ワークマンシップの本能と労働の煩わしさ ソースタイン・ヴェブレン

ワークマンシップの本能と労働の煩わしさ


一般に受け入れられている経済理論の決まりきった文句の一つに、仕事は煩わしいというのがある。人はなにはさておき労働によって生産された財貨を得たいと思うが、財貨を生産するための労働は避けたがるというこの公理をめぐっては、多くの議論がなされている。おおむね常識的な意見は、この点についての流布している理論に良く一致している。常識的な理想にしたがえば、経済的な至福は働くことなく気ままに財貨を消費することであるし、一方、完璧な経済的不幸とは無報酬の労働である。人は、生活手段を供給する労働を本能的に嫌悪するのだ。

こんなあけすけな言い方では、誰もこの命題を受け入れようとはしないだろうが、しかしこのままでさえ、著名な経済学者の著作にほのめかされていることをそれほど誇張しているわけではない。有用な労働に対するこのような嫌悪が人間の本性の不可欠な部分であるのならば、エデンの園のヘビのつけた痕は誰の目にも明らかであろう。というのも、これは人類にしかない特徴であるからだ。種の生命を維持する活動が何であれ、それに対して首尾一貫して嫌悪することは、確かに他の種の動物には見られないことだ。種が出現し持続していく淘汰過程のもとでは、自分たちの生命過程を促進することを嫌悪するような性質を与えられた種が生き残る機会など全くないだろう。もし人間だけが淘汰の規範から除外されているのだとしたら、問題となっている風変わりな性癖は、何か邪悪な機械仕掛けの神が彼の気質に無理矢理押し込んだものに相違ない。

どんなに明らかに不合理な事にも、真実はあるものである。多かれ少なかれ率直に、人々は現在のところ有用な労力に対する嫌悪を公言している。この公言はすべての労力に及んでいるのではなく、ある使い方の労力にのみに向けられている。特に通俗的に有用な労働と認識されているような労力が嫌悪されているのである。人間の用に供される生産物をもたらすことなく利得をあげるような労力、例えば戦争に行ったり政治家をやったり、その他似たような性質の職業に従事する労力に関しては嫌悪が表明されることは少ない。そして、金銭的利得も有用な生産物も生み出さないスポーツやそれに類した職業については、一般に嫌悪が公言されることは全くないのである。それでも、ある一連の労力が無駄なものであるという事実が、それが不愉快なものであるということから免れさせてくれるというわけはない。例えば、そうしたことは召し使いの奉仕の場合に見られるだろう。こうした仕事の多くは、何ら役に立たない目的に奉仕するのだが、だからといって感受性のある人々にとっては少しも嫌悪されずにすむものではない。

古典派経済学者がその特徴の輪郭を描き、古典派の風刺家たちがその中身を満たした「経済的人間」とは、動物の世界では異様なものであり、その上、その性向の日常の世間一般的な表れ方から判断すると、その肖像は真面目に描き込まれたものではない。しかし、もしこの経済的人間が経済学の教義の装いにぴったり合う人体模型として役に立つのならば、彼の限界は何であり、彼はどのようにして自然淘汰の法則から解放されたのかを説明するのは、科学にとって課せられた義務であろう。人間がこの法則から解放されているのは、実のところは、実質的というより見かけだけのことである。この点で人間とその時々の生存闘争の競争相手との間にある差異は、種の生命という目的にたいする彼の性癖をわずかに調整したのではなくて、全面的に調整したことである。彼はこの点でとうの昔に他の全ての生物を引き離し、その差は大きくひらいたので、今や種の生命を危険にさらすことも無く、その生存の精神的根拠を弄ぶことができるのだ。

他の動物と同じように、人間は彼が生きている環境がもたらす刺激に反応して行動する主体である。他の種と同じように、人間は習性や性癖をもつ生き物である。しかし人間は、彼がそれにしたがって行動している習性を知性で消化し、その習性や性癖の傾向を理解する程度が、他の種よりも高いのである。彼は際だった意味で知的な能動主体なのである。淘汰の必要に迫られて、彼は目的をもった行動に向かう性癖を身につけた。彼は、生命や行動の無益さが彼にとって不快であることによって、目的のそれ特有の感覚に取り憑かれているのだ。この衝動を表わす形式と方向に関しては、個人によって大きなひらきがあるだろうが、しかし衝動そのものは個性の問題ではなくて、人間の本性の一般的な特徴なのである。それは時おり少数の個人に現われる特徴などではない。この目的をもった行動へ向かう性癖が欠如したり明らかに不足している場合もあるが、しかしこの継母みたいなやり方でわずかしか能力を与えられなかった人は「知能欠陥のある患者」に分類されるだろう。この欠陥のある人間性をもたらす家系は、現代生活の慈悲深い環境においてさえ衰え没落していく。遺伝的に依存的なあるいは欠陥のある家族の歴史は、この効果の証拠である。

生存闘争において、人間が他の種に対してもっている大きな長所は、環境の力を利用する能力である。彼が生き物の主という地位を得たのは、生活の物質的手段を利用しようとする性癖のおかげである。労力へ向かう性癖ではなく、達成-目的の成就へと向かう性癖なのである。彼の卓越は結局、産業的なあるいは経済的な卓越である。経済生活において人間は能動主体であって、吸収体ではない。すなわち、人間はどの行為においてもなにか具体的、客観的、非人格的な目的の実現を捜し求める能動主体である。この広く浸透した行動規範は、物質的なものの利用全般にわたって人間の生活を導くので、それはまた、経済的生活過程の理論たらんとするこの科学のための出発点ともなり、主導原理を与えるものでなければならない。経済理論の範囲内では、ある与えられた現象の最終的な分析は、次のことを行おうとするこの遍在的な人間の衝動へと戻っていかなければならない。

こうしたすべてのことは、労働にたいする常套的な嫌悪について言われてきたこととは矛盾するように思われる。しかしこの矛盾は、実際は、一見したとき思われるほど際立ったものではない。その解決は、労働への嫌悪は大部分常套的な嫌悪だけであるという事実にある。働きすぎの重圧に悩まされず、冷静な考えでいる間は、人間の常識は紛れようもなくワークマンシップの本能の導きのもとで語るのである。人間は他人が何かの目的のために人生を送るのを見るのが好きだし、自分の人生が何かの役に立ってきたと回顧するのが好きなのである。すべての人間が経済的あるいは産業的なメリットについてのこの準倫理的な感覚を持っており、経済的メリットについてのこの感覚にとっては、無益さや無効果は不快なことなのである。それが積極的に表現されれば、ワークマンシップへの衝動や本能になるし、消極的な表現では無駄に対する非難となる。メリットとデメリットについてのこの感覚は、生活の増進と障害という点に関しては、経済的に効果のある行為を是認し経済的無益さを非難する。一方では経済的メリットのこの規範と行為の倫理的規範との間の、他方ではそれと味覚の美的規範との間の密接な関係を事細かに指摘する必要はないだろう。それはこの双方に、生物学的な根拠の点でも、その裁定の範囲と方法の点でも、密接に関係しているのである。

このワークマンシップの本能は、見たところ、有用な労力にたいする常套的な反感と鋭く対立している。この二つは、普通の人々の間に完全に不調和の状態で一緒に見出されるのだが、しかし、行為や出来事についてよく考え抜いた判断を下すときはいつでも、前者は、それが完全に人間の本性のより包括的でより持続的な特質であることを示唆しているような、広く浸透したやり方で、第一位であることを主張している。この二つの間の優先順位が重大な問題となる事はほとんどない。前者は種の存続に必要な人間の特質であるし、後者は他の競争相手を引き離した種においてだけ可能な思考習慣であり、前者が黙認する限りにおいて、前者が設定した範囲内においてだけ広まっているのである。それらの間には次のような問題がある。すなわち、労働にたいする嫌悪はワークマンシップの本能からの派生物なのか?ということと、労働にたいする嫌悪はワークマンシップの本能と矛盾したものであるにもかかわらず、どのようにして出現し確固たるものとなったのか?ということである。

近年に至るまで、初期文化について著述する人たちの間には、人間は、はじめて本来の人間らしい水準に達したとき、争い好きな性質であり、自分自身の利害と目的を他人のそれから引き離し、反目と口論にあけくれていたという内容の一致した見解があった。したがって、人間は生来の性癖によって行動する傾向にあるという見解になるところでさえ、行動へのこの生来の性癖は破壊的な性癖であるという信念が依然として明らかに存在する。人間は働くことよりも戦おうするものである-通常の場合、行為の目的は修復というより損傷であると考えられている。この見解からすると、目的をもった行為に向かう性癖は、ワークマンシップへのではなくて、スポーツマンシップへの衝動になる。この見解を文化の進化図式に適合させようとする試みでは、人類は、前人あるいは原類人猿段階のときには、捕食性の種であったのであり、人間の文化の最初の段階も、後の文化の発展も実質的に略奪的なものであったという含意が支持されることになる。

この見解に対しては言うべきことがたくさんある。もし人類がその出自から職人ではなくてスポーツマンであるとしたら、仕事に対する常套的な嫌悪を説明する必要はなくなる。仕事はスポーツマンらしくないし、それゆえ不快であるが、さて、人間がどうやって略奪生活以外の生活にある程度折り合いをつけるようになったかを説明しようとすると当惑する。この見解の直接的な都合の良さはさておき、それはまた多くの証拠で補強されている。我々よりも低い文化段階のほとんどの人は、我々よりももっと略奪的な習慣をもっている。人類の歴史は、決って書かれているように、略奪的な搾取の物語であり、この歴史は一般には偏ってるとか、誤った情報を伝えるものとは感じられていない。そして、スポーツマン的に戦争へむかいたがる傾向は、ほとんど全ての近代的な共同体にも見出される。同様に、いわゆる名誉の感覚も、それが個人的なものであれ民族的な名誉であれ、スポーツマンシップの表現である。名誉の概念の普及も、それゆえ、同じ傾向へ向かう証拠とされるだろう。スポーツマンシップが古代からあり、規範的地位にあるという主張をさらに強化するかのように、名誉の感覚はまた、我々よりもいささかなりと古風な文化では、目立つほどにより鮮明なものとなるのである。

しかしながら、文化史からも人間の生活の今日の現象からも、人間は一般的にスポーツマンであるとする慣例的に受け入れられているこの見解に反対する、かなりの量の証拠が得られるのである。不明瞭であるが持続的に、人間の文化の歴史全体を通じて、大多数の人々が、ほとんどいたるところで、日常生活のなかで、事物を人間の用をなすものに変えるために仕事をしてきたのである。あらゆる産業上の改善の直接の目的というのは、職人の課業のできばえをよりよくすることにあったのである。必然的にこの作業は、一方では、なされた仕事へのきちん価値を見極める関心という基礎のうえで進められてきた。なぜなら、目的の無い課業の遂行より良いものをなにかしら獲得できる基礎は他にないのだから。また、必然的に、もう一方では、仕事の訓練は職人的な態度を発展させるように作用した。完成された仕事は専ら略奪的体制のもとでの強制のためであると言うべきではないだろう。というのは、この点でのもっとも著しい進歩はスポーツマン的な搾取の強制力がもっとも少ないところで成し遂げられたのであるのだから。

同じ見解は常識の表現によっても支持されている。すでに述べたように、冷静に人間の行為について配慮し、判断するときはいつでも、普通の成熟した人間はスポーツマンシップよりもワークマンシップを是認する。よくても、スポーツマンシップに対しては弁解じみた態度をとるのである。このことは現在(1898年5月)の大衆の気分の動揺においてもよくわかる。この共同体が突入した軍事襲撃が、実質的にスポーツマン的な高揚感の激発であることは認めるにしても、戦争を支持する人々のほとんどが、なにか別の種類のもっともらしい動機を見つけ出そうと骨を折っていることに、気づくべきだ。略奪的搾取は、単にそうしたものとしては、本質的に捕食性の種が理解するようには、合法性を持っているとは感じられないのだ。無制限の是認を受けるものは、人間の生活を全体として促進するような行為であって、他人に対抗してある一人の不公平なあるいは略奪的な利害を助長するような行為ではないのである。

人類のもっとも古くもっとも一貫した習慣というのは、人が差し迫った焦燥感のもとで話していないときに、はっきりする。こうした環境のもとでは、古くからの性向が行為の直接の慣習的規範を打ち負かすのだ。人に職人的な有用性を称賛させる古風な心の傾向は、この傾向が反映しているような性格の人の人生に長く一貫して慣らされたことの結果なのである。

人の生活は活動的である。そして行動すると同時に考え感じるのである。このことは必然的にそうなのである。なぜなら、考えるのも感じるのも能動主体としての人間なのであるから。他の種と同じく、人間は習慣と性癖を持つ生物である。彼は、彼が他の種との区別を獲得してきた淘汰過程が彼に押しつけた性癖の導きのもとに行動する。人間は社会的動物であり、彼がそこから社会的動物の精神的な骨格を獲得してきた淘汰の過程は、同時に彼を実質的に平和な動物にしたのである。人類はいにしえの平和な場所から遠くさまよって来たかも知れないが、今日でさえ、人間の思考や感じ方の日常的習慣の中に平和な傾向の痕跡は充分明白である。血生臭い光景をみたりや死と直面したりすると、たとえそれが下等な動物の血や死であったとしても、一般に未経験な人は、吐き気を催す嫌悪感に襲われる。通常の場合、虐殺で悦にいるような習慣は、訓練の結果としてだけ現われる。この点で人間は猛獣と異なる。彼は、もちろんこの点で独居性の獣とは最もかけ離れているが、群居性の動物の間でさえ、彼に精神的に最も近しいものは食肉類には見つからない。獰猛な野獣と敵意のこもった接触を本能的に嫌悪する点はもちろん、無防備な体格の点でも、筋力が戦うために特殊化している度合が少ない点でも、人間は、対抗者に打ち勝って食べることで生き残る動物ではなく、その競争相手と直接衝突することを避ける才能で生き残る動物に分類されるべきである。

「人間はあらゆる生物のなかで最も弱く、最も無防備である」、そして、密林の掟に従えば、助言を聴き、工夫し、他の動物には理解しがたいやり方で雑多なものを役立てるのが彼の役割である。道具が無ければ、彼は他の動物がそうであるようには、危険な動物ではない。戦闘のための用具の工夫に著しい進歩がなされるまでは、恐ろしい動物になることはない。道具が効果的に使われるようになる以前の時代-すなわち、人類の進化のかなり大きな期間-人間は本来、破壊の主体や平和の妨害者ではなかった。彼は環境の力によって、おとなしく引込み思案な性質であった。道具の使用とともに、彼が違う性質を獲得する可能性が徐々に始まったのである。しかし、その時ですら、環境は、付随して起こる争い好きの性質が徐々にかつ部分的にだけ成長するのを好んだ。人類の生活習慣は、依然として必然的に、争い好きで破壊的というよりも、平穏で産業的な性格のものであった。道具や器具は、初期の時代、被害や苦痛を与えるためのものというより、おもに人間の用に供するために事物を形づくるのに役立ったに違いない。産業は、人間のある集団が他の集団を犠牲にして生きていくことが可能になるはるか以前に発達していなければならないだろう。そしてこの時点に到達する以前の産業の延長された進化の間、社会化された生活の修練は、人間の肉体的および精神的な特徴の点でも、精神的態度の点でも、産業的能率という方向へとずっと一貫して進んで行ったのである。

淘汰と訓練によって、人間生活は、略奪的生活が可能になる以前は、ワークマンシップの本能をその中に発展させ保存するように作用する。状況に強制された環境への適応は、産業的なものであった。すなわちそれは人間に、物や状況を人間が使えるように形造る能力を獲得するよう要求したのである。このことは単に個人がその個人の使用のために物を形造ることを意味してはいない。というのは、古代人はやむをえず集団の一員となっており、この初期の段階では、産業の効率はまだたいしたことはなく、いかなる集団も、自己の利害を背景に投げ捨てるほど強い連帯感の基盤の上でしか、生き残ることができなかった。受け入れられた行動規範としての自己の利害は、略奪的生活に付随するものとしてしか可能ではなく、略奪的生活は、道具の使用が生産者の生計に必要なもの以上の大きな過剰生産物を残すほどまで発達した後でしか可能ではない。略奪で生計を立てるということは、かなりのものを餌食にすることを意味しているのだ。

初期の人間は、その成員の産業的効率と、彼らが手近な材料を利用するるという目的に専心することに、存続を委ねているような集団の一員であった。大地のめぐみの所有と有利な場所の占有をめぐる集団間の競争は、比較的初期の段階にさえ生じたであろうが、それ以上の集団間の敵対的な接触はあり得なかった。それは支配的な思考習慣を形成するほど充分なものではなかったのである。

人間が簡単に行うことができることは、彼らが習慣的に行っていることであり、このことが彼らが簡単に考えたりわかったりできることを決定している。彼らが日常の一連の行動を通じて慣れ親しんでいる観念の範囲内で、彼らはくつろげる。習慣的な一連の行動が習慣的な一連の思考を構成し、事実や出来事を理解し一群の知識にまとめる見地を与えるのである。習慣的な一連の行動に一致するものが習慣的な一連の思考にも一致し、共同体における自己満足や是認の習慣的な標準とともに、知識の確固たる基盤も与えるのである。反対に、単に考え、知る主体がまた行為する主体であるという理由で、生活の処理装置的方法は、一旦理解され思考に同化されると、生活の図式になり、行為の規範となる。生活の便宜と理解され、生活過程や知識と一致するものは、それによって、正しく良きものとして理解される。習慣化が単に個人的で一時的なものでなく、知識や行為の要求される規範に従わない個人や家系が淘汰されて消えていくことで集団や種族に強制されているところでは、このすべてが強められた力で適用されるのである。これが起こるところでは、獲得された傾向が、習慣という状態から習性や性向という状態に変わっていく。それは伝承される特徴となり、その導きにしたがう行為は正しく良いものとなり、習性が生じて来る淘汰的適応が長く一貫したものであればあるほど、結果としての人類に定着した習性は一層確固たるものとなり、結果としての行為の規範の是認はより疑いの無いものになる。

人間の生活の物質的手段にたいする関係に関するかぎり、このようにして初期の人間に強制された思考および行為の規範は、ここでワークマンシップの本能と呼んでいるものなのである。人間がこの性癖の基礎の上で経済的事実にたいして抱く関心は、略奪が一般的なものになる以前の時代には、本質的に利己的な性格のものではなかった。集団の連帯感の必然的な支配が、そうなることを妨げるのである。淘汰の過程が過度に利己的な偏向のかかった家系を排除するにちがいない。それでも、最も窮乏し最も平和な集団においてさえ、個人間の競争はある。競争の図式が、後の環境がその発展を助長するところに出現するその迅速さから、おそらく競争への性癖は、初期の時代にも、初期の集団生活の緊急時には許容される範囲内で明らかに顕示するほどに充分な力を喪って現われていたと思われる。しかしこの競争は個人的な財貨の獲得や蓄積、あるいは襲撃と総覧にあけくれる生活といった方向には進むことができなかった。それは一般に平和な群居性の動物のあいだで見つかるような競争、すなわち第一にまた主として、多かれ少なかれ規則的に循環する性的競争である。これを越えると、手持ちの財貨の分配での口論も起こるかもしれないが、このことも生活手段をめぐる抗争も、生活の主調音となることはできなかった。

ワークマンシップが押しつける行動規範の下では、効率や有用性は好ましく、不効率と無益さは憎むべきものとなる。人間は自分自身の行為も隣人の行為も注視しており、満足か失望かの判定を下す。彼がおおむね世の中で受け入れられている標準的な効率に従っているその有効度が、彼自身とその状況に対する満足度を決定しているのだ。この点で食い違いが大きく持続的であれば、それによって精神的不快感が増すのである。

このようにして、主体の意図や行為の有用性が判定される。前者の場合、メリットやデメリットの判定は倫理に分類されるが、こうした種類のメリットの判定については、この論文では取り扱わない。有用性や効率に関しては、人間は自分自身の行為の事実をじかに配慮するだけではない。他人の非難や称賛にも敏感である。目的の達成を直接的に意識することが満足させ元気づけるだけでなく、仲間により効率を自分のせいにされることが、おそらく、それに劣らず満足させ元気づけるのである。

非難や称賛を気にすることは、社会化された生活という状況の下では淘汰の必然的な事態である。それなしには、いかなる人間集団も、人間の目的に適合させる必要のある物質的環境の中で集団生活を営むことはできない。この点でもまた、人間は、独居性の猛獣よりも、群居性の動物との精神的近縁性を示しているのだ。

良い仕事へのこの嗜好に導かれて、人間はお互いに比較されるとともに、一般に受け入れられた効率性の観念と比較され、またメリットとデメリットの慣習的な図式に従う仲間たちの常識によって、評価され、格付けされるのである。効率の帰属は必然的に、効率の証拠に基づいて行われる。ある人間の目に見える達成は、したがって、他人のそれと比較され、評価の裁定は習慣的に、承認された活動目的への与えられた行動指針の直接的な収穫ではなくて、不公平な個人的な比較次第となる。このような評価の根拠は、行為の有利さの直接的評価から異る能動主体の能力の比較へと移行する。有用性の評価のかわって、目に見える成功という基礎の上での能力の計測があるのだ。そして能動主体間のこうした種類の不公平な比較において、比較されるようになるものは、主体の行為の有用性ではなくて、主体が発揮する力なのである。したがって、有用性に与えられていた評価がある主体の他人と比較した不公平な評価へと変わるとすぐに、またそのかぎりで、行動に探し求められる目的は素朴な有利さから能力あるいは力の発現へと変化する傾向にある。単純に人間の用途の一つとしてのそれ自身のための非個人的目的を達成することよりも、力の証拠を発揮することが、努力の直接の目的となる。したがって、そのもっと直接的表現では、経済的嗜好の規範はワークマンシップの衝動、あるいは有用性への嗜好と無益さへの嫌悪として際だっているが、与えられた社会化された生活という状況の下では、ある程度は力の競争的な誇示という性格を帯びるのである。

効率や不公平なメリットの帰属は、目に見える成功がもたらす証拠に基づくのだから、非難を免れるためには邪悪な外見は避けなければならない。初期の未開文化では、集団は小さく、略奪生活に都合の良い条件は依然欠けていたが、結果として生じた集団の成員間の競争は主に産業的効率に向かっていた。それは避けるべき産業的な無能力という外見を呈するまでになる。力あるいは能力が、もっとも一貫してかつ個人の名声に対する最良の効果を発揮して、はっきりと示されることができるのは、この方向である。したがって、メリットの標準とメリットのある行為の規範が発展していくのもこの方向である。しかし、頭脳や筋肉の生産的な使用における競争の成長にとってさえ、小さく、粗野で、平和な未開人の集団は肥沃な基盤ではない。状況は精力旺盛な競争心に都合よくはないのだ。力を競争的に誇示するという習慣の成長に好ましい条件は、(1)大きなしかも突然の緊張を呼び寄せるような危機が何度も繰り返すことと、(2)個人が、大きな、特に移行的な、その是認が求められている人間環境に曝されていることである。未開の低い段階では、これらの条件に適切に遭遇することなどないのであるが、道具の使用の初期の時代はずっと、人間の文化はそうした段階であったに違いないのである。したがって、古風で平和な性質を保持している、あるいはより高度な文化から元に戻った共同体では、競争心を見ることは相対的にあまり無いのである。こうした共同体では、羨望と身分の格付けが相対的に無いばかりか、着手中の仕事への精力的な専心もないままに、文化と快適さは低い水準に留まり続けたのである。経済的身分と個人間の差別という概念は、所有の点であれ快適さの点であれ、全くというわけではないが、ほとんど中断したままであった。

道具の使用と環境の力に対する人間の支配力がさらに発展するにつれ、未開な集団の生活の習慣は変わっていった。大きな獲物の追跡という点でも集団間の争いという点でも、おそらくより攻撃的になった。集団の産業の効率が増大し、武器がより完成されたものになると、攻撃への刺激やこのような達成の機会も増大した。競争に適った条件はより完全に整ってきた。高められた産業効率の結果としておこる人口密度の増加とともに、集団は、状況の力によって、貧困に苦しむ平和という古い状態から略奪生活の段階へと変わっていった。この好戦的段階-野蛮の始まり-は、攻撃的な略奪行為を伴うか、あるいは集団は単に守勢にまわるかである。このどちらか一方あるいは両方の活動方針-通常は疑いもなく両方であるが-が、絶滅を覚悟の上で、集団に強制される。これが、見たところ普通の初期の社会的進化のコースなのである。

集団がその発展の略奪的段階に至ったとき、人の注意をもっとも惹きつけた職業は、搾取にかかわる職業であった。集団の最も重要な関心事、および同時に個人が最も目覚しい効果をあげる方向性は、人と野獣との争いである。人間の仕事が、これらの手ごわい敵手に対抗して、あるいは要素の身もすくむような動きに逆らって実行される一連の搾取であるとき、人間をはっきりと比較することは容易になる。力のある手椀の、大抵は破壊的な性質の、成功した侵略を言いたてることが名声の受け入れられた根拠となる。集団の主要な生活利害は、このあっぱれな力と知恵の行使に強い光を投げ、集団の生活に奉仕する他のもっと目立たないやり方は背景に沈んでしまうのだ。集団の導きの魂は軍事的なものになり、人間の活動は戦う人間の見地に立って判断されるようになる。反省もなく疑念もなく、こうした集団で有用で効果があると認められるものは戦闘能力である。搾取は個人間の不公平な比較の慣習的な根拠となり、名声は武勇にかかって来るようになった。

略奪文化が完全な発展を遂げると、職業の間に区別が生じる。武勇の伝統は、特に抜きん出た徳として、範囲においても一貫性においても、ただ一つの徳として認めるというところに近いまでになる。そこでこうした職業だけがこの徳の行使にかかわる立派で尊敬すべきものとなる。人が従順に不活性な材料を人間の役に立つよう形作ることに専念している他の職業は、無価値なものとなり、地位を低下する結果となる。名誉ある人間は略奪的搾取の能力を示すだけでなく、搾取に関与しない職業に関わることを避けなければならないのである。従順な職業は、明らかな生命の破壊や頑迷な敵対者を華々しく抑圧することには関わらないが、評判が悪くなり、略奪能力に欠陥のある共同体成員、言い換えると体格や機敏さや残忍さに欠ける者たちに任されるようになる。こうした職業に従事することは、そうしたものに従事している人は一人前の男として格付けされる資格を与えるそれなりに僅かばかりの武勇にも欠けていることを証拠立てている。汚れ無き名声のためには、邪悪な外見は避けなければならない。したがって、略奪文化の強健な野蛮人は、ともかく自分の名声に気を配り、波乱の無い苦役を集団の女性と未成年者に厳しく押しつける。彼は自分の時間を男らしい戦争の技術にあて、その才能を平和をかき乱す方法と手段を工夫することに費すのである。そうしたやり方が名誉の真因なのである。

野蛮人の生活図式では、平和な産業的職業は女性の仕事である。それらは力に欠陥があること、侵略や蹂躙をする能力のなさを意味しており、したがって良い評価はされない。しかし欠点や不品行の因習的な印として受け入れられているものが何であれ、それは今や本来的に低劣であると見倣されいる。このようにして、産業的職業は慇懃な悪評をこうむり、実質上劣悪であると思われている。それらはスポーツマン的ではない。労働は堕落を伴い、下賎な職業による汚染は自尊心のある人が避けるべきものなのである。

略奪文化が充分堅牢に発展したところでは、労働は下賎だという常識的理解は、まだ恥辱以下にまでなっていない人にとっては、労働は悪いことだというところまで、さらに純化してしまう。こうして、カーストやタブーのよく知られた特徴が生まれるのである。さらに文化が発展して、富が蓄積し共同体の成員が一方は奴隷階級に他方は有閑階級にわかれてしまうと、労働は下賎だという伝統は付加的な意義を獲得する。それは劣った力の印であるだけでなく、貧乏人の役得でもあるのだ。これが今日の状況である。労働は、初期の野蛮文化から引き継がれている古い伝統の力によって道徳的に不可能であり、貧困との不吉な結びつきの力により恥ずべきことなのである。労働は不体裁なのだ。

労働の煩わしさは精神的なことである。それは事物の権威失墜に見出される。労働の煩わしさということは、もちろん、それが精神的なものであることにとって、実在的でも適切でもないというわけではぜんぜんない。実のところ、そのせいでもっと本質的で取り返しがつかないものになるというだけのことである。身体的な煩わしさや嫌悪感が生まれるのは、精神的な誘因が存在するときだけである。野蛮人の青年も文明人の青年も惹きつける戦争の魅力を見よ。従軍者の経験の最もありふれた物語というのは、困窮、野ざらし、疲労、寄生虫、不潔さ、病気、忌まわしい死といったものを大雑把に暗示している。戦争の偶発事や付随事は、言葉で言い表せない程まずく、醜く、不健康であると言われる。しかし戦争は、適切な思考習慣を授かった者にだけは、魅力的な職業なのである。苦しくはあるが立派な、ほとんどのスポーツや多くの高尚な職業が同じ効果の証拠である。

身体的な煩わしさは、礼儀作法の拘束力によって強化されていなければ、人が習慣的に軽視してきた不都合なものである。しかし高尚な使い方によって強いられる労働の精神的な煩わしさについては、そうではなかった。それは文化的な事柄である。この種の煩わしさには、我々の礼儀の規範がよっている文化構造の転覆以外に治療法がないのである。もちろん労働への慣習的嫌悪を除外しようと嗜好や良心への訴えかけがなされてはきた。こうした訴えは時あるごとに、善意の楽天的な人達によってなされてきたし、そうやって気まぐれに成果があがることもある。しかし、平凡で常識的な人間は、この題目についての常識的礼節の表明-始まりにまで遡る途切れることの無い文化的血統の遺産に拘束されているのである。


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