ジョージ・オーウェル

ムーン・アンダー・ウォーター


私のお気に入りのパブ「ムーン・アンダー・ウォーター」まではバス停からわずか二分だが、そこは脇道を入ったところにあって土曜の夜でさえ酔っ払いや乱暴者は決してそこにたどり着けないようだ。

かなり広いにも関わらず顧客のほとんどは「常連」で毎晩同じ席に陣取り、ビール、そしてそれと同じくらい会話を楽しむためにやって来る。

どこかのパブを気に入っている理由を尋ねられたらまずはそこのビールを挙げるのがごく自然なことだろうが、ムーン・アンダー・ウォーターに私が感じる一番の魅力は人々が「雰囲気」と呼ぶものである。

まず、その建物全体と建具は完全にヴィクトリア朝様式のものである。ガラス天板のテーブルといった現代的な代物は無く、かと言って模造品の屋根梁や炉端、オーク材を模したプラスチック・パネルも無い。木目模様の木工品、バーの背後の飾り鏡、鋳鉄製の暖炉、タバコの煙で暗黄色に染まった装飾のついた天井、マントルピースの上に掲げられた雄牛の頭の剥製――あらゆるものが十九世紀的な無骨で心地よい醜さを持っている。

冬にはたいていはバーの少なくとも二つで心地よい炎が燃え、ヴィクトリア朝風の家具の配置は十分に広々としている。一般席、サロン席、女性席、恥ずかしくて夕食用のビールを人前で買えない人のための持ち帰りコーナーボトル・アンド・ジャグ、そして上階の食堂。

遊戯がおこなわれるのは一般席だけなので、他の席では四六時中体を反らして飛んでくるダーツの矢を避けなくとも歩き回ることができる。

ムーン・アンダー・ウォーターはいつも十分に静かで会話ができる。そこにはラジオもピアノも無く、クリスマス・イブといった時でさえ期せずして歌われる歌は上品なものばかりだ。

女性バーテンダーは客のほとんどの名前を憶えていて皆に個人的な興味を示してくれる。彼女たちは全員、中年の女性で――そのうちの二人は髪をまったく驚くような色合いに染めている――皆を年齢や性別に関係なく「あなたdear,」と呼ぶ(「かわいこちゃんDucky」ではなく「あなた」だ。女性バーテンダーが「かわいこちゃん」と呼びかけるパブは決まって不愉快なけばけばしい雰囲気をしている)。

大部分のパブとは違ってムーン・アンダー・ウォーターでは紙巻きタバコだけでなく刻みタバコも売っている。さらにアスピリンや切手も売っているし、電話を使わせてもらう時にも嫌な顔をされない。

ムーン・アンダー・ウォーターでは夕食を食べることはできないが、常に軽食コーナーが開いていてそこでレバーソーセージのサンドイッチやムール貝(店の得意料理)、チーズ、ピクルス、キャラウェイの種の入った大きなビスケットを手に入れられる。そうしたものはパブにしか存在しない様に思える。

上階では週の六日は美味しいちゃんとした昼食――例えば大きな肉の一切れ、二種の野菜料理、茹でたジャムロール――を食べることができ、料金は三シリングほどだ。

こうした昼食のとりわけ嬉しいところはそれに生の黒ビールをつけられるところだ。ロンドンのパブで生の黒ビールを出すところが十パーセントもあるか疑わしいがムーン・アンダー・ウォーターはそのうちのひとつなのだ。やらわらかでクリーミーな黒ビールで、さらに良いことにピューター製のジョッキで出てくる。

ムーン・アンダー・ウォーターの酒杯には細心の注意が払われていて、例えば一パイントのビールを取手の無いグラスで出すなどという誤りは決して犯されない。グラスとピューター製のジョッキの他にも今ではロンドンではほとんど見ることのなくなった、きれいなストロベリー・ピンクの陶器製のものも使われている。陶器製のジョッキが消え去ったのは三十年ほど昔のことで、それはほとんどの人々が飲み物が透けて見えることを好んだためだが、個人的には陶器から飲んだ方がビールは美味しいと思う。

ムーン・アンダー・ウォーターで実に驚かされるのはその庭である。サロン席から伸びる狭い廊下を通って進むとプラタナスが植えられたかなり広い庭に出る。木々の下には小さな緑色のテーブルが置かれ、その周囲を鉄製のイスが囲んでいる。庭の一方の突き当たりには子供たちのためのブランコとすべり台がある。

夏の夕べには家族パーティーが開かれ、木々の下に座ってビールやドラフトサイダーを飲みながら、すべり台を滑り降りる子供たちの歓声に耳を傾ける。もっと幼い子供たちを載せたベビーカーは門扉の近くに停められている。

ムーン・アンダー・ウォーターの持つ多くの長所の中で、最も優れたものはこの庭であるように思う。家族全員がこの場所にやって来ることができるからだ。父親がひとりで来て、その間、家に残った母親が赤ん坊の世話をするといったことにはならない。

そして厳密に言えば庭にしか入ることを許されないにせよ、子供たちはパブに入り込み、両親の飲み物を横取りすることさえ起きたりする。これは法律には反しているが、それは破られて当然の法律なのだと私は思う。なぜなら子供を――従って一部の女性を――パブから締め出して、本来は家族の集う場所であるべきそうした場所をたんなる酒屋へと変えるというのは清教徒的なナンセンスなのだ。

このムーン・アンダー・ウォーターこそが私の思うパブのあるべき理想の姿である――少なくともロンドンという地域においてはそうあるべきだ(地方のパブに期待される性質は少し異なる)。

しかしここで種明かしをしよう。見識ある冷静な読者はすでにお気づきだろう。このムーン・アンダー・ウォーターという場所は存在しないのだ。

つまり、こうした名前のパブは存在するかもしれないにせよ、私はそれを知らないし、こうした性質を全て持ち合わせているようなパブも全く知らないのだ。

ビールは素晴らしいが食事はとれないパブや食事はとれるが騒がしくて人の多いパブ、静かだがビールがやたら酸っぱいパブなら知っている。庭について言えば、そうしたものがあるロンドンのパブは即座には三件しか思い出せない。

しかし公平を期して言えばムーン・アンダー・ウォーターに極めて近い数件のパブは間違いなく知っている。先に私は完璧なパブが持つべき十の性質を挙げたが、そのうちの八つを兼ね揃えたパブはひとつ知っている。しかしそこでさえ生の黒ビールと陶器製のジョッキは無いのだ。

もし誰かが生の黒ビール、暖炉の火、安い食事、庭、母親のように接してくれる女性バーテンダー、ラジオ無しのパブを知っているならば、それが聞けて実に嬉しい。たとえその名前がレッド・ライオンだとか、レイルウェイ・アームズといったありきたりな名前だったとしても。

1946年2月9日
Evening Standard

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