歓楽の地, ジョージ・オーウェル

歓楽の地


数か月前に私は派手派手しいある雑誌の記事を切り抜いた。ある女性ジャーナリストによって書かれた未来のリゾートについての記事だ。彼女は最近、ホノルルで時を過ごしたらしい。戦争の苦難とはあまり関係なさそうな場所である。しかし「旅客機のパイロットは……私にこう言った。今回の戦争にはあらゆる創意工夫が詰め込まれている。疲れを知らないかわいそうな誰かさんやリラックスと休息、ポーカー、酒、恋愛をすべて同時に二十四時間ぶっ通しで楽しんで次の仕事に備える生に貪欲な人間がいるんだ、と」。この言葉は最近会ったある企業家を彼女に思い出させた。その企業家は「過去にドッグレースやダンスホールが流行ったのと同じように将来、大流行するであろう歓楽地」を作り上げようと計画している。企業家の夢は詳しく説明されている。

彼の青写真に描かれているのは数エーカーの空間で、そこは開閉可能なスライド式の屋根で覆われている……イギリスの天気は変わりやすいからだ。さらに中央のスペースには巨大なダンスフロアがあり、その床は下から光で照らすことができるよう半透明のプラスチックでできている。ダンスフロアの周りにはそれ以外にもさまざまな用途の空間がいろいろな高さに分かれて密集している。都市を見下ろす眺めの良いバルコニー式バーやレストラン、地上にあるそれらの複製品。ずらりと並ぶボーリングのレーン。二つの青い湖のうちのひとつは熟練スイマーのためのもので波が打ち寄せては返し、もうひとつは水遊びをする人のためのもので穏やかな夏らしいプールだ。二つのプールの上に掲げられた太陽光ランプは、屋根を開いて雲の無い空に浮かぶ太陽の光を取り入れることができない時でも真夏の日中を模すためのものだ。並んだデッキチェアの上ではサングラスとスリップを身に着けた人々が身を横たえて太陽光ランプの下で肌を焼くことができる。

中央の配信用ステージにつながった何百台ものスピーカーからは音楽がわき出す。配信用ステージではダンス音楽、オーケストラの演奏、ラジオ番組が受信され、その増幅と放送がおこなわれているのだ。屋外には千台の自動車を収容できる駐車場が二つある。ひとつは無料のもので、もうひとつは屋外ドライブインシアターになっている。回転式の入り口には自動車が行列を作り、居並ぶ自動車の前の巨大なスクリーンに映像が映し出される。制服を着た男性係員が自動車を調べ、無料の軽食と水を配ったり、ガソリンやオイルを売り歩く。白いサテンのスラックスを履いた若い女性がビュッフェメニューやドリンクの注文を取っては、トレイの上に乗せて運んでくる。

歓楽地プレジャースポット」「歓楽リゾートプレジャーリゾート」「歓楽街プレジャーシティー」といった言葉を聞けば、コールリッジコールリッジ:サミュエル・テイラー・コールリッジ。イギリスのロマン派詩人、批評家、哲学者。の「フビライ・ハーン」の冒頭を思い出さずにはいられない。

フビライ・ハーンは上都ザナドゥ
荘厳な歓楽の館を建てるよう命じた
神聖なる川アレフが流れ
人にははかり得ぬ大洞窟を貫いて
日の差さぬ海へと下るところ
かくして五マイル四方の肥沃な大地を
城壁と尖塔が囲み守る
曲がりくねる小川のきらめく庭園
香りを放ち実を結ぶ木々が花をほころばせ
丘と古代からの森が
日の差す緑の地を包み込んでいた

しかしコールリッジは大きな間違いをしているように思われる。「神聖なる」川と「人にははかり得ぬ」大洞窟をそのままに語っている彼は見当違いを犯しているのだ。上で述べた企業家の手にかかれば、フビライ・ハーンの企てもまったく異なったものになったことだろう。空調の効いた大洞窟にはうっすらと光が灯り、元の岩肌の壁は何層もの優雅な色のプラスチックの層に覆われて、連なるムーア風・コーカサス風・ハワイ風の小洞穴へと姿を変えることだろう。神聖なる川アレフはせきとめられて人工の温水浴場が作られ、一方で日の差さぬ海は下からピンク色の電気照明で照らし出されるだろう。ベネチアから運ばれて来たゴンドラにはラジオ受信機が据え付けられ、それに乗った人々が水面を行き来するのだ。コールリッジが歌った森と「日の差す緑の地」は一掃され、ガラスで覆われたテニスコートや野外ステージ、ローラースケートのリンク、そしておそらくは九ホールのゴルフコースへと道を明け渡すことだろう。簡単に言えば、そこには「生に貪欲な」人間が望むであろうもの全てが存在するのだ。

上で述べたようなリゾート地が今まさに世界中で数百も計画され、さらにはその建設さえおこなわれていることは疑いない。それらが完成することは……世界情勢から見て……考えにくいが、それらこそがまさに近代の文明化された人間の思い描く歓楽なのだ。こういったものの一部はすでに、壮大になっていくダンスホール、映画館、ホテル、レストラン、豪華客船という形で達成されている。遊覧航海やライオンズ・コーナー・ハウスではこの未来の楽園の片鱗以上のものがもうすでに手に入るのだ。分析してみるとその主な特徴は次のようになる。

一、決して一人になることがない

二、自分自身で何かをすることが決してない

三、どんな種類のものであれ、野生の草木や自然物が視界に入ることは決してない

四、照明と温度が常に人為的に調整されている

五、決して音楽が聞こえなくなることはない

音楽……それが可能な場合には全員に対して同じ音楽が供されるべきだ……は中でも最も重要な構成要素だ。それによって思考と会話をさえぎり、鳥のさえずりや風鳴りといった自然の音を締め出す。そうしてそれらが入り込んできてしまうのを防ぐのだ。数えきれないほど多くの人々がこの目的のために意図してラジオを使っている。非常に多くのイギリスの家庭でラジオは文字通り片時もスイッチを切られることがない。ときどき操作されるとしたら、ただ軽快な音楽が確かに流れていることを確認するためだけだ。食事の間もずっとラジオを流しっぱなしにしながら、同時に、音楽をちょうど打ち消しあうだけの声を張り上げて会話を続ける人々を私は知っている。これは確固とした目的を持っておこなわれているのだ。音楽によって会話は真剣なものになったり筋道だったものになることを妨げられ、一方でおしゃべりの声によって音楽へ耳を傾けることもできない。これによって恐ろしい出来事の到来が防がれるのだ。

明かりは決して消されてはならず
音楽は流れ続けなければならない
私たちがどこにいるのか気づかぬよう
悪夢の森に迷い込み
子供たちは暗闇におびえる
人に幸福と善の訪れることは無く……幸福と善の訪れることは無く:ウィスタン・ヒュー・オーデンの詩「1939年9月1日」からの抜粋。ナチス・ドイツによるポーランド侵攻は1939年9月1日に開始された。

最も典型的な現代のリゾート地が無意識に目指しているのは子宮への回帰なのではないかと感じずにはいられない。そこでは人は決して一人になることがなく、日光を浴びることもなく、温度は常に調整されている。仕事や食べ物の心配をする必要はなく、もし存在するとしたらだが思考はリズミカルな拍動に飲み込まれてしまう。

それとはまったく異なったコールリッジの「歓楽の館」の概念に目を向けてみよう。それが展開されるのは一部は庭園の周りであり、一部は大洞窟、川、森、そして「現実離れした深い亀裂」を持つ山々の周り……要は自然と呼ばれるものの周りなのだ。しかし自然への称賛や、氷河、砂漠、滝の存在への宗教的畏敬にも似た感覚は人間の矮小さや万物の力に対する脆弱さと分かちがたく結びついている。月が美しいと感じる理由のひとつは私たちがそこにたどり着けないそこにたどり着けない:この評論が書かれた1946年時点ではまだ人類は月に到達していないためだし、海に感動を覚えるのはそこを安全に渡れる確証を持てないからだ。一輪の花によってもたらされる喜びさえ……それがたとえ花についてわかり得る全てを知った植物学者であっても、一部は神秘的な思いによるものなのだ。しかし一方で自然を克服する人間の力は次第に高まっている。原子爆弾の助けを借りれば文字通り山をも動かすことができるだろう。極の氷冠を溶かしてサハラに水を引き、それによって地球の気候を変えることさえ可能なのだと言われている。それでは鳥のさえずりを聞きながら泳ぐことを好み、地球の表面を人工の光があふれるアウトバーンアウトバーン:ドイツで整備された自動車高速道路のネットワークで覆う代わりにそこかしこに自然のままの地をわずかでも残したいと欲するのは感傷的で馬鹿げたことなのだろうか?

物理世界の探求において人間が自分自身を探求しようと試みないのを目にするたびにこの疑問が強く頭をもたげる。歓楽の名でおこなわれることの大半は思考を破壊しようという試みに過ぎない。まず最初に問いかけてみよう。人間とは何か? 何を必要としているのか? どうすれば自身を最良の形で表現できるのか? 労働を避ける力を持つこと、生まれてから死ぬまで電灯の下で暮らすための力を持つこと、そして安っぽい音楽の調べはその助けにならないことに気が付くだろう。人間は温かみ、人との交わり、余暇、安楽と安全を必要としている。同時に孤独と創造的な仕事、物事に驚く気持ちも必要としているのだ。それを理解していれば科学と産業主義の産物を折衷的に、常にひとつの問いを投げかけながら使うことができる。その問いとはこうだ。これは私の人間性を高めるだろうか、それとも減じるだろうか? そしてその時には最高の幸福とはリラックスや休息、ポーカー、酒、恋愛を同時にこなすことの中にはないと学ぶことだろう。思慮ある人であれば誰しもが感じる機械化された生活の進行に対する本能的恐怖はたんなる感傷的懐古主義ではなく、もっともな理由あるもののように思われる。生活の多くの部分を簡素に保つことでのみ人間は人間性を維持できる。一方で多くの現代的な発明品……とりわけ映画、ラジオ、飛行機……は思考を弱めさせ、好奇心を鈍らせる傾向を持つ。それらは概して人間を動物に近づけるのだ。

1946年1月11日
Tribune

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オーウェル評論集2: 一杯のおいしい紅茶 表紙画像
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