勢力の均衡について デヴィッド・ヒューム

勢力の均衡について


勢力の均衡という考えが、完全に近代の政策のおかげでできたものなのか、それともただこの近年に用語として作り出されただけのものなのか、それが問題なんだ。確かに、クセノフォンは『キュロスの教育』の中で、小アジア諸勢力の連合がメディアやペルシアの勢力増大にたいする警戒から生じたと述べている。この立派な作品は、まるでそれが作り話だとしても、著者が東方の諸君主のせいにしているこの感情が、少なくとも、古代の一般的な考えだったことを証拠だてているんだ。

ギリシア人のどの政策にも、勢力の均衡に関しては、配慮が見てとれるし、古代の歴史家でさえ、その配慮をはっきり示している。トゥキディデスは、アテネにたいして形成され、ペロポネソス戦争の原因となった同盟は、まったくこの原理によるものだとしている。そして、アテネが没落し、テーベ人とラケデモン人が支配権を争ったとき、アテネ人は(他の共和国と同様)いつも軽いほうの秤皿に身を投じ、均衡を保とうと努めた。レウクトラでエパミノンダスで大勝利をあげるまでは、彼らはスパルタにたいしてテーベを支援してきたけれど、この勝利の後は、直ちに敗北者側の味方になった。それは寛大さからだというふりをしているけれど、しかし本当は勝利者にたいする警戒心からなんだ。

デモステネスのメガロポリス人への演説を読めば、この原理の極致の姿を見ることができる。それはヴェネツィアやイギリスの政治理論家が論じてきたものと同じなんだ。マケドニア人の勢力がはじめて勃興してくるとすぐに、この雄弁家は危険を見出し、全ギリシアに警鐘を鳴らし、ついにはアテネの旗のもとに同盟をつくって、カイロネイアの大決戦を戦った。

確かに歴史家はギリシア人の戦争を政治的なものでなくて対抗心による戦争だとみなしてきたし、それぞれの国家は、権威や支配権にたいするちゃんと根拠のある期待を抱くというより、他の諸国を指揮するという名誉のほうをもくろんでいたようだ。実際、どの共和国も全体と比較すると人口が少ないこと、当時は包囲を敷くのは極めて難しかったこと、その高貴な民族にあって個々の自由人が並外れて勇敢で武技も優れていることを考えると、勢力の均衡は、それ自体ではギリシアで十分確保されいて、他の時代なら不可欠とされるような、注意をはらって監視しておく必要がないという結論にはなる。だけど、ギリシアのどの共和国でも見られた敵味方の変動は、妬みによる対抗心のせいにしろ、用心深い政策のせいにしろ、同じような結果となり、優勢な勢力はどれも、それに対抗する同盟、それもたいていは以前の友邦や味方からなる同盟と、対峙することになるに決まっていた。

それを妬みと呼ぼうが深慮と呼ぼうが、同じ原理がアテネの陶片追放やシラクサの葉片追放を生み出し、名声や勢力で他を圧倒する市民をすべて追放した。まあ言ってみれば、同じ原理が当然ながら外交政策にもあってだね、指導的国家が権威の行使にどんなに節度を保とうが、その敵対勢力がたちまち立ち上がるんだ。

ペルシアの王は実際のところ、自れの勢力では、ギリシアの共和国に比べて弱小の君主だ。だから彼にとっては、対抗心からというより、安全の観点から、ギリシア諸国の紛争に関心を抱き、どの抗争でも弱い側を支援するのが得策だった。これがアルキビアデスがティッサフェルネスに助言したことだったんだ。それでペルシア帝国の寿命は一世紀ほど延命した。わずかの間、この助言をおろそかにすると、フィリッポスという野心に満ちた英才が現われるや、その高くそびえてはいるが脆い建造物は地に崩れ落ち、それは人類史上あまり例のないほどあっけなかった。

アレクサンダー大王の後継者たちは、勢力の均衡には大いに注意を払った。この警戒心は正しい政策と深慮に基いたもので、そのおかげで、この有名な征服者の死後になされた領土分割は、数世代にわたって独立を保ったんだ。アンティゴノスの幸運と野心で、後継諸王国は、新たに世界統一王国の脅威にさらされたけれど、諸王国は連合してイプソスで勝利を収め、命運を保った。それに続く時代には、東方諸王ギリシア人とマケドニア人を唯一の正真正銘の軍事勢力とみなして、彼らとなんらかの交渉をもち、絶えず世界のその地方に警戒の眼を向けていた。プトレマイオス朝は特に、最初はアラトスとアカイア同盟を支援し、後にはスパルタ王クレオメネスを支援したが、それはマケドニア王国にたいする拮抗勢力という観点だけからなされたものなんだ。だって、ポリビウスがエジプトの政策ついて述べている説明がこうなんだから。

古代人がまるで勢力の均衡ってものを知らないと思われている理由は、ギリシア史よりもローマ史から引き出せそうだ。一般にローマの事績のほうがぼくらに馴染み深いので、ぼくらはそこから結論をすべて作ってしまっているんだ。それは、ローマが、急速な征服だとか公然たる野望から当然遭遇してもよさそうな、全面的な反ローマ連合や同盟と遭遇することがけっしてなかったせいだ。そうではなくて、彼らは穏当に近隣諸国を支配していき、次から次へと、知られている全世界中にまで支配権を拡大したんだ。彼らのイタリア戦争という伝説じみた歴史はさておき、ローマ国家へのハンニバルの侵攻に際しては、重大な危機があり、あらゆる文明諸国の注意をひいたはずだ。後世になってわかったように(当時でもそれに気がつくのは難しくはなかったのだが)、これは世界帝国をめぐる抗争だった。だけど、紛争の成行きや結末に、わずかでも不安を抱いた君主や国家はなかった。マケドニアのフィリッポスは、ハンニバルが勝利するまで中立を保ち、彼が勝利すると、軽率に極みのようにその勝利者と同盟を結んだが、その条項たるやさらに輪をかけて軽率なものだった。その約定では、彼はカルタゴ国家のイタリア征服を支援し、その後に、ギリシア諸国制圧に際してフィリッポスを支援してカルタゴがギリシアに派兵するというものだったんだ。

ロードスやアカイアの共和国は、その賢明さや堅実な政策で、古代の歴史家から大いに称賛を得てきた。だけど、どちらも、ローマ人がフィリッポスやアンティオコスと戦争すると、ローマ人を支援した。勢力の均衡というこの原理がその時代には一般には知られていなかったことの、これ以上の証拠はないだろう。古代の著作家はだれ一人、こうした方策の軽率さに注意をはらわなかったし、さっき述べたフィリッポスとカルタゴ人の間に結ばれたあの馬鹿げた条約を非難することさえしていないんだ。君主や政治家は、いつの世でも、事の成行きに関して、早とちりして推論をしそこなうことがある。しかし、その後に歴史家が、事件について妥当な判断をしていないっていうのは、かなり異常だ。

マッシニッサ、アッタロス、プルシアスは私的な情欲を満足させようとして、みんなローマの強大化の道具となった。そして自分たちの同盟者の征服を早めることは、自分自身を縛る鎖を鍛えることなるとは、思いもしなかったようだ。マッシニッサとカルタゴの間の簡単な条約と合意は、相互の利害の上でとても必要だったんだけど、それがあれば、ローマがアフリカに入るのを防げたし、人類の自由も確保できたはずなんだ。

ぼくがローマ史の中で見た君主のうち、勢力の均衡ということを理解していそうな人物は、シラクサのヒエロン王だけだ。彼はローマの同盟者であったにもかかわらず、予備戦役ではカルタゴに援軍を送った。ポリビウスはこう言っている。「シシリアの自分の領土を確保しながら、同時にローマとの友好関係を維持するためは、カルタゴが没落することで、残った勢力が、対抗勢力がないまま、どんな目的でも事業でも遂行できるようにならないよう、カルタゴが安泰であることが必要だと考えた。そこで彼は偉大な知恵と慎重さを発揮して行動した。というのは、このことは、どうあっても見過ごしてはならないし、またそうした力が一方の手に帰し、近隣諸国からそれに対抗して自分たちの権利を守ることができなくするようなことが、一度たりとあってはならないからである」と。ここには、現代の政治学の目的が明確な言葉で指摘されている。

ローマ帝国の没落後、北方からの征服者が樹立した統治形態では、大方、さらに征服を続けるのが不可能で、長い間それぞれの国家は、それに適した境界内に留まった。だけど、封臣制と封建的軍制が廃止されると、シャルル大帝という一個人に多くの王国や主権が統合されたことから、人類は再び世界王国の脅威にさらされた。けれど、広くはあるが分割された領土と、金鉱と銀鉱から得られた富に基礎を置くオーストリア王家の権力は、反抗した防塞諸国に打ち破られたというより、内部的な欠陥から自ら朽ち果てていったようだ。一世紀もたたずに、この残忍で不遜な一族は粉砕され、その富は四散し、その栄華は消え失せた。それに続く権力は、ヨーロッパの自由にとってさらに恐ろしいもので、オーストリアのもつ長所を持ち、その欠陥に悩まされることもなく、ただ頑迷と迫害の精神だけは分け持っていた。この頑迷と迫害には、オーストリアは長いこと執心してきたし、今でもまだそうなんだ。

この野心に満ちた権力に対抗した全面戦争で、大ブリテンは先頭に立ってきたし、今でもその地位を守っている。その富や立地の利点と並んで、その国民はその国民精神で活気づいていて、その政府からの恩恵を十分感じているので、その活気は必要な大義があれば衰えることはない。逆に、過去の事例から判断すると、その激しい熱意はむしろいくぶん緩和する必要があるほどだ。それで、非難すべき熱意不足より賞賛すべき熱意過剰から、しばしば過ちを仕でかしている。

第一に、ぼくらは、現代の政治学の慎重な見解によって行動しているよりも、古代ギリシアの妬みによる対抗心という精神に取りつかれているみたいだ。フランスとの戦争は正義に基づいて、またおそらくは必要にさえ迫られて、始められたんだけれど、いつも強情と情熱からあまりに推し進めすぎることになってきた。後に1697年にリズウィックで結ばれた和平は、1692年には早くも申し入れがあったものだ。1712年のユトレヒトでの条約締結は、1708年にゲルトルイテンベルクで同じ好条件で終結していたはずのものだ。1743年のフランクフルトで差し出されたはずの同じ条項、1748年になってエクス・ラ・シャペルで喜んで受け入れている。こうして見ると、わが対仏戦争の半分以上、そしてわが国の公債のすべてが、隣国の野心のせいというより、ぼくらの軽率な熱情のせいなんだ。

第二に、ぼくらはフランス勢力反対を宣言し、わが同盟国の防衛には警戒怠りないので、同盟国はいつも自国軍ではなくわが軍を当てにし、しかも戦争遂行にわが国の戦費を当てこんで、理にかなった条件での貸付けをまるで拒絶している。服スルハ身内、用ナキハ他人と言う言葉は世界中のだれもが知っているが、先の国会の始めに下院であった党派争い的投票は、公然たる国民気質とあいまって、ハンガリア女王が自分の条件に固執する原因となり、直ちにヨーロッパの全面的平和を取り戻したはずのプロシアとの協定を反古にしたんだ。

第三に、ぼくらは真の闘士であって、一旦戦いを始めると、自分自身や子孫のことなどまるで関心を失い、いかにしたらもっとも敵を苦しめられるかばかり考えてしまう。自分たちが従属的な立場であっても、戦時となれば、歳入を首が回らないほどの利率で担保にいれるというのは、確かに致命的な誤りで、およそ政略だの分別だのの才覚があるという国民なら、犯したことのないような犯罪だ。その資金上の救済策は、毒ではなくて薬だとしても、当然ながら、最後の窮地までとっておくべきものだ。最大の緊急時でも最悪でなければ、ぼくらはこういう危険な方策を受け入れてしまってはならないんだ。

ぼくらがしでかしたこの行き過ぎは、有害だ。で、時によって、おそらく、よくあることだが、正反対の行き過ぎに陥り、ヨーロッパの命運にまったく無頓着、無関心になって、別の意味でさらに有害になるかもしれない。アテネ人はギリシアでもっとも騒々しい、陰謀好きで好戦的な国民だったが、あらゆる紛争に介入するという自分たちのへまに気づくと、外交へのあらゆる関心を失い、どの抗争でもどちらの味方もせず、ただ勝者に甘言追従を述べるだけになった。

強大な君主国というのが、その進歩、その継続、また建国から遠からず訪れるその没落においてさえ、おそらく人間の本性にたいして破壊的なんだ。軍事の気風が君主国を強大にしたが、それはたちまち宮廷や首都といった政権の中心から離れていった。一方で戦争ははるか彼方で行われ、国家の少数部分しか利害がない。古来からの貴族は君主を慕い、すべて宮廷で暮らすようになり、けっして軍務には就きたがらない。というのは軍務に就けば遠方の未開な辺境に行かなければならず、そこでは楽しみからも幸運から離れてしまうからだ。だから、国家軍は熱意もなく、愛着心もなく、名誉心もないよそ者の傭兵に委ねられるが、連中はいつだって君主に歯向かい、給料と略奪品を提供してくれる破れかぶれの不満分子と結びつく機会を待ちかまえている。これが人間諸事の必然的な成り行きなんだ。かくして人間の本性は空高き上昇を止められ、野心は盲目的に勝利者、その家族、その側近や寵臣すべてを破滅させることにかかりっきりとなる。ブルボン家は、その勇敢で忠誠をつくして慕ってくる貴族の支援を当てにしているなら、遠慮も制約もなく、自分の利点を押し出してきたことだろう。こういう貴族は、名誉心と対抗心で燃え立っている間は、戦争の労苦と危険に耐えることができる。しかし、宮廷で忘れ去られ、君主の側に侍る寵臣や寵姫の陰謀の犠牲となりながら、ハンガリアやリトアニアの駐屯地で惨めに暮らすことには甘んじるなんてありえない。軍隊はクロアチア騎兵だのタタール騎兵だのハンガリア騎兵だのコサック騎兵だので補充される。それにわずかだけど、もっとましな地方の出の傭兵どもでもね。それで、同じ原因から、ローマ皇帝の憂鬱な運命が、何度も何度も繰り返され、君主制が最終的に解体するまで続くんだ。


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