グリーン・ゲイブルズのアン, ルーシー・モード・モンゴメリ

マシュー・カスバート、仰天


マシュー・カスバートも栗毛の雌馬も、気ままにゆっくり走っていた。ブライト・リバーまでは8マイルの道のりである。そのなんとも素敵な道は、住みやすそうな農場の間を縫って走っており、あちらこちらで香り豊かなモミの森を抜けたり、野生のプラムがいくつも半透明な花からぶらさがる窪地を横切っていた。香しい息吹が、そこらじゅうのリンゴの果樹園と牧草地から届き、その斜面は遠く水平線の真珠と深紅色の霞に消えていた。そして、

小鳥はみな歌う、まるで
今日ばかりが夏の日であるかのように

マシューは、マシューなりに馬車の旅を楽しんでいた。道で女性に会って、会釈せざるをえないときを除いて。プリンス・エドワード島では、見知らぬ人でも、道ですれ違うときは誰であれ会釈する習わしだった。

マシューは、マリラとレイチェル夫人は別だが、世の女性を恐れていた。この不可思議な神の想像物達は、裏で自分を笑い物にしていると感じ、どうも落ち着かないのだった。マシューがそう思うのも無理はなかった。見た目が風変わりな人物だったからである。優雅とは程遠い姿で、長い鉄灰色の髪は猫背の背中まで届きそうだし、あご全体を覆う柔らかいとび色のあごひげは、はたちの歳からはやしつづけていたものだった。実際、マシューがはたちだった時の姿と60の今の姿は、白いものが混じっていない以外に変わらないように見えた。

マシューがブライト・リバーに着いたとき、まだ列車が来る様子はなかった。早くつきすぎたと思ったので、マシューは持ち馬を小さなブライト・リバー・ホテルの囲いに繋ぎ、駅舎の方へ向かった。駅の細長い乗車場は、誰もいず物寂しい様子だった。目につく生きものといえば女の子が一人だけで、一番はずれに積んだ屋根板の山にちょこんと座っていた。マシューは、それが女の子だと分かったとたん、横歩きでその子の前をなるべく急いで通り過ぎ、目を合わせないようにした。もしマシューがその子を見ていたなら、その子が緊張して堅くなっていたこと、何か期待している態度や表情に、まず間違いなく気がついていただろう。女の子はそこに座って、何かをあるいは誰かを待っていた。座ること、待つことがただ一つその時できることだったから、自分の持てる力の全てをつぎ込んで、座り、待ったのだった。

マシューが駅長とちょうど行き合った時、駅長は切符売り場を一旦閉めて、夕食をとりに帰宅するところだった。マシューは5時半の汽車がもうすぐやってくるのか尋ねた。

「5時半の汽車はとうに着いて、半時間前に出発しとります」駅長はあっさり返事した。「だが、一人お客さんが降りて待っとりますよ。ちっちゃな女の子ですな。そこの屋根板を積んだ上に座っていますよ。あの子には女性用の待合室に行くよう言ったんですが、外に居るほうが良いって大まじめに言われましてな。「外のほうが想像に広がりがある」とこうですよ。あの子は変わりもんですな、まあそういうことです」

「わしは女の子を待っているのじゃないんです」困ったマシューは言った。「男の子を、わしは迎えにきたんです。ここにいるはずなんだが。アレクサンダー・スペンサーの奥さんがその子を連れて、ノヴァ・スコシアからわしのところまで送る手筈になっておったんですよ」

駅長氏は口笛を鳴らしてみせた。

「たぶん、何かの間違いでしょう」駅長が言った。「スペンサー夫人はその女の子と汽車を降りて、私に預けていきました。聞いてるのは、お客さんと妹さんがあの子を孤児院から引き取るということで、お客さんが今にあの子を連れに来るだろう、ということです。この件でが知っていることはこれで全部でして。何処を見ても、もう他には孤児を隠しちゃいないです」

「わしにはさっぱり分からんな」マシューは言った。八方塞がりだった。マリラがここにいたらなんとかなっただろうに。

「それじゃ、あの子に直接聞いたらどうです」駅長は関心ない様子で言った。「あの子なら事情を説明できるでしょうな。自分の考えをすらすら言える子だ、それは確かです。たぶん、向こうじゃお客さん指定の男の子が品切れだったんでしょうな」

駅長は楽しげに歩き去った。空腹だったのだ。不幸なマシューは一人残され、ライオンの巣穴でひげを引っ張るより難しく思われることをするはめになった。あの子に近づき、あの見知らぬ女の子に、孤児の少女に言うのだ、なぜおまえさんは男の子じゃないんだね、と。マシューは心の中で苦悶しながら、体の向きを変えて重い足をひきずり、その子の方へとゆっくり乗車場をおりていった。

女の子は、マシューが前を通り過ぎた時からマシューに注意していたが、今はその一挙手一投足を見つめていた。マシューは目をそらしていたし、もし見たとしても、その子が実はどんな様子か見てとれなかったろうが、普通の人ならばこんなことを観察できただろう。11歳くらいの子供で、来ている服は、短くきつきつでみっともない、黄色っぽい灰色の交織であると。その子は色あせたこげ茶のむぎわら帽子をかぶっていて、その帽子の下あるのは、背中まで長く伸びた2本のおさげ。とても豊かだが、どうしようもなく赤かった。小さな顔は色白でほっそりしており、その上かなりそばかすが目立った。大きめの口元に、大きな目、光の当たりかたと気分によって、ある時は緑に、またある時は灰色にも見えた。

ここまで分かれば普通の人である。並外れた観察者ならさらに付け足したであろう。あごがかなりとがってはっきりしていること、大きな2つの目は生命力と活気に満ちていること、口元はかわいらしく感情が豊かであること、ひたいは広く豊かであること。一口でいえば、われらが洞察力ある観察者はこう結論するであろう。平凡ならざる魂が、このみなし児の女性である入れ物に宿っている。引っ込み思案のマシュー・カスバートが愚かしくも恐れているこの子は。

とはいえ、マシューは自分から話し掛けるという試練からは容赦された。その子はマシューが近づくと判断すると、自分から立ち上がり、一方のやせて日焼けした手で使い古しで時代遅れの旅行鞄の取っ手をしっかり握りしめ、残った手をマシューに差し出したからである。

「マシュー・カスバートさんですね、グリーン・ゲイブルズからいらした?」独特の、澄んだ、感じの良い声で女の子は言った。「お会いできてとっても嬉しいです。心配になってたんです、いらっしゃらなかったらどうしようって。何か起こって来られないかもしれないって、ありとあらゆることを想像してたんです。もし今晩迎えにいらっしゃらなかったら、線路の曲がり角にある、あの大きい野生のサクランボの木まで行って、よじ登って一晩過ごそうと決めてました。あたし、ちっとも恐くないんです。だって素敵じゃないですか、野生のサクランボの木に包まれて眠るなんて、月明かりの中、見渡す限り花で真っ白なのよ、そう思いません? 自分が大理石の邸宅に住んでいるって想像できるかも、でしょ? それに、今晩がだめでも、きっと明日の朝には迎えに来て下さるって思ってました」

マシューは骨ばった小さな手をおずおずと握った。その時、その場で、マシューはこれからどうするか決めたのだった。燃えるような目で見つめるこの子に、間違いだったなんてとても言えなかった。家に連れて帰り、後はマリラにまかせよう。とにかく、この子をブライト・リバー駅にこのまま置いておくわけにはいかないからな、たとえどんな間違いがあったとしてもだ。だから質問とか説明は、グリーン・ゲイブルズに間違いなく戻るまで、全部後回しにしてもいいだろう。

「済まないな、遅くなった」マシューは恐る恐るいった。「こっちだよ。うちの馬が向こうの囲いにいるんだ。その鞄を貸しなさい」

「あ、あたしが持ちます」その子は元気に返事した。「重くないの。あたしの全財産を入れてるんだけど、重くないの。持ちかたが悪いと、取っ手がとれるんです。だから、あたしが持たなくちゃ、持つコツもちゃんと知ってるし。すごく古い旅行鞄なの。あ~あ、おじさんが来てくれたんでほんとに嬉しい、たとえ野生のサクランボの木に包まれて眠るのがすてきだとしてもね。あたし達、ずいぶん遠くまで馬車に乗らなくちゃいけないんでしょう? スペンサー夫人が8マイルあるって言ってたんです。でもあたしは嬉しいわ、馬車に乗るのが大好きなんだもの。なんだか夢みたい、おじさんと一緒に住んで、おじさんの家族になるなんて。あたし、誰かの家族になったことがないの、本物の家族にね。そういえば孤児院は最低だったわ。4ヶ月しかいなかったけど、もう十分。おじさんは孤児院のお世話になったことなんかないだろうし、どんな風だか全然分からないと思うな。想像するよりずっとひどいんだから。スペンサー夫人は、そんなこと言うなんて悪い子だって。でも悪くいうつもりはないのよ。自分が悪い子だって知らないでいたら、悪い子になるなんて簡単ね。根は良い人達だったのよ、そこの孤児院の人達。でも、孤児院を種に想像を広げようなんて無理に近いわ――他の子を種にする方がまだまし。とっても楽しかったわ、周りの子がもしあんなだったらって想像してると。こう想像するの、あなたの隣に座っているあの女の子は、実はさる身分の高い伯爵様のご令嬢で、赤ん坊のころ親元からさらわれた子、さらったのは血も涙もない乳母で、罪を告白する前に死んでしまった、とかね。よく夜更かしして、こんなことを想像してたわ、だって昼間は時間がとれないだもの。だからこんなにやせてるんだと思う。あたし、すっごくやせてるでしょう? 骨にぜんぜん肉がついてないもの。自分が奇麗で、肘にえくぼがあるくらいぽっちゃりしてるって想像するのが大好きなの」

これだけ話終えると、マシューの旅の友はおしゃべりをやめた。息が切れたのと、馬車についたからでもあった。その後しばらく、一言も口をきかなかった。二人は村を離れ、急な丘を下り、柔土まで深く轍が切れた道を過ぎ、土手を走った。土手沿いの満開の野生のサクランボの木と細身の白い樺の並木は、二人の頭の数フィート上まで枝を広げていた。

女の子は片手を伸ばし、馬車の脇をすっている野生のプラムを一枝折った。

「美しい木ね? 土手から伸びてるあの木、何もかも純白でレースでできてるみたい、あの木を見て何か思わない?」女の子が聞いた。

「うむ、そうだな、わからんよ」とマシュー。

「そりゃ、花嫁よ、もちろん。上から下まで純白で装って、魅力的なおぼろなベールをつけた花嫁。花嫁さんは一度も見たことないけど、どんな風に見えるか想像できるわ。あたしは、絶対花嫁になれないと思うな。ありふれてるから、誰もあたしと結婚したくないだろうし。海外宣教師とかでないと無理。海外宣教師なら、あんまり好みがやかましくないと思うの。でも、ほんとにいつか、真っ白な婚礼衣装を着られといいな。奇麗な服って大好き。覚えてる限り、生まれて一度も奇麗なドレスを着たことがないの。もちろん、それだから余計に期待しちゃう、そういうものでしょ? だから、あたしはドレスに身を包まれてきらびやかな自分を想像するのよ。今朝、孤児院を出るとき、とっても恥ずかしかった。だって、こんなひどいお古の交織の服を着てかなきゃならないだもの。そこの孤児はみんなこれを着なきゃいけなかったのよ。ホープタウンのお店の人が、去年、交織を300ヤードぶん孤児院に寄付してくれたの。売れ残ったからだっていう人もいたけど、あたしは、心からの親切で寄付してくれたって信じる方がいいわ、おじさんもそうじゃない? 汽車に乗ってた時、みんながあたしを見て哀れんでるように感じたの。でも、あたしは、自分の勤めに戻って、一番優雅な薄い青の絹のドレスを着てるんだって想像したのよ。だって、どうせ想像するなら価値のあるものを想像したほうが良いもの。そして、いろんな花や羽飾りの大きな帽子、金時計、キッドの手袋とブーツよね。すぐに元気になって、今度の島までの旅を精一杯楽しんだわ。船に乗ってる間もちっとも気分が悪くならなかったし。スペンサー夫人もそうなの、いつもは違うのに。あたしが船から落ちるんじゃないかって見張っていたから、船酔いする暇がなかったんだって。あたしみたいにばたばた走りまわる子は見たことないって言ってたわ。でも、それで船酔いにならなかったんだから、あたしがあちこち見てまわって良かったってことよ、そうでしょ? それに、船から見えるものは全部見たかったんだ。だって、またの機会なんかあるかどうか分からないもの。あ、またたくさん、満開のサクランボの木だ。この島ってどこよりも花が満開なところね。もうここが大好きになったわ。ここに住めるなんてとっても嬉しい。いつもプリンス・エドワード島は世界で一番奇麗な島だって聞いてたので、そこに住んでいるって良く想像したけど、そうなるとは全然思わなかったもの。夢がかなうんだからとっても気分がいいわよね? そういえば、ここの赤い道はとっても変。シャーロットタウンで汽車に乗るとき、赤い道がどんどん現れては消えていくから、スペンサーさんに、何で道路が赤くなるのか聞いたんだけど、そんなこと知らないわ、お願いだからこれ以上質問はなしにして、っていわれたの。もう千回も質問してるでしょう、だって。それくらい質問したかもしれないけど、でも、誰かに聞かなかったら、どうやって世の中の謎を解けるんだろう? それに、いったい何で道が赤いのかな?」

「うむ、そうだな、わからんよ」とマシュー。

「そう、この問題はいつか解決したいものの1つだわ。そのうち問題が全部解決されるって考えると、素晴らしいじゃない? 楽しく生きていけるって感じるもの。ほんとに世の中って面白い。もしみんなが何もかも知ってたら、今の半分も面白くないでしょうね。そんなじゃ想像の広がりがないもの、そうでしょう? そういえば、あたし、しゃべりすぎかな? みんな、いつもそういうのよ。おじさんは、あたしがしゃべらないほうが良い? もしそうだったら、黙ります。やろうと思えば黙ることもできるの、難しいけどね」

マシューは大いに驚いていた。楽しいのだ。口下手な人にありがちだが、おしゃべり好きな人達が嫌いではなかった。ただ、その人達だけで話し、自分が話に加わる必要がない場合であるが。しかし、マシューは女の子の話に付き合うのが楽しいとは思ってもみなかった。正直言って、女達にはうんざりだが、女の子達はもっとひどい。マシューは、女の子達が、ちらちらこちらを見ながら、自分をこわごわ避けて通り過ぎていく様子がいやでしょうがなかった。何か一言でも言ったら、わしが一口で取って食われるとでも思っているみたいじゃないか。こういうのが、アヴォンリー風の育ちの良い女の子達だった。しかし、このそばかすだらけの魔女は全然違った。自分の鈍い頭ではこの子の頭の速い回転について行くのが難しいが、「この子のおしゃべりはなんだか面白い」と思ったのだ。それで、マシューはいつも通り恐る恐る言った。

「ああ、好きなだけしゃべっていて構わんよ。気にならんから」

「わぁ、嬉しい。おじさんとあたしは仲良くやっていけるわね。話したいときに話せて、子供は黙っていなさいなんて言われないなんて、ひと安心だわ。一言しゃべると百万回もそう言われるんだもの。それにみんなあたしのこと笑うのよ、大袈裟な言葉を使うって。でも、もし大きな考えがいろいろ浮かんだら、大きな言葉を使わないと言い表せないでしょう?」

「うむ、そうだな、なんだか筋が通っているな」とマシューは言った。

「スペンサーさんは、あたしの舌は宙に浮いてるって言ってたわ。でも、そうじゃない。ちゃんと片方はしっかりくっついてるもの。スペンサーさんは、あたしの行くところはグリーン・ゲイブルズという名前なんだっていってたの。その家のことはなんでも聞いたのよ。家の周りに何本も木があるんですって。聞く前より嬉しくなっちゃった。あたし、木が好きなの。孤児院では全然木を植えていなくて、ちっちゃい木がちょっとだけあったんだけど、前の方に小さな白塗りの檻みたいなもので囲まれてたの。孤児みたいに見えてたわ、その木がよ。見てるうちにいつも泣きたくなるの。その木に向かってよくいってたのよ、『ああ、なんて可哀想なの、小さな木さん! もし、広大な森の中に他の木と一緒に植えられていたら、コケとジューン・ベルが根っこに生い茂り、小川が遠くなく、鳥が枝の間で歌うなら、あなたも大きくなれたでしょうにね。ここじゃだめね。あなたがどんな風に感じるかちゃんと分かるわ、小さな木さん』今朝、その木を置き去りにするのは可哀想に感じたの。おじさんは、こんな風に何かに引き付けられたことはある? グリーン・ゲイブルズの近くに小川はあるのかな? スペンサーさんに聞くのを忘れてたわ」

「うむ、そうだな、あるよ、家からみて右の下手にな」

「すてき! 小川の近くに住むのが、前からの夢の1つなの。あたしが住むことになるとは全然思わなかった。夢はそんなにかなわないものでしょう? 夢が全部かなったらすてきでしょうね? でも、今、ほとんど完璧に近いほど幸せって感じてるわ。あたしは絶対完璧な幸せにはなれないの。だって、ほら、これ何色だと思う?」

その子は、やせた肩の後ろまで伸びた、長い光沢のあるおさげを引っ張りだし、マシューの目の前に差し出した。マシューは女性の髪の房の色合いを見分けるのは慣れていなかったが、この場合はそんなに疑わしいところはなかった。

「赤、かね?」とマシュー。

女の子は、おさげを後ろに戻しながら、ため息をついた。まさに足元から沸き上がり、長年のすべての悲しみを吐き出すため息だった。

「そう、赤なの」諦めたように、その子は言った。「もうわかるでしょう、あたしが完全に幸せになれないって。これ以外のことならそんなに気にならないのよ。そばかすとか、目が緑だとか、やせてるとかは。そんなの想像でなくしてしまえるもの。あたしは美しいバラの花弁のかんばせで、愛らしい星のような菫の瞳だって想像できるわ。でも、できないの、想像で赤い髪を変えるのは。全てをつくしてやるのよ。あたしは自分に言い聞かせる、「さあ、あたしの髪は神々しい黒、黒く、カラスのぬれ羽色のよう」でもいつもわかるの、そんなじゃなくてただの赤だって。そして私の心はこなごなになるの。一生の間続く悲しみなんだわ。前に読んだんだけど、小説の中である女の子が一生の間、悲しみ続けてたわ。でもその悲しみは赤い髪のことじゃなかった。その人の髪は純粋なこがね色で、アラバスターの額から背中まで波打っていたわ。アラバスターの額ってどんなのかな? ぜんぜん分からなかったわ。おじさん分かる?」

「うむ、そうだな、済まんが分からんな」とマシュー、少し目眩がしてきた。マシューは以前子供の頃に感じたような気分だった。あの時、いつもの男の子にそそのかされて、ピクニックでメリー・ゴー・ラウンドに乗った時だ。

「そう、それがどんな風でも、すてきな何かに違いないわ、だってその人は神のように美しかったんだもの。おじさんは、神のように美しいってどんな風に感じるか、想像したことある?」

「うむ、そうだな、いや、わしはないな」マシューは率直に打ち明けた。

「あたしは何度かあるわ。もしどれか選べるとして、おじさんだったらどれがいい、神のように美しいのと、目が眩むほど賢いのと、天使のように善良なのと?」

「うむ、そうだな、わしは、わしにはさっぱりわからんな」

「あたしもそう。どれも選べない。でも実際の違いは大してないわ。あたしがどれかになれるなんて、ありっこないもの。確かに、あたしが天使のように善良になるなんて、絶対無理ね。スペンサーさんが言ってたんだけど、あぁ、カスバートさん! あぁ、カスバートさん! あぁ、カスバートさん!!!」

これは、スペンサー夫人が言った言葉ではなかった。この子が馬車からころげ落ちたわけでも、マシューがなにか驚くことをしたわけでもなかった。二人は単にゆるやかに道を曲がり「並木道」に入っただけだった。

「並木道」そうニューブリッジの人達に呼ばれるのは、400から500ヤード道が続くところで、枝を大きく広げたリンゴの大木が道沿いにアーチをかけていた。何年も前に変わり者の老農夫が植えたものだ。頭上高く、芳しい花の雪で覆われた円天井が連なっていた。枝々の下を見れば、大気は深紫色の黄昏で満ちていた。遠く向こうに残るのは、夕陽に染められた日没の空、それは大聖堂の側廊の一番奥に鎮座する、ステンドグラスの大窓のように輝いた。

あまりの美しさに、その子は口もきけなくなったようだった。馬車から後ろに乗り出して、やせた手を胸の前で組み合わせ、感動にあふれるその顔は、頭上のまっ白な輝きを仰ぎ見ていた。そこを通り過ぎても、ニューブリッジに続く長い坂道を下っても、動きも話もしなかった。まだ感動の名残を顔に残しながら、陽が沈みゆく遠く西をじっと見つめていた。その二つの目は、その燃え上がる背景に重なる、いつまでもとぎれのない、輝く幻影を追っていた。ニューブリッジに入り、その騒がしい小さな村で、犬が何匹もこっちに向かっては吠え、小さな子供達は大声を上げては窓ごしに興味津々の顔をのぞかせても、二人を乗せた馬車はまだ沈黙の内に走り続けた。村を後にして3マイル余りがいつの間にか過ぎ去り、それでもまだその子は何も語ろうとしなかった。その子は沈黙を守ることができた、確かにそうだった。元気いっぱいおしゃべりできるのと同じくらいに。

「なんだか、大分疲れたようだし、腹も減ったんじゃないかね」マシューはようやく言ってみた。長いこと黙ったままな理由は、それしか思い付かなかったからだ。「だがな、ここからそれ程遠くは走らんよ、あとほんの1マイルだ」

その子は、深いため息をひとつついて、自分だけの夢想の世界から戻って、夢見るまなざしでマシューの方を向いた。その魂は星に導かれ、たった今まではるか遠くをさすらっていたのだ。

「あぁ、カスバートさん」その子は小さな声で言った。「さっきのところ、あたし達が通リ抜けた、あのまっ白なところ、あれは何?」

「うむ、そうだな、きっと並木道のことだな」ややしばらくあれこれ考えてから、マシューは言った。「あれは奇麗な場所かもしれないな」

「奇麗? そんな、奇麗じゃあの場所にぴったりの言葉じゃないと思うわ。美しい、でもないわ。そんな言葉じゃ追い付かないの。そうだ、夢のよう、夢のようだわ。今まで見た中で初めてのものだもの。想像の力でももうこれ以上良くできなかったもの。ここに来て本当に良かった」その子は、片手を胸にあてた。「あのせいで、気の遠くなるような変な痛みを感じるの。でも気持ちの良い痛みだわ。今までそんな痛みを感じたことある、カスバートさん?」

「うむ、そうだな、そんなことがあったか、ちょっと思いだせんな」

「あたしはいくらでもあるわ。すっごく美しい何かを見るといつもよ。でも、みんな、あの魅力的なところを、並木道なんて呼んじゃだめよ。そんな名前じゃ、何の意味も込められていないもの。こんな風に呼ばなきゃ、そうだなぁ、胸打つ白き路。なかなか想像性豊かな名前じゃない? どこかの場所や人の名前が気に入らない時は、いつも新しい名前を想像して、そういう名前なんだと思う事にしてるの。孤児院に、ある女の子がいたんだけど、名前がへプジバ・ジェンキンスなの。でもいつもその子の名前がロザリア・ドヴィアなんだと想像してたわ。他の人達はあそこを並木道と呼ぶのかもしれないけど、あたしはいつも胸打つ白き路と呼ぶことにするわ。本当にあとほんの1マイル行けばあたし達の家に着くの? あたし嬉しくて悲しいわ。悲しいのは、このドライブがとても楽しかったから。楽しいことが終わると、いつも悲しくなるの。何かもっと楽しいことが後からあるかもしれないけど、そんなこと分からないもの。それに、ありがちなのは、もっと楽しくなんかならないってこと。とにかく、そんなのばっかり、あたしの体験って。でも、あたし嬉しいわ、自分の家ができるって考えると。覚えている限り、本当の家があったことってなかったの。あの楽しい痛みをまた感じるわ。本当の真実の家に帰るって考えるだけで。あ、あれ奇麗じゃない!」

二人は丘の丁度頂を越えたところだった。二人の下手には池があり、川といって差し支えないほど細長く、曲がりくねっていた。橋が一本中程に渡されて、池の下手の端は、琥珀色の砂丘の帯がその向こうの深い青の湾から仕切っていた。橋から下手に至るまで、池は次々と変わるたくさんの色相からなる美の極みだった。クロッカス、バラ、天空の緑、そして未だ誰も名付けたことのない言葉を越えた諸々の色合いからなる、何よりも魂を揺るがす陰影だった。橋の上手では、池の流れはモミとカエデの木立が並び、木々の揺らめく影ぼうしの中に、暗くただ透明な姿を横たえていた。そこかしこで野生のプラムが川岸からしなだれかかり、まるで白い衣装の少女が爪先立ちして水面に姿を映しているようだった。池の始まりにある沼地からは、悲しげだが心地良い蛙の合唱がはっきりと聞こえてきた。小さな灰色の家が一件、ずっと向こうの坂の白いリンゴの果樹園から見え隠れしていた。それほど暗くなってはいなかったが、部屋の明かりが窓の1つからもれてキラキラ光っていた。

「あれはバリーの池だよ」マシューが言った。

「う~ん、その名前も好きじゃないわ。あたしだったら、そうね、輝く水面みなもの湖って呼ぶわ。そうよ、それがぴったりな名前よ。背中がぞくぞくしたからわかったわ。ちょうど似合った名前を思い付くと、背中がぞくぞくするの。おじさんは、何かぞくぞくした経験ある?」

マシューは、記憶を何度も反芻してみた。

「うむ、そうだな、あるよ。キュウリの苗床を掘ると出てくる白い地虫を見ると、いつもぞくぞくするな。あの形が嫌でな」

「そんなぁ、おなじ種類のぞくぞくとは思えないな。おじさんはそう思うの? 地虫と輝く水面の湖とは、大して関係なさそうだもの、でしょ? そういえば、どうしてみんなはバリーの池って言うの?」

「思うに、バリーさんが、坂の向こうのあの家に住んでるからだな。果樹園坂が屋敷の名だ。あの屋敷の後ろの大きなやぶがなかったら、グリーン・ゲイブルズがここから見えるはずだよ。だが、あの橋を渡って道なりに曲がると、あと半マイルばかりだ」

「バリーさんに小さい女の子はいるの? えっと、そんなに小さくなくて、あたしぐらいの」

「11歳の子が一人いるな。名前はダイアナだ」

「すごい!」大きく息を吸いこむと、「何て素敵な名前、完璧ね!」

「うむ、そうだな、わしにはわからんが。何やら、ひどく異教徒臭いと思うがな。ジェーンとかメアリとか、そういうちゃんとした名前の方が良いがな。そういえば、ダイアナが生まれた時、学校の先生が下宿していて、その先生に名前を付けてくれるよう頼んだんだが、それでダイアナという名が付けられたんだよ」

「あたしが生まれた時に、そういう学校の先生が周りにいたら良かったのに。あ、ほら橋に着いたわ。ぎゅっと目をつぶるね。あたし、いつも橋を渡るときは恐くなるの。どうしても想像してしまうんだもの、もしかして橋の真ん中まで来たら、橋がジャック・ナイフみたいに、ぐしゃっと折れて挟まれるかもって。だから目をつぶるの。でも、真ん中まで来たなって思うと、いつも目をあけちゃうのよ。だって、そうよね、もし橋がほんとに折れるんなら、どうしても見てみたいもの。ガラガラ、ゴロゴロ、楽しい音よね! あたし、ゴロゴロいうところは、いつも楽しめるわ。好きなものがこの世に、こんなにいっぱいあるのって、素晴らしいことじゃない? ほうら、渡った。もう後ろを向けるわ。おやすみ、輝く水面の湖さん。好きなものには、必ずおやすみの挨拶をするの。人に挨拶するみたいにね。たぶん喜んでると思うわ」

二人がもう一つ丘を越えて曲がり角を曲がったところで、マシューが言った。

「家までもうすぐそこだよ。あれがグリーン・ゲイブルズだ、向こうの――」

「あぁ、言わないで」慌てて遮ると、マシューの上げかけた腕を押さえ、しぐさが見えないように目をつぶった。「あたしに当てさせて。ちゃんと当てて見せるわ」

女の子は目を開けてあたりを見回した。二人は丘の頂上にいた。陽は少し前に沈んでいたが、まだ、あたりの風景は、まだ空に残るやわらかな光の中に浮かび上がっていた。西には教会の尖塔が暗くマリゴールドの空を背に高くそびえていた。下手は小さな谷地で、その向こうには、居心地良さそうな農場が散在する緩やかな長い坂があった。一つまた一つと、その子の視線が投げかけられた、熱心に、そしてあこがれるように。ようやくその目が落ち着いたのは、左側遠くの、街道からだいぶ引っ込んでいて、周りを森で囲まれた、たそがれの中で花盛りの木々がぼんやりと白く見える一件の農家だった。その上に広がる清浄な南西の空には、大きな水晶のように透明な星が、導きと約束の灯のように輝いていた。

「あの家ね、そうじゃない?」指差してその子は言った。

マシューは、満足そうに栗毛の背中に手綱をくれた。

「うむ、そうだな、当たりだ! だが、思うに、スペンサーさんがいろいろと話してくれてたんで分かったんだろう」

「いいえ、話してもらってないわ。本当にそうなの。スペンサーさんが話してくれたことは、他の家でも大概当てはまるようなことだったし。あたしは、どんな風な様子か全然知らなかったもの。でも、あの家を見たとき、これがあたしの家なんだと感じたの。あぁ、何だか夢の中にいるみたい。ねえ、おじさん、あたしの腕は肘から上が青黒くなってるに違いないわ。朝から自分で何度も何度もつねったもの。しばらくすると、ものすごく気持ち悪くなって、何もかも夢なんじゃないかって心配になるの。でも、もし夢だったとして、できるだけ長く夢を見ている方が良いって、不意に思い付いたの。それで、つねるのをやめたのよ。でもそれが現実になって、あたし達はもうすぐ家に帰るんだわ」

喜びのあまりため息をついて、女の子は沈黙へと逆戻りしていくのだった。マシューは、落ち着かないように身動きした。有り難かったのは、自分ではなくマリラが、この、世間をさ迷う宿無し児に、憧れていた家は、結局のところおまえのものではないと、告げることになるだろうということだ。二人の乗せた馬車はリンド窪地を過ぎた。そこは既にすっかり暗くなっていたが、リンド夫人がリンド家の窓から二人を見物できないほど暗くもなかった。そして、丘を登りグリーン・ゲイブルズの長い小径へと入っていった。建物に到着するころまでに、マシューは、自分でも理解しがたい力を込めて、真実が暴露される時が刻一刻近づくのをなんとかして避けようとしていた。マシューは、マリラのことでも、自分のことでもなく、この取り違えからおそらく生じるであろう、二人を巻き込むごたごたでもなく、この子ががっかりするだろうことを案じていた。この子の目から喜びの光が消え去るのだと考えると、何かを殺す手伝いをするような、どうにも不愉快な気持ちになるのだった。子羊や子牛、あどけなくてまだ小さい生き物を殺さなくてはならない時に沸き起こる気持ちと同じだった。

馬車で乗り付けた時には、庭はすっかり暗くなっており、庭の周りではポプラの葉がさやさやと鳴っていた。

「聞いて、ポプラの木が眠りながらおしゃべりしてるのよ」マシューがその子を馬車から抱き降ろす時、女の子は囁いた。「きっと、素敵な夢を見てるんだわ!」

そして、「全財産」を詰めた旅行鞄をしっかり握り締め、その子はマシューに続いて家の中に入っていった。


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