ナンセンス詩, ジョージ・オーウェル

ナンセンス詩


ナンセンス詩が存在する言語は少ないと言われているし、英語においてもその数はそう多くはない。ナンセンス詩のほとんどはわらべ歌、それに民俗詩の断片の中に見られる。そのうちのいくらかは最初は厳密な意味ではナンセンスなものではなかったのだろうが、本来持っていた意味が忘れ去られたために今ではそうなってしまっている。例えばマージェリー・ドーの歌がそれだ。

シーソー、マージェリー・ドー
ドビンは新しいご主人様と出会い
日銭はたったの一ペニー
だってこれより速くは働けない

あるいは少年時代に私がオックスフォードシャーオックスフォードシャー:イングランド南東部の地域で教えてもらったバージョンだとこうなる。

シーソー、マージェリー・ドー
自分のベッドを売って藁の上で寝る
なんて愚かでだらしない
ベッドを売って汚れの上で寝るなんて?

おそらくかつてマージェリー・ドーという実在の人物がいたのだろうし、どういうわけか登場するドビンという人物だっていたのだろう。シェイクスピアがリア王の登場人物エドガーに「フィリーコックはフィリーコックの丘に座っている」といった決まり文句を言わせるのは決まって彼が不条理を叫ぶ時だった。しかしこれらの文句がかつては意味のあった忘れ去られた民謡に由来するものであることは疑いない。ほとんど無意識に引用される典型的な民俗詩の一片は全くの無意味というわけではなく、繰り返し起きる出来事へのある種の旋律を持った論評の言葉だ。「ひとつ一ペニー、ふたつ一ペニー、焼きたての十字パン十字パン:イエス・キリストの受難を表す十字がつけられたパン。伝統的にイースターに食べられた。」、「ポリー、やかんをかけてちょうだい、みんなでお茶を飲みましょう」といったものがそれにあたる。なかには一見したところは他愛もない歌のようで実際のところはひどく悲観的な人生観や、人々の間に伝わる人生の教えを表現しているものもある。例えば次のような歌だ。

ソロモン・グランディ
月曜日に生まれた
火曜日に洗礼を受けた
水曜日に結婚した
木曜日に病気になった
金曜日に危篤になった
土曜日に死んだ
日曜日に埋められた
それで終わり、ソロモン・グランディ

陰鬱な内容だ。しかしあなたや私の人生もこれとたいして変わりはしない。

シュールレアリズムが無意識に対して計画的な襲撃を開始するまで、歌にでてくる無意味な繰り返し部分を別にすればナンセンスであることを狙った詩は一般的ではなかったように思う。そのことはエドワード・リアを特別な地位に押し上げた。ちょうど彼のナンセンス詩がR・L・メグロー氏によって編集されたところだ。氏は戦争の一、二年前に出されたペンギンブックス版の編集を手がけた人物でもある。リアは風刺を目的とせずに空想の国と架空の言葉を使って純粋なファンタジーを扱った最初の作家の一人である。彼の詩はその全てが同じようにナンセンスなわけではない。なかには倒錯した論理を感じさせるものもあるが、その基調にある感情が悲しげであると同時に穏やかなところはどれも似ている。そこで表現されているのはある種の穏やかな狂気、何であれ無力で馬鹿げたものへ自然にわきあがる共感といったものだ。彼とほとんど同じ韻律形式の詩が彼より古い年代の作家のものの中に見つかっているとはいえ、公平に言ってリアはリメリック滑稽五行詩リメリック:滑稽五行詩、五行戯詩とも呼ばれる。5行で構成され、押韻にも厳格な規則がある。の創始者と呼べるだろう。また、ときに彼のリメリックの欠点であると考えられているもの……つまり最初の行と最後の行の韻が同じ言葉であるという事実……こそがその魅力の一端を担っているのだ。本当にかすかずつ無力感が増してゆくので、もし何か目を引く驚くべきものがあればそれは台無しになってしまうだろう。例えばこうだ。

ポルトガルのお嬢さん
航海のことで頭はいっぱい
木に登って
海を調べる
ポルトガルからは、だけど決して出られない

リア以来、出版や引用に足る価値があるように思えるほどユーモアのあるリメリックはほとんど無い。だが彼の真価が発揮されるのは「フクロウと子猫ちゃん」や「ヨンギー・ボンギー・ボーの求婚」といった数少ない長めの詩なのだ。

コロマンデルの海岸で
早咲きかぼちゃの咲くところ
森の茂みの奥深く
ヨンギー・ボンギー・ボーが住んでいた
二つの古椅子、半分の蝋燭
一つの古びた水差し、取っ手なし
それ以外は何もなく
森の茂みの奥深く
それ以外は何もなく
それがヨンギー・ボンギー・ボーの持ってる全て
それがヨンギー・ボンギー・ボーの持ってる全て

この後、何羽かの白いドーキング種のめんどりを連れた若い女性が現れて実ることのない恋の話が続いていく。メグロー氏はこれはリア自身の人生での出来事について述べたものである可能性があると考えているが、もっともな話だ。彼は生涯独身だった。その性生活に何か深刻な問題があったであろうことは容易に推察される。精神分析医であれば彼が描いた絵や「ランシブルランシブル:リアによる造語。現在では「三つ又」の意味で使われることもある。柳瀬尚紀によれば「runcinate(逆向き羽状分裂の)」から派生した言葉の可能性があるとも言われる。」といった繰り返し現れる特定の造語からさまざまな意味を見出すだろうことは疑いない。彼は体が弱く、また貧しい家庭の二十一人いる子供のうちの末っ子だった。幼い頃には不安と困窮に責めさいなまれていたはずだ。彼が不幸であったこと、良い友人に恵まれたにも関わらず生来孤独を好む性格だったことは明らかだ。

リアのファンタジーはある種の自由の表明であるとオルダス・ハクスリーオルダス・ハクスリー:イギリスの小説家。「すばらしい新世界」で知られる。は賞賛している。その中で彼はリメリックに登場する「やつら」は常識や法律の範囲に収まるもの、そして凡庸な徳性を表現しているのだと指摘している。「やつら」とは現実主義者、実務的な人物、山高帽をかぶった堅物な人々、あなたがやっている何か価値のある活動を止めさせようといつも気をもんでいる人々のことなのだ。例えばこうだ。

ホワイトヘブンのおじいさん
カラスとカドリールカドリール:4組の男女のカップルが四角形を作って踊るダンス。スクウェアダンスの元となったとも言われる。を踊ってた
だけどやつらは言ったのさ「馬鹿げたことだ
そんな鳥、一緒になって騒ぐとは!」
ホワイトヘブンのおじいさん、やつらはこてんぱんに叩きのめした

カラスとカドリールを踊っただけで誰かを殴りつけるという行為はまさに「やつら」がやりそうなことだ。ハーバート・リードハーバート・リード:サー・ハーバート・エドワード・リード。イギリスの詩人、文芸批評家、美術批評家。もまたリアを賞賛し、より純粋なファンタジーであるルイス・キャロルよりも彼の詩を好んでいる。私自身について言えば、リアがもっともユーモアに富んでいるのは彼が気まぐれな部分を抑え、風刺と倒錯した論理の作風で詩を作った時だと考えている。彼が空想的な遊びにふけっている時、つまり空想上の有名人たちや「家庭料理のための三つのレシピ」といったものについて書いている時には彼の詩はくだらなくてつまらないものになる。一方で「あしゆびのないポブル」は論理の亡霊に取り憑かれた作品だ。そして私が思うに、そこに表現された意味のある要素によってこの詩はユーモアあふれるものになっているのだ。ご存知だろうが、ポブルはブリストル海峡に魚とりに出かける。

すると水兵と提督たちみんなが叫んだものだ。向こう岸に近づいていく彼を見て……「彼はこれから魚とり。ジョビスカおばさんの赤ひげランシブル猫のため!」

ここで面白いのはその風刺の作風、「提督」だ。気まぐれで付け加えられたもの……「ランシブル」という言葉や猫の赤ひげ……はたんに混乱を生んでいるだけだ。ポブルが泳いでいる間に何か正体不明の生き物がやってきて彼のつま先を食べてしまう。彼が家に戻るとおばは言う。

「世界中が知ってることさ
あしゆびを失ってポブルは幸せ者だって」

これがまたなんともユーモアにあふれている。なぜならここには含意が、それも政治的と言ってもよいものが込められているからだ。独裁主義的政府の持つ論理はつまるところポブルはつま先を失って幸せ者だという一言に要約できるのだ。よく知られたリメリックにもこれは当てはまる。

ベイズに住んでるおじいさん
冷静沈着、驚くほど
馬を一頭買ってから
乗って全力で駆けてった
ベイズの人たちから逃げてった

気まぐれで付け加えられた部分は全くない。再び現れた「やつら」であるベイズの人々、まともな人々、芸術を憎む正気を保った多数派への穏やかにほのめかされる批判が愉快だ。

リアにもっとも近い彼の同時代人はルイス・キャロルだろう。しかしリアと比較すると彼は本質的に風変わりなところが少なく……これは私の意見だが、よりユーモアがある。それもあってメグロー氏が彼の本の前書きで指摘しているように、リアの影響は注目に値するものではあるが彼が完璧な才能を持っていたと考えることは難しい。現在の子供向けの本に出てくる馬鹿げた気まぐれな内容はおそらく部分的には彼の影響を受けたものだろう。狙ってナンセンスなものを書こうという考えはリアにならってのことだろうが、それにしても疑問なやり方である。おそらく最高のナンセンス詩とは時間をかける中で、時に偶然の力を借りながら個々の人間というよりむしろ共同体によって生み出されていくものなのだろう。一方で戯画作家としてのリアの影響は疑いようがないほど大きい。例えばジェームズ・サーバージェームズ・サーバー:アメリカの漫画家、作家。が直接的にしろ間接的にしろリアから何がしかの影響を受けていることはまず間違いない。

1945年12月21日
Tribune

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オーウェル評論集1: ナショナリズムについて 表紙画像
オーウェル評論集1: ナショナリズムについて
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