英国、わが英国(1915年版) デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第一章


夢想は現実よりもいよいよ鮮明になってゆく。夢のなかで彼は家に居り、夏の暑熱の午後、囲いのない荒れ地のはずれで、庭の小径を、庭の隅を流れる小川を越えてその荒れ地まで伸ばすために働いていた。彼が野生の芝と蕨を刈ってゆく後には、生傷のような土壌が顔を出した。新たにつくった小径がどうしても真直ぐにならないので、彼は苛立っていた。棒杭を幾つも立てて、巨きい松の樹のあいだを目印にねらいをつけているのだが、何故かしらうまくいかなくて径は曲がってしまうのだ。彼はふたたび、不安気な、きつい眼差しで、あたかも門戸から眺めるように、がっしりと悍ましい松の樹の間から、小川にかかる丸太の橋に発し、陽光にきらめく花々、丈高く白と深紅に色づく苧環の群れを縫って、古びた、美しい田舎家の端にまで伸びている、緑を敷いた庭の小径を見やった。花々の沸き返る庭と田舎家のかたむいた旧い屋根は、遮るような影を透かして見ると、たえず不安で張りつめている彼の眼には、まるで蜃気楼のように映った。

そこへ子供たちの呼び合う声、話し声が響いてくる。甲高くて子供じみた少女の声、訴えかけるような、そしてかすかに厳めしく、依怙地な命令調の声色だ。「ほうら、小母さん、早く来ないと、私、蛇がうようよいるあっちの方まで行っちゃうわよう!」

こんな風な、相手を従わせようとする争いが日々繰り返され、それが子供たちの振舞いにまで及んでいるのだ! そう考えると、彼の心は幻滅でこわばってしまった。食い入るような苦渋と忌々しさに堪えながら、彼は働き続けた。

忌々しさにとらわれると、鋭い屈託が彼から離れなくなる。陽射しは地上に真下りに灼きつけていた──燃えさかる草木と花々の剥き出しの生彩、そして荒れ地の静けさの真只中にいるという痛ましい孤絶の感じが、あたりを領していた。緑に息づく庭の小径は優美な紫と白の花々のあいだを這う。悠々と傾いた屋根をもつ田舎家は、空虚で秘めやかな永遠の陽光のなかでいつまでも眠りつづける。それが彼の住む場所だった──花々と陽光と、屋根の傾いた屋敷に彩られた、悠久の過去から不変の無慈悲な素白。脱殻のようなその屋敷は、樹の上に掛った鳥の巣みたいにいつでも均衡を保ち、静穏に充ち、ただ無窮の天空のみを戴いている。それは人の世といかなる関わりも繋がりももたず、自らの運命をただ天空の下でのみ極め、平和と陽光と清麗とに永久にみたされている。

他の方角には何処もささくれた、古代ふうの荒蕪地が広がり、青白い丘陵となり、彼方で空の青さとせめぎ合って、風景を苛烈に閉ざしている。すべては天空にむかってのみ捧げられている──人世が忍び寄ってくる余地はない。

ところが、彼の心のうちへは人世も忍び入って、ぐさりと突いてくるのだった。彼の心をつねづね突くのは、彼の妻、彼と愛し合っているはずの彼女のことだった。彼の妻は陽を浴びて燃えさかる焔のような生命に色づいて、健やかで、美しく、若々しい。彼女のしぐさにつれて、赤い花を咲かす樹がまさに花開きつつある瞬間の、あの溢れる力に似た魅力がゆっくりとひらめく。彼女もまた、彼らの生活の清白を一に愛している。しかし、それでいて彼女は、彼に対して武器のようでもあり、鉄のかぎ爪のような脅嚇で、彼を平和な棲み処からたたき出そうとするのだ。彼女の魂は鉄のように堅固になって彼をたえず押退け、押し出す。それに逆らって、彼の心もまた鉄のように堅くならざるを得ない。

今ではもう、二人して一日たりとも武器を下ろすということをしなかった。時には数時間だけ、彼らがいがみ合うのを止めようとすることもある。二人は自分の内の愛情を表に呼びさまそうとする。すると、一時に愛は燃え上がり、彼らの田舎家をとりまく、花々と巨大な天空にはさまれた古来の静けさと空虚が情熱に充たされる。

だが、その情熱は数時間しかもたないのだ。愛が過ぎ去れば、不変であったのは、ただ常に美しさを失わない蜃気楼のような田舎家だけで、彼はきまって蜃気楼の傍らに取り残された自分を見出すことになる。実在すると言えるのは、彼と妻とのあいだの無言の争いの緊迫だけだった。彼らはまるでそれが宿命であるかのように、武器を構え、互いを破壊するために力のかぎりを尽くしていた。

なぜそんなことをするのか?──明らかな理由はまったくなかった。彼は中流階級の出の、背の高い、痩躯の、無愛想な色白の男で、身振りのうちに何かを積極にはっきり表すことをせず、つねに打ち解けない固い沈黙を身に帯びているという男だった。自分の内にきつく閉じこもり、干渉に動じず屈しもせず、しかしそれでいて、その拷問のような抑制にみずから苦しんでいた。

彼の妻が彼に対して口に出して言う不平は、彼が家族を養うために一銭の金も稼ごうとしないということだった。もとより、彼には年毎に百五十ポンドの収入があったから、それ以上何かしようという気にはなれなかった──彼はただ当て所なく日々を過していた。彼女は彼が怠けているというので彼を非難しているわけではない。実際、彼はいつも庭で汗を流して、庭を綺麗に保つために働いている。しかし、それが彼の為すべき仕事のすべてなのだろうか? 二人のあいだには三人の子供がいた。もうそれ以上産むつもりはありません、と彼女は彼に厳しく言い渡していた。子供たちの乳母に賃金を払い、季節がめぐるたびに金銭で彼ら家族を助けてくれているのは、彼女の父親だった。彼女の父親の援助がなければ彼らの生活は立ちゆかない。裕福な家庭で生まれ育ったために、金銭について細かく算段することを厭う彼と彼女、そのあいだに三人もの子供がいる、そんな彼らがはたして年に百五十ポンドで暮らしてゆけるものだろうか? ゆけるはずがない。どれほど生活を簡素にしても、彼ら家族は年に二百五十ポンドを必要とした。しかも今はまだ子供たちは幼い。彼らが学校へ通い始める頃には一体どうなることだろう? にもかかわらず、彼は──イーヴリンはさらに収入を得るための何の行動も起こそうとしなかった。

彼の妻──ウィニフレッドは美しくて烈しい気性の持主で、すべての情熱を厚い道義心に注いでいた。彼女の父親は、クエーカー教徒の貧しい家の生れだった。青年になるとニューキャッスルからロンドンへ出て来て、そこで懸命に働き、ささやかな財産を築き上げたのだ。クエーカー教徒としての信仰は捨てた彼だったが、その精神は彼のうちにしぶとく根づいていた。また、彼の本性はもともとは御しがたく官能的で、都会で学んだ義務の観念にしたがって生きてきた彼ではあったけれど、彼の生活に真実、息を吹き込んでいたのは、詩情や詩文学から受けた感銘だった。暮らしの流儀においては商業の人だった彼は、その内奥に過敏な感性をもち、真の歓びを与える詩文を前にして跪拝するような敬虔な男でもあったのだ。それゆえに、一方では印刷会社と小さな出版社を着実に運営し成功をおさめながらも、他方家庭においては、彼はかつてのクエーカー教徒の廉恥心を、新たな敏感な美意識のよそおいで発揮し、彼は我が子をその官能の情熱で育て上げた──その情熱の火は、同時に因習的な倫理の暖炉の鉄囲いのうちで保持されてきたクエーカーの焔でもあったわけだが。

ウィニフレッドは夫を情熱的に愛しつづけた。イーヴリンは英国南部の旧家の生れで、立ち居は垢抜けて、ディレッタントじみた振舞いが身についている男だった。すらりとして仕種の精妙な彼は、古風な行儀良さのもつ謎めいた美しさをそなえ、また、強情で衒いがなく、激しやすい、道義的なウィニフレッドの本性にとってはほとんど理解できない、奇妙な無力感、ふてぶてしさ、禁欲的とも言える無関心にとりつかれてもいた。彼女に堪えられなかったのは、彼ら二人の身を焦がした強烈で肉体的な官能がすべて退いてしまった後に、二人の結婚生活が、徐々にこのイーヴリンの無力感にひきずられて散り散りになってしまうのではないか、という危惧だった。それゆえに彼女の情熱は道義的な野心に向けて執拗になっていった。彼女は何かしらの成果が欲しかった、何かしらの創造を、肉体の熱い喜びのうねりでもなく、子供たちの世話でもなく、それ以上の、人間の世界における未知の勇ましい行動を求めていた。

だんだんと彼女が夫に不満を持つようになったのも無理はない。一体彼はどんな信念を持っているというのだろう? なれ初めの頃は、彼女は彼を深い畏敬の念で見つめていた。しかしその畏敬はゆっくりと摩耗していった。彼の暮らしの無意味さがまざまざと感じられて来た。夫は不可解なほど何も為そうとしない。そして彼女の内奥の、荒々しい、未熟な道義心はまったく黙殺されている。

そんな時に、痛ましい悲劇が起こった。二人のあいだには金色の髪をしたひらひらと軽やかな生き物、三人の娘がいた。三女はまだ産まれたばかりの赤ん坊だった。両親の寵愛をもっとも受けているのは、長女だった。彼らは一人くらい男の子であってくれてもよかったのに、と思うこともあった。

ところが或る日、この長女が、庭に放置してあった、使い古された鎌で膝を切ってしまったのだ。悪いことに彼らは都会を離れて暮らしていたので、はじめのうち娘に十分な手当をすることができなかった。長女は敗血症に罹った。ようやく自動車でロンドンの病院に運び込まれた少女は、起き上がれず、すさまじい悪熱に苦しみ、生死の境をさまよった。誰もが彼女の死を覚悟した。少女が病苦をきりぬけたのはまったくの幸運だった。

この恐ろしい時が過ぎゆくあいだ、ウィニフレッドは、最初からちゃんとした医者を呼んでさえいればこんな災難は避けられたのに、とひたすら悔い、朝な夕な悲痛の念に憑かれていたのだが、その一方で、彼女の夫は、以前よりよそよそしくなったようで、存在感が薄れ、まるで蚊帳の外に居るかのようだった。彼は背景に紛れ、何事にも無関心に、隔てられたように突っ立っていた。そんな彼を見て彼女はぞっとした。彼女はどうすればよいのか、助言を求めるにも、不安を宥めてもらうのにも、父親に頼りきりになった。父親は長女のために専門医をつれて来てくれたし、ウィニフレッドのそばに寄り添って肩を抱き、気遣わしげに彼女の名を呼び、温かい声で彼女を安心させてくれたのだが、他方、夫のイーヴリンはといえば、よそよそしく、無口で、始終醒めた表情で突っ立っているだけだった。単に何もできないでいるだけならまだいい。しかし、イーヴリンの酷薄なよそよそしさ、この悲劇のさなかで麻痺したように超然としている彼の態度は、彼女に、憎しみの念さえひき起こした。彼女の魂は夫に対し嫌悪で冷え切った。イーヴリンはただ居るだけで災難の種を呼び込み、あらゆるものを無機的に、非人間的に、醜悪にしてしまう。夫が今回の悲劇を不必要に助長し、つめたく耐え難いものにしたことが、彼女には許せなかった。もはや彼女の眼に映る彼は、永遠に閉ざされた口元、無感動な顔つきをした、冷淡で孤独であるよう運命づけられた、蒼白い虚無の怪物であるかのようだった。

長女はやがて起き上がれるようになったが、足はびっこになっていた。娘の脚はちぢこまって、もう強ばりがとれない。いつも肉体の官能を中心に生きてきた両親二人にとって、これは痛ましい結果だった。だが母親はその悲しみを、烈しく、まざまざと身振りに表したのに対し、父親の方は沈着に、不動の、空ろな表情を見せただけであったが。イーヴリンは、まるで自制したかのように子供のことについて語ろうとせず、稀に口を開くときも、投げやりな、ぞんざいな口調でそうするのだった。もはや、修復し得ない亀裂が二人のあいだで露わになっていた。二人は互いに敵意の隔てをつくった。とりわけウィニフレッドは、イーヴリンの無力さを、まるでそれが罪悪であるかのように憎みつづけた。

ウィニフレッドは、彼女の父親が長女のために高額の治療費を引き受けてくれているのにもかかわらず、あなたは無為のままで、働いて稼ごうともしない──という咎で、イーヴリンを責めた。一体あなたには自分の子供を自分で面倒みるという気骨はないのか? このまま私の父親に生活を助けてもらうばかりで良いと思っているのか?と焚き付けた。さらに、ウィニフレッドの六人の兄弟たちが、家の財産が彼女の子供のためだけに費やされるのを快く思っていないことも、言って聞かせた。

なら、僕に何ができるんだい?──彼は逆に訊ね返した。彼女はこの問題を逐一父親と議論した、というのも、父親ならイーヴリンのために適当な職を容易に見つけることができるだろうから。イーヴリンは働かねばならない、この点では誰しも意見が一致していた。彼は怠け者ではないのだから、世間並みの仕事ができないはずがない。ウィニフレッドは一つの働き口を見つけてきて、彼に勧めた──さて、彼はそれを受け入れただろうか? 否! しかし、何故? 彼の言い分では、その仕事は自分向きとは思えないから、断りたい、とのことだった。この応えにウィニフレッドは激怒した。そもそも彼らは今ロンドンで暮らしているので、生活費は二倍かかっている、しかも子供は贅沢な治療を受け続けており、彼女の父親はもう不満を隠さない、にもかかわらず、イーヴリンはあらゆる勤めの申し出を頑に断わろうとするのだった。そしてついには、彼は何もかもを黙殺して、田舎の家に引きこもってしまった。

ウィニフレッドの魂のなかで、何かが固く凝結しつつあった。彼女は自分の感情を夫からきっぱり切り離した。もうあの空ろな男のことは考えず、自分の血縁の者とともに、独力で暮らしを支えてゆかねばならないのだ、と彼女は決意した。

以上は、ここ一年のあいだに起きたことである。彼ら一家の中心はロンドンに遷された。少しでも脚の力をとりもどせたらという希望のもと、長女への施術はつづけられていた。しかし、彼女の脚が完全に治ることはないというのは、明らかだった。彼女が脚をふるわせ、脚を投げ出すようにして歩く様は、或いはこんなにも幼く、聡く、焔のような少女が、歪んだ器物みたいに肩を無理に動かす様は、眼をそむけたくなるような光景だった。だが、母親はその辛さに耐えた。娘は、この不幸について何かの埋め合わせを得られるはずだ。娘のいのちは弱まってはいない。むしろ頑強になった。彼女は自分なりに人生を作ってゆくことができるはずだ。魂と精神においてこそ彼女は充実を得るだろう。なぜなら肉体の領域で損なわれたものは魂の領域で報いられるはずだから。そのように考え、母親は始終娘に付添い、医師の忠告どおり、娘が足の片端だけをつかって歩いたり、片足で飛び跳ねたりしないように、厳しく、忍耐づよく気を配りつづけた。他方、父親のイーヴリンにとっては、娘のこの不幸は耐えられなかった。彼は、なにか人生の途上で破産したように感じていた。肉体的な官能に導かれる生活だけが、彼の人生のすべてだった。自分の娘のいびつになった身体を見ると、その畸形が、彼には悪意あるもののように見え、汚辱と虚無が生を打ち負かしてしまったように思われるのだった。これ以後は彼はもう無価値なゼロにすぎない。それでも彼は生きねばならぬ……。いつしか、奇妙な冷笑が彼の唇に浮かぶようになっていた。


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