公園の自由, ジョージ・オーウェル

公園の自由


数週間前、ハイド・パークハイド・パーク:ロンドンにある王立公園の1つの外で新聞を売っていた五人の人々が通行妨害を理由に警察に逮捕された。裁判官の前に引き出された彼らは全員有罪を宣告された。四人には六ヶ月以上の禁固、もう一人には四十シリングシリング:イギリスのかつての補助通貨。1971年に廃止された。の罰金またはひと月の拘留が言い渡されたのだ。彼は拘留を選んだ。

彼らが売っていたのはピースニュース前進解放といった新聞、それに同類のパンフレットだ。ピースニュースはピースプレッジユニオンピースプレッジユニオン:イギリスで設立された平和主義系の非政府組織。戦争の廃絶を目的としている。の機関紙、解放(最近まで軍事論評と呼ばれていた)はアナーキストの機関紙だ。前進はというと彼らは政治的に定義されることを拒否しているがともかくも過激な左派である。自分は売られていたものの性質には一切影響されていないと裁判官はその判決文で言明している。ただ通行妨害の事実だけを考慮し、この犯罪は法的にはおこなわれたものと認められると述べたのだ。

これはいくつかの重大な問題を提起する。まずひとつ目はどうやって法はこの問題に一貫性のある対応をおこなうのか? ということだ。私が知るかぎり、通りに立つ新聞の売り子は法的に見れば通行妨害を犯している。ともかく私が少しでも移動に不便を感じ、警察がそう言えばそうなるのだ。つまり警官であれば誰でもイブニングニュースイブニングニュース:1980年までロンドンで発行されていた夕刊紙を売る新聞の売り子を好きに逮捕することが法的には可能であるということだ。そんな事態が起きていないことは明らかである。つまり法の執行は警察の自由裁量に任されているということだ。

それでは警察がある者は逮捕し、他の者は逮捕しないとしたらそれを決めるものは何なのだろう? 裁判官はともかくとして、今回のケースで警察が政治的な思惑に影響されていないということは考えにくいように私には思える。彼らが摘発したのが偶然そういったたぐいの新聞を売っている人々だったというのは少しばかりできすぎた話だ。

もし彼らがトゥルーストゥルース:1995年までロンドンで発行されていたタブロイド紙や、タブレットタブレット:カトリック系の週刊誌スペクテータースペクテーター:保守系の週刊誌、あまつさえチャーチタイムズチャーチタイムズ:イングランド教会系の週刊誌といった新聞の売り子も逮捕していれば彼らの公平さももう少し信じやすいものであっただろう。

イギリスの警察は大陸のフランス憲兵隊やゲシュタポとは似ても似つかないし、やつらは左翼活動家には敵対的なのだという悪態を昔、誰かが言っていたなどと私は考えていない[原文ママ]。多くの場合、警察を私有財産の守護者であると見なす者の側につく傾向が彼らには見られる。ほんのつい最近まで「アカ」と「違法」はほとんど同義であり、追い立てられ嫌がらせを受けるのはいつでもデイリー・ワーカーデイリー・ワーカー:アメリカ共産党の機関紙の売り子であってデイリーテレグラフデイリーテレグラフ:保守系の朝刊紙の売り子ではなかった。どうやらこれは労働党政権下でもたいして変わらないように思える。

私が知りたいのは……これは私たちがほとんど耳にしたことの無いことであるが……政府が変わった時に行政の職員にどのような変化が起きるのかについてである。「社会主義」が法に反するものだという観念を漠然とでも持つ警察官は政府そのものが社会主義者である場合にもそのままなのだろうか?

労働党が政権を引き継ぐ時、スコットランドヤードの公安課ではいったい何が起きるのだろうか? 諜報部では? 私たちにそれが語られることはないがこのような出来事を見る限り何か非常に広範な変化が進んでいるということはなさそうである。

ともかくこのエピソードで最も重要な点は新聞やパンフレットの売り子がその活動を妨げられてしまうということだ。特定の少数派が名指しされるのだ……それが平和主義者なのか、共産主義者なのか、アナーキストなのか、あるいは最近、ヒトラーはイエス・キリストであると宣言したキリスト教改革派のエホバの証人エホバの証人:第二次大戦中にナチスへの迎合行為があったことが知られている(「Declaration of Facts(Joseph Franklin Rutherford, 1933)」)。公平を期せばカトリック、プロテスタントでもナチスへの協力や黙認が行われていたことが知られている。なのか……それは二次的な問題である。これらの人々が特定の場所では逮捕されてしまう可能性があるということが重要なのだ。ハイド・パーク内でチラシを売るということをあなたは許さないだろうが新聞の売り子が門扉の外にたむろって百ヤード向こうでおこなわれている野外集会に関するチラシを配るというのは過去何年にもわたって日常的におこなわれてきたことだ。そこではあらゆる種類の出版物が干渉を受けずに売られてきたのだ。

この国における出版の自由の程度というものはしばしば過大に評価されている。法律上は非常に広範な自由が存在するが実際のところほとんどの出版社は国家による検閲と大差ないことをおこなう少数の人間に所有されているのだ。一方で言論の自由は本物である。演壇の上で、あるいはハイド・パークといった特定の認められた野外スペースではほとんど何でも発言することができる。さらに重要なのはパブやバスの中といった場所で自分の本心からの意見を語ることを恐れる者が誰一人としていないということだろう。

重要なのは私たちが享受するそれら自由が世論に依存しているという点だ。法律は保護してくれない。法律を作るのは政府であるがそれが実行に移されるかどうかや警察がどのように振る舞うかはこの国の世相に依存するのだ。もし多くの人々が言論の自由に関心を示せばそこには言論の自由が存在する。たとえ法律がそれを禁じたとしてもだ。もし世論が鈍ければ都合の悪い少数派は迫害されるだろう。たとえ彼らを保護する法律が存在したとしてもだ。個人の自由に対する欲求の衰退は六年前、戦争が始まった時に私が予測したほどには進んでいないがまだその傾向は存在している。特定の意見に対してそれを看過することはできないという考えが広がっている。知識人たちによってそういった考えが流布されているのだ。彼らは民主的な反対行動と公然とした反抗を区別できずに混乱をきたしている。そしてそれは海外でおこなわれている圧制と不公正に対して私たちが無関心になっていることを反映している。また自分たちは意見表明の自由を支持するという者たちであっても、その多くは起訴されるのが自分たちの敵対者である場合にはその声をひそめるのだ。

無害な新聞を売っていた五人の人々の逮捕が深刻な災難であったと言っているわけではない。現在、世界で起きていることを見ればこのようにちっぽけな出来事に金切り声を上げるような価値があるとはとうてい思えないだろう。それでもやはり戦争が首尾よく終わったこの時期にこのようなことが起きてしまったということは良い兆候ではないし、このエピソードやそれに先立つ数多くの同様のエピソードが人々に心からの抗議の叫びを呼び起こし、たんに少数政党の出版社の一部にささやかな動揺を起こすだけに終わらなければ私はそれを嬉しく思うのだ。

1945年12月7日
Tribune

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オーウェル評論集1: ナショナリズムについて 表紙画像
オーウェル評論集1: ナショナリズムについて
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