牧師館の娘 デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第十章


鉄道の大きな門扉に近いところに、庭へつづく、錠をおろした小さな柵戸があった。それを開いた時、台所の灯りが庭の雪と薮とを照らしているのを、彼は見た。彼が思うに、それは更けていく夜に部屋を明るくしておくための、蝋燭の焔のはずだった。彼は急勾配の小径を、滑るように下までおりて行った。彼はなめらかでまっさらな雪に足跡を付けるのが、楽しかった。彼は薮を踏み分けて家へ向った。家の内の二人の女性は、彼の厳めしいブーツが外の靴拭いで立てる音を、そして、ドアが開くと同時に飛び込んで来た彼の声を、聞いた。

「母さん、蝋燭なんか使って、そんなに灯油をけちる必要があるのかい?」彼はランプの快い光りの方を好んでいたのだ。

彼がルイーザと出くわしたのは、瓶と留め具付きバッグを床におろし、洗い場のドアの裏に、外套を掛けようとしていた時だった。彼は驚いたが、微笑んでみせた。

彼の眼は笑みを浮べて──それから彼の顔は俄に真剣になり、動悸が彼の胸を打った。

「お母さまが急に具合が悪くなったんです、」と彼女は言った。

「どうして?」彼の喉が詰まった。

「庭で──」と、彼女は応えた。外套を手に持ったまま、彼はしばらく考え込んでいた。それから外套をドアに掛けて、台所へ向った。

「母さんは、寝ているんですか?」彼は訊ねた。

「ええ、」と応えたルイーザは、彼に対してはもう誤摩化しても詮無い、と感じていた。彼は何も言わなかった。台所に入って、身体の重みをあずけるように、父の古びた椅子に腰掛け、ブーツを脱ぎ始めた。彼の小さな頭は、鋭く形が整っていた。密で清潔な彼の褐色の髪は、何が起ろうとも快活さを失わぬように見えた。彼は厚地の綿織の、むっとする、炭坑の煤けた臭いを放つズボンを履いていた。室内履きにはき替えると、彼はブーツを洗い場に仕舞いに行った。

「どんな具合なんです?」彼は恐々と訊ねた。

「身体の内が、どうかされたみたいですけど──」彼女は応えた。

彼は二階へ上がった。彼の母親は、平静な顔をつくろって息子が来るのを待っていた。ルイーザは、頭上の寝室の漆喰の床が、彼の歩くにつれ揺れるように感じた。

「母さん、大丈夫ですか?」彼は訊ねた。

「なんでもないんだよ、おまえ、」と老婦人は抑えた声で言った。「なんでもないんだよ。気に病むことはないよ、坊や、昨日だって、先週だって似たようなことはあったんだから。お医者さんも、とくに心配することはないとおっしゃったよ。」

「庭で何をしてたんです?」

「キャベツを引き抜こうとしたんだよ──たぶん、力を入れて引きすぎたんでしょう──、それで──、あ、痛たた──、こんな風な痛みが走って──」

息子は彼女を素早く見据えた。彼女はしっかりと平静を固持しようとした。

「でも、私くらいの歳になれば、誰でもときどき、こんな風になるもんなんだよ、坊や。誰でもそうなんだよ。」

「それで、その痛みの原因は何なんです?」

「知らないよ、」と彼女は言った、「まあ、とくに何かの病気ってことはないんだよ。」

部屋の隅の大きなランプは、深緑の微光を放つだけで、彼はほとんど母親の表情をうかがうことができなかった。とりどりの想いと懸念で、彼の神経は、きつく張りつめた。不意に、彼の眉根が寄った。

「なんでまた外に出てキャベツなんか取りに行ったんです?」彼は訊ねた、「しかも、こんな地面の凍えてる日に! こんな日まで、骨折って難儀して出歩いて、自殺するようなもんじゃないですか。」

「でも、誰かが取りに行かなきゃならないでしょうが、」と彼女は言った。

「自分の身体を危うくしてまで行くことないでしょうに。」

だがこんな話を蒸し返しても、今さら何も得るものは無かった。

ルイーザには、階下にいても彼らの話し声がよく聞えた。彼女の心は、沈みふさいだ。彼ら親子の行く手は、もはや暗澹としているとしか思われなかった。

「大したことじゃないってのは、本当なんですか?」しばらくの沈黙の後、彼は、懇願するかのように、訊ねた。

「そうよ、何でもないのよ、」と老婦人は、やや苦しげに言った。

「僕は母さんに──そんな──そんな──悪くなって欲しくないんだ。だから心配してるんだよ。」

「もう下へ行って、夕御飯を食べていらっしゃい、」と彼女は言った。自分が死を迎えつつあることが、彼女にはもう分っていた。身体の内の痛みも、もう堪えられぬほどに募っていた。「みんな、あたしがお婆さんだからというんで、大袈裟な世話をしてくれただけですよ。ルイーザさんはほんとに良いお嬢さんです。ルイーザさんが夕御飯の仕度をしているはずですから、はやく行って食べてらっしゃい。」

彼は忌々しさと恥ずかしさとを感じた。母は彼を追い払おうとしているのだ。彼は部屋を立ち去らねばならなかった。懊悩の熱が彼の肚の底を走った。彼は下へおりて行った。これでようやく、痛みの呻き声を堪えなくて済むと思い、母親はほっとした。

身体を洗う前に食事をとるという、昔ながらの習慣に、彼はしたがった。ルイーザが彼の夕食を給仕してくれた。思い掛けないこの事態に、彼女はやや昂奮していた。彼女は神経を配って、彼と彼の母親のことを理解しようとした。椅子に坐っている彼を、彼女は観察しつづけた。料理から顔を背けた彼は、暖炉の火を見ていた。彼女の魂は、彼が何者であるかを知ろうとして、彼をじっと見つめた。彼の黒く煤けた顔も腕も、粗く無骨で、彼女には異様なものだった。彼の顔を漆黒に汚しているのは石炭の塵だった。彼女はまったく見知らぬものを見る想いで、それを理解することなど、できそうもなかった。褐色の眉と、堅い眼差しと、結んだ唇の上の、粗い、小さな口髭──それだけが馴染みのある面影の名残だった。炭坑の汚れにまみれてそこに坐っている彼は、一体何者なのか? 彼女は彼を見出すことができず、それが彼女を苦しめた。

ルイーザは二階へ駈けあがり、ふたたび痛みの酷くなってきた病人のために、フランネルの肌着と籾殻袋を温め直そうと、すぐにそれらを取って戻って来た。

彼は夕食を半分食べ終えたところだった。突然胸が悪くなって、彼はフォークを置いた。

「これで、痛みも和らぐと思うのですけど──」彼女は言った。彼は、自分が何の役にも立てず、取り残されたような気がして、彼女をじっと見た。

「母は悪いんですか?」彼は訊ねた。

「そうみたいです、」と彼女は応えた。

彼は何を言う必要も、何をしようとする必要も、なかった。ルイーザは忙しげに二階へ上がって行った。哀れな老婦人は、蒼白になり、痛みによる冷たい汗にまみれていた。いそいそと婦人を看病するあいだ、ルイーザの顔は悲痛に暗澹となった。為すべきことが済むと、彼女は椅子に腰を下ろして待った。やがて老婦人の痛苦は薄れて行き、婦人は深い眠りに沈んで行った。ルイーザはただベッドの傍に静かに坐りつづけていた。ふと、彼女は階下に響く水音を耳にした。すると弱々しい、息籠った声が、老母の喉から洩れた。

「アルフレッドが水浴びしてるのね──あの子の、背中を洗ってやらなくちゃ──」

この病んだ婦人が一体何をしたがっているのか、当惑しつつ、ルイーザは不安げに耳を澄ませた。

「背中を洗えないんで、あの子は苛々してるに違いないわ──」と、息子の望むものを一途に思い遣って、老婦人は頑なに言った。ルイーザは立ち上がって、婦人の黄色がかった額の汗を拭いてやった。

「私が行ってきましょう、」と、ルイーザは宥めるように言った。

「そうしてくれるなら──、」と、病人はか細く言った。

ルイーザはしばらくじっとしていた。デュラント夫人は、妄念から解き放たれた安堵で、目を瞑った。ルイーザは下へおりて行った。彼女が若い娘であり、彼が若い男であること、それが今問題だろうか? あの苦しんでいる婦人を気遣うことだけが、今は肝要なのだ。

彼は暖炉の前の敷物のところで、膝をつき、腰まで裸になり、大きい素焼の盥のなかで汚れを洗いおとしていた。夕食を食べて後、そうして身体を洗うのが、毎晩彼の習わしだった──彼の兄たちも彼の見る前でそのようにしてきたのだ。しかしルイーザにとっては、家の内でのこの習慣は、まったく違和なものだった。

彼は手慣れた、余念ない動きで、時折頸を手のひらで撫でつつ、白い石鹸の泡で頭を巧みにこすって洗っていた。彼のこの姿態に対して、彼女はあらためて身を強ばらせた。彼は頸を屈めて、頭を水の中に突っ込み、石鹸の泡を洗い流しては、目に入った水を拭っていた。

「あなたのお母様が、あなたが背中を洗ってもらいたがってると、言ってたのですけれど──」彼女は言った。

彼らの決まりきった日々の習わしを、手伝おうとしただけで、なぜこんなにも愚弄されたような気持ちになるのだろう? ルイーザは、なにか不愉快で馴れ馴れしい気配が、自分に押し付けられてくるように感じた。何もかもが、群れた家畜のように締まりなく思えた。彼女は自分自身の鋭い個性を、失わざるを得なかった。

彼はひょいと頸を折って顔を向け変え、とても滑稽な恰好で、下から彼女を見上げた。彼女は噴き出しそうになるのを堪えた。

「まあ、あんな風に顔を逆さまにして、なんて滑稽なんだろう!」と彼女は思った。結局のところ、彼女と、他のありふれた人々のあいだには、埋めることのできぬ溝があるのだ。彼が両腕を突いている水はかなり黒ずんでおり、石鹸の泡も薄汚れていた。ルイーザは彼に、人間らしさをほとんど感じることができなかった。日々の習慣に支配された、機械的な動作で、彼は黒ずんだ水のなかを手探りし、フラノ地のタオルと石鹸とを取り出すと、それを背後のルイーザに手渡した。そうして彼は、両腕を真直ぐ盥の底に突いて、肩の重みを支える恰好で、従順に、ぴたりと動かなくなった。彼の皮膚は繊細な白色──傷ひとつない、鈍い光沢の、純一な白だった。ルイーザは徐々にそれに目を惹かれた。それもまた彼の正体を示す何ものかなのだ。その肌の白さに、彼女は魅了された。他人とのあいだの隔ての感は、彼女から消え去り、また、彼とその母親を疎ましく思う心も、去って行った。そう、生活の、人生の要はここにある! 彼女の心臓は熱に昂った。この美しく澄んだ、雄の肉体に、彼女は何かしら自分の求めていたものを見出したのだった。彼女は、その近寄りがたい、真白な肌の温かみを愛した。だがそれ以上に彼の陽に灼けた、赤みがかった頸と耳は、より親しみを感じさせる、不思議なものだった。柔らかな感情が彼女のなかで動き、彼女はそのちょっと変わった彼の耳にも、愛着をおぼえた。この一人の男が、彼女にとって親密な存在になりつつあった。胸裡におののきをおぼえた彼女は、タオルを置いて、再び二階へと上がって行った。彼女はこれまでの人生で、人間らしい人間をただ一人しか見たことがなかった──すなわち、姉のメアリーだけを。それより外の者は、異質な他者にすぎなかった。ところが今、彼女の魂は解かれつつあり、彼女は、別の一人の男に対し眼を開こうとしている。彼女は呆然と、不可知のものを自分が孕みつつあることを、感じていた。

「これであの子も、気分良くなったでしょうよ、」と、部屋に入って来たルイーザに、病んだ婦人は空ろな声でつぶやいた。ルイーザはこれに応えなかった。彼女の心は、自身の新たな責任の重みを感じて、厳かになっていた。デュラント夫人はしばらく横たわって静かにしていてから、また、物悲しげに呟いた。

「あまり気にしないでくださいね、ルイーザさん。」

「何を気にするんです?」深く揺り動かされて、ルイーザは応えた。

「単なる我が家の習わしなんですから、」と老婦人は言った。

するとルイーザは、ふたたび自分が、彼らデュラント一家の生活から閉め出されたように感じた。彼女は傷ついて坐り込み、彼女の心の痛みから溢れる失望の涙が、目に浮んだ。結局、彼女は一人きりなのだろうか?

アルフレッドも階段をのぼって来た。洗ったばかりの身体の上に、シャツを着た彼は、只の労働者に見えた。所詮彼と彼女とは、それぞれ別の生活の流れに沿う、互いに異質な人間であるという感じが、彼女の胸を衝いた。彼女は銷沈してしまった。ああ、何かしら揺るぎない交わり、確固として不変な結びつき、それを見つけることができたなら──彼女にとって、それより外に望むものはないのだが。

「具合はどうです?」と彼は母親に訊ねた。

「少しは良くなったよ、」と、彼女はだるそうに、無表情な声で応えた。母親が自分自身を顧慮せず、自分を抽象化して、ただただ、息子にとって気休めになるだろうことを応えつづける、この奇怪な情景は、母と息子という関係の狭隘と歪とを、ルイーザに思い知らせた。この関係は男性を不具に、まったくの無能にしてしまう。ルイーザはあたかも、自分がアルフレッドを失ってしまったかのように、焦心した。母親が実体を持ち、積極な存在であるのに対し、息子の彼は影が稀薄になっていく。それを見て若い娘は総毛立ち、困惑した。

「ハリソンの奥さんを呼んで来ましょうか?」と彼は言い、母が決定を下すのを待った。

「そうね、誰が手伝ってくれる人が必要ね、」と彼女は応えた。

彼ら二人のやりとりを邪魔するのを怖れて、ルイーザは脇に立っていた。彼らは、自分たちの生活にルイーザを決して迎え入れず、ただ外より差し入れられた助け以上の何ものでもない、という風に遇していた。ルイーザは彼らにとって、およそ部外の者だった。暗にもうけられたこの隔壁に、ルイーザは傷つき、自分が非力であると感じた。だが彼女の内にある、何かしら頑固な、不撓のものが、彼女にこんなことを言わせた──

「デュラントさんを放ってはおけませんわ。私がここにとどまってお世話します。」

他の二人は、まごついて顔を見合わせ、しばらく言葉が口に出なかった。

「でも、なんとか誰か手伝ってくれる人を見つけることは、できるんですよ、」と、老婦人は鈍々しく言った。何が眼前で起きているのか、彼女は意識を凝らすことができなくなっていた。

「ともかく、私は明日までここに居ます、」とルイーザは言った。「そのあいだ、デュラントさんを世話できますわ。」

「そんなに心配していただかなくても、いいんですよ、」と、老婦人は低い声で言った。しかし彼女は、誰か自分に付き添ってくれる人が絶対に必要なことが、分っていた。

たとえ、単に実務的な理由からであっても、デュラント一家に受入れられたことが、ルイーザは嬉しかった。彼女は彼らと暮らしを分かち合いたかった。メアリーが来たばかりの牧師館では、ルイーザの手が必要とされているはずだった。だがみんなには、彼女抜きでなんとかしてもらおう。

「家に報らせを送らなければならないわ、」と、彼女は言った。

アルフレッド・デュラントは、彼女の意向を探るように、問いかけるような眼で、ルイーザを見た。海軍に永くいたことで、彼には、すすんで他人のために働く敏い物腰が身に付いていた。しかし、その奉仕の姿勢の内には、簡朴な矜持もあって、それがルイーザには嬉しかった。にもかかわらず彼女は、彼に深く接することの難しさを感じた。彼はあまりにも丁重で、彼女の見せる、ほんの微かな依頼の気配さえも、直ぐに察知して、暗黙にそれに沿おうとするので、彼女は、彼の内の男性にまったく触れることができないのだった。

ルイーザを見る彼の眼差しは、非常に鋭かった。彼の眼が金色の混じった褐色で、瞳はとても小さく、遥か彼方を遠望することのできる目色をしているのに、彼女は気づいた。彼は下級兵のような注意深さで、待機して立っていた。彼の顔は、いまだに海上で陽に灼けた赤みをとどめていた。

「紙とペンが要りますか?」と、彼は上官に対するような、うやうやしい態度で訊ねた。それはルイーザには、無愛想よりも理解しがたいものだった。

「ええ、お願いします、」と彼女は言った。

彼は向き変えて、階下へおりて行った。彼はあまりに超然として、自らの動息のうちに充足しているように見えた。一体どのようにして、彼女は彼との距離を縮めたらよいのだろう? 彼の方から彼女に歩み寄るということは、あり得なかった。彼はただ、自分の殻に隠れ、彼女の献身にも心を動かさず、喜んで彼女の助けになろうとはするけれど、彼女の前では、ほとんど自己を示さぬようにしている。彼女の依頼に従って動くことを、彼が真実楽しんでいることは、彼女にも見て取れたが、しかし、それ以上のどんな関わりも、彼を混乱させ、傷つけるだけに違いなかった。ともあれ、一人の男がシャツを着込み、ベストのボタンを外したまま、襟元を剥き出しにして、彼女の用をたすため家の中を歩き回ってくれるのは、彼女には新鮮なことだった。まるで精力がありあまっているかのように、彼は機敏に働いた。その彼の申し分のなさに、彼女は強く惹き付けられた。しかしやがて、すべて用意が整い、彼の為すことも尽きてしまうと、ふたたび彼の、あのもの問いたげな眼差しにぶっつかって、彼女は身震いした。

ルイーザが坐って手紙を書いていると、彼は蝋燭を彼女のそばに立ててくれた。濃い光りが、彼女の二重に結い上げた髪の房の二方を照らし、それはあたかも、濃密な金色の羽毛を折り畳んだように、重たげに、明るく煌めいた。その下に、彼女のうなじは透き通るような白さで、鮮やかな線を描き、金の後れ毛を際立たせていた。彼は自己を喪失して、幻を見るようにそれに見入った。彼女は、生々しくて精妙な、彼がかつて触れたことのない何かだった。ついぞ観念でしかなく、彼の力の及ばなかった何ものか──彼女はまさにそれであり、彼は自己を没して彼女を見つめつづけた。彼と彼女とのあいだには、何のつながりも無かった。彼は彼女に触れようとはしなかった。ただ彼女は、憧れの遠い彼方の存在のように、そこに居るのだった。とはいえ、彼女がこうして家にとどまっていてくれるのは、彼には、好もしい喜びだった。母親を案じて胸を締め付けられていながらも、この夜、彼は、生きることの驚異を、新たに目覚まされた思いだった。蝋燭の灯は彼女の髪に映え、彼の心を痺れさせる。彼は、彼女にほのかな畏敬を感じ、一時、彼と彼女と彼の母親は、名状しがたい、不可知の気配につつまれているのだという、高揚した想いに憑かれた。しかし家の外へ出てみると、彼は急に恐怖を覚えた。夜空には星が、目を刺すように繊細に、明るくまたたき、地上の雪はただ眼前に歴として広がり、そしてまったく新たな夜が、彼のまわりに濃く充ちつつあった。彼の感じた恐怖は、あたかも自分が抹消されてしまうかのような、恐怖だった。彼の四囲でひらめいているこの新しい夜は何なのか、そして、彼自身に一体何が起こりつつあるのか? 彼は自分自身も、あたりの様子も、何もはっきりと認めることができなかった。彼は母親のことを想うことさえ怖れた。それでいて彼の胸裡は、彼女のことを案じ、彼女がどうなってしまうのか、うそうそと気に掛けていた。母親から逃れることのできぬ彼を、彼女は、己れと道連れに、不定形の、冥暗の渾沌へと引き入れようとしつつあるのだった。


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©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。