ジョージ・オーウェル

作家とリヴァイアサン


国家統制の時代における作家の立ち位置はすでに非常に広く議論されている問題であるが、それに関連するであろう証拠のほとんどがいまだ利用されていない。この場で芸術への国家の後援の賛否について意見を述べようとは思わないが、私たちを支配する国家がどのような種類のものになるかは広まっている知的雰囲気、つまり今の文脈で言えば作家・芸術家自身の態度、そして彼らの意欲あるいは自由主義的な精神を保つことに部分的にであれ依存していることだけは指摘しておきたい。もし十年後に私たち自身が誰かジダーノフジダーノフ:アンドレイ・ジダーノフ。ソビエトの政治家。スターリン体制下で前衛芸術批判、芸術の統制をおこなった。のような者にへつらっているとしたら、それはおそらくそれが私たちに相応しいものであるためなのだ。イギリス文学界の知識人たちの中にすでに全体主義へと向かう強い活動傾向が存在することは明白である。しかしここでは共産主義のような組織化された意識的な運動ではなく、政治的な思考と政治的支持の必要性が善意の人々に与える影響についてだけ考察しようと思う。

現代は政治の時代だ。戦争、ファシズム、強制収容所、ゴム警棒、原子爆弾などは日々、私たちの頭を悩ませているものであり、それゆえに率直にその名を上げないにせよ、かなりの程度、私たちが描く題材となっているものなのだ。これは私たちにはどうしようもない。沈みつつある船に乗っていれば考えることは沈みつつある船のことになるものだ。忠誠心は私たちの題材を狭めるだけでなく、文学に向かう私たちの態度全体を偏向させる。それが非文学的なことに少なくともときおりは、私たちは気がつく。私は最も調子の良い時でさえ、文芸批評は詐欺行為なのではないかと感じることがよくある。受け入れることが可能な基準……これこれの本が「優れている」のか「劣っている」のかを提示するための手段を与える外的参照……というものが全く欠如しているからだ。あらゆる文学的判定は直観的な好みを正当化するための一群の規則をでっちあげることによってできあがっている。本に対する現実の反応とは、それが存在するとすれば普通は「私はこの本が好きだ」か「私は好きではない」であって、その後に続くものは正当化に過ぎないのだ。しかし私が考えるところでは「私はこの本が好きだ」は非文学的な反応ではない。非文学的な反応とは「この本は私の味方で、それゆえに私はその長所を見つけ出さなければならない」というものだ。もちろん本を政治的な理由から褒めている場合でも感情的に誠実なことはあるだろう。要は強くその本に賛意を感じているということだ。しかしまた党派的連帯が全くの嘘を要求することもしばしば起きる。政治色のある定期刊行物で書評をおこなったことがある者であれば誰でもこのことはよく知っている。一般的に言って、意見が一致する新聞に執筆する場合には作為的な罪を犯し、意見が反対の新聞に執筆する場合には不作為の罪を犯すことになる。いずれにせよ、議論を呼ぶ無数の書籍……ソビエト・ロシアに賛成・反対する本、シオニズムに賛成・反対する本、カトリック教会に賛成・反対する本など……は読まれる前に、さらに言えば執筆される前に判定を下されているのだ。どの新聞からどの評価を得るかは前もってわかる。しかしそれでも、時には四分の一も意識されない不誠実さによって、誠実な文学的基準が適用されたという偽装が続けられるのだ。

もちろん政治による文学への侵犯は避けがたく起きることだ。たとえもし全体主義による特殊な問題が持ち上がらないとしても、それは必ず起きる。なぜなら私たちは祖父母たちが感じなかったある種の良心の呵責、世界のひどい不正と悲惨に対する問題意識、そしてそれに対して何かをしなければならないという罪悪感を発達させてきたからだ。それは人生に対して純粋に審美的な態度をとることを不可能にするものだ。現在ではジョイスジョイス:ジェイムズ・ジョイス。十九世紀から二十世紀にかけて活動したアイルランド出身の小説家、詩人。やヘンリー・ジェイムズヘンリー・ジェイムズ:十九世紀から二十世紀にかけて活動したアメリカ出身のイギリスで活躍した小説家のようにひたすら文学に没頭できる者はいないだろう。しかし不幸にも現在、政治的責任を受け入れることは自らを正統と「党の路線」に屈服させること、それが言外に要求する臆病と不誠実を身につけることを意味する。ヴィクトリア朝時代の作家と比べると私たちには明確な政治的イデオロギーの中で生きていることと、どの思想が異端であるかが多くの場合にひと目でわかってしまうという不利な点がある。現代の文学界における知識人は絶えざる不安の中で生活し、執筆をおこなっている……その不安が広い意味での世論に対するものではなく、自身の属する集団の世論に対するものであることは間違いない。幸運なことに通常は複数の集団が存在するが、どの瞬間をとっても支配的な正統が存在して、それを敵に回すには太い神経が必要であり、またそれは時には数年にわたって収入が半減することを意味する。過去十五年の間、支配的な正統、とりわけ若者の間のそれは明らかに「左派」だった。キーワードは「進歩的」、「民主的」、「革命的」であり、一方で「ブルジョア」、「反動的」、「ファシスト」とレッテルを貼られることは全力で逃れなければならないことだった。現在ではほとんど全ての者、カトリック教徒や保守主義者の大多数でさえもが「進歩的」か、あるいは少なくともそう思われることを望んでいる。私の知る限りではこれまで自分のことを「ブルジョア」と表現する者は誰ひとりとしていなかった。ちょうどその言葉を聞いたことがある程度に見識のある者で反ユダヤ主義の罪を犯したことを認める者が誰ひとりとしていないのと同じだ。私たちは全員、良き民主主義者であり、反ファシストであり、反帝国主義者であり、階級区別を軽蔑し、肌の色による偏見に左右されることはない、などなどと続いていくのだ。あるいはまた、現在の「左派」による正統がクライテリオン誌や(もっと低レベルなものでは)ロンドン・マーキュリー誌が寡占的な文学雑誌だった二十年前に広まっていたお高くとまった信心深い保守派による正統よりも優れているということに疑問が持たれることもほとんどない。少なくとも左派が示す目標は多くの人々が実際に欲している実現可能な社会形態ではあるのだ。しかし同時にまた左派は独自の欺瞞性を持ち、その欺瞞性を認めることができないためにある種の疑問については真剣な議論をおこなうことが不可能になっているのだ。

あらゆる左派イデオロギー、科学的でユートピア的なそれはただちに権力を得る展望のない人々によって発達させられてきた。そのために、それは過激主義的なものとなり、王侯、政府、法律、牢獄、警察力、軍隊、旗、国境、愛国主義、宗教、慣習的な道徳、実質的にあらゆる既存の物事の体系を完璧なまでに軽蔑するものとなったのだ。現在生きている人間の視野の範囲で言えば、全ての国の左派勢力は打倒不可能に見える専制体制に対して戦いを挑み、その特定の専制体制……資本主義……を打ち倒すことさえできれば、社会主義を迎えられるだろうと安易に考えていた。さらに言えば左派は明らかに疑問符のつくある信念を自由主義から受け継いでいた。その信念とは、いずれは真実が勝利して迫害は自壊するだろうというもの、あるいは人間は本来は善良であって堕落するのは置かれた環境が悪かった時だけなのだというものだ。この完璧主義的イデオロギーは私たちのほとんど全員に根強く残っていて、それを名目に私たちは(例えば)労働党政府が王女へ莫大な収入を与えたり、鉄鋼業の国有化にためらいを見せたりした時に抗議の声を上げている。しかし同時に現実との一連の摩擦の結果として私たちは認めがたい多くの矛盾を頭の中に積み上げてもいるのだ。

最初の大きな摩擦はロシア革命だった。いくぶん入り組んだ理由からイギリス左派のほとんど全てがロシアの体制を「社会主義体制」として受け入れざるを得なくなった。その体制の精神と実践はこの国で「社会主義」が意味するものとはかけ離れていると密かに理解していたにも関わらずだ。そのためにある種の統合失調症的な思考方法が生まれた。そこでは「民主主義」といった言葉は互いに相容れない二つの意味を持ち、強制収容所や集団国外追放といったものは正しいものであると同時に間違ったものとなる。左派イデオロギーに対する次の一撃はファシズムの隆盛で、それは明確な理論の修正を迫ること無しに左派の平和主義と国際主義を揺るがせた。ドイツによる占領の体験はヨーロッパの人々に植民地の人々がすでに知っていること、すなわち階級対立はさして重要ではないこと、国益というものが存在することを教えた。ヒトラー以降、「敵は自国の内にある」だとか、国家の独立性は無価値だとかいったことを真剣にとらえ続けることは難しくなった。しかし、そうしたことやそれに基づく活動が時に必要なことを私たち全員が知っているにも関わらず、それを表立って口に出すことは一種の裏切りであると私たちはいまだに感じている。そして最後は全ての中で最大の困難である、左派が今や権力の中枢にあって、責任を取り、誠実な決定をする責務を負っているという事実の存在だ。

左派の政府はほとんど不可避にその支持者たちを失望させる。それは約束した繁栄が達成されるとしても不愉快な過渡期が決まって必要で、それについては事前にあまり触れられていないためだ。現時点で絶望的な経済的困難におかれた私たちの政府が戦っているのはまさに自身の過去のプロパガンダであるように見える。現在、私たちがおかれている危機は地震のような予期せぬ突然の災害ではない。さらに言えば戦争によって引き起こされたものでもなく、戦争はただそれを早めただけだ。数十年前からこうした何事かが起きることは予見可能だったはずなのだ。十九世紀以来、国外投資の利潤、そして植民地の安定した市場と安価な原材料に部分的に依存していた私たちの国家歳入は極めて不安定なものだった。何かがまずくなって輸出と輸入を釣り合わせなければならなくなることは遅かれ早かれ確実なことだった。そしてそれが起きれば少なくとも一時的には労働階級を含めてイギリスの生活水準が低下することは避けられない。しかし左派政党は自らが反帝国主義者であることを喧伝する時でさえ、こうした事実を決して明確にしなかった。ときにはイギリスの労働者がアジアとアフリカからの略奪によっていくらかの利益を得ていることを認めることもあったが、それも決まって略奪を止めても何らかの方法で私たちはうまいこと裕福であり続けることができると見せかけながらのことだった。労働者たちが社会主義を受け入れた理由の大半はまず間違いなく自分たちが搾取されていると教えられたためだった。ところが世界的観点から見れば彼らは搾取者だったというのが残酷な真実なのだ。今ではあらゆる観点から見て労働階級の生活水準は向上はもちろん、維持さえもできない地点へと到達している。金持ちを一掃したとしても人々の大多数は消費を減らすか、生産を増やすかのどちらかを余儀なくされるだろう。それとも私たちが置かれた混乱状態を私はおおげさに言い過ぎているだろうか? たぶんそうなのだろうし、自分の間違いに気づいて喜びたいものだ。しかし私がはっきりさせたい点は、この疑問が左派イデオロギーに忠実な人々の間では誠実に議論することが不可能であるということなのだ。賃金の低下と労働時間の増大は本質的に反社会主義的な兆候に感じられ、それゆえに経済状況がどのようなものであれ、あらかじめ退けられなければならないのだ。それらが避けて通ることのできないものだと指摘することは私たち全員がひどく恐れているレッテルを貼られる危険を冒すことにしかならない。この議題を避け、既存の国家歳入を再分配すれば全てを正しい場所に収めることができるのだと装う方がずっと安全だ。

正統を受け入れるということは常に未解決の矛盾を受け継ぐことである。例を挙げれば、感受性豊か人々は誰しも産業主義とその産物に嫌悪を抱いているが、同時に彼らは貧困の克服と労働階級の解放において産業化の必要性が低下するどころかますます高まっていることに気がついている。あるいは特定の仕事は絶対的に必要不可欠だが、同時にそれらはある種の強制無しでは決して果たされないという事実、また強力な軍事力が無ければ肯定的な外交政策を取ることは不可能であるという事実もある。多くの例を挙げることができるだろう。どの場合も完璧なまでに明白な結論が存在するが、それに到達できるのは公的イデオロギーに内心で背いた場合だけだ。たいてい取られる反応はその疑問を未回答のまま頭の片隅に押し込み、矛盾するスローガンを繰り返し続けるというものだ。評論や雑誌を事細かに調べるまでもなく、こうした種類の思考が及ぼす影響は目にすることができる。

もちろん、内心の不誠実さが社会主義者と左派全般に特有なものだとか、彼ら一般に見られるものだとか言うつもりは無い。それがどのようなものであれ政治的規律を受け入れることは文学的誠実さと相容れないように思われるというだけだ。これは平和主義や人格主義のような、通常の政治的な闘争から離れよと主張する運動についても同じように当てはまる。全くのところ「~主義」で終わる言葉の響きにはプロパガンダの臭いがつきまとうように思われる。集団への忠誠は必要不可欠なものだが同時に文学にとっては有害なものである。文学が個人によって作り上げられるものである限りそれが変わることはない。それらが何らかの影響を創作的執筆へ持つことを許すや否や、それが否定的な影響である場合でさえも、歪曲が始まり、さらには独創的能力の完全な枯渇がしばしば起きるのだ。

それではどうすればよいのか? あらゆる作家にとって「政治を締め出す」ことは責務だと私たちは結論するべきなのだろうか? 言うまでもなく違う! いずれにせよ、すでに述べたとおり現代のような時代において思慮ある人で本当に政治を締め出すことができる者はいない。私が言っているのはただ、私たちは今よりももっとはっきりと政治と文学的誠実を区別するべきであるということであり、また、特定の不愉快で、しかし必要不可欠な物事をおこなう意志は普通それに付随する信条を無条件に受け入れる義務などともなわないと理解すべきだということなのだ。作家が政治にたずさわる時には市民として、人間としてそうすべきであって、作家としてそうすべきではない。その感受性を理由に、ありふれた政治の汚れ仕事から逃れる権利が作家にあるとは私は思わない。他の人々と同じように隙間風の吹く集会所で講演をおこなう準備をし、歩道に白線を引き、有権者を訪ねて回り、チラシを配り、必要となれば内戦を戦うことさえもすべきだ。しかし支持する党に仕えて他の何をしようとも、作家は決して党のために執筆すべきでない。自身の著作は別であるとはっきりさせるべきだ。そして協力的に活動しつつも、もしそうしたいと思った場合には公的イデオロギーを完璧に拒否することができるようになるべきだ。それが異端へと導くからといって一連の思考にしり込みすべきではないし、たとえそうなるとしても自らの非正統が嗅ぎつけられるのではないかとひどく思い悩むべきではない。おそらく現在、反動的傾向を疑われないことは二十年前に共産主義者への同調を疑われないことと同じくらい作家にとっては悪い兆候だろう。

しかしこれら全てが意味するのは、作家は政治実力者による命令を拒否するだけでなく、政治について書くことを慎むべきだということなのだろうか? これもまた言うまでもなく違う! 自分がそうしたいと思った時にはひどく露骨な政治的なやり方で著作をしてはならない理由はない。必要なのはそれを個人として、外部の人間として、悪くても正規軍の側面を守る歓迎されないゲリラとしておこなうということだけだ。こうした態度は 通常の政治的有用性と完全に相容れるものである。例えば、ある戦争に勝利すべきと考えて戦争で戦おうと考えること、それと同時に戦争プロパガンダを書くことを拒否しようと考えることは全く理に適っている。作家が誠実な場合には、時にその作品とその政治的態度が実際のところ互いに矛盾することもあり得るだろう。それが率直に言って望ましくない場合もある。しかしそうであってもその解決策は自身の衝動を偽ることではなく、沈黙をつらぬくことなのだ。

対立の時代において創造性に富んだ作家は自身の人生を二つの部分に分割しなければならないと提案すれば、それは敗北主義的で無思慮なことに思えるだろう。しかし実践においてはそれ以外の方法を私は思いつかない。自らを象牙の塔に閉じ込めることは不可能であり、望ましいことでもない。たんに党組織だけでなく、それが集団的イデオロギーであろうとも、自覚的にそれに屈服することは作家としての自身を損なうことである。私たちはこのジレンマを痛みとして感じるがそれは政治に携わる必要性を私たちが理解している一方で、それがいかに薄汚れた下劣な仕事かも理解しているためだ。また私たちのほとんどは、あらゆる選択、あらゆる政治的選択にさえも善悪があり、もし何かが必要なのであればそれは正しいものなのだ、という消えがたい考えをいまだに持っている。私たちはこの考えを取り除かなければならないと私は思う。それは子供部屋に属するものだ。政治において人は二つの悪のうちでどちらがその程度が少ないかを決める以上のことは決しておこなえない。そして悪魔か狂人のふりでもしなければ逃れられない特定の状況というものが存在するのだ。例えば戦争は必要なものだろうが、それは間違いなく正しいものでも健全なものでもない。総選挙でさえも厳密には愉快な光景でも啓発的な光景でもない。もしこうした物事に参加しなければならなくなったら……老齢や白痴や偽善で武装していない限り、参加しなければならないと私は思う……その時には同時に自身の一部を侵犯されないよう保たなければならない。ほとんどの人々にはこの問題はこれと同じ形では現れない。人々の生活はすでに分割されているのだ。彼らが真に生きているのは余暇の時間でだけのことで、彼らの職業と政治的活動の間には感情的なつながりは存在しない。あるいはまた、政治的忠誠心の名のもとに労働者として自身の身をかがめるよう要求されることも一般にはない。芸術家、とりわけ作家はそれを要求される……実際のところ、それは政治家が作家に要求するただひとつのことなのだ。作家がそれを拒否したからといってそれは活動的でないと非難されることを意味しない。作家の半身、ある意味で彼の全てであるそれは他の者と同じくらい毅然と、さらには必要となれば激しく振る舞うことができる。しかしなんらかの価値を持つ作品に関して言えばそれは常に脇へ引いた、より健全な自我の産物、起きた物事を記録し、その必要を認め、しかしその真の性質を偽ることを拒否したものなのだ。

1948年夏
Politics and Letters

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