ジョージ・オーウェル

リア、トルストイ、道化


トルストイのパンフレットは彼の仕事の中でも最も知られていない部分で、シェイクスピアに対する彼の非難[以下の注記]は少なくともその英語翻訳に関して言えば手に入れるのさえ難しい資料だ。従って議論を始める前にそのパンフレットの要約を記しておくのはおそらく有用なことだろう。

[注記:シェイクスピアとその演劇。一九〇三年頃に、アーネスト・クロスビーによる別のパンフレットであるシェイクスピアと労働階級の序文として書かれた(原著者による脚注)]

トルストイがまず最初に語るのは、生涯を通してシェイクスピアは彼に「抑えがたい嫌悪と退屈」を呼び起こしてきたということだ。文明世界における見解は自らと対立するものであるという意識から、彼は次々にシェイクスピアの作品に挑み、ロシア語、英語、ドイツ語で何度も読んでいく。しかし「私は避けがたく同じ感情を経験した。嫌悪、退屈、困惑だ」と言うのだ。さて七十五歳の時に彼は再度シェイクスピアの作品を史劇も含めて全て再読して同じ感情を持つ。それはよりいっそう強いものだったのではないかと私は感じるのだが……しかし今度のそれは困惑ではなく確固とした明白な確信だった。シェイクスピアがその名を享受し、現代の作家を彼の模倣に追いやり、実は存在しない長所を読者と観客が彼に見出す……それゆえに彼らの美的・道徳的な理解をゆがめる……疑問を持つことを許されない偉大な才能という賛美、それはあらゆる不誠実なものと同じくひどく有害なものなのだ。

トルストイはさらに、シェイクスピアはたんに才能が無いだけでなく「平均的な作家」でさえないと続け、その事実を証明するためにリア王を分析しようとする。ハズリットやブランデスといった者たちからの引用によって彼が示して見せるように、この作品はとてつもなく称賛され、シェイクスピアの最高傑作の一例であると考えられている。

トルストイはリア王の筋書きのいわば解説をおこなっていき、あらゆる場面においてそれが馬鹿げていて、冗長で、不自然で、不明朗で、仰々しく、卑猥で、退屈、そして信じがたい出来事に満ちていることを発見する。「とてつもない妄言」、「陰気な冗談」、時代錯誤、猥褻、陳腐な演劇の約束事、その他の道徳的・美的な間違いに満ち満ちているのだ。ともかくリアは古くからある作者不明のもっと優れた劇「レイア王」の盗作であり、シェイクスピアはそれを盗み、台無しにしたというのだ。トルストイの手口を描き出した段落の例を引いておくことには価値があるだろう。第三幕、第四場(ここでリア、ケント、道化は一緒に嵐の中にいる)は次のように要約されている。

リアはヒースの野を歩き回り、自らの失望を表すための言葉を口にする。彼が望むのは風が自分たちの頬を打つほど吹き、雨が全てを押し流し、稲光が自分の白い数珠を焦がし、雷鳴がこの世界を打ちのめして「人を不誠実にする」あらゆる兆しを打ち砕くことなのだ! 道化はさらに無意味な言葉をしゃべり続ける。ケントが登場する。リアはいくつかの理由からこの嵐の間に全ての犯罪人が見つけ出され、有罪が言い渡されるだろうと言う。リアにまだそれと気づかれていないケントは、何とか彼を小屋に避難させようと説得する。その際に道化は状況とは全く無関係に予言をつぶやき、そして彼らは皆で出発する。

トルストイのリアに対する最終的な判決は、もし偏りのない評者がいたとして、そうした評者は「嫌悪と退屈」以外の感情を感じずにこれを最後まで読み通すことはできないだろう、というものだ。そしてそれは「シェイクスピアの称賛されている脚本の全て、演劇化された無意味なおとぎ話は言うまでもなく、ペリクリーズ十二夜テンペストシンベリントロイラスとクレシダ」についても全く同じように当てはまるのだ。

リアを扱いながらもトルストイはシェイクスピアに対するさらに一般的な非難を書き続ける。シェイクスピアは一部には自身が役者であることに由来する一定の技術的手腕を持っているが、それを別にすれば何ら長所を持っていないことに彼は気がつく。登場人物を描き出す力も、状況から自然にわき出す言葉や振る舞いを創作する力も無く、言葉は一様におおげさで馬鹿げていて、自身の頭に浮かんだ考えを絶えず偶然に手近にいる登場人物の口に押しつける。「美的感覚の完璧な欠如」を誇示し、その言葉は「芸術とも詩ともなんら接点を持たない」のだ。

「シェイクスピアがあなた好みの何であったとしても」。トルストイは結論する。「彼は芸術家だけではない」。付け加えておけば彼の物の考え方は目新しくも興味深くもないし、その性分は「最低で、最も不道徳」なものだという。奇妙なことにトルストイはこの最後の裁定をシェイクスピア自身の言ったことではなく、ゲルビヌスとブランデスという二人の批評家の発言に基づいて下している。ゲルビヌスによれば(あるいは少なくともトルストイがゲルビヌスから読み取ったところによれば)「シェイクスピアは……人が時に善良になりすぎることを教える」のであり、一方でブランデスによると「シェイクスピアの基本原則……それは終わりよければすべてよし」なのだ。シェイクスピアは最悪の種類の好戦的愛国者だったとトルストイは自身の説明を付け加えるが、それを別にすれば彼は、シェイクスピアの人生観についてゲルビヌスとブランデスが正しい妥当な説明をしていると考えている。

トルストイは次に、別の場所でずっと長い文章で彼が書いた芸術理論について数段落をかけて要約する。さらに短くまとめればそれは主題の品位、誠実さ、優れた技能の追及ということだ。芸術的傑作は「人間の生き方にとって重要」な主題を扱い、著者が心の底から感じている何かを表現し、求められた効果を生み出すだけの技法が使われていなくてはならない。シェイクスピアの下品なものの見方、ぞんざいな行い、ひと時たりとも誠実になれない無能を見れば明らかに彼は非難に値する。

しかしここに難しい疑問が持ち上がる。もしシェイクスピアが、まったくのトルストイが示して見せたような人物であったとしたら、いったいどうやってこれほど広く称賛を集めたのだろう? 明らかにその答えはある種の集団催眠か「伝染性の暗示」にしかありえない。文明化された世界全体がどうしたわけかシェイクスピアを優れた作家であると考えるように欺かれ、その反対であること示す最も平易な証明でさえもが何の感銘も呼び起こさない。なぜならそれは理路整然とした意見ではなく宗教的な信仰心に類したものだからだ。歴史を見ていけばトルストイが言うようにこうした「伝染性の暗示」は不断に続いている……例えば十字軍、賢者の石の探索、かつてオランダを席巻したチューリップ栽培の熱狂などなどだ。彼が挙げる現代の実例で言えば特に重要なのがドレフュス事件で、この事件では全世界がたいした理由もなく暴力的なまでの興奮状態へと発展した。また新しい政治や哲学の理論、あるいはあれやこれやの作家、芸術家、科学者に対して唐突に起きる短命な熱狂もある……例えば(一九〇三年において)「忘却が始まっている」ダーウィンだ。またいくつかの例ではまったく無価値な大衆的偶像が数世紀にわたって人気を保つこともある。それは「こうした熱狂が、社会に広がる人生観とある程度の対応関係を持つ支配者層、とりわけ文学者の一団から特殊な理由の結果として偶然にも人気を得、こうした一団が長い間、維持される」ためだ。シェイクスピアの演劇が長い期間にわたって称賛され続けるのは「それらが当時、そして現在の上流階級の精神における無宗教と不道徳を反映している」ためなのだ。

シェイクスピアの名声がどのように始まったかに関して、トルストイはそれが十八世紀終盤に向かう頃のドイツ人の教授たちによって「始まった」のだと説明する。その評判は「ドイツに起源を持ち、そこからイングランドへ伝わった」のだ。ドイツ人たちがシェイクスピアを持ち上げたのは、語るに値するドイツの演劇が存在せず、フランスの古典文学がよそよそしくわざとらしく思われ始めたちょうどその時にシェイクスピアの「巧みな場面展開」に魅了され、またそこに自分たちの人生に対する態度がよく表れていることを見出したためだ。ゲーテがシェイクスピアを偉大な詩人だと宣言するやないや、他の批評家たち全員がまるでオウムの群れのように彼に群がって倣い、以来、広まった熱狂がずっと続いているのだ。その結果は演劇のひどい劣化……トルストイは現代の舞台を非難する際に慎重に自身の劇作品をそこに含めている……そして道徳的ものの見方に蔓延するひどい腐敗である。「シェイクスピアに対する誤った賛美」はトルストイが対抗する義務を負うと感じた重大な邪悪であることが後に続けられる。

さて、以上がトルストイによるパンフレットの要旨だ。まず感じることは、シェイクスピアを劣った作家だとする記述のなかで彼は何かはっきりと間違いだと証明できることを言っていそうだということだ。しかしこれは実はあてはまらない。実際のところシェイクスピア、あるいは他の作家が「優れている」ことを証明できるような証拠や議論というものは存在しないのだ。同時に、ある作家……例えばワーウィック・ディーピングが「劣っている」ことをはっきりと証明するような方法も存在しない。究極的には文学的価値を試す方法は生き残るということの他にはなく、それ自体が大多数の者の意見の指標なのだ。トルストイが言うような芸術理論は全くの無価値である。それらはたんに恣意的な前提から始まっているだけでなく、どうとでも解釈できる曖昧な用語(「誠実さ」、「重要性」など)に依存しているからだ。正確に言えばトルストイの非難には答えられないのだ。興味を惹かれる疑問があるとすればそれは、なぜ彼はこんな非難をおこなったのか? ということだ。しかし一見したところでも彼が多くの脆弱で不誠実な議論を駆使していることには気がつかざるを得ない。そのうちのいくつかは指摘しておくだけの価値があるだろう。それらによって彼の主要な非難を無効化できるからではなく、それらがいわば悪意の証拠であるからだ。

まず初めに、彼のリア王に対する分析は彼が重ねて主張しているような「公平」なものではない。反対にそれは長々と続く偽りの陳述に他ならない。未読の者のためにリア王を要約する時に「再びリアのひどい妄言が始まり、できの悪い冗談を聞いた時のような気まずさを感じることになる」といった風に重要なセリフ(コーデリアがリアの腕の中で死んだときの彼のセリフ)を紹介したとすればそれがまったく公平でないことは明らかだ。さらに多くの例を挙げる中でトルストイは批判している文章にわずかな改変あるいは脚色をおこなっていて、そのやり方は決まって筋書きを少しだけ複雑だったり空々しくしたり、あるいは言葉使いを少しだけおおげさにしたりするものなのだ。例えばリアには「退位する必然性も動機も無い」と語られるが、彼が退位する理由(彼が老いていて、国事から引退したいと願っていること)は最初の場面ではっきりと示されている。先に私が引いた文章でもわかるように、トルストイはわざとある語句を誤読し、別の語句の意味をわずかに改変し、文脈の中にあれば十分に意味が通じる発言を支離滅裂なものに変えている。こうした誤読はどれもそれ自体はたいしたものではないが、それが積み重なった時の効果はその劇の心理的な齟齬を大幅に誇張するに足るものだ。またトルストイは、なぜシェイクスピアの脚本がいまだに出版され、またいまだに上演されているのかを説明できていない。彼の死から二百年が経っているのだ(「伝染性の暗示」が始まっているのはそれ以前だ)。シェイクスピアが名声を得たことに対する彼の説明は全てまったくのでたらめによって補強された当て推量だ。そしてまた、そのさまざまな非難は互いに矛盾している。例えばシェイクスピアはたんなる芸人であり「真剣味に欠ける」が、一方で絶えず自身の思想を登場人物の口から語らせているというのだ。全体的に見てトルストイによる批評が誠実に語られていると感じることは難しい。いずれにせよ、彼が自らの主張……つまり一世紀以上にわたって文明世界全体が大規模で明白な嘘に騙されていて、彼ひとりだけがその嘘を見抜いていること……を完全に信じているということはあり得ないだろう。確かにシェイクスピアに対する彼の嫌悪は本当なのだろうが、その理由はおそらく彼が公言していることとは異なるか、あるいは一部異なるはずで、それこそが彼のパンフレットで興味を惹かれる点なのだ。

この点については推測から始めざるを得ない。しかし可能性のあるひとつの手がかり、あるいは少なくとも手がかりを指し示すであろうひとつの疑問が存在する。なぜトルストイは三十以上ある劇の中からことさらリア王に狙いを定めたのだろう? 確かにリアは非常によく知られ、多くの賞賛を集めていてシェイクスピアの最高傑作の代表として申し分のないものだろう。しかしまた、悪意ある分析のためであればおそらくトルストイは彼が最も嫌う劇を選ぶことだろう。彼がこの特定の劇に特別な敵意を向けたのは、意識的であれ無意識的であれ、リアの物語と自分自身の間に類似を見て取ったためということはあり得ないだろうか? しかし反対方向からもこの手がかりを探っておいた方がいいだろう……つまりリア自体、そしてそれが持つトルストイが言及しない性質を調べるのだ。

トルストイのパンフレットで英語圏の読者がまず気がつくことのひとつは詩人としてのシェイクスピアがほとんど扱われていないことだ。シェイクスピアは劇作家として扱われ、その人気が偽られたものでないとしたならば、それは巧みな役者たちにすばらしいチャンスを与える演出技法の手腕によるものだとされている。さて、英語が話されている国々に限って言えばこれは正しくない。シェイクスピアを愛好する者たちによって最も評価されている劇のいくつか(例えばアテネのタイモン)はめったに、あるいは全く演じられることは無く、その一方で、真夏の夜の夢のように最もよく演じられているもののいくつかはたいして評価されていない。シェイクスピアに最も関心を払っている人々はまず第一にその言葉の使い方を評価しているのだ。それはもう一人の悪意ある批評をおこなった人物であるバーナード・ショーでさえ「極めて魅力的」と称賛した「言語による音楽」なのだ。トルストイはこのことを無視しているし、それが書かれた言語を話す者にとって詩が特別な価値を持ち得るということに気がついていないように見える。しかしながら、もしトルストイの立場に立ってシェイクスピアを外国の詩人として考えてみたところで、トルストイが触れずに済ました何かがあることは依然として明らかなのだ。詩はたんなる音と連想の問題であり、自身の言語集団の外では無価値なものである、ということはないと思う。もしそうなのであれば死語で書かれた詩を含むいくつかの詩が国境を越えて人気を得ているのはなぜなのだろうか? 「明日は聖バレンタインの日」といったような歌詞を満足のいくように翻訳することはできないだろうが、シェイクスピアの主要な作品にはそこで使われている言葉と分離して考えられる詩とでも言うべき何かが存在ししている。リアはとりわけ優れた劇ではないと言った点においてはトルストイは正しい。劇としてはそうだ。やたらに長々しく、登場人物と話の枝葉が多すぎる。邪悪な娘はひとりいれば十分だろうし、エドガーは登場人物として余計だ。グロスターとその二人の息子が取り除かれればおそらくもっと優れた劇になることだろう。しかしそれでも何かある種のパターン、あるいは雰囲気だけなのかもしれないが、それがこの複雑さと長々しさを克服して生き続けているのだ。人形劇、パントマイム、バレエ、続きものの絵画となったリアも想像できる。おそらくもっとも欠かざる部分であるその詩のパートは、この物語にこそ固有のものであり、特定の言葉の集合にも生身での演技にも依存していないのだ。

目を閉じてリア王について考えてみよう。できればセリフは思い出さないようにて欲しい。何が見えるだろうか? 少なくとも私が見えたものについてここにあげておこう。長く黒いローブを羽織った威厳ある老いた男、垂れ下がった白い髪と顎ひげ、ブレイクの描いた絵から飛び出してきた姿(しかしまた奇妙なことにそれはトルストイとよく似ている)、嵐の中の放浪と天への罵り、道連れの道化と狂人。次第に場面は変わり、いまだ罵り声を上げ、何も理解していない老いた男は死んだ少女を腕に抱き、道化は背景のどこかに置かれた絞首台に吊るされている。これがこの劇のおおまかな骨組みだが、ここでさえトルストイは必要不可欠なもののほとんどを切り捨てようとしている。彼は嵐を不要なものとして非難し、彼の目には退屈な厄介者でありできの悪い冗談の口実と映る道化を非難し、彼の見るところではこの劇からその道徳性を奪っているコーディリアの死を非難する。トルストイによればシェイクスピアが翻案する以前の劇、レイア王はもっと自然に終わり、シェイクスピアによるものよりもずっと観客の道徳的要求に従ったものだったという。つまりガリア人たちの王は年長の姉妹の夫を倒し、コーディリアは殺される代わりにレイアを以前の地位に復位させるのだ。

つまりこの悲劇は喜劇、あるいはメロドラマだったのだろう。この悲劇の持つ意味が神への信仰に適うものかどうかは疑問ではある。どちらにせよ人間の尊厳や「道徳的要求」といったものは、善が勝利を得られなかった時の裏切られたという感覚とは相容れないものだ。悲劇的な状況とはまさに善が勝利し得ず、それでもなお人が彼を打ちのめした勢力よりも気高いと感じられる瞬間に存在するのだ。トルストイが道化の存在になんら正当化できる理由を見出していない点はおそらく重要だ。道化はこの劇に必要不可欠なものなのだ。彼はたんにコーラス隊のように振る舞うだけでなく、他の登場人物よりも聡明な論評を加えることで中心となる状況を明確にし、リアの激情の引き立て役となっている。彼の冗談、謎かけや韻を踏んだ戯れ言、リアの気高さゆえの愚行に対する止むことの無い皮肉、たんなる嘲りから憂鬱な詩のようなもの(「他の称号はみんな譲っちまっただろう。残るは生まれつきのあほうだけ」)にいたるそれらはこの劇の中を流れる正気の滴りのようなものであり、ここで上演されている不正や残酷、陰謀や策略や誤解にも関わらずどこか別の場所では普段と全く変わらない生活が営まれていることを思い出させてくれるものなのだ。トルストイがこの道化に我慢ならない様子からは、彼のシェイクスピアへのより深い確執をかいま見ることができる。彼はいくらかの理由をつけてシェイクスピアの劇の粗、つまり見当違いな内容、あり得そうもない話の筋、おおげさな言葉使いをあげつらっている。しかし根底でおそらく彼が最も嫌っているものはある種の活力、実際の生活の中にある関心だけでは満足しないという傾向なのだ。トルストイを芸術家を非難する道徳家として描くことは間違いだ。彼は芸術それ自体が悪いとか、無意味だとかは一度も言っていないし、専門的な技芸は重要ではないとも言っていないのだ。そうではなく、後年における彼の一番の目標は人間の思考の幅を狭めることにあったのだ。人の持つ関心、物理世界における着眼点、日々の奮闘はできるだけ多くではなく、できるだけ少なくなければならないのだ。文学は寓話から構成され、詳細は省略され、言語にほとんど依存しないものでなければならない。寓話……これがトルストイと凡百の清教徒の異なるところだ……はそれ自体が芸術作品でなければならないが楽しさと好奇心はそこから排除されていなければならない。科学もまた好奇心から分離されなければならない。彼は言う。科学の仕事とは何が起きるかを見つけ出すことではなく、人々にいかに生きるかを教えることなのだ、と。歴史と政治も同様だ。多くの問題(例えばドレフェス事件)は端的に言って解決するに値しないし、彼はこうした問題を未解決のまま放置したいと思っている。確かに「熱狂」や「伝染性の暗示」に対する彼の理論の全てで彼は十字軍やチューリップ栽培へのオランダ人の熱狂をひとまとめにし、そこには多くの人間による活動をたんなる蟻のようなあちらこちらへの突進であり、説明不可能で興味もわかないものと見なしたいという意思が見える。シェイクスピアのような無秩序で詳細にこだわるとりとめのない作家は彼にとってがまんならないことは明らかだ。その反応は騒がしい子供に悩まされている短気な老人のそれである。「なんだってそんなに飛んだり跳ねたりするんだ? どうして私のように静かに座ってられない?」。ある意味ではこの老人は正しいが、問題はこの子供は老人が失った感覚をその手足に宿しているということだ。そしてもしこの感覚の存在を老人が知ったとしても、それはただ彼の苛立ちを増させるだけだろう。彼はそれができることならば子供を静かにさせるだろう。おそらくトルストイはシェイクスピアの持つ何が自分には欠けているのか理解していないが、何かが欠けていることには気がついていて、同じように他の者からもそれを取り上げるべきだと心に決めているのだ。生来、彼は専制的であり尊大だった。そのため成長した後も怒りに駆られた瞬間には時に使用人を殴ったし、イギリスの伝記作家デリック・レオンによれば、いくらか後には「ほんの些細な挑発に対しても意見の異なる者たちの顔を平手打ちしたいという欲求をしばしば」感じた。こうした気性は必ずしも宗教的な転向の経験によって取り除かれるものではないし、生まれ変わりという幻想が人の生まれつきの悪徳を、それがもっと不明瞭な形であるにせよ、以前よりもずっと自由に花開かせることがあるのは間違いなく明らかなことだ。トルストイは物理的な暴力を捨てる宣言はできたしそれが意味することも理解できたが寛大さと謙虚さを得ることはできなかった。もし彼の他の著作について何も知らなかったとしても、人はこの一冊のパンフレットから彼は精神的な嗜虐へと向かう傾向があると推測できるだろう。

しかしトルストイは単純に自らが共有していない喜びを他の者から奪おうと試みているのではない。彼はそれをおこなってはいるが、彼のシェイクスピアへの確執はそれ以上のものだ。それは宗教と人生に対する人間中心主義的態度の間の確執なのだ。ここでリア王の中心的テーマに戻ってくる。トルストイは物語の筋書きについてはかなり詳しく説明しているにもかかわらず、その中心的テーマには言及していない。

リアはシェイクスピアの劇の中でも数少ない素性がはっきりしている人物のひとりだ。トルストイが正当にも訴えている通り、ごみのような多くの文章でシェイクスピアは哲学者、心理学者、「偉大な道徳教師」、その他の誤ったものとして書かれている。シェイクスピアは体系的な思想家ではないし、その最も重要な思想は脈絡なく間接的にしか語られない。そして彼がどの程度の「目的」を持って執筆をおこなったのか、さらには彼に帰される作品のうちで実際に彼が書いたのはどれくらいなのかということさえ私たちにはわからないのだ。ソネット集で彼は自分の功績の一部としての劇作品に言及することさえしていない。役者としての自らの経歴については半ば恥じるようにほのめかすようなことをしているというのにだ。彼が、自作の劇の少なくとも半分について金目当ての粗製乱造品と見なしていて、普段から盗んだ素材を使って何かつぎはぎして、おおよそ舞台にかけられるものさえできればその目的や将来性について全く思い悩まなかったという可能性は十分にあり得る。しかし全ての物語がそうであるというわけではない。まず第一に、トルストイ自身が指摘したようにシェイクスピアは余計な一般的考察を自らの登場上人物の口に押し込むという癖を持っていた。これは劇作家としては深刻な短所だが、自身の意見を持たず、できるだけ厄介を抱え込まずに最大限の効果を得ようと願う粗野で雑な人物というトルストイの描くシェイクスピア像とは一致しない。またそれ以上に、そのほとんどが一六〇〇年以降に書かれた一ダースほどの彼の劇には疑問の余地なく意味、さらには道徳さえもが存在している。それらは中心的な題材、いくつかでは一語に要約できるほどのそれの周りで展開されている。例えばマクベスは野心について、オセロは嫉妬について、アテネのタイモンは金銭についてといった具合だ。リアの題材は放棄で、シェイクスピアが語っていることを理解できないとしたらそれはあえて目を閉ざしている場合だけだ。

リアはその王位を放棄したが皆が変わらず自分を王として扱うであろうことを期待している。権力を譲り渡せば他の人々は彼の弱みに乗じようとすること、また彼に最もひどく媚びへつらっていた者たち、つまりリーガンとゴネリルこそが彼に背を向けるだろうことを彼は理解していない。もはや以前のように人々が自分に従わないことに気がついた瞬間に彼は怒りに駆られる。トルストイはそれを「奇妙で不自然」と表現しているが、実際にはこれは彼の性格を完璧に表している。またその狂気と絶望の中で彼は二つの心理状態を経ていく。その一方は部分的にはシェイクスピア自身の意見を代弁したものであろうが、それらもまた彼のおかれた状況の中では十分に自然なものだ。ひとつは倦怠的な心理状態で、そこでリアは王であり続けたことをいわば後悔し、公的正義の腐敗と道徳の荒廃に初めて気がつく。もうひとつは無力感への怒りという心理状態で、そこで彼は自分を陥れた者たちへ想像上の復讐を果たす。「何千という者が焼けた鉄串を手にやつらを脅かしている!」。そしてこう続けるのだ。

これは巧妙な作戦だ。
兵士たちの馬に布地をはかせるとは。試してみよう。
まずはやつら娘婿たちに忍び寄り、
そして突撃だ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!

最後になってようやく彼は正気になって、権力や復讐、勝利など価値が無いことに気がつく。

いや、いや、いや、いや! 牢獄へと立ち去ろう。
……そしてそこで老いていこう。
壁に囲まれた牢獄の中で。たいそうな者たちの群れや派閥は
月の動きで満ち引きするのだ。

しかしそのことに気がついた時にはすでに遅く、彼とコーディリアの死はすでに決まっているのだ。これがこの物語の内容であり、語り口でのいくらかの粗に目をつぶれば非常に優れた物語だ。

しかしこれはトルストイ自身の経歴に不思議と似てはいないないだろうか? 嫌でも目に付く全体的な類似がそこには存在する。なにしろリアのそれと同じく、トルストイの人生における最も印象深い出来事は大規模で無償の放棄行為なのだ。高齢になってから彼は自らの地所、称号、著作権を放棄し、自らの特権的地位から逃れて小作農として生きようという試み……それは誠実な試みだったが成功しなかった……をしている。しかしより深い部分における類似は、トルストイがリアと同じように誤った動機にもとづいて行動し、望んだ結果を得ることに失敗したというところにある。トルストイによれば全人類の目的は幸福であり、幸福は神の御心に沿う振る舞いによってしか到達できない。しかし神の御心に沿う振る舞いとは地上での喜びと野心を投げ打ち、他者のためだけに生きることなのだ。従って最終的にトルストイはそれが自らを幸福にしてくれるであろうという期待のもとに全世界を放棄したのだ。しかし彼の後半生でひとつ確かなことがあるとすれば、それは彼が幸福ではなかったということだ。反対に彼は、まさにその放棄を理由に彼を責める人々の彼への振る舞いによってほとんど狂気の縁にまで追いやられた。リア同様、トルストイは謙虚さと人を見抜く力の足りない性格だった。その農民風の装いにも関わらず時に彼は貴族的な態度へと傾き、さらには信頼していた二人の子供は最終的には彼に背きさえする……もちろんそれはリーガンとゴネリルよりはずっと穏当なやり方ではあるが。性的なものに対する彼のおおげさな嫌悪もまた際立ってリアと似ている。結婚は「隷属、倦怠、嫌悪」であり、「醜くさ、不潔、悪臭、苦痛の元」の近くで耐えることを意味するというトルストイの言葉はリアのよく知られた次のような叫びと一致する。

神々が宿るのは腰までで、
それより下は悪魔たちの領域だ。
地獄があり、暗闇があり、硫黄の吹き出す穴があり、
燃え、焦げ、悪臭を放ち、全て燃え尽き消える……

またシェイクスピアについてのエッセーを書いた時にはトルストイにはそれを予見できなかったであろうにせよ、その人生の終わり……信頼できる娘ひとりだけを連れた、国を横断する突然の無計画な逃亡、見知らぬ村の小屋での死……さえもがリアを思い起こさせる幻影のように思える。

もちろん、トルストイがこの類似に気がついていたとか、もし指摘されたらそれを認めただろうと考えることはできない。しかし彼のこの劇に対する態度は間違いなくそのテーマに影響を受けている。権力の放棄、つまり自らの領域を明け渡すことは彼にとって強い感情を引き起こすだけの理由がある問題だった。従ってそこでシェイクスピアが描き出す道徳は、彼自身の人生にあまり接近しない他の劇……例えばマクベス……の場合よりもずっと強く彼を怒らせ、動揺させたことだろう。しかしリアの道徳とは正確にはどのようなものだろう? そこには明らかに二つの道徳が存在する。一方は明示的なもので、もう一方は物語の中で暗示されるものだ。

シェイクスピアはまず、自ら無力になることは攻撃を招くことだ、と考えるところから始めた。これは全員が敵対してくるということではなく(ケントと道化は最初から最後までリアの味方だった)、ほぼ確実に誰かがそうするということだ。武器を投げ捨てれば、誰か良心の乏しい人物がそれを拾い上げるだろう。もう一方の頬を差し出せば、最初のものよりも強烈な一撃を食らうことだろう。常にそうなるわけではないが、それは十分に予期されることでありそうなったとしても文句を言うべきではない。二回目の一撃はいわばもう一方の頬を差し出す行為の一部なのだ。従って初めのものは道化によって描き出される「権力を手放してはいけない。自らの領域を明け渡してはいけない」という低俗で常識的な道徳だ。しかしまたもうひとつの道徳も存在する。シェイクスピアは決して多くの言葉でそれを語ることはしないし、彼が完全にそれを認識していたかどうかについても定かではない。それは物語に内在するものだが、つまるところその物語は彼が作り上げた、もしくは自らの目的に合うように改変したものだ。それは「もしそうしたいのなら自らの領域を明け渡しなさい。しかしそうすることによって幸福を得られると期待してはいけない。おそらく幸福は得られないだろう。もし他者のために生きるのなら、他者のために生きなければならないのであり、自身の利益を得るための回り道として生きてはならない」というものだ。

明らかにどちらの結論もトルストイにとっては喜ばしいものではないだろう。これらのうちの初めのものはごく普通の理解しやすい利己心であり、彼がそこから脱しようと真剣に試みたものだ。もうひとつのものは同時には実現不可能な彼の欲望……つまり自身の利己心を打ち砕き、それによって永遠の生命を得ること……と対立する。もちろんリアは利他主義を勧める説教ではない。それはたんに利己的な理由のために自己否定をおこなったときに起きる結果を指摘しているに過ぎない。シェイクスピアは世事について注目すべき才覚をもっていた。もし自身の劇のどの立場をとるか迫られれば、道化に共感を寄せたことだろう。しかし少なくとも彼は問題の全体を理解し、それを悲劇と言う水準で扱うことができたのだ。悪は罰せられるが、善が報いられることはない。シェイクスピア後期の悲劇の道徳は通常の意味においては宗教的なものではないし、間違いなくキリスト教のそれではない。それら悲劇のうちでキリスト以降の時代を舞台にしているのはおそらくハムレットオセロの二つだけだし、それらにしてもハムレットに登場するおかしな幽霊を別にすれば、全てがあるべきところに落ち着く「来世」を示唆するものはない。これら悲劇は全て、人生は悲しみに満っているがそれでも生きるに値する、そして人間は高貴な動物である、という……老齢のトルストイが共有しなかった信念であるところの……人間主義的な前提とともに始まるのだ。

トルストイは聖人ではないが自らを聖人たらしめようと非常に大きな努力を重ね、彼が文学に適用した道徳規範は来世を想定したものだった。聖人と普通の人間の間の違いはその種類の違いであって程度の違いではないことを認識するのは重要である。つまり一方を他方の不完全な形態であると見るべきではないのだ。聖人、少なくともトルストイの考えるような種類の聖人は現世の向上のために働こうとはしない。彼が試みるのは現世を終わらせ、その場所に何か別のものを配置することなのだ。このことの明らかな表れのひとつは独身は結婚よりも「上位」にあるという主張だ。実質的にトルストイが言っているように、私たちが繁殖や戦い、もがくことや楽しむことを止め、私たちの罪はもちろん私たちを地上の表面に縛りつける他の一切のもの……そこには愛も含まれる……を取り除けば、全ての苦痛に満ちた過程が終わり天の王国が訪れるだろうというのだ。しかし普通の人間は天の王国など欲してはいない。欲しているのは地上での人生が続いていくことだ。これはたんにその人間が「弱かったり」、「罪深かったり」、「楽しい時」を切望しているからではない。ほとんどの人々はその人生からかなりの量の喜びを得るがそれと帳尻を合わせるように人生は苦しいもので、そうでないと想像するのはとても若い者か、とても愚かな者だけだ。究極的にはキリスト教徒の態度とは自己本位で快楽主義的なものだ。なぜなら彼らの目指すところは必ず、地上における人生の痛みに満ちた苦闘から逃れ天国や涅槃といった場所での永遠の平穏を見つけ出すことにあるからだ。人間主義者の態度とはこの苦闘は続けられなければならず、死は人生の対価であるというものだ。「人間は死んでいくことに耐えなければならない、たとえ死が近づいて来るとしても成熟はすばらしいものだ」……これこそが非キリスト教徒の感じていることなのだ。しばしば人間主義者と宗教信者の間では休戦が図られるように見えるが、実際には彼らの態度は相容れないものなのだ。人は現世と来世のどちらかを選ばなければならない。そして圧倒的大多数の人間は、この問題を理解した時には現世を選ぶことだろう。どこか別の場所で新たな生を得る望みのために自らの行動する力を縛られるくらいであれば、彼らは間違いなく働き、繁殖し、死ぬことを続ける方を選ぶ。

シェイクスピアの宗教的信念についてはあまり知られていないし、彼の著作にもとづく証拠からは彼がそうした何かを持っていたと証明することは難しいだろう。しかしいずれにせよ彼は聖人ではなかったし、聖人たろうともしてはいなかった。彼はひとりの人間であり、いくつかの点ではあまり善良でもなかった。例えば彼は金持ちや権力者と良い関係を築くことを好み、最大限の卑屈さで彼らにおもねることができた。また人気の無い意見を口に出すことに関して彼は臆病なのは言うまでもなく、とても慎重でもあった。転覆的だったり懐疑的だったする発言が彼自身と重ね合わせられるような登場人物の口から発せられることはほとんどない。彼の劇の中で鋭く社会を批判する者、広く受け入れられている誤った考えに組しない人間は決まって道化、悪役、狂人、あるいは狂気を装っている者や暴力的なヒステリー状態にある者なのだ。リアはこの傾向が特によく表れている劇だ。そこにはベールで覆われた社会批判が大量に含まれている……これはトルストイが見落としている点だ……が全て道化か、狂気を装っている時のエドガー、狂気の発作に襲われている間のリアによって語られる。正気の時のリアは知的な発言さえほとんどしない。そしてまたシェイクスピアがこうしたごまかしを使わざるを得なかったというまさにその事実こそ、彼の思考の及ぶ範囲がいかに広大だったかを示している。彼はほとんどあらゆるものに対して論評せずにはいられなかったのだ。そのためにいくつもの仮面をかぶらざるを得なかったにしてもだ。注意深くシェイクスピアを読んだ者ならば、彼の言葉を引用せずに一日を過ごすのは難しいだろう。彼が議論しなかったり少しも言及しなかった問題、大きな重要性を持つ事柄はそう多くはない。そのやり方は非体系的ではあるが明らかなものだった。その劇の全体にまき散らされた無関係なもの……語呂合わせや謎かけ、名前のリスト、ヘンリー四世での荷運び人の会話や猥雑な冗談といった「ルポルタージュ」の断片、忘れ去られていたバラッドからとられた断片……でさえも、その法外な活力をの所産に過ぎない。シェイクスピアは哲学者や科学者ではないが強い好奇心を持ち、地上にある物とそこで営まれる生活を愛していた……ここで繰り返しておかなければならないが、それは楽しい時間を過ごし、できるだけ長生きしたいと望むというようなものと同じではない。もちろんシェイクスピアが生き延びたのはその思想の質が理由ではないし、もし彼が詩人でもなければ劇作家として記憶されることさえなかったことだろう。彼は主として言葉を通して私たちを捕らえる。シェイクスピア自身が言葉による音楽に魅了されていたことはピストルの演説から推測できるだろう。ピストルの言っていることの大部分は無意味だが、もし一節一節を壮大で修辞的な詩の一行と考えたらどうだろうか。大音響のナンセンスの断片(「洪水であふれさせよう、さすれば悪魔たち食べ物を乞う叫びをあげ」など)が絶えずシェイクスピアの頭に勝手にわき出し、半ば正気を失った登場人物がそれらナンセンスな言葉を語るために作り出されたに違いないことは明白だ。

トルストイの母語は英語ではない。従ってシェイクスピアの詩に心を動かされなかったり、あるいは言葉に対するシェイクスピアの技術が並外れた代物だと信じることを拒否しさえしてもそれで彼を責めることはできない。しかし同時に彼はその質感から詩を評価する……つまりそれらを音楽の一種として評価する……という考え全体をも却下したことだろう。シェイクスピアが名声を手に入れたことに対する彼の解釈は全て間違っていて、ともかくも英語圏の内側ではシェイクスピアの人気は本物であり、ある音節を別の音節の横に配置するというだけのその技術をとっても世代を超えた英語話者の人々に大きな喜びを与えているということをどうにかして彼に証明して見せたとしよう……それらは全てシェイクスピアの長所としては数えられず、全く反対のものと捉えられることだろう。それはシェイクスピアとその崇拝者たちが不敬虔で現世に捕らわれていることのさらなる証明に過ぎないと思われるだろうということだ。詩はその意味によって評価されるべきで、誘惑的な音の連なりはたんに意識に上らない間違った意味を生起させるだけだとトルストイは言うだろう。あらゆる基準において同じ問題が起きる……現世は来世に敵対するものであり、間違いなく言葉による音楽は現世に属する何物かなのだ。

ガンジーの人間性にそれがつきまとうのと同じように、トルストイの人間性については絶えずある種の疑いがつきまとう。彼は一部の人々が言うような下品な偽善者ではないし、彼の周りの人々、とりわけ彼の妻によってあらゆる場面で邪魔立てをされていなかったとしたらおそらく自らが為したことよりもずっと大きな犠牲を自らに課したことだろう。しかし一方でトルストイのような人物をその信奉者による評価に従って受け入れることは危険である。彼らはある形態の利己心を別の形態の利己心と入れ替えただけなのではないかという可能性……全くの可能性だ……が絶えず存在する。トルストイは財産、名声、特権を放棄した。彼はあらゆる形態の暴力を捨て去ることを誓い、それによって苦難の道を歩むことを覚悟していた。しかし彼が支配の原則、あるいは少なくとも他の者を支配したいという欲望を捨て去ることを誓ったとは容易には信じられない。父親が子供に「また同じことをしたら横っつらを張り飛ばすぞ」と言う一方で、母親が目に涙をためながら子供を腕に抱いて優しい声で「ねえ、おまえ、そんなことするのは母さんにとって優しいことかしら?」と言うような家庭があるとして、誰が二つ目の方法はひとつ目のものより専制的なところが少ないと断言するだろう? 本当に重要な区別は暴力と非暴力ではなく、権力に対する欲求の有無なのだ。軍隊と警察力の両方ともが邪悪であると確信しているにも関わらず、特定の状況では暴力を使うことが必要になると考える普通の人物よりもずっと不寛容で尋問官のような態度をとる人々が存在する。彼らは他の者に「あれをやれ、これをやれ、さもなければ刑務所に入れるぞ」と言うことはないだろうが、もしそれが可能であれば人の頭の中身を取り出し、最も些末な事項にいたるまでその思考に指図することだろう。平和主義やアナーキズムといった教義は表面的には権力の完全な放棄をほのめかしているように見えるが、こうした思考習慣をおおいに奨励しているのだ。ありきたりな政治の汚らわしさから逃れられているように見える教義……あなた自身はそこから何ら物質的利益を引き出せそうには思えない教義……を受け入れていると、自分が正しいと証明できるように思えないだろうか? そして自身が正しければ正しいほど、他の全員を脅して同じように考えさせることが自然になるのだ。

彼がそのパンフレットで語っていることを信じるならばトルストイはシェイクスピアに何ら長所を見いだせず、彼の仲間の作家であるツルゲーネフやフェートや他の者たちがそれとは違う考えを持っていることに気がついてひどく驚いている。信仰に目覚める以前のトルストイの結論は「君はシェイクスピアが好きで……私は嫌いだ。この問題は放っておこう」だったであろうことは納得してもらえるだろう。後になって世界を形作るあらゆる種類のものごとを受け入れる彼の知覚が彼を去ると、彼はシェイクスピアの著作は自身に危険なものであると考えるようになった。人々がシェイクスピアを楽しめば楽しむほど、彼らはトルストイの言うことに耳を傾けなくなるのだ。従って誰であろうとシェイクスピアを楽しむことは許されない。ちょうど誰であろうとアルコールを飲んだりタバコを吸ったりすることが許されないのと同じだ。確かにトルストイが力づくで邪魔立てすることはないだろう。警察はシェイクスピアの作品が書かれた出版物を一冊残らず没収するべきだなどと彼は要求していない。しかしもしそれが可能な時には彼はシェイクスピアを誹謗中傷するだろう。シェイクスピアを愛する人々全員の頭の内側に入り込み、考えつく限りのあらゆる策を弄してその喜びを抹殺しようと試みることだろう。その手段には……彼のパンフレットに対して私が要約して示して見せたような……自己矛盾し、誠実さを疑いさえするような議論も含まれている。

しかし結局のところ、最も印象に残るのはそれがいかにわずかな影響しか生み出さなかったかということなのだ。先に私が述べたように、トルストイのパンフレットには答えられないのだ。少なくともその主要な論点に対してはそうだ。それによってある詩を弁護できるような議論というものは存在しない。生き残ることによってそれ自体を弁護するか、さもなくなくばそれは弁護できないものなのだ。そしてもしこの試問が正当なものであれば、シェイクスピアの場合の判決は「無罪」でなければならないと私は思う。他の全ての作家と同じくシェイクスピアも遅かれ早かれ忘れ去られるだろうが、これから先、彼に対して今までより熾烈な訴えが起こされることはありそうにない。トルストイはおそらく彼の生きた時代における最も驚嘆すべき文学者であり、彼がパンフレット作成者としての才能に乏しかったわけではないことは確かだ。彼は全力でシェイクスピアを非難し、それはまるで戦艦の艦砲が一斉に轟音を放ったようだった。結果はどうだっただろうか? 四十年後もシェイクスピアは全く影響を受けずにまだそこに存在し、彼を打ち倒そうとする試みはほとんど誰も読まないパンフレットの黄ばんだページの他には何ひとつ残さなかった。そしてそれも、もしトルストイが戦争と平和アンナ・カレニーナの著者でなければ全く忘れ去られていたことだろう。

1947年3月
Polemic

関連

目次