先週のトリビューントリビューン:イギリスの隔週刊行の新聞。オーウェルは1943年から1945年まで文芸編集記者として雇われていた。にJ・スチュワート・クック氏からの興味深い投書が掲載されていた。彼が投書で提案していたのは一般大衆の構成員全員が可能な限り科学的な教育を受けることこそ「科学的階級」の危険を避ける方法であるということ、同時に科学者をその孤立した状況から引き離して政治と行政の大きな部分に携わるよう推奨すべきだということだった。
全体的な内容について言えば私たちのほとんどの者はこれに同意するだろう。しかし私が気がついたところではよくあることではあるがクック氏は科学とは何を指すのか定義せずに、ただ研究室下で実験をおこなう特定の厳密な意味での科学であることをおおざっぱに暗示しているだけだった。確かにこれに従えば成人教育では「科学研究が軽視され、文学や経済や社会に関するテーマがより好まれる」傾向があるし、経済学や社会学は科学の一部とは見なされないことになる。これは非常に重要な点だ。今のところ科学という言葉は少なくとも二つの意味で使われていて、この一方の意味と他方の意味を厳密に区別せずにいるという現在の状況が科学教育に関する問い全体を不明瞭なものにしている。
科学という言葉は一般的には(a)化学、物理といった厳密な意味での科学、(b)観測事実から推論的論理によって検証可能な結果を得るという思考方法、のどちらかの意味で使われる。
科学者、あるいは多くの教育ある人に「科学とは何か?」と尋ねればだいたい(b)に近い答えが返ってくるだろう。しかし話す場合でも書く場合でも、日常生活で人々が「科学」と言う時には(a)を意味するのだ。科学とは何か研究室でおこなわれることを意味し、その言葉が強く思いおこさせるのは描かれたグラフ、試験管、天秤ばかり、ブンゼン・バーナー、顕微鏡なのだ。生物学者、天文学者、そしておそらくは心理学者や数学者は「科学者」と表現される。政治家や詩人、ジャーナリスト、あるいは哲学者にでさえこの言葉を使おうと考える者はいないだろう。そして若者は科学的な教育を受けなければならないと私たちに語る人々が言いたいのはまず間違いなく若者はもっと放射線や天体、生理学や自身の肉体について教えられるべきであるということであって、もっと厳密に考えることを教えられるべきであるということではないのだ。
一部は意図的におこなわれるこうした意味の混同には大きな危険が潜んでいる。科学教育への要求が言外に主張するのはどんな問題であれ科学的な訓練を受けた者の問題への取り組み方はそうでない者よりも知的であろうということだ。科学者の政治的見解、つまり社会学や倫理、時には芸術に関する見解さえ、科学者のものは門外漢のものより価値があると言っているのだ。言い換えればもし科学者が支配すれば世界はもっと良い場所になるだろうというのだ。しかし私たちが見てきたように現実には「科学者」とは厳密な意味での科学の一分野の専門家という意味だ。そうすると化学者や物理学者などが詩人や法律家などよりも政治に関して聡明であるということになる。そして実際のところすでに固くそう信じている人々が数百万人もいるのだ。
だが科学的とはいえない問題に客観的な方法で取り組むことに関して狭い意味での「科学者」がそれ以外の人々よりも適しているというのは本当に真実なのだろうか? そのように考える理由はあまりない。簡単なテストを考えてみよう……ナショナリズムに抵抗する能力についてだ。しばしば漫然と「科学に国境はない」と言われるが、実際のところどんな国でも科学を職業にする者は背後にいる彼らの政府から資金の援助を受けている。そして彼らが感じる良心の呵責は作家や芸術家が感じるものよりも少ない。ドイツの科学コミュニティーは総じてヒトラーに対して無抵抗だった。ヒトラーはドイツの科学の長期的展望に壊滅的な損害を与えたであろうが、それでも合成石油やジェット飛行機、ロケット弾や原子爆弾といったものを生み出すのに必要な研究をおこなう大勢の才能ある人々を生み出したのだ。彼らなしではドイツの兵器はありえなかっただろう。
一方でナチが権力を握った時、ドイツの文学では何が起きただろうか? 私の知る限りではちゃんとした一覧は発表されていないと思うが、独自に亡命したり体制によって追われたドイツ人科学者の数は……ユダヤ系を除けば……作家やジャーナリストのそれよりも少ないのではないかと思う。もっと悪意を込めて言えば、多くのドイツ人科学者は「人種科学」という怪物を受け入れたのだ。ブレイディー教授の「ドイツ・ファシズムの精神と構造」を読めば彼らが署名した声明文のいくつかを確認することができる。
しかし形は違えど同じような光景はどこでも見られる。イギリスでは指導的な立場にいる科学者の大部分が資本主義社会の構造を受け入れている。それは騎士号や准男爵の爵位を与えられ、時には貴族にさえ叙せられるという彼らのかなりの奔放さを見ればわかる通りだ。テニスンテニスン:アルフレッド・テニスン。ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人。初代テニスン男爵。以来、読むに値するイギリス作家で爵位を与えられた者は……おそらくマックス・ビアボーム卿マックス・ビアボーム卿:イギリスの文筆家、批評家、風刺画家は例外となるだろうが……一人もいない。そしてイギリス人科学者で現状をただ受け入れようとしない者は高い確率で共産主義者なのだ。これはつまり自分の職分については知的で慎重な態度をとるであろう人々も特定のテーマとなるとすぐさま無批判になり、時には不誠実にさえなるということだ。たんにいくつかの厳密な意味での科学の訓練をしただけでは、たとえそこに非常に優れた才能が合わさろうとも、人道的かつ懐疑的なものの見方が育まれると保証することはできないのが事実なのだ。半ダースの大国の物理学者、夢中になって秘密裏にせっせと原子爆弾に取り組んだ彼らがそれを証明している。
しかしこれらが意味するのは一般大衆は今よりも科学的な教育を受けるべきではないということなのだろうか? まったく違う! これらが意味するのは大衆のための科学教育はもしそれが物理や化学や生物学といったものを増やし、代わりに文学や歴史を減らすというやり方に行き着くのであれば益が少なく、おそらくは害が多いだろうということだ。そういったやり方が平均的な人間に及ぼす影響があるとすればそれはその人間の思考の幅を狭め、自分が持っていない知識を以前にも増して馬鹿にするようになるというものだろう。おそらくそういった人間の政治への反応はいくつかの歴史上の出来事を記憶して健全な美的感覚を持つ文盲の農民よりも知的に劣るはずだ。
科学教育が理性的、懐疑的、実験的な思考習慣を植え付けることを意味するのは明らかだ。それが意味するのは手法……人が出会うあらゆる問題に対処できる手法……の習得であって、たんに大量の事実を積み上げていくことではないのだ。こう言うとたいていの科学教育の擁護者は頷いてくれる。だがさらに議論を進めて詳しく話を聞いてみるとどうしたわけかいつも決まって科学教育とは科学、つまりより多くの事実に関心を向けることを意味するものになってしまうのだ。科学とは世界の見方であり、たんなる知識体系ではないという考えに対しては現実には強い反発がある。この原因の一端はまったくの職業的な妬みであると私には思われる。もし科学が純粋に手法や物事に対する姿勢であったとすると、十分に理性的な思考方法を身につけた者は誰であろうとある意味で科学者であると言える……そうなれば現在、化学者や物理学者といった人々が恩恵にあずかっている大いなる名声はどうなってしまうのだろうか? そしてそうなればどうして彼らの主張が私たちよりも賢明なものだと言えるのだろうか?
百年前、チャールズ・キングスレーチャールズ・キングスレー:イギリスの大学教授、歴史家、小説家、司祭は科学を「研究室で異臭をたてること」と表現した。一、二年前、ある若い工業化学者は得意げに自分は「詩が何の役に立つのか理解できない」と私に告げた。このように振り子は行き来しているが、私にはそういった態度の一方が他方と比べてどこかしら優れているとは思えないのだ。目下のところ科学は隆盛を極め、それに従って大衆は科学的な教育を受けるべきだというもっともな意見を私たちは耳にするようになっている。一方でちょっとした教育によって科学者自身が恩恵を受けることができるだろうという当然聞こえてくるべき逆の側からの主張は聞こえない。この記事を書く直前に私はあるアメリカの雑誌を読んだ。そこにはイギリスとアメリカの物理学者の多くはそれが何に使われるかを理解して原子爆弾の研究に着手することを拒んだと書かれていた。狂った世界の真ん中に正気を保った人々の一団がいるのだ。その名前が公表されることはないだろうが、まず間違いない推測として私が言えるのは彼らは全員、何かしらの一般教養を身につけた歴史や文学、芸術に慣れ親しんだ人々……つまり現在使われている言葉の意味での科学にのみ関心を奪われてはいない人々であろうということだ。