秘密警察や検閲された文学や徴用労働を備えた大陸の軍事国家という概念全体がスラムや失業、ストライキや政党政治を備えた無責任な海洋性の民主主義とは全く異なるものなのだ。その違いは大陸国家と海洋国家、残酷と非効率、虚偽と自己欺瞞、SS隊員と家賃集金人の違いだ。そしてそのどちらかを選ぶ時にはそれらが今どうなのかではなく、どう変わっていく可能性があるかを根拠にするべきだ。しかしある意味で民主主義……それが最高の水準だろうが最低の水準だろうが……が全体主義よりも「優れている」かどうかは重要でない。決断のためには絶対的な基準に照らし合わせなければならないだろう。重要な唯一の問いは危機が訪れた時に本当に支持するのは何かということなのだ。全体主義と民主主義を比較して一方は他方と同じくらい悪いと「証明」するのをよく好む知識人たちは全く軽薄な人間であり、決して現実と向き合わないできた。彼らは今もファシズムに対する浅はかな誤解を喧伝している。最初それを見くびっていた頃や、一、二年前にそれに対して金切り声を上げていた頃と同じだ。問いは「ヒトラーを支持するディベート部の『主張』を作り上げられるか?」ではない。問いは「そうした主張を心から受け入れられるのか? ヒトラーの支配に屈する意思があるのか? イングランドが征服されるのを見たいのか、そうでないのか?」なのだ。無思慮に敵の味方をする前にこうした点を確かにした方がいいだろう。戦争では中立などというものは無い。現実的には必ずどちらかの側につかなければならいのだ。

危機が訪れた時、西側の伝統の中で産まれた者でファシストの人生観を受け入れる者などひとりもいない。今こそそれに気づき、その必然的帰結を理解することが重要である。怠惰で偽善的で不公正ではあるが英語圏の文明はヒトラーの進路にそびえる唯一の巨大な障害物なのだ。それはファシズムの「完全無欠」な全教義における未解決の矛盾なのである。これこそ過去何年にもわたってイングランドの勢力を打ち倒さねばならないことで全てのファシスト作家が意見を一致させている理由だ。イングランドは「壊滅」され、「消滅」され、「存在を抹消」されなければならないのだ。ヒトラーがヨーロッパの所有を確かにし、一方でイギリス帝国は無傷のままでイギリスの海軍力にほとんど影響を受けずに今回の戦争を終らせることは戦略的には可能だろう。しかしイデオロギー的にはそれは不可能なのだ。もしヒトラーがそうした路線に沿った提案をするとしたらそれは不誠実なのものでしかなく、間接的なイングランドの征服か、いつかもっと好ましい瞬間での攻撃再開を目論んでのことだ。イングランドは大西洋の向こうから致死的な思想をヨーロッパの警察国家に注ぎ込む漏斗の役割に留まっているわけにはいかない。また私たちの立場に立ち戻れば眼前には巨大な問題があるのがわかる。最重要事項は私たちの民主主義を多かれ少なかれ現在の形で維持することである。しかし維持することは決まって広げていくことなのである。私たちの前にある選択肢は勝利か敗北かというよりはむしろ革命か無関心かなのだ。もし私たちが戦う目的としているものが完全に打ち砕かれるとしたら、その一部は私たち自身の振る舞いによってのことだろう。

イングランドが初期的な社会主義を導入し、今回の戦争を革命戦争に変え、それでも敗北することはあり得る。いずれにせよ考えられる事態だ。しかしそれが現在成人している誰にとっても恐ろしい事態であるにせよ、少数の富裕者と彼らに雇われた嘘つきたちが望む「妥協的な和平」よりはずっと危険は少ない。イングランドの最終的な破滅はベルリンからの命令に従って行動するイギリス政府によってのみ成し遂げられることだろう。しかしイングランドがその前に目覚めればそうしたことは起きようはずもないのだ。敗北が確実になっても戦いは続き、思想は生き残るだろう。戦いに敗れることと戦わずして降伏することの違いは決して「名誉」や子供じみた勇敢さの問題ではないのだ。かつてヒトラーは敗北を受け入れれば国家精神は打ち砕かれると語った。たわ言に聞こえるだろうがこれは確かな真実である。一八七〇年の敗北一八七〇年の敗北:普仏戦争でのフランスの敗北を指すはフランスの世界的影響力を減少させたりはしなかった。第三共和制はナポレオン三世下のフランスよりも知的面では大きな影響力を持っていた。しかしペタンやラヴァルやその仲間たちが受け入れたような種類の和平はその国の文化を意図的に拭い去ることでのみ手に入れられるものだ。ヴィシー政権は偽りの独立を謳歌するだろうが、それはフランス文化固有の特徴、つまり共和主義や世俗主義、知性の尊重、肌の色による偏見の欠如を失わせる状況でのみ可能なものである。前もって革命を実現できれば私たちが完璧な敗北を期すことはあり得ない。私たちはホワイトホールを行進するドイツ兵部隊を目にするかも知れないが、他方で最終的にドイツの覇権の夢に死をもたらすもうひとつの過程が始まっているはずだ。スペインの人々は敗北したが、その二年半の印象的な歳月の間に彼らが学んだことはいつの日かブーメランのようにスペインのファシストたちの元に返ってくるだろう。

この戦争が始まった頃にあるシェイクスピアの大仰な言葉シェイクスピアの大仰な言葉:シェイクスピア「ジョン王」からの引用が広く引用されていた。私の記憶が確かならばチェンバレン氏さえそれを引用していた。

武器を手に世界の四方へおもむけ
そうして我らはやつらに襲いかかるだろう、何物も我らを悔やませはしない
イングランドが自らに忠実ならざるものにそれをなすのなら

公正に解釈すればこれは全く正しい。しかしイングランドは自らに忠実になろうとしているのだ。私たちの海岸にたどり着いた難民を収容所に閉じ込め、超過利潤税を逃れようと会社取締役が巧妙なスキームを考え出している間はイングランドは自らに忠実とは言えない。タトラー誌やバイスタンダー誌に別れを告げ、ロールスロイスに乗った婦人に暇乞いをすることこそがそれである。ネルソンやクロムウェルの後継者は貴族院にはいない。彼らは田畑や通り、工場や軍隊、街の酒場や郊外の裏庭にいる。そして今はまだ亡霊の世代によって低い地位に閉じ込められているのだ。本当のイングランドをその表に浮上させるという仕事に比べれば、必要なこととは言え、この戦争に勝利することさえ副次的なことなのである。革命によって私たちはさらに自分自身らしくなるのであってその逆ではない。急停止、妥協的決定、「民主主義」の復旧、静止状態は問題外である。何事も静止することはない。私たちは受け継いだ財産に新たなものを付け加えなければならない。さもなければそれを失うのだ。さらに大きくならなければならない。さもなければ縮んでいくのだ。前進しなければならない。さもなければ後退するのだ。私はイングランドを、そして私たちが前進するであろうことを信じている。

1941年2月19日
Searchlight Books

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