政治経済学の一般的な数学理論の簡潔な説明 ウィリアム・スタンリー・ジェボンズ

政治経済学の一般的な数学理論の簡潔な説明


1.以下の論文は、経済学の主要問題を数学的形式に変える経済理論の本質を簡潔に述べたものです。経済学は、実のところ、数量に関わっているものなので、その研究対象においてはいつも必然的に数学的であるものなのです。けれども、他のほとんどの科学では非常にうまく応用されてきた強力な表現方法というものを無視してきたため、その数量的な法則を厳密でしかも一般的に述べたり簡単に理解したりすることが妨げられてきました。とはいっても、経済学が形式において数学的になるのだから、それは厳密な計算の問題になるだろうなどと想定しているわけではありません。経済学の数学的原理は形式的で確実なものになるでしょうが、その個々のデータはこれまでどおり不正確なままなのです。

2.経済学の本当の理論を得るためには、人間の行動の大きな源泉-快楽と苦痛という感情にまで遡るしかありません。こうした感情の多くは、心身の普通の欲求や欲望から、そして私たちがその欲求を満足させるために継起的に駆り立てられる苦痛に満ちた骨折り仕事から、周期的に生じます。

経済学はこうして生じる普通の快楽と苦痛の関係を調査するのであり、充分に広い調査領域をもっています。しかし経済学は人間の動機のすべてを取り扱うわけではありません。私たちにはほとんどいつでも、良心や同情心あるいは道徳的または宗教的な源泉から生じた動機が存在していますが、経済学はそれを取り扱うことはできないし、取り扱うふりもしません。こうしたものは私たちにとって未解決で混乱させる力として残されたままなのです。もしかりそめにもそれらを取り扱おうとするなら、別の適当な学問によって取り扱わなければならないのです。

3.私たちは常に感情をなにがしかのことをなしうるだけの力があるものとして取り扱ってきましたが、私は今や感情は科学的取扱いが可能な数量であると考えるにいたったのです。

感情の比較的な量の評価は,選択や決断という行為のなかで行われます。二つ以上の進路から一つを選択するということは、私たちが評価してみて、この進路のときに快楽の帳尻がもっとも大きくなる見込みだということを示しているのです。天秤の片側に大きな均衡を失わせる力がかかっているときは、実際、この天秤の総量を評価することは極めていい加減であるのは、疑いのないことです。しかし、理論の眼目は、相反する動機がほとんど同等で、その選択に迷うときに、それらの動機に私たちが下す微妙な評価に依存しているということなのです。

4.何人かの著述家が以前から,感情は強度と持続期間という二つの次元を持つことに注目してきました。快楽あるいは苦痛は、これ以上分割しようのない各瞬間で弱いか強いかのどちらかであり,そしてまた持続する時間が長いか短いかであります。もし強度が一様で変わらないなら、生成された感情の量は、強度の単位量に持続期間の単位量を乗じたものだということになります。しかし、普通、強度は時間の関数として変化しますが、もしそうであればであれば感情の量は無限小総和法あるいは積分によって求められることになります。

このように、感情の持続期間を曲線の横座標で表すなら、強度は縦座標で表され、感情の量は面積で表されます。

5.快楽と苦痛とは、もちろん、正および負の量として対立します。

6.まっとうな理論なら考慮しておかなければならない精神の原理は、洞察という原理です。期待される将来の快楽または苦痛はいずれも、現時点でも同じような快楽または苦痛の感情として私たちに影響を及ぼしますが、その強度はその不確かさと時間的な隔たりに比例して減少します。しかし洞察の効果は、理論の他の部分を作り変えないかぎり、単に理論を込み入らせるだけです。

7.以上が経済学がその上に築かれている感情についての主要な原理です。理論の第二部は、感情から、快感を増し苦痛を取り除く有用物つまり効用へと移ります。

物が有用であるとは、それが現時点で快感を惹き起こすか、あるいは洞察によって将来のある時点で快感を惹き起こすと期待されるかのどちらかです。したがって、現在の使用での実際の効用を評価された将来の効用から注意深く区別しなければなりません。将来の効用は、しかしながら、予想というあやふやな力と将来の出来事の不確かさを考慮に入れておくなら、ある程度は現在の効用を与えるのはありますが。

8.効用の総量は生み出される快楽の総量に対応します。しかし、ある有用物を感覚または欲望に一様に作用させ続けたからといって、一般に一様な量の快楽が生み出されるわけではありません。どんな欲求あるいは感覚も、多かれ少なかれ急速に満ちたりてしまいます。ある量の物を受け取ると、それ以上の量は私たちにはどうでもよいものとなります。あるいは嫌悪感を催させることさえあるのです。継続的な作用はいずれも、一般に最初の作用ほどの強さでは感情を刺激しなくなるでしょう。それで、最後に供給された物の効用は、通常受け取られた量の全体にたいしある比率で、あるいはその関数として減少していきます。この変化は理論上、最小の量にたいしても存在するので、私たちは無限小にまで縮退しなければならない。そして、効用係数と呼ばれるものは、最後に増加した、あるいは無限小の物の供給と、それが惹き起こす快楽の増加との割合なのです。もちろんこの両方とも、適切な単位で評価されているものとします。

9.効用係数は、したがって消費された物の量の全体の関数で、一般に減少関数です。ここに全理論の最も重要な法則があるのです。

この効用関数はそれぞれの物の種類に特有であり、また多かれ少なかれそれぞれの個人に特有なものです。したがって、乾いたパンへの欲求は、ワインや衣類やりっぱな家具や芸術作品あるいは結局は金銭への欲求よりも、ずっと優先的に満足させられます。また誰もがほとんど強欲になる程の自分に特有な嗜好を持っているものです。

10.さて理論の第三部は労働を取り扱うことになります。労働は私たちが快楽を探し求める手段ではありますが、労働の強度あるいは継続期間の関数として急速に増加していく苦痛に満ちた骨折り作業が、常についてまわります。したがって、さらに労働を増加することで得られる生産物の増加が与える満足よりもそれで生じる苦痛のほうが大きくなるまでは、強度においても継続期間においても労働が行われることでしょう。その苦痛と満足が拮抗するところで労働は止むでしょうが、この点に至るまでは、労働にはいつも快楽の超過分が伴っているのです。

明らかに、労働の終了点は生産された物の効用の最終の率に依存しています。

11.私は、人間の能力は、その人本来の性質によってか教育によって無限に異なっており、それで同じ人でも違う物を生産する力量は異なっているだろうし、また同じ物についてもどの二人の人も異なっているだろうということを、明らかに正しいものとして仮定しています。

このことは、実際、リカードの影響下にある経済学の誤った単純化とは正反対であす。リカードはあらゆる労働者がある一様な力量を持っていると仮定しており、高級機械工やその他の熟練した生産者は、規則の単なる例外として取り扱っているのです。

12.この理論で扱う地代論は、アンダーソン博士やその後の著述家のそれと実質的に異なるものではありません。

13.私たちは今や交換論にまでたどり着いたのですが、これは効用の法則から推論した結果です。

もしある人が何らかの有用な物をもっているが、しかし他の人が所有している物がもっと大きな効用をもっているならば、彼は喜んで相手のものの見返りに自分のものを与えるでしょう。しかし、他方の人も同様に利得があるか、少なくとも交換によって損失がないことが必要条件となります。

交換が行われるかどうかは、どちらの側でも物の効用が評価されることによってのみ確かめることができるのですが、この評価は適切な効用関数をそれぞれの物の限界量まで積分することによってなされます。両方の効用の均衡が交換を引き起こすのです。

14.しかし、どちらかの側の有用な物がなんらかの所与の商品であって、交換が無限に小さな量でもうまくいくと仮定してみましょう。こうしたことは実質的にふつうの商取り引きで起こっている事です。今やお互いを均衡させる効用の確定した量は存在しません。しかし一方の人は他方の人に自分の商品を、もし彼が無限に小さい量を、それより多いか少なく、だが同じ交換比率で与えたときに、それによっては効用が得られなくなる量まで、その交換比率で与えるでしょう。交換される量の極限で失われる効用と得られる効用の増分が等しくなければなりません。そうでなければさらに交換が行われることになります。

商品の増分の率は、けれども、種類が一様であるような同じ商品は全ての量が同じ率で交換されるという法則が存在しなければ不確定になります。そこで、最後の増分は全ての量が交換されたのと同じ率で交換されなければなりません。この条件の下で調整がどのように行われるかを、普通の言葉で説明することはほとんど不可能です。しかし、このような交換のいずれにも二つの未知の量とそれを決定する二つの方程式があると言うことで、全事態には直ちに説明されるでしょう。未知の量とは商品が与えられまた受け取られる量です。既知の量は事前に所有されていた商品の量です。私たちはまた、それぞれの人に関して商品の効用関数がわかっているものとします。方程式はこのようにしてどちら側でも、交換された最後の増分について、全商品の同一交換率での得られた効用と犠牲にされた効用との間で立てられることになります。

15.一方の側の有用な物だけが無限に分割可能であるとき、ただ一つの未知の量、すなわち分割不能の物とひきかえに与えられる分割可能な商品の量と、それを決定する一つの方程式、すなわち分割可能な商品を持ち、それについてより多くあるいはより少なく与えることができる人に関する方程式があります。しかしこのことは、彫像とか稀覯本とか宝石といった類のない物には当てはまりません。そうした物はより多いとかより少ないという概念を許容しないのです。

最初に仮定したように(第13節)どちらの商品も分割不能であるときは、未知の量も方程式も存在しません。

16.ある交換における方程式が不可能あるいは解がないと証明されるかもしれませんが、このことは、交換が全く起こらないか、あるいは少なくとも交換の一方の当事者がもとは他方の所有する全商品をもってしても満足しないということを示しているのです。

17.このようにして二人の人と二つの商品の場合において演繹された交換の原理は、任意の数の人間と商品にも当てはまります。したがってそれは一国の一般的国内貿易だけでなく、人間の集団つまり国民の間の貿易--国際貿易にも当てはまります。

方程式の数は単純な組合せの法則にしたがって急速に増大します。

18.もちろんここで語ったような方程式は単に理論的なものにすぎません。経済の法則のような複雑な法則は、個々の場合において正確にあとづけることができないのです。その操作は集団の中で、平均という方法によって本質を見抜くしかありません。私たちはその理論的な完全性と複雑性という面では、これらの法則の数式の下で考えなければなりませんが、実際上は近似的で経験的な法則で満足しなければならないのです。

19.注意すべきことは、交換は方程式によって調整されるとはいっても、獲得されあるいは失われる効用の全体は等価ではありえず、それは交換の前と後のそれぞれの商品の効用関数の積分によって見出されるということなのです。

均衡すれば効用の利得があり、交換の本質から少なくとも一方の側には利得がなければならないのです。

20.交換の理論を労働と生産の理論に結びつけると、それぞれの人が生産する量は交換の結果に依存するでしょう。というのは、交換が効用の状態を大きく修正するからです。

こうして新しいひとそろいの未知の量が導入されることになります。しかしそれを決定するだけの数の新しい方程式がたてられるということもわかるでしょう。こうした方程式はそれぞれ、生産物の最後の増分の効用とそれを生産するのに必要な労働の増分との間の方程式なのです。

21.ともかく私がここで説明しようとしている理論の残る部分は、資本に関するものです。私はこれまでの定義とはちがっていますが、さらに単純な資本の定義を与えようとしているのです。J.S.ミル氏は「資本が生産にたいしてすることは、仕事が必要としている収容場所や保護、道具、原料を与えることと、生産過程の間、労働者を食べさせたりその他扶養することである。」(原理 第3版 第1巻64ページ)と言っています。

資本を正しく理解するには、最後に列挙したこと以外は無視しなければなりません。したがって、私は資本を、労働者の普通の欲求や欲望を満たすことで、彼がその成果が出るまで多少の期間を要するような仕事を引き受けることが可能にするような、すべての有用物から構成されるものと定義します。資本は、簡単にいうと、労働者の扶養費以外のなにものでもないのです。

建物、道具、原料等々が必要な生産手段であることはもちろん完全に正しいことです。しかし、それらは既に資本あるいは扶養費に支援された労働の生産物です。それらは不完全な段階で労働に資本が作用した結果なのです。

資本がなければ、人は直ちに見返りを得なければなりません。さもなければ人は死んでしまいます。資本とともに、人は春に種を蒔いて秋に刈り入れるようになります。あるいは、道路や鉄道といった労働節約的な事業に携わるようになるのです。そうした事業は何年もの間完全には回収されません。労働の作用の改善された様式のほとんどは、成果の享受が遅延することを余儀なくするものなのです。

22.資本の総量は、その享受が遅延する効用の総量によって評価されますが、資本の利用の総量は、効用の総量にその享受が遅延する間の時間単位数を乗じたものとなります。

23.一つの市場におけるあらゆる資本の利子はただ一つの利子率をもち、したがってそれは最低の利子率となります。なぜなら、資本は扶養費だけからなり、それゆえ産業のどの部門にも無差別に使われるからです。これまで資本に分類されてきた建物、道具等々は、反対に、通常はそれが設計された単一の目的にのみ使うことができるだけです。それらがもたらす利潤は、したがって、資本の利子の法則に全くしたがわず、むしろ地代あるいは自然力の生産物の法則にしたがうのです。このことは既に、ニューマン教授がその政治経済学講義で注目しており、またその他の著述家も注目しています。

24.労働はなんらかの資本の助けを得ているものと仮定しなければならないので、利子率はいつも、生産の新しい増分がその生産に使われた資本の増分に対して生じる比率によって決定されます。すべての資本の利子は一様でなければならないので、既に利用可能な資本の総体が労働者にもたらした恩恵は、利子率の決定には何の役割も果たしません。利子率は最後に付け加えられた、あるいは付け加えられるであろう部分だけによって決まるのです。

25.私たちはいまや、資本の利子はいつも資本の総量が増加するにつれて、それが支援している労働に比べ、非常に急速に下落する傾向にあるという既知の事実を、簡単に説明できます。それは同じ時間の増加に対して、必要な資本の増分は時間とともに増加するからです。したがって、もし私が一年で完成する仕事を引き受けたとすると、成果を平均して半年間待たなければなりません。しかし、もし成果を得る前に第二年の仕事をすると、前年に対してはまる一年間、第二年に対しては半年間待つことになります。こうして私は第二年には最初の年の少なくとも三倍の資本を使うことになるのです。第三年には少なくとも五倍の資本を使わなければならないし、第四年には少なくとも七倍の資本を使わなくてはならない、等々。そこで、継続的な遅延の利益が3,5,7,9,等々という算術級数で増加しない限り、新しい付加に応じた利潤は下落しなければならず、前にいったように、資本の最低利子率が他のすべての資本の利子率を支配するのです。

26.今日の著述家たちの一般に受け入れられた意見では、利子率が下落する傾向にあるのは、土地がその耕作を推し進めてもそれに比例した収穫を生み出さないからです。しかし私は、収穫比率のこの減少は主に労働者の賃金に降りかかると思わざるをえません。資本の利子は労働に対する絶対的収穫とはなんの関係も持たず、最後の資本の増分がもたらす増加した収穫にだけ関係してるのです。

27.こうしてこの理論の原理的な特徴をいくつか説明してきましたが、貨幣、信用、労働結合、事業の危険性や不確実性、破産といったものの効果を考察する、テーマのより複雑な部分に立ち入る危険を冒す前に、この論述を終ろうと思います。理論の最後の成果は、賃金、すなわち地代、利子、利潤、保険、税金といった労働者が利益を享受するためになされる多くの支払を控除した後の労働の生産物の率を決定することになるでしょう。


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