「何て素晴らしい日!」アンはそう言うと、大きく深呼吸した。「こんな天気の日は生まれてきて良かったって思わない? まだ生まれてこない人達は気の毒ね、この素晴らしい日を味わえないんだから。もちろん、後から生まれた人も良い日はあるんだろうけど、でも今日のこの日は二度とないのよ。それにもっと素晴らしいのは、こんな素敵な道を通って学校に行けるってこと、そうじゃない?」
「街道を回り道するよりずっとましね。あの道、とっても埃っぽいし暑いもの」ダイアナは現実を語った。昼ご飯をつめたバスケットを覗き込んで暗算してみる。ここに果肉がたくさん詰まった、口当たりの良いキイチゴのタルトが三つあるけど、もしこれを十人の女の子で分けたら、一人当たり何口食べられるんだろう。
アヴォンリー小学校に通う女の子達は、いつもお昼ご飯をみんなで分け合っていたから、三枚のキイチゴのタルトを全部独り占めして食べたり、一番の仲良しと分け合ったとしても、そんなことをしようものなら、未来永劫「すっごいケチ」の烙印を押されるだろう。それにしても、せっかくのタルトを十人で分けては、意地悪なくらい少なくなってしまう。
アンとダイアナが学校に通う道は、実に奇麗な道だった。アンは、学校の行き帰りにダイアナと一緒に歩けるなんて、想像力を駆使してもこれ以上楽しくできないと思っていた。主街道を回り道するなんてどうしようもなく非物語的、けど、恋人小径や柳ヶ池、スミレの神殿に樺小径を通って行くのは物語的。この道こそ物語的の名に値するわ。
恋人小径はグリーン・ゲイブルズの果樹園の下手に始まり、カスバート家の農地の端にある向こうの森の中まで伸びていた。この道を通って牛を裏の牧草地へ追い込み、冬になると薪を運ぶ道となった。アンが恋人小径と命名したのはグリーン・ゲイブルズに来てひと月足らずの頃だった。
「恋人達が本当にそこを歩くわけじゃないけど」マリラにそう説明していた。「でもダイアナとあたしは、今、それはもう壮麗な本を読んでいて、その中に恋人小径が出てくるのよ。それであたし達もそういうのが欲しくなったの。それにとてもしゃれた名前だと思わない? とっても物語的! 歩いてる恋人達を想像すれば良いのよね。あたしあの小径が気に入ってるの。だって声に出して考え事しても、誰にも変だなんて言われないもの」
アンは朝一人で家を出かけ、恋人小径を小川の所まで下っていった。そこでダイアナと待ち合わせ、二人の少女は、カエデでできた緑の天井のかかる小径を登って行った――「カエデの木ってとっても気さくなのよ」そうアンは言っていた。「いつだって梢がサラサラ揺れていて、そっと囁きかけてくるの」――そして丸太橋までやって来た。そこで恋人小径を離れると、バリー氏の裏の畑を通り抜け、柳ヶ池を通り過ぎた。柳ヶ池を越えて行くと見えてくるのがスミレの神殿だった――アンドリュー・ベル氏の大きな森の陰にある、小さな緑溢れる窪地のことである。「もちろん今はスミレなんか咲いてないけど」アンはマリラに語った。「でもダイアナが言ってたの、春になるとスミレが一斉に何百万も咲くんだって。ねえ、マリラ、想像できる? もう目に見えるようじゃない。思わず息が止まっちゃった。スミレの神殿って命名したのよ。ダイアナがね、あたしほど名前の付け上手は見たことない、その場所にぴったりの素敵な名前を付けるんだから、だって。何でも得意なことがあるのは良いことよね? そうだ、樺小径はダイアナが名付けたの。どうしてもって言うから、その名前で良いことにしたわ。でもあたしだったら、もっと詩的で、ただの樺小径じゃない何かを探すわね。そんな名前じゃ、誰でも考えつきそうだもの。それでも樺小径は世界で一番奇麗な場所の一つだわ、マリラ」
その通りだった。アンに限らず、そこをたまたま通りかかった人もやはりそう思うのだった。細い曲がりくねった道で、うねうねと長い丘を下って、ベル氏の森を真っすぐ突き抜けていた。ベル氏の森では、陽の光が幾重にも重なるエメラルドの帳の合間を縫って注ぎこみ、その光はダイアモンドの心臓部のように傷一つなかった。道沿いには端から端まで、白い幹からしなやかに枝を伸ばした細身の白樺の若木が並び、シダ、星の花、野生の谷スズランとピジョンベリーの深紅の房といった草花が、所狭しと生い茂っていた。いつ行ってもそこには、心を弾ませるほのかな香りが立ちこめていて、呼び合う鳥の声が音楽を奏で、頭上に耳をすますと、梢を渡る森の風達がサラサラと囁き、笑いあっていた。時折ウサギがピョンピョン道を横切るのに出くわすこともあった、もし静かにじっとしていればだが――アンとダイアナもそんなことはブルー・ムーンに一度だけ[訳注:非常にまれなこと]だった。谷の方へと道を下ると小径は主街道に開け、エゾマツの丘を上るとそこが学校だった。
アヴォンリー小学校は白塗りの建物で、廂が低くて窓が広い作りだった。建物の中に入ると、落ち着いた頑丈な古い机が並んでいた。開け閉め可能なその蓋には、どの机も一面に生徒三世代分のイニシャルと象形文字が刻まれていた。学校の建屋は主街道から少し引っ込んでいて、裏手に薄暗いモミの林と小川があった。朝来ると、子供たちはみんな小川の中に牛乳瓶を浸しておき、昼食の時間には飲みごろに冷えているのだった。
九月の初日に、マリラはアンが学校へ出かけていくのを見送った。口には出さなかったが、あれこれと心もとない思いが沸き上がっていた。アンはあんな変わり者だからね。他の子と上手くやっていけるんだろうか? 大体、学校にいる間、口をつぐんでいられるのかね?
しかし事態は、マリラが危惧したよりずっと快調に進んだ。その日の夕方、アンは気分上々で家に帰ってきた。
「ここの学校は好きになれると思うな」アンが評した。「先生はそんなに大した人じゃないと思うけど。いつも口ひげの格好ばかり気にし過ぎ。それにプリシー・アンドリューズを見る目付きが嫌らしいわ。プリシーはもう大人なのよね。十六歳だし、シャーロットタウンのクイーンズ・アカデミーを来年受験する勉強をしてるの。ティリー・ボールターが言ってたけど、先生はプリシーにお熱なんだって。プリシーって、色白で茶色の髪は巻き毛なの、それでとっても優雅にアップにまとめてるのよ。一番後ろの長椅子に腰掛けてるんだけど、先生も一緒よ、大概はね――先生は、授業を教えるためだって言ってるわ。でもルビー・ギリスは見たことあるのよ、先生がプリシーの石盤に何か書いて、プリシーがそれを読んだら赤カブみたいに赤くなってクスクス笑ったんだって。ルビー・ギリスは、授業とは何の関係もないと思うって言ってたわ」
「アン・シャーリー、自分の先生のことをそんな風に噂するなんて。二度と聞きたくないね」マリラの言葉が突き刺さった。「あんたは先生のあら探しに学校に行ってるんじゃないんだよ。あんたは先生から何か教わる立場だし、あんたの仕事は勉強することだと思うがね。これは今すぐ頭に入れといて欲しいよ、家に帰ってから噂じゃ先生がどうしたとか言わないこと。あたしはそんなことは認めないよ。それで、良い子にはしてたんだろうね」
「ちゃんと良い子だったわよ」アンが気楽に言った。「それに、マリラが考えてる程そんなに大変じゃなかったし。あたしはダイアナと一緒に座ってるの。あたし達の席は窓側。輝く水面の湖を見下ろせるのよ。学校に来てる女の子は良い子がたくさんいるわ。みんなでお昼休みに遊んで目茶楽しいだったわよ。一緒に遊べる女の子がたくさんいるって良いわね。でも、ダイアナがもちろん一番好きよ、これからもずっとそう。あたしね、ダイアナを崇拝してるの。あたしは他の子よりずっと遅れてるわ。みんなリーダーの五巻だけど、あたしはまだ四巻なの。なんだか恥ずかしいわ。だけど、あたしほど想像力のある子は誰もいないのよ、それは直ぐに分かったわ。今日の授業はリーディングと地理とカナダ史と書き取り。フィリップス先生が、あたしの綴りは酷いものだって言って、あちこち直されてるあたしの石盤を、みんなが見えるように持ち上げたのよ。すごく恥ずかしかったんだから、マリラ。今日初めて会ったのに、先生はもっと優しくしてくれても良かったと思う。ルビー・ギリスはリンゴをくれたし、ソフィア・スローンは『家まで送らせてもらえませんか』って書いた、可愛いピンクのカードを貸してくれたわ。明日までに返せば良いの。それから、ティリー・ボールターが、午後中ずっとしてても良いって、ビーズの指輪を貸してくれたわ。屋根裏部屋の古いピンクッションに真珠のビーズが付いてるでしょ、あれを外してもらっても良い? 指輪を作りたいの。あ、そうだ、マリラ、ジェーン・アンドリューズがミニー・マクファーソンから聞いたって言ってたけど、プリシー・アンドリューズがサラ・ギリスに、あたしの鼻がとても格好良いって言ってたんだって。マリラ、褒め言葉を貰うなんて生まれて初めてだし、マリラには想像できるかなぁ、奇妙な気分だったわ。マリラ、あたしの鼻は格好良い? マリラだったら本当のこと言ってくれるもの」
「充分結構な鼻だよ」とマリラはそっけなかった。心の中では、アンの鼻は意外なほど格好良いと思っていた。しかしわざわざ教えてあげるつもりはなかった。
ここまでが三週間前のことで、まずは穏やかに何事も無く時は流れた。そして、今日のこの九月のすがすがしい朝、軽い足取りで楽しげに樺小径を下って行くアンとダイアナは、アヴォンリーで一番の幸せな二人だった。
「今日、ギルバート・ブライスが学校に出て来ると思うわ」ダイアナが言った。「夏中ずっとニュー・ブランズウィックのいとこの家に居て、土曜の夜に戻ったばかりなのよ。すっごいハンサムよ、アン。それに、女の子をからかってばかり、酷いのよ。彼ってあたし達女の子にとって、人生の悩みの種だわ」
ダイアナの声の調子では、どちらかというと自分の人生に悩みの種を作って欲しいようだった。
「ギルバート・ブライス?」とアン。「ポーチの壁に、ジュリア・ベルと一緒に名前が書かれてた人じゃない、上に大きく『気になる二人』って書いてある?」
「っそ」とダイアナ、ツンとして見せた。「でもギルバートはジュリア・ベルを特に好きってわけじゃないわよ。九九の表を、あの子のそばかすで覚えたって言ってたもの」
「ねえ、あたしにそばかすのことは言わないで」嘆くアンだった。「傷ついちゃうわ、あたしにはこんなにたくさんあるのに。でも、男の子と女の子のことを『気になる二人』って壁に書き出すなんて、ほんと馬鹿みたい。誰か、男の子とあたしの名前を一緒に並べて書ける人がいたら、見てみたいもんだわ。もちろん、そんなことあるわけないわよ」アンは慌てて付け加えた。「誰もするはずないし」
アンはため息をついた。別に名前を書かれたいわけではなかった。しかし、そんな危険すらないと分かっているのは、ほんの少し屈辱的ではあった。
「何言ってるの」とダイアナ、その黒い瞳とつややかな編み髪は、アヴォンリー小学校の少年達の心に壊滅的なダメージを与え、ポーチの壁にはダイアナの名前入りの『気になる二人』が半ダースも書かれていた。「あんなのただの冗談よ。それに自分の名前は書かれない、なんて安心してられないわよ。チャーリー・スローンはアンにお熱よ。何でも、お母さんに言ったんだって――お母さんによ、分かるでしょ――アンは学校で一番頭の良い子だって。奇麗って言われるよりずっとましよ」
「そんなこと無いわよ」とアン、骨の髄まで女性である。「賢いより可愛いって言われたいわ。それから、チャーリー・スローンは嫌い。あたし、ギョロ目の男の子には耐えられないの。もし誰かがあたしの名前をあの子と一緒に書いたりしたら、絶対立ち直れないわ、ダイアナ・バリー。でもとにかく、クラスでいつも一番なのは良い気分ね」
「これからはギルバートも同じクラスになるわよ」とダイアナ。「それに、今までずっとクラスで一番だったのよ、教えとくわね。まだ四巻しか進んでないのよ、もうすぐ十四歳になるんだけど。四年前にお父さんが病気になって、アルバータに療養に行くので、ギルバートも付き添って行ったの。二人とも三年向こうにいて、こっちに戻って来るまで、ギルは学校にほとんど行ってなかったのよ。これからは一番でいるのは、そんなに簡単じゃなくなるわよ、アン」
「嬉しいわね」アンが直ぐに切り返した。「九つや十の男の子や女の子達の中で一番だからって、自慢にならないもの。昨日『沸騰』という単語の綴りで一番だったのよ。ジョージー・パイが初めに手を上げたんだけど、いい、あの子ったらこっそり本を見てたのよ。フィリップス先生は注意して見てなかったの――プリシー・アンドリューズをじっと見てたから――でもあたしはちゃんと見てたわ。凍りつくような軽蔑の視線を投げたら、赤カブみたいに真っ赤になって、結局綴りを間違えたわ」
「あのパイ家の女の子達って、いつでもズルなのよ」とダイアナが不満をぶちまけた。アンと二人で主街道の柵を乗り越えながらではあるが。「ガーティー・パイなんか、昨日小川のあたしの場所にミルク瓶を置いたのよ。信じられる? 今あの子には口をきいてあげないの」
フィリップス先生が教室の後ろでプリシー・アンドリューズのラテン語を聞いている時、ダイアナがアンにそっと囁いた。
「向こうにいるのがギルバート・ブライスよ、通路のあなたと反対側に座ってるわ、アン。ちょっと見てみなさいよ、ハンサムかどうか確かめてみて」
アンは言われるまま見てみることにした。確かめるには絶好の機会だった。というのも、このギルバート・ブライスなる者は、ルビー・ギリスの長い黄金色のおさげを、こっそりいたずらするのに夢中だったからである。ルビーはちょうど前の席に座っていたので、その席の後ろにピンで留めようというのだった。少年は背が高く、巻き毛で褐色の髪、いたずら好きなはしばみ色の瞳で、口元にはニヤニヤとからかいの笑みを浮かべていた。そのうち、算数の答えを先生に持って行こうと、ルビー・ギリスが立ち上がろうとした瞬間、ルビーはキャーと叫んでバッタリと席に座り込んだ。髪が根元から全部抜けたかと思ったのだ。みんながルビーの方を向いていたし、先生も容赦なく睨みつけるので、ルビーは泣き出してしまった。ギルバートはピンを素早く隠しおおすと、いかにも真面目な顔で歴史の教科書を読むふりをしていた。しかしこの一騒動が収まると、アンの方を見て、何とも言い様のないおどけた仕草でウィンクしてみせた。
「あなたのギルバート・ブライスは、確かにハンサムだと思うわよ」アンはそっとダイアナに打ち明けた。「でも馴れ馴れし過ぎると思う。失礼よ、初めて会う女の子にウィンクするなんて」
しかし、事態が本当に動き出すのは、午後を待たねばならなかった。
フィリップス先生が後ろの隅の席で、プリシー・アンドリューズに代数の問題を説明している間、残りの生徒達は好き勝手し放題だった。青いリンゴを食べている子、ひそひそ話をする子、石盤に絵を描いている子、コオロギを何匹も糸で結んで、通路の前へ後ろへと操る子等々。ギルバート・ブライスは、なんとかアン・シャーリーを振り向かせようとしていたが、全て徒労に終わっていた。なぜならその時のアンは、ギルバート・ブライスの存在だけでなく、アヴォンリー小学校の他の生徒も、アヴォンリー小学校のことすら、すっかり忘却の彼方だったからである。顎を両の掌の上に乗せ、両目を西の窓から楽しめる、青い輝く水面の湖のきらめきに釘付けにしたまま、アンは遠く妙なる夢の国に遊んでいた。聞こえるもの、目に入るものといえば、夢のような自分だけの幻想の景色だけだった。
ギルバート・ブライスは、今まで女の子を振り向かせようとして、首尾良く行かないことはなかった。何で振り向かないんだ、この赤毛のシャーリーとかいう女の子、尖り気味の顎で、大きな目、アヴォンリー小学校の他の女の子とは似てない目をした子は。
ギルバートは通路越しに腕を伸ばして、アンの長くて赤いおさげの一方の端を摘むと、腕を伸ばしたまま、グサッと囁いた。
「ニンジン! ニンジン!」
するとアンが、いきなり振り向いた!
振り向いただけではなかった。弾かれたように立ち上がった。輝き溢るる夢の世界は、今や救いようがないほどの廃虚と化していた。アンは両方の目からギラギラした憤怒の眼差しをギルバートに発した。パチパチはぜる怒りの火花は、込み上げる怒りの涙であっという間に消し去られ、取って代わられた。
「この意地悪、憎たらしい奴!」アンが激怒して叫んだ。「よくも言ったわね!」
そう言うと今度は――バキッ! アンはギルバートの頭に石盤を叩きつけて、かち割ってしまった――頭ではなく石盤を――真っ二つに。
アヴォンリー小学校では、楽しい見せ場があるといつもみんな大喜びだった。とりわけ今回はお楽しみの場面と言えた。みんなから「うわあ」っという恐ろしげなどよめきと、待ってましたの感嘆の声がもれた。ダイアナは息を飲み込んだままだ。ルビー・ギリスは、この子はヒステリー気味だったが、泣き出した。トミー・スローンは、せっかく集めたコオロギ軍団を、この活人画を口を開いたままぽかんと見入っている間に、全部逃がしてしまった。
いつの間にか通路をやって来たフィリップス先生が、アンの肩にガシッと手を置いた。
「アン・シャーリー、これはどういうことだね?」と、怒る先生。アンは何の言葉も返さなかった。血肉を備えた人間相手に、あまりと言えばあまりな問いかけだった。自分が「ニンジン」呼ばわりされただなんて、どうして全学校の衆目の中で言えるだろうか。先生の怒りをものともせず、しっかりと返事を返したのはギルバートその人だった。
「俺が悪かったんです、フィリップス先生。俺がこの子をからかったんです」
フィリップス先生は、ギルバートを全く無視した。
「残念でなりませんね、私の生徒たる者がこのように癇癪を、復讐の心を見せてしまうとは」と勿体をつけて先生が言った。なにやら、自分の生徒であるというだけで、まだ幼く不完全な永遠ならざる生徒達の心の中から、全ての悪しき感情が根絶やしにされているはずだ、とでも言いたいらしい。「アン、教壇の黒板の前で、これから午後いっぱい立っていなさい」
こんな罰を受けるくらいなら、鞭打たれる方が幾億倍もましだった。アンの感じやすい心が、鞭打たれたように震えおののいた。真っ青な固い表情でアンは従った。フィリップス先生はチョークを取って、黒板のアンの頭の上にこう書いた。
「アン・シャーリーは、すぐカッとなります。アン・シャーリーは、気持ちを抑えることを覚えなくてはなりません」そう書くと、まだ字が読めない初等クラスの子でもちゃんと分かるように、はっきりとこの文を読み上げた。
アンは午後いっぱい、頭の上に説明書きを掲げながら立っていた。泣きもしなかった。顔を伏せもしなかった。心の中で未だに熱く燃えさかる怒りが、屈辱の苦悶の中でも良くアンを支えてくれた。憤り溢れる瞳で、怒りに燃えた頬で、アンはみんなと対峙していた。同情溢れる眼差しのダイアナにも、憤懣やる方なく一人うなずくチャーリー・スローンにも、アンを見ては意地悪く笑みをこぼすジョージー・パイにも。ギルバート・ブライス、この方は見ようともしなかった。あんな奴、もう二度と見るもんか! あんな奴に話しかけるもんか!!
学校が終わると、赤毛の頭をツンとさせて、アンは大股で外へ出ていった。ギルバート・ブライスがポーチの戸口でアンを呼び止めようとした。
「ゴメン、髪のことでからかって俺が悪かったよ、アン」小声で申し訳なさそうにそう言った。「本当さ。もう怒らないでくれよ」
アンは見ざる聞かざるで、軽蔑もあらわにサッとすり抜けた。「ねえ、よくそんなことできるわね、アン?」二人が街道の下りに出ると、ダイアナがようやく声に出して言った。半ば非難を込め、半ば感心していた。ダイアナは、自分だったらギルバートの頼みには逆らえないと感じていたのだ。
「あたし絶対許さない、あのギルバート・ブライス」と、アンは不動の決意を見せた。「それからフィリップス先生。あたしの名前にeを付けなかった。我が魂に鉄が打ち込まれたり、だわ、ダイアナ」
ダイアナはアンの言っていることがちっとも分からなかったが、恐ろしい何かであることだけは了解した。
「気にしちゃだめよ、ギルバートが髪のことをからかったからって」アンをなだめようとダイアナが言った。「ほら、女の子はみんなからかわれてるのよ。あたしのことも笑うの、髪が黒すぎるって。カラスって十回以上呼ばれたことがあるわ。だけど、何かあっても今までギルバートが謝ったなんて聞いたことないわよ」
「カラスって言われるのと、ニンジンって言われるのじゃ、あまりにも大きな違いよ」アンが重々しく宣言した。「ギルバート・ブライスはあたしの気持ちを、堪え難いくらい傷つけたのよ、ダイアナ」
この一件は、これ以上の堪え難さもなく立ち消えになる可能性もあった、もし他に何事も起こらなければ。しかし、物事は一旦転がりだしたら、そのまま転がり続けるものなのだ。
アヴォンリーの学生諸君は、松やにのガムを取るため、丘を越えた大きな牧草地の向こうにあるベル氏のエゾマツ林で、昼休みを過ごすことが多かった。生徒達はそこから見える、先生の下宿先であるエベン・ライトの家に注意を払っていた。フィリップス先生の姿がそこから出てくるのが見えたら、生徒達は校舎の方に駆け出すのだった。それでも、ライト氏の家から続く小径に比べ三倍も距離があるので、校舎にたどり着くと、息を切らしてゼイゼイいって、三分ほど遅刻するのだった。
事件のあった翌日、フィリップス先生は、生徒達を改革して進ぜようという突発性の発作にまたもや襲われたので、昼食をとりに下宿に戻る前にこう宣言しておいた。曰く、生徒諸君は私が戻って来るまでに、全員着席していることを是非とも期待します。遅れて来た者はみんな罰することにします、と。
男の子は全員、女の子も数人がいつものようにベル氏のエゾマツ林に出かけた。初めはみんな「ガム一噛み分取る」間だけのつもりだった。だがしかし、エゾマツ林も魅力を発揮し、黄色いガムの塊が誘惑するのだった。ガムを取ってはぶらついて、さまよい歩き、もう授業が始まる時間だと焦って思い出したのは、いつものように、ジミー・グラバーの「先生が来たぞ」と叫ぶ声が、古い長老エゾマツの木のてっぺんから聞こえてからだった。
女の子達は地面にいたから、先頭を切って走り、なんとか時間までに学校までたどり着けた。それでもあます余裕は一瞬しかなかった。男の子達は木の上から、慌てたイモムシのようにのたくりながら下りてこなければならないので、もっと遅れて来た。一方アンは、ガムを取りに行ったのではなく、エゾマツ林のずっと向こう側を放浪しながら、幸せを満喫していた。腰まで届くワラビの茂みを、自分だけに聞こえる小さな声で歌いながら、ライス・リリーの花の冠を髪の上に飾って、影多き国の異教の神にも似ていた。だからアンがみんなの中で一番後だった。しかし、アンは鹿のように身軽に走れたのだ。そうしてアンは走って行ったが、イムプ(小鬼)が仕掛けたかのような気まずい結果が待っていた。ドアの所で男の子達を追い越して、男の子と混じってどやどやと校舎に入り込むことになったのだ。丁度その時、フィリップス先生は帽子を帽子掛けに掛けているところだった。
フィリップス先生のつかの間の改革の熱意は既に失われていた。一ダースもの生徒を罰するのは面倒なことだった。しかし、既に罰すると言ってしまった手前、何かする必要があったので、生け贄の羊を求めて遅れてきた生徒達を見回すと、そこにアンがいた。ようやく席に倒れ込み、息を切らしていたのだ。被っているのも忘れていたライス・リリーの花輪が、曲がって耳に引っ掛かったままで、ことさらにこれ見よがしでだらしなく見えた。
「アン・シャーリー、あなたは男の子達と仲良くするのが大好きなようだから、今日は午後一杯あなたの趣味に合わせて、楽しませてあげることにしましょう」先生は嫌みたっぷりに言った。「髪から飛び出ている花を取って、ギルバート・ブライスと並んで座りなさい」
周りの男の子達がヒヒヒと笑った。ダイアナは、アンが可哀想で青くなりながら、急いでアンの髪から花輪の残骸を外して、アンの手を握りしめた。アン自身は、石に変わったかのように、ただただ先生を見つめるだけだった。
「私の言ったことは聞こえたかね、アン?」フィリップス先生が容赦なく問い質した。
「聞こえました、先生」アンの反応は鈍かった。「でも本気だと思わなかったんです」
「確かに本気ですよ」――またも嫌みの抑揚を利かせていた。子供たちはみんな、特にアンが、大嫌いな言い方だった。その言葉の鞭は生傷に響いた。「直ぐに従いなさい」
ちょっとの間、アンは従わないように見えた。それから、そんなことをしても意味がないと悟って、プライドを支えに立ち上がると、ユラッと通路を横切り、ギルバート・ブライスの隣にトンと腰を落とし、机の上に突っ伏して両腕の中に顔を埋めた。顔が隠れる前に少しだけアンの顔を見ることができたルビー・ギリスが、学校帰りにみんなに語ったところによれば、「っとに、あんな顔見たことないわ――顔面蒼白で、気持ち悪い赤いちっちゃな点々があったんだから」
アンにとって、これは全ての終りにも等しかった。等しく罪を問われるべき一ダースの罪人の中から、一人選ばれて罰を受けるだけでも充分ひどかった。さらにひどかったのは男の子と並んで座らせられる罪に処せられたこと、しかしその男の子がよりによって、なぜあのギルバート・ブライスなのか。このことが侮辱の上に山と重なる辱めとなり、今や耐えられる限度を超えていた。アンは感じた。もはや耐えられる見込みもなく、耐えようとするも愚かだ。我が全身全霊は煮えたぎる、恥と憤怒と屈辱にまみれて。
はじめのうちは他の生徒達も、ジロジロ眺め、コソコソ囁き、クスクス笑い、ツンツンわき腹を突っつき合った。しかしアンが一度も顔を上げず、ギルバートも分数の勉強を始め、心の底から分数に、分数だけに没頭している様子だったので、じきにみんなは各自の課題に戻りはじめ、そしてアンは忘れ去られた。フィリップス先生が歴史の授業を始めた時、アンはそのクラスに出るはずだった。しかし、アンは身じろぎもせず、フィリップス先生の方も、歴史授業の前から「プリシラへ」と題した詩を書き始めていて、厄介な韻について考え考えしていたので、アンがいないのには全く気付かなかった。一度だけ、誰も見ていない時を見はからい、ギルバートは自分の机から小さなピンクのキャンディーを取りだした。ハートの形で、その上には金文字の銘が刻まれていた。曰く「スイートな君」。これをアンの二の腕の下からそっと忍ばせた。すると、やおらアンが起き上がって、ピンクのハートを汚い物でも触るかのように指先で摘んで床に落としたかと思うと、粉々になるまで思いっきり靴の踵ですり潰して、またしても先程と同じ姿勢に戻った。その間ギルバートは、アンからもったいなき拝謁を賜ることはなかった。
学校が終わると、アンは自分の机に大股で戻り、これ見よがしに中の物を洗いざらい取りだした。本、ノート、ペン、インク、聖書、算数の教科書、これを全部壊れた石盤の上にきっちりそろえて積み重ねた。
「それ全部家に持って帰ってどうするつもり、アン?」二人が街道に出ると、すかさずダイアナが聞いた。それまでは怖くて質問できなかったのだ。
「あたし、もう学校には戻らない」とアン。ダイアナは息を飲んでアンを見つめた。本気なのかしら。
「マリラは家に居させてくれる?」そう聞いてみた。
「居させてもらうわ」とアン。「あたし、絶対学校に行かない、あんな男は二度とご免よ」
「ちょっと、アン!」ダイアナは今にも泣きだしそうだ。「そんなの酷いわよ。あたしどうしたら良いの? フィリップス先生は、あたしをあのおぞましいガーティー・パイと座らせるわ――絶対そうするわよ、だって、ガーティーは今、一人で座ってるんだもの。お願い戻って来て、アン」
「あたし、あなたのためなら、この世界でできないことなんかほとんどないわ、ダイアナ」アンが悲しみを込めて言った。「手足を引き裂かれても構わない、それが少しでもあなたの役に立つのなら。だけど、これだけはダメ、だからお願い、もう言わないで。あなたの言葉はあたしの魂をずたずたにしてしまうのよ」
「楽しい事もこれからたくさんあるのよ、それ全部逃してしまうのよ」ダイアナが楽しい未来を悲しく語った。「あたし達、学校の小川を下ったところに、それはそれは可愛い家を造るのよ。それから、みんなで来週ボール遊びをするの。ボール遊びしたことないでしょ、アン。とおっても楽しいんだから。それから、新しい歌も覚えられるのよ――ジェーン・アンドリューズが今練習してるところなの。あと、アリス・アンドリューズが、来週新しいパンジー・ブックを持って来ることになってるのよ、一章ずつ順番でみんなに読んで聞かせるの、やっぱり小川を下ったところでよ。声に出して本を読むのとっても好きでしょ、アン」
どれもこれも心を動かすに足りず、アンは小揺るぎもしなかった。アンは既に心を決めていたのだ。あたしは、フィリップス先生のいる学校なんか、二度と行かない。家に帰ると、アンはマリラにそう伝えた。
「下らない」とマリラ。
「全然下らなくなんかないわ」とアン。マリラを見つめる目には、威厳と非難が満ち溢れていた。「分からない、マリラ? あたしは辱めを受けたのよ」
「辱めだって、馬鹿馬鹿しい! あんたは明日もいつも通り学校に行くんだよ」
「嫌、行かない」アンはゆっくり首を横に振った。「あたし、学校には戻らないわ、マリラ。家でもちゃんと自分の勉強はするし、できるだけ良い子でいる、いつでも口を閉じてることにするから、そんなことができればだけど。でも、あたしは学校に戻らない、本気よ」
アンの、どうあっても譲らない頑固な一面、それがアンの小さな顔に現われているのが、マリラにもはっきり読み取れた。これ以上無理強いしても問題を抱え込むばかりだとマリラは了解した。そこで、もう何も言わずに引き下がることで、上手くその場を収めることにした。「夕方さっそく出かけて行って、レイチェルにこの件を相談しなくては」そう考えたのだった。「今、アンを諭しても聞かないだろう。すっかり血が上って、こうと決めたら全く頑固で手に負えないんだから。あの子の話を聞く限り、フィリップス先生はやり方が強引過ぎたらしいことは分かったわ。だけど、あの子にそう言うのはやめておこう。まずはレイチェルに話を持って行こう。レイチェルは十人の子を学校にやっているんだし、何か子育ての手がかりになることを知っているだろう。それに今ごろは、レイチェルにも一部始終が伝わっているだろうし」
マリラが訪れると、リンド夫人はいつも通り、勤勉に機嫌よくキルトを縫っていた。
「あたしが何しに来たか、もう分かってるんだろう」マリラが言った。少し恥ずかしそうな顔だった。
レイチェル夫人はうなずいた。
「アンが学校で起こした騒動のこと、そうだろう」とレイチェル。「ティリー・ボールターが学校の帰りに寄って、その話をしていったよ」
「あの子をどうしたら良いか分からなくて」とマリラ。「あたしは学校には戻らない、の一点張りでね。あんなに頭に血が上ってる子は見たことないわ。学校に行くようになってから、何か有りそうな予感はあったんだよ。今まで万事順調過ぎたんだね。どうもあの子は神経過敏だから。どうしたら良いと思う、レイチェル?」
「そうだね、あたしの助言が欲しいというんならね、マリラ」と愛想の良いリンド夫人――リンド夫人は、助言を請われるのが好きで堪らなかったのだ――「まずは、ある程度あの子の好きにさせるわ、あたしならそうするね。あたしの思うところでは、フィリップス先生に非があったよ。もちろん、子供達にそう言う必要はないがね。それと、昨日あの子を罰したのは、もちろん正しかったよ、癇癪を起こしたんだから当然さ。でも今日のは事情が違うわ。他の遅れてきた子も、みんなアンと同じに罰するべきだったよ、全く。罰として、女の子を男の子と一緒に座らせるのはどうかと思うね。穏当なことじゃないよ。ティリー・ボールターはほんとに怒ってたね。あの子もアンの肩を持ってたし、生徒達もみんなそうだったってさ。あの子達の中で、アンはなかなか受けが良いみたいじゃないか。こんなに上手くみんなに溶け込めるとは思わなかったね」
「それじゃ、本気であの子を家に置いといた方が良いって思うんだね」マリラは唖然として言った。
「そうさ。あたしなら学校のことはもう一言も言わないよ、あの子が言い出すまでね。大丈夫、マリラ、一週間もしたら頭も冷えて、自分の方から戻るって言い出すようになるさ、全く。だけど、今直ぐ学校に行くようにごり押ししたら、次に何をしだすか分かったもんじゃないよ、珍事件を起こすか、癇癪を起こすかして、また騒動が増えるだけだね。騒ぎは小さいほうが良い、これがあたしの意見だよ。学校に行かなくても、失うものはそんなに多くないよ、あんな事が続くようじゃね。フィリップスさんは、全く先生向きじゃないよ。今の学校の規律ときたら言語道断だよ、全く。ちびちゃん達を放り出しておいて、クイーン校に入学する大きな生徒ばかり構ってるんだからね。今年度は絶対学校を受け持てなかったはずさ、あの人の伯父さんが理事だったからこそだよ。――あの理事会ときた日には、後の二人は顎で使われるだけなんだからねえ、全く。言っちゃ悪いが、この島の教育はどうなることやら、分かったもんじゃない」
レイチェル夫人はやれやれと頭を振った。自分がこの州の教育機構を指揮すれば、何事もずっと良く運営できたに違いないと言わんばかりだった。
マリラはレイチェル夫人の助言を容れ、アンに学校に戻れとは一言も言わなかった。アンは家にいる間、自分で勉強し、家事をこなし、肌寒い秋の黄昏時、夕焼け色に染まりながらダイアナと遊んだ。一方、ギルバート・ブライスとは、道で出会っても、日曜学校でたまたま顔を会わせても、アンはギルバートの脇をすり抜け、氷のように冷たい軽蔑を示すだけだった。ギルバートがアンと仲直りしようと努めているのは明らかだったが、だからといって微塵もアンの心の氷が溶けた様子はみられなかった。ダイアナの仲裁でさえ、一向に報われなかった。アンは明らかに心を決めていた。ギルバート・ブライスを憎み続ける、生きている限り。
しかし、ギルバートを憎むほどに、アンはダイアナを愛した。小さな心の情熱の限り、全ての愛をダイアナに注ぎ込んだ。好きも嫌いも、等しく激しいものだった。ある晩マリラが、甘いリンゴで一杯の籠を下げて果樹園から戻ってみると、黄昏の光に照らされたアンが、東の窓辺に座って苦い涙を味わっていた。
「今度はいったい何だって言うの、アン?」マリラが聞いた。
「ダイアナのこと」アンが豪勢にすすり泣いた。「あたしダイアナが好き、とっても好きなの、マリラ。ダイアナがいなかったら生きて行けない。でも良く分かってるのよ、いつか二人とも大人になって、ダイアナは結婚してしまう、そして遠く離れ、あたし一人が残されるのよ。そしたら、ああ、あたしどうしよう? ダイアナの夫となる人が憎い――憎くて憎くてたまらない。今までずっと想像してたの、全て想像し切ったわ――結婚式も何もかも――ダイアナは雪の衣装を身に纏って、ベールを被り、美しくて自信に満ちて、女王のようなの。あたしは新婦の付添となって、素敵なドレスを着てるんだけど、それもパフ・スリーブなんだけど、それでも、砕けかかった心を微笑みの仮面の下に隠しているのよ。そして言うの、ダイアナ、さようならあ―っあ―っあ――」ここでアンはすっかり泣き崩れ、滂沱の涙を流すのだった。
マリラはクルッと背を向け、顔がヒクヒク引きつるのを隠そうとした。しかしそれも役には立たなかった。近くの椅子に崩れ落ちると、部屋には心の底からの、そして普段は聞かれることのない笑い声が響き渡った。外の庭を通りかかったマシューは、その声に驚いて足を止めた。マリラがあんな風に笑っている、今まで聞いたことがあったろうか?
「やれやれ、アン・シャーリー」マリラが言った。ようやくまともに喋れるようになったのだ。「もし心配の種を探すんなら、頼むから、もっと身近なところにしておくれ。いや、あんたの想像力は大した物だね、重々承知したよ」