ジョージ・オーウェル

P・G・ウッドハウスを弁護する


一九四〇年初夏、ドイツはベルギーを通り抜けてすばやい侵攻を開始し、その際に大勢の人間とともにP・G・ウッドハウスを捕らえた。彼はこの戦争の初期の頃からル・テュケにある別荘で暮らしていて、捕らえられる最後の瞬間まで自分が危険な状態にあることにまったく気がついていないようだった。捕虜になった時に彼は「たぶん後になったらシリアスな本を書かなければならないだろうな」と発言したと言われている。彼は自宅軟禁状態に置かれた。後の発言から見て彼は友好的な態度で扱われたようで隣人であるドイツ人将校がよく「風呂を借りたり、パーティーをしたりするために訪れ」たという。

一年以上が過ぎた一九四一年の六月二十五日になって新しい報せが届いた。ウッドハウスは拘留から解放されてベルリンのアドロンホテルで暮らしているというのだ。翌日になって彼がドイツのラジオ放送で「非政治的な」放送をおこなうことを了承したと聞いて人々は驚いた。現在、その放送内容の全文を手に入れるのは難しいが、ウッドハウスはどうやら六月二十六日から七月二日にかけて五回に及ぶ放送をおこなったようだ。七月二日になるとドイツ人たちは再び彼を放送室から連れ去った。六月二十六日の最初の放送はナチのラジオ放送ではなく、ハリー・フラナリーによるインタビューという形でおこなわれた。この人物は当時まだベルリンに駐在していたコロムビア放送の人間だ。またウッドハウスはサタデー・イブニング・ポストで記事を発表している。この記事は彼がまだ捕虜収容所にいた時に書かれたものだ。

この記事と放送では主としてウッドハウスの捕虜としての経験が取り上げられているが、今回の戦争についてはとてもわずかな記述しかない。以下はそこから無作為に抜き出したものである。

「私はこれまで政治には興味を持たずにきた。それがどの様なものであれ好戦的な気持ちになることがまったくできないのだ。どこかの国に対して攻撃的な気分になりかけるとすぐに礼儀正しい人物と出会ってしまうのだ。一緒になって外を歩くと攻撃的な考えや気分も全て消え失せてしまう」

「少し前に私を検分した彼らはもっともな判断をした。少なくとも私たちをその地域の精神病患者収容所に送り込むことにしたのだ。それから私はそこで四十二週間を過ごした。囚われの身はいいものだ。社交場から距離をおき、読書を続ける助けになる。一番の問題は自分の家から長い間離れるはめになったことだ。今度、妻と会う時には安全のために紹介状を持っていった方がいいだろう」

「この戦争が始まる前まで私は常にイギリス人であることに密かな誇りを抱いていたが、このイギリス人のゴミ溜めとも倉庫ともいうべき場所の住人となって数ヶ月がたった今、その自信も揺らいでいる……。私がドイツに要求するのは、ひとかたまりのパンを与えてくれること、メインゲートに立つマスケット銃を携えた紳士に別の方向を向かせて私を休ませてくれること、それだけだ。その見返りとしてなら私はインドや自分のサイン本を引き渡し、ラジエーターで作る薄切りにしたじゃがいも料理の秘密のレシピを明かすこともいとわない。この申し入れの有効期限は来週の水曜日までだ」

上で最初に引用した内容は大いに非難を巻き起こした。またウッドハウスは「イギリスがこの戦争に勝とうが勝つまいが」というフレーズを(フラナリーによるインタビューで)使ったことでも強く非難されているし、別の放送で一緒に抑留されているベルギー人捕虜たちのきたならしい習慣について語ったことでも事態を悪くしている。ドイツ人たちはこの放送を録音して何度も繰り返した。彼らは彼の話す内容をあまり厳重に監視しなかったと見えて、捕虜生活の不便さを面白おかしく語ることを許したばかりか「トロスト収容所の捕虜たちはみんなイギリスが最終的に勝利することを強く信じている」と発言することさえ許している。しかしながら話の基本的な結論は自分はひどい扱いは受けていないし、あまりに敵意を向けられないので退屈しているということに尽きる。

これらの放送はたちまちイギリスに騒ぎを巻き起こした。議会で取り上げられ、マスコミでは怒りの社説が掲載され、彼の仲間の作家からは次々に投稿記事が発表された。そのほとんどは彼を非難するものだったが判断を下すのは早計であろうと提言するものも一つ二つはあり、おそらくウッドハウスは自分が何をしているのか気づいていないのだとして彼を弁護するものもいくつかあった。七月十五日になるとBBCホームサービスはデイリー・ミラー紙の「カサンドラ」の手による極めて暴力的な解説記事を放送した。それはウッドハウスは「自分の国を売り渡した」と非難する内容のものだった。この解説記事では「売国奴」や「フューラー賛美」といった表現がふんだんに使われていた。ウッドハウスは捕虜収容所から脱出するためにドイツのプロパガンダに加担した、というのが非難の主な内容だった。

「カサンドラ」の解説記事に対してはそれなりの数の抗議の声があげられたが、全体的に見ればウッドハウスに対する大衆の感情を強化したように思われる。その結果として多くの図書館でウッドハウスの著作の貸し出しが取りやめられた。典型的な報道例を見てみよう。

「デイリー・ミラー紙のコラムニスト、カサンドラの放送から二十四時間のうちに(北アイルランドにある)ポーターダウンの市議会はP・G・ウッドハウスの書籍をその公共図書館から追放した。カサンドラの放送が事態に決着をつけたのだとエドワード・マッカン氏は語る。ウッドハウスはもはや愉快なものではないのだ」(デイリー・ミラー紙)

さらにBBCはウッドハウスの詩を放送することを取りやめ、数年が経った今もそれは続いている。一九四四年の暮れの十二月にいたっても議会ではウッドハウスを裏切り者として裁判にかけるべきであるという要求がなされているのだ。

泥を十分に投げつければいくらかはこびりつく、という古いことわざがあるがウッドハウスにもいくらか変わった仕方ではあるが泥がこびりついている。(彼がそこで何を言ったか誰一人として憶えていない)ウッドハウスのインタビューが残した印象によって彼はたんなる裏切り者というだけでなく、ファシズム思想の支持者だと見られているのだ。当時、彼の著作には「ファシスト的傾向」が見て取れると主張する何通かの手紙が報道機関に送りつけられたし、同様の非難は今でも繰り返しおこなわれている。私はできるだけ早いうちに彼の著作の持つ精神的な性質の分析を試みようと考えているが、一九四一年のあの出来事の責めをウッドハウスに負わせるとすれば理由はその愚かな行動を除いてないと理解することは重要である。真に興味深い疑問があるとすればそれはなぜ、そしてどれほど彼が愚かな行動をとったのかということだ。一九四一年の六月にアドロンホテルでフラナリーが(釈放されていたがまだ監視をつけられた状態の)ウッドハウスと面会した時、彼はただちに相手が政治に疎い人間であることを見て取った。さらに放送用のインタビューの準備する時にはいくつかの非常に不適切な発言に対して気をつけるよう相手に警告をしたのだ。そのうちの一つは言外にでも反ロシアを匂わせてはいけないというものだった。だが結局「イギリスが勝とうが勝つまいが」という言葉を防ぐことはできなかった。このインタビューの後、ウッドハウスは彼に自分がナチのラジオ放送でも放送をおこなう予定であることを告げた。この行動が何らかの重要な意味を持つことに気がついていないのはその様子から明らかだったという。フラナリーはこう言っている(ベルリン担当、ハリー・W・フラナリー著):

「この時、ウッドハウスを利用した企みが明らかになったのだ。それはナチによって行われた戦争宣伝のための馬鹿げた行為の中でも、もっとも耳目を集めたもののひとつだった……(ゲッベルスの助手の)プラックはウッドハウスに面会するためにグライビツの近くの収容所へおもむき、そこでこの作家がまったく政治的資質を持ち合わせていないことに気がついてあるアイデアを思いついた。捕虜収容所から釈放する見返りにウッドハウス自身の経験を番組として放送することを彼はウッドハウスに提案した。検閲無しでウッドハウス自身の言葉で放送するというものだ。この提案から見てプラックは相手のことをよく理解していたようだ。これまでの全ての作品でウッドハウスがイギリス人をからかい、その逆はめったにしないこと、そして彼がいまだに自分の作品で描いたのと同じ時代を生き、ナチズムやそれが何を意味するのかについての考えを持ち合わせていないことを理解していた。ウッドハウス自身がバーティー・ウースターだったのだ」

ウッドハウスとプラックの間でおこなわれた実際の取引の様子はたんにフラナリーの想像のようだ。わかっている取り決めの内容はもっとずっと少ないし、放送の内容そのものから判断すると放送にあたってウッドハウスが主に考えていたのは公衆との連絡を保つこと、そして……喜劇作家としての抑えきれない情熱……笑いを引き起こすことだった。放送の内容がクヴィスリングやエズラ・パウンド、ジョン・アメリーといった人物がするような発言ではなかったことは明らかだし、おそらく売国の本質を理解するような人物のものでもなかったといって差し支えないだろう。フラナリーはウッドハウスに放送をおこなうのは賢い判断ではないだろうと警告したようだが、それも非常に強い調子でというわけではなかった。(放送された番組の一つで自分はイギリス人であると発言しているにも関わらず)ウッドハウスは自分のことをアメリカ市民であると考えているように見えた、と彼は付け加えている。彼は市民権の取得について熟慮を重ねてはいたが、必要な書類を作成したことは一度もなかった。彼はフラナリーに対して「私たちはドイツとの戦争状態にはない」とさえ言ったのだ。

今、私の目の前にP・G・ウッドハウスの作品の出版目録がある。そこにはおおよそ五十冊の書籍が挙げられているが、これで全てではないのは確かだ。正直に言おう。ウッドハウスの手による書籍が大量にあることをまずは認めなければならない。おそらく全体の四分の一か、三分の一か……それらを私は読んでいない。廉価な版で出版されることが普通の人気作家の作品全てを読むのは確かに簡単なことではない。だが私が八歳だった一九一一年以来、私は彼の作品を間近に追い続けていたし、その精神的な性質についてはよくわかっている……もちろんその性質が完璧な一定状態に保たれているわけではないが、それも一九二五年ごろにわずかに変化しただけだ。上で私が引用したフラナリーの本からの一節には注意深いウッドハウスの読者であれば誰でもすぐに気がつく二つの記述がある。ひとつはウッドハウスが「いまだに自分の作品と同じ時代を生き」ているというところで、もうひとつはナチの宣伝省が彼を利用したのは彼が「イギリス人をからかっていた」ためであるというところだ。二つ目の記述は誤解に基づいたものだが、それについてはまた後にしよう。だがフラナリーのもうひとつの論評は全くの真実で、そこにはウッドハウスの行いに関する手がかりの一部がある。

P・G・ウッドハウスの小説について人々がつい忘れがちになってしまうのは、彼の有名な作品がどれほど昔に書かれたものかということだ。私たちは彼を一九二〇年代から一九三〇年代におけるドタバタ喜劇の象徴のように考えているが、実際のところ彼のものとして人々の記憶に最も残っている場面と登場人物は全て一九二五年以前に登場したものなのだ。スミスが初めて登場したのは一九〇九年のことで、彼は初期の学園を舞台にした物語に出てきた他の登場人物をまとめ上げたようなキャラクターだった。バクスターとエムズワース伯爵の二人が住むブランディング城が紹介されたのは一九一五年のことだ。ジーヴスとウースターの物語群が始まったのは一九一九年だが、それより早い時期にジーヴスもウースターも脇役として姿を見せている。ユークリッジが姿を現したのは一九二四年だ。一九〇二年からのウッドハウスの作品リストを眺めれば、非常に特徴的な三つの時期があることに気がつくだろう。ひとつめは学校を舞台にした時期だ。黄金の蝙蝠賞金稼ぎといった作品がそれで、マイク(一九〇九年)でそれが最高潮に達する。翌年に出版された都会のスミスはこの分類に属するが、学園生活を直接的に扱ったものではない。次に来るのがアメリカを舞台にした時期だ。ウッドハウスは一九一三年ごろから一九二〇年ごろまで合衆国に住んでいたようで、しばらくのあいだ作風と物の見方にアメリカナイズされたところがうかがえる。不器用な男に収録された話の一部はO・ヘンリーの影響を受けているように見えるし、この時期に書かれた他の本にはイギリス人であれば普通は自分からは使おうとしないであろうアメリカ英語(例えば「ウィスキー・アンド・ソーダ」ではなく「ハイボール」)が使われている。それでもやはり、この時期に書かれたほとんどの作品……新聞記者スミス小さな金塊アーチーの過ち恋人海を渡るなどを含むさまざまなもの……はイギリスとアメリカの違いを対比させて描いていることが特徴だ。アメリカにいるイギリス人の登場人物、あるいはその逆という設定なのだ。完全にイギリスしか登場しない物語も一定数あるが、アメリカしか登場しないものは存在しない。三番目の時期は田舎別荘の時期とでも呼ぶべきものだ。一九二〇年代初頭からウッドハウスは非常に高額の収入を得るようになったはずで、ユークリッジの物語が一部の例外になってはいるものの、それに従って彼の描くキャラクターの社会的地位も上昇した。典型的な舞台設定は田舎の大邸宅や豪華な独身者向けアパート、高級ゴルフ・クラブになった。初期の作品にあった男子学生的スポーツ熱は次第に姿を消し、クリケットやフットボールはゴルフに取って代わられ、道化芝居と風刺劇がより鮮明になった。ブランディングズ城の夏の稲妻のような後期の作品の多くは純粋な道化芝居というよりは軽いコメディーであることは間違いないが、そこでは新聞記者スミス小さな金塊劣等優良児不器用な男、その他の学園物でときおり目にすることができた道徳的な生真面目さを描く試みはもはや姿をひそめている。マイク・ジャクソンはバーティ・ウースターに席を譲り渡したのだ。しかしこれは特段驚くべき変化ではない。ウッドハウスの最も特徴的なところのひとつはその進歩の欠如なのだ。今世紀の初頭に書かれた黄金の蝙蝠聖オースティンの物語といった本にはすでに古典的な雰囲気がある。後期の作品がどのような作風かを理解すれば、抑留前の十六年間、ずっとハリウッドとル・テュケに住んでいたにも関わらず彼がイギリスを舞台にした物語を描き続けていたという事実に気がつくだろう。

今となっては完全版を手に入れることが難しいマイクが英語で書かれた最も優れた「軽妙な」学園物語のひとつであることは間違いない。だがそこに描かれている出来事のほとんどが滑稽なものであるにも関わらず、それはパブリックスクール制度を風刺するものにはなっていない。黄金の蝙蝠賞金稼ぎなどについてはなおさらである。ウッドハウスはダリッジで教育を受けた後、銀行に務め、三文記事の記者を経て次第に小説書きへと転身していった。何年もの間、彼が自らの過去の学園生活に「執着」し続け、実務的な職と自分の周囲の下位中産階級をひどく嫌っていたことは明らかである。初期の作品ではパブリックスクールの「魅力」がふんだんに語られ、「正々堂々と行動する」という倫理的な規律がたいした留保なく受け入れられている。ウッドハウスによる空想上のパブリックスクールであるライキンはダリッジよりも高級な部類の学校で、黄金の蝙蝠(一九〇四年)からマイク(一九〇八年)へ至る間にますます豪奢で、ロンドンから遠い場所になっていくような印象を受ける。心理学的に言ってウッドハウスの初期の作品で彼の内面を最もよく表現しているのは都会のスミスだろう。マイク・ジャクソンの父親が突然破産し、ウッドハウス自身と同じようにマイクは一八歳にして銀行での低賃金な下働きへと追いやられる。スミスも同じように雇われているが彼の場合にはそれは経済的な必要性からではない。この作品と新聞記者スミス(一九〇五年)の二冊は他のものとは異なって内容にかなりの政治的な問題意識が表れている。この頃のスミスは自分のことを社会主義者と呼んでいるし……彼の頭のなか、つまりウッドハウスの頭のなかではこの言葉は階級差別にとらわれないという以上の意味は無い……あるときにはこの二人の少年はクラッパム・コモン公園で開かれた野外集会に参加した後、年取った社会主義の演説家の家でお茶を飲むことをしている。そこでは外面を取り繕った、演説家の家の様子がかなり詳しく描写されている。だがこの作品で最も印象的なのはマイクがどれほど学園の空気から抜けられずにいるかということだ。なんら情熱を装うことさえせずに彼は職に就き、考える事といえば(読者が期待するような)もっと面白くて有用な仕事を見つけたいということではなく、たんにクリケットをやりたいということなのだ。下宿を見つけなくてはいけなくなると彼はダリッジを選ぶ。学校が近くにあって、バットでボールを打つ心地よい音を耳にすることができるからだ。この作品のクライマックスはマイクが全国大会の試合にでるチャンスを手にし、出場のために仕事をついに辞める場面になっている。重要なのはここでウッドハウスがマイクに共感を覚えているということだ。間違いなく彼は自身をこの人物に重ねあわせていて、マイクとウッドハウスの間の関係はジュリアン・ソレルとスタンダールのそれと同じであることは十分すぎるほど明らかだ。だが彼は本質的に同じような主人公を他にもたくさん作り出している。この時期から次の時期にかけての作品で描かれた遊びと「運動」を好む若い男性の全シリーズは一生分の仕事というに足りる。ウッドハウスにはやりたい仕事を想像する能力がほとんどないのだ。自分自身の財産を手に入れ、あるいは失い、閑職を探しだす、それこそが重要なのだ。サムシング・フレッシュ(一九〇五年)の主人公は 気むずかしい億万長者の身体トレーニングの指導役になることで低俗な報道の仕事から抜け出し、これが倫理的にも経済的にも出世と見なされている。

三番目の時期の作品ではナルシズムも真剣な幕間劇も描かれないが暗に示される倫理と社会背景の変化は一見したよりもずっと少ない。バーティー・ウースターとマイクを見比べると、あるいは初期の学園物語のラグビー好きの監督生と見比べた時さえ、彼らの違いはバーティーの方が金持ちで暇を持て余していることだけだと気がつく。彼の理想は彼ら学生のものと同じだが、彼はその実現に失敗している。アーチーの過ち(一九二一年)のアーチー・モファットはバーティーと初期の主人公の中間のようなタイプだ。頭は良くないが正直で心優しく体が丈夫で勇敢だ。首尾一貫してウッドハウスは当然のごとくパブリックスクールの行動規範を採用している。ただし後半のより洗練された時期になると彼は自分の描く人物がその規範から逸脱したり、意志に反してその規範に従わざるをえなくなる様子を好んで描くようになったという違いはある。

「バーティー! 君は友達を裏切ったりしないだろう?」
「期待にはそえないな」
「だけど僕らは同じ学校に通った仲じゃないか、バーティー」
「それは関係ない」
「同窓の仲だろ、バーティー、同窓の仲じゃないか!」
「ああ、まったく……なんてこった!」

怠惰なドン・キホーテであるバーティーは風車に突撃しようとはしないだろうが、もし道義心がそれを要求すれば拒むのは難しいだろう。ウッドハウスが共感を呼び起こさせようと描く登場人物のほとんどは食客の身分でその一部は明確に無能な人物であるが不道徳と呼べる者はごくわずかしかいない。ユークリッジでさえただの詐欺師というよりは夢想家だと言える。最も不道徳、あるいは道徳的でないウッドハウス作品の登場人物はジーヴスだ。彼はバーティー・ウースターの相対的な高潔さの引き立て役を演じ、広くイギリスで信じられている知性と狡猾さはほとんど同じものであるという考えのおそらくは象徴として描かれている。ウッドハウスがどれほど律儀に伝統的な倫理観に従っているかは彼の作品には性的なジョークがまったく登場しないという事実から見て取ることができる。これは喜劇作家にとっては作品を書くにあたっての大きな痛手だ。下品なジョークだけではなく、それをうかがわせるような状況さえほとんどないのだ。恋のさや当てが絡むような主題はほぼ完璧に取り除かれている。もちろん長編作品のほとんどには「恋の相手」が登場するがそれも常に軽快なコメディーを損なわない程度に抑えられている。恋愛描写がその複雑さと美しい描写とともに続いていくが俗にいうように「何事も起こらない」のだ。生来の喜劇作家であるウッドハウスがシリアスコメディー作家であり「清く生きるイギリス人」の伝統のもっとも馬鹿げた主唱者(PIPなどを参照)であるイアン・ヘイと一度ならず共作をおこなうことができたというのは示唆的である。

サムシング・フレッシュでウッドハウスはイギリス上流階級の潜在的喜劇性とそこに受け継がれる滑稽さを明らかにした。ごくわずかではあるが非実在の卑劣な男爵や伯爵、またそれに類したもろもろを描いたのだ。このことは非常に興味深い結果をもたらした。イングランドの外ではウッドハウスは鋭い洞察でイギリス社会を風刺する作家とみなされるようになったのだ。従ってウッドハウスが「イギリス人をからかった」というフラナリーの発言こそ、彼がドイツ、あるいはアメリカの読者にさえ与えていた印象を言い表すものなのだ。ベルリンからの例の放送の後、私はその内容についてウッドハウスを熱心に擁護する一人の若いインド人ナショナリストと議論した。彼は当然のようにウッドハウスが敵に寝返ったと考えていて、彼からすればそれは正しい行いだった。だが私にとって興味深かったのは彼がウッドハウスをイギリス上流階級の本性を暴くという有用な仕事をおこなった反イギリス作家と見なしていることだった。これはイギリス人であれば到底しない思い違いであり、書籍、特に滑稽な内容の本が外国の読者に読まれるときどのようにその明確なニュアンスを失うかについての良い例となっている。ウッドハウスが反イギリスでも反上流階級でもないのは明らかだ。反対に人畜無害で古風な貴族趣味が彼の作品全体から感じられる。知性あるカトリック教徒であればボードレールやジェイムズ・ジョイスの書く冒涜的内容がカトリックの信仰に深刻な害を与えるものでないことがわかるように、ヒルデブランド・スペンサー・ポインス・ド・バーグ・ジョン・ヘニーサイド・クーム・クロンビー・ドリーバー伯爵十二世といった登場人物を創りだそうともウッドハウスが社会的階級に真剣に攻撃を加えているわけでないことがイギリス人の読者にはわかる。称号に本当に軽蔑を抱いている者があんなものを書けるはずがないことは明らかだ。イギリスの社会体制に対するウッドハウスの態度はパブリックスクールの倫理規範に対する彼の態度と変わらない……穏やかなおふざけで覆われた無批判な受容である。エムズワース伯爵が滑稽なのは伯爵というものは本来もっと威厳があるべきだからだし、無力なバーティー・ウースターがジーヴスに頼りっきりなのが滑稽な理由のひとつは使用人が主人より優れているべきではないからだ。アメリカの読者やそれに類する者たちはこれら二つを敵意ある風刺と取り違えることがある。それはすでに彼ら読者がイギリス嫌いに傾倒し、退廃した上流階級という先入観に当てはめて読むからだ。スパッツを履いてステッキを持ったバーティー・ウースターは伝統的イギリス人だ。だがイギリスの読者であれば誰しもがわかるようにウッドハウスは彼を共感を持てる人物として描いている。そしてウッドハウスの本当の罪はイギリス上流階級の人々をその本来の姿よりも魅力的に描いていることなのだ。彼の作品に共通するある種の問題は決まってそこに描かれないものなのだ。彼の描く金持ちの若い男たちはほとんど例外なく謙虚で社交的で欲張らない。その性質はスミスによって決定づけられた。彼は自らの上流階級的な姿を保ちつつ、皆に「同志」と呼びかけることで社会的な断層に橋渡しをしている。

だがバーティー・ウースターにはもうひとつ重要な点がある。その時代錯誤さだ。一九一七年かその前後に着想されたバーティーは完全にそれよりも古い時代に属している。彼は一九一四年以前の時代の「有閑紳士」であり、「ギルバート・ザ・フィルバート」や「リージェント・パレスの向こう見ずなレジー」に歌われたような人物なのだ。ウッドハウスが好んで描くのは「高級クラブの常連」や「プレイボーイ」の生活、ステッキを腕に下げカーネーションをボタンの穴に挿して毎朝のようにピカデリーを歩きまわる優雅な若い男性、一九二〇年代には絶滅しかけていたそういった人物の生活なのだ。一九三六年にウッドハウスがスパッツを履いた若者というタイトルの本を出版したのは象徴的だ。当時、誰がスパッツなど履いていただろう? そんなものは十年以上も前に時代遅れになっていた。だが伝統ある「有閑紳士」、「ピカデリー・ジョニー」はスパッツを履かなければならない。それはちょうどパントマイムに登場する中国人が弁髪を結わなければならないのと同じことだ。ユーモア作家は時代の最先端である必要はなく、一つ、二つ上質な水脈を押さえていればいい。ウッドハウスはそれらを折り目正しく利用し続けた。それが簡単なことだったのは疑いないだろう。彼は捕虜となる前の十六間、イングランドに足を踏み入れずにいたのだ。彼の描くイギリス社会は一九一四年以前に形作られたものであり、それは素朴で伝統的で根底では賛美されるものなのだ。そして彼が真にアメリカナイズされたことなどありはしなかった。すでに指摘したように中期の作品ではアメリカナイズが自然に起きてはいるが、ウッドハウスは依然としてイギリス的で、アメリカの俗語も目を楽しませ少しばかり人を驚かせる目新しい仕掛けにしか見えない。彼は上品ぶった古風な文体よりも俗語的表現や荒削りな情景描写を好んでいたし(「陰気なうめき声をあげながらユークリッジは私から五シリングを借りると夜の闇に消えていった」)、そのために「チーズの穴のようにぼろぼろになって」だとか「おつむを吹き飛ばされて」といったような表現を駆使していた。だがそれらの技巧が練り上げられたのは彼がアメリカのものに触れる前のことであり、彼の歪められた引用句もフィールディングの影響を受けたイギリス人作家であれば誰もが使う道具立てだ。ジョン・ヘイワード氏が指摘したように[以下に注記]ウッドハウスはイギリス文学、とりわけシェイクスピアの知識に多くを負っている。はっきりとは語られないが彼の作品は知識人の読者に向けて書かれたものなのだ。ただし伝統的なやり方に沿った教育を受けた読者だ。例えば彼は苦しそうにあえぐ人物を「ハゲタカが昼食をとるために舞い降りた時のプロメテウスを見るかのような光景」と表現している。彼は読者がギリシャ神話についての知識を持っていることを想定しているのだ。若いころの彼が傾倒したのはおそらくバリー・ペインやジェローム・K・ジェローム、W・W・ジェイコブズ、キップリング、F・アンスティであり、リング・ラードナーやデイモン・ラニアンといったすばしっこいアメリカの喜劇作家よりも彼はずっとそれらの作家に近いところにとどまっている。フラナリーによるインタビューでウッドハウスは「私が描いたような人々やイギリスが戦争の後でも存在しているか」どうかを疑問視している。それらがもうすでに亡霊となっていることに気づいていないのだ。「彼がいまだに自分の作品で描いたのと同じ時代を生き」とフラナリーは書いたが、それはおそらく一九二〇年代を指しているのだろう。だがそこに描かれているのは本当はエドワード朝時代であり、もしバーティー・ウースターが実在していたとすれば彼は一九一五年ごろには葬られていたのだ。

[注記:「P・G・ウッドハウス」ジョン・ヘイワード著(ザ・サタデーブック、一九四二年)。私の知るところではこれはウッドハウスに関する唯一の長編評論である(原著者脚注)]

ウッドハウスの思考様式についての私の分析が仮に正しいとすれば、一九四一年に彼は自覚的にナチの宣伝組織に手を貸したのだという考えは支持できないし、それどころか馬鹿げているとさえ言える。おそらく彼は早期釈放の約束を餌に放送をおこなうよう誘導されたのだ(彼は数カ月後、六〇歳になった時点で釈放される予定だった)。しかし彼は自分の行為がイギリスに損害を与えるかもしれないことに気がつけなかった。私が明らかにしようと試みたように、彼の倫理観はパブリックスクールに通う男子学生だった時のままであり、パブリックスクールの規範に従えば戦時の裏切り行為は全ての罪の中でもっとも許されざるものだ。しかしなぜ彼は自分の行為がドイツにとって大きな成果となるプロパガンダであり、また自身への非難の嵐を巻き起こすことになると理解できなかったのだろうか? それに答えるには二つのことを考えにいれる必要がある。ひとつ目は……彼の出版された作品から判断する限りでは……ウッドハウスには政治意識が完全に欠如しているということだ。彼の作品の「ファシスト的傾向」について議論するというのはナンセンスだ。一九一八年以降に現れた思想傾向は全く存在しない。彼の作品に見られるのは階級差別問題に対するちょっとした居心地の悪い思いであり、作品の様々な場所には無知が散りばめられているがそれも社会主義への敵意とは言えない。ゴルきちの心情(一九二六年)にはロシアの小説家に関する非常に馬鹿げた話が収録されている。この話はソ連での派閥争いとその後の騒動に触発されたもののようだ。話の中でソビエトの政治体制は全体的には軽薄で時代遅れのものとして引用されているが、とりわけ悪意あるものとはされていない。彼の書いたものから判断する限りこれがウッドハウスの政治意識の及ぶ範囲なのだ。私が知るかぎりでは「ファシズム」や「ナチズム」といった単語を彼が使ったことはない。左派陣営、そのなかでも「見識ある」陣営ではナチのラジオ放送に参加することや、それがなんであれナチスと何か取引をおこなうことは戦争以前も戦時中も波乱を引き起こす行為だった。だがそれはファシズムに対する十年近い思想闘争の間に培われた思考様式なのだ。思い出さなければならないのはイギリスの大半の人々は一九四〇年後半になるまでこの闘争に無関心なままだったということだ。アビシニア、スペイン、中国、オーストリア、チェコスロバキア……無数の犯罪と侵略は彼らの意識の上を過ぎ去っていくか、外国の人々の間で起きたいざこざとしてぼんやりと記憶されるに過ぎない。「知ったことではない」のだ。普通のイギリス人は「ファシズム」とは排他的なイタリアの思想だと考え、同じ言葉がドイツに対して使われると戸惑うという事実を見れば一般の無知を推し量ることができる。そしてウッドハウスが書いたものからは彼がその一般読者より政治についてよく知り、興味を持っていたことを示すものは見つからない。

もうひとつ思い出して欲しいのはウッドハウスが囚われの身になったのは戦争が深刻な段階へ到達した瞬間だったということだ。今となっては忘れられていることだが、その頃まで戦争に対する意識は明らかに気が抜けたものだった。戦闘はほとんどなくチェンバレン政権は不人気で、有名な時事評論家はできるだけ早く和平を結ぶべきだとほのめかし、労働組合と全国の労働党支部は反戦決議を採択していた。知っての通り後になって事態が変わったのだ。イギリス軍は困難の末にダンケルクを脱出してフランスは崩壊した。イギリスは孤立し、ロンドンには爆弾が降り注ぎ、ゲッベルスはイギリスが「衰退と貧困への道をたどっている」という声明を発表した。一九四一年の中頃になってイギリスの人々は自分たちが何と戦っているのかを知り、敵が以前よりはるかに獰猛であると感じるようになった。しかしウッドハウスはそれらが起きた一年を捕虜として過ごし、彼を捕らえた相手は彼を丁重に扱っていた。彼は戦争の転換点を見逃し、一九四一年になっても一九三九年の状態で振る舞った。彼一人がそうだったわけではない。当時、ドイツ人は捕虜となったイギリス兵をマイクの前に座らせるということをたびたびおこなった。そして彼らの一部は少なくともウッドハウスと同じ程度には軽はずみな発言したのだ。しかしそれは注目を集めなかった。さらに言えばジョン・アメリーのような明白な売国奴さえ、ウッドハウスが引き起こしたほどの怒りの声を後に引き起こすことはなかった。

だが、なぜなのか? なぜ年寄りの小説家による極めて浅はかだが無害ないくつかの発言があれほどの非難の声を引き起こしたのだろう? それに答えるためにはプロパガンダ競争という薄汚い前提条件の内部を探る必要がある。

ウッドハウスの放送でまず間違いなく重要な意味を持つことがひとつある……その日時だ。ウッドハウスが釈放されたのはソ連の侵攻の二、三日前で、当時それはナチの高官にとって侵攻が差し迫っているのかどうか知る必要があった時期だった。できるだけ長い間、アメリカを戦争から閉めだしておくことが必要不可欠であり、実際、アメリカ合衆国に対する当時のドイツ人の態度は以前よりもずっと穏やかなものになっていた。ロシア、イギリス、そしてアメリカ合衆国をまとめて打ち負かすことはドイツ人たちにとって望み薄だったが、もしロシアをすばやく片付けることができれば……そしておそらく彼らはそうできると目論んでいたのだろうが……アメリカ人どもが介入してくることもなくなるだろうと考えられた。ウッドハウスの釈放はささいな出来事だったがアメリカの孤立主義者へ投げる懐柔のメッセージとしては悪いものではなかった。彼は合衆国では有名だったし……少なくともドイツ人たちが考えるところでは……イギリス嫌いの大衆にはスパッツを履いて片眼鏡をかけた愚かでまぬけなイギリス人をからかう風刺作家として人気があった。マイクの前に座らせれば彼が何かしらイギリスの威信に傷をつけてくれだろうことは疑いないし、その一方で彼を釈放すればドイツ人が善意の人間であり、自らの敵を寛大にあつかう術を知っていることを誇示できるだろう。これらはすべて推測だ。しかしウッドハウスだけが一週間近くも放送を続けさせられたという事実は彼が期待に沿う行動をしなかったということを暗に示している。

だがイギリス側では似たような、しかし反対の計算が働いていた。ダンケルクでの出来事の後、これは民主主義のための戦争というだけでなく民衆が自らの努力で勝ち取らなければならない戦争であるという感情にイギリスの士気は多くを寄るようになっていた。上流階級はその宥和的な政策と一九四〇年の惨事によって評判を落とし、社会階級の変化が起きているようだった。愛国心と左派感情が大衆心理と結びつき、無数の有能なジャーナリストがその結びつきを強めるために働いた。プレストリーの一九四〇年の放送とデイリー・ミラー紙の「カサンドラ」の記事は当時盛んだった扇動的なプロパガンダのいい例だ。その空気の中でウッドハウスは理想的な攻撃対象を作り出したのだ。金持ちは信用できないという感情は一般的なもので、ウッドハウスは……「カサンドラ」が彼の放送番組で断定的に指摘したように……金持ちだった。しかし彼は処罰されるようなことをせず、社会の仕組みに損害を与える危険性のない種類の金持ちだった。ウッドハウスに対する非難は非難とも呼べないとビーバーブロックは言った。たんなる小説家、ただしたまたま巨額の稼ぎを得た小説家は資本家階級の一員とは言えない。たとえもし彼の年収が五万ポンドに達しようが彼は富豪の外見をしているだけに過ぎない。彼はたまたま大金……普通であれば一瞬で消える大金……を手に入れた幸運なよそ者で、いわばカルカッタ・ダービー・スイープ杯の勝者のようなものだ。しかし結果的にウッドハウスの軽率さはプロパガンダにいいきっかけを与えた。裕福な寄生者を「暴露する」好機となったのだ。それも本当に問題がある寄生者への注目を集めることなくそれをおこなえる。

当時の絶望的な状況下ではウッドハウスの行動に対して怒りに駆られるのもしかたがないことではある。だが三、四年たった後になっても彼への非難を続けること……もっと言えば、彼が背信的な意図を持って行動したという印象を補強するようなこと……は申し開きできることではない。現在進行中の裏切り者や売国奴の狩りだしよりもさらに倫理的に吐き気を催すことがこの戦争ではいくつかある。その最たるものは有罪であることそれ自体を理由に多くの有罪判決が言いわたされていることだ。フランスではささいなものであってもありとあらゆる種類の背信者……警察官、三文記者、ドイツ兵と寝た女性……が狩りだされる一方で、もっと重大な背信をおこなった人物はほとんど例外なくそれを逃れている。イギリスでは売国奴への苛烈な非難演説が一九三八年には融和策を推し進めていた保守党員、一九四〇年にはそれを支持していた共産党員によっておこなわれている。私は努力して哀れなウッドハウスがどのようにして……成功と国外への移住が彼を精神的にエドワード朝時代にとどまらせたことが原因だ……プロパガンダ実験の実験体にされたかを示した。そして今こそあの出来事に幕引きすべき時だと私は提案したい。もしエズラ・パウンドがアメリカ当局によって捕まり処刑されれば、それは詩人としての彼の評価に数百年に及ぶ影響を与えるだろう。ウッドハウスの場合であっても、もし私たちが彼をアメリカに退去させてイギリス市民権を剥奪すれば最後には私たち自身をひどく恥じる結果となるだろう。もし重大な危機の時に国民の士気を挫いた人間を私たちが本当に罰したいと思うのであればもっと追求するに値する他の容疑者が身近にいるのだ。

1945年7月
Windmill

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