「あ~あ、所詮この世は出会いと別れ、リンドさんの言う通りだわ」と、哀愁を漂わせてアンがもの申した。六月最後のその日、石盤と教科書を台所のテーブルに置きながら、赤く充血した目を、ぐしょぐしょにぬれたハンカチで拭うアンだった。「ラッキーだったわよね、マリラ、今日学校に一枚余計にハンカチを持って行って? 何となく要りそうな予感がしたのよ」
「これは夢々思いもしなかったねぇ、あんた、そんなにフィリップス先生が好きだったのかい。先生とさよならするだけなのに、ハンカチを二枚も使って涙を拭かなきゃならなかったとはね」とマリラ。
「先生を本当に好きでしょうがないから泣いたんじゃない、と思うけど」己を振り返ってアンが言った。「あたしが泣いたのは、みんなが泣いたからよ。泣きはじめたのはルビー・ギリスなの。ルビー・ギリスはいつもみんなに言ってたのよ、フィリップス先生なんか大嫌いだって。でも先生が惜別の辞を言い始めようと席を立ったら、それだけで大泣きしちゃったの。そしたら女の子がみんな泣きだして、あの子が泣きこっちの子が泣き、順によ。あたしはなんとか踏ん張ろうとしたわ、マリラ。フィリップス先生があたしをギル――男の子と並んで座らせようとした時のことを、なんとか思い出そうと頑張ったの。それから、黒板にあたしの名前をeを抜かして書いたことも、今まで教えた生徒の中で幾何の出来が最悪だって言われたことも、綴りで笑われたことも、それに、いつもチクチクいじめられたり、いやみを言われたことも思い出そうとしたの。でもどうしてか分からないけど思い出せなかったのよ、マリラ、だからあたしも遂に泣いちゃった。ジェーン・アンドリューズなんか、一ヶ月も前から、フィリップス先生が出て行ってくれて、嬉しくてしょうがないわ、涙をこぼすなんて絶対ありっこないって言いふらしてたわ。ところがどう、あの子が誰より一番泣いたのよ。お兄さんからハンカチ借してもらったんだから――もちろん男の子は泣かなかったし――ほら、自分のハンカチを持って来なかったのよ、要るわけないと思ってたから。ふぅ、マリラ、あたし胸が引き裂かれるかと思った。フィリップス先生の惜別の辞は、実に素晴らしかったわ。こう始まるのよ、『遂にこの時がやってきました、皆さん、お別れです』心にしみる言葉だったわ。先生も目に涙を滲ませてたのよ、マリラ。どうしよう、あたし物すごく悪い子だったわ、何度も授業中お喋りしたり、石盤に先生の悪戯書きして、先生とプリシーの事をからかったり、あんなことしなきゃ良かった。ミニー・アンドリューズみたいに模範的な生徒だったらと思うわ。あの子だったら、何も心に咎めることなんか無いわよ。学校の帰り道も、あたし達女の子達は泣きながら帰ったわ。キャリー・スローンが何分かおきに繰り返すの、『遂にこの時がやってきました、皆さん、お別れです』って。だからそれを聞くとまた泣きだしちゃって。もう大丈夫、もう元気になれるかなって時になると必ず言うんだもの。あたし、今も大きな悲しみに抱かれているのよ、マリラ。でも、誰だって絶望の深みにはまってばかりもいられないわよね、これから二ヶ月のお休みが待ってるんだもの、でしょ、マリラ? それにね、あたし達帰り道で新任の牧師さんと奥さんが駅からいらっしゃるのにすれ違ったの。フィリップス先生とお別れするのは悲しいけど、それはそれとして、新任の牧師さんにもちょっと興味あるじゃない? 奥さんはとっても可愛らしい人だったわ。あまりにも素敵過ぎるってわけじゃないわよ、もちろん――たぶん、牧師の奥さんがあまりにも素敵過ぎるのは良くないんじゃないかな。だって、悪い前例になりかねないもの。リンドさんが言ってたけど、ニューブリッジの牧師さんの奥さんは、悪い例なんだって。ドレスの流行を追いすぎるからだって。うちの村の牧師さんの奥さんは、青いモスリンの服で、素敵なパフ・スリーブだったし、バラ飾りの帽子をかぶってたわ。ジェーン・アンドリューズは、パフ・スリーブなんか着て、牧師の奥さんにしては世俗的で着飾りすぎよって言うけど、あたしはそんなに目くじらたてたりしないの、マリラ。なぜかっていうと、あたしにはパフ・スリーブを着たい気持ちが痛いほど分かるんだもの。それにほら、牧師の奥さんになってまだ日が無いでしょ、だから多少のことには目をつぶってあげなきゃいけないと思うの、そうよね? 牧師さん達、牧師館の準備ができるまでリンドさんちにお世話になるのよ」
もし、その晩リンド夫人宅に出かけたマリラが、昨年冬から借りっぱなしのキルト用枠を返す以外に、リンド家に行きたい訳があったとしても、それは罪の無い弱点と言えた。それに、アヴォンリーの村人なら多かれ少なかれ持ちあわせていた弱点でもあった。その晩、リンド夫人の元には、借り手の元に預けられたままになっていた物が、山のように戻ってきた。中には、二度と目にすることは無いだろうと諦めていたものも幾つか含まれていた。新任の牧師、しかも奥さんを同行している牧師とあっては、この平穏で小さな田舎村、どんな事件とも縁遠く、めったに何も起きないこの村では、興味の的にならざるをえなかったのだ。
老ベントリー氏、アンが想像力なしと酷評した牧師であるが、この人がアヴォンリーで牧師を勤めて既に十八年の歳月が流れていた。着任した時には妻をなくして一人ものだったし、結局やもめ暮らしのまま終わった。牧師が毎年どこかの家に一時逗留するたびに、この人と結婚するんだって、いいえあの人よ、別な人よと、きまって口さがない噂が飛び交うのだったけれど。今年の二月には、教区を預かる勤めを辞して、人々が名残惜しむ中、この地を去っていった。神の代弁者としては今一つ力不足だったとはいえ、たいがいの人は、人の良いこの老人と長年つき合ううちに、いつしか親しみの気持ちを抱くようになっていたのだ。それからというもの、アヴォンリー教会では、ありとあらゆる宗教道楽を楽しめるようになった。日曜になると、十人十色の牧師候補や「代理牧師」達が入れ替わりやってきては、売り込みの説教合戦をしていくのだった。そして、この神の国ならぬ村に住まう父と母なる人々の審判にさらされて、あるものは及第し、あるものは落第と裁定された。それとは別に、馴染みのカスバート家の信徒席の端におとなしく座っている、ある幼い赤毛の少女も、牧師候補らに関しては独自の意見を持っていたので、マシュー相手に微に入り細に入り、同様の吟味を重ねるのだった。マリラはどんな形であれ、牧師を論評することは避ける主義だったから、そのような議論はいつも丁重にお断り申し上げていた。
「あたしはスミスさんはそれほどじゃなかったと思うな、マシュー」と、これがアンの最終弁論だった。「リンドさんは、あの人の話しぶりがかなりまずいって言ってたけど、あたしの意見では、あの人の最大の欠点はベントリーさんの欠点と同じだと思う――想像力に欠けてるってことよ。テリーさんは逆にあり過ぎだったな。あたしが呪いヶ森のことで失敗したみたいに、想像力が一人歩きしちゃってるの。それに、リンドさんによると、あの人の神学は正統じゃないんだって。グレシャムさんはとても良い人だし、とても信心深いんだけど、可笑しな話しが多過ぎて、礼拝中にみんなを笑わせちゃうんだもの。威厳に欠けるのよね、牧師なんだからもっと威厳があっても良さそうなのに、ねえ、マシュー? あたし、マーシャルさんは断然気に入ったな。でも、リンドさんの話しでは、あの人は結婚してないし、婚約もしてないんだって。手を回して問い合わせてみて分かったのよ。若い未婚の牧師をアヴォンリーに迎えるのは良くないらしいわよ。信徒の誰かと結婚するかもしれないし、そうなると何かとトラブルの元になるからなんだって。リンドさんってすごい。よくそこまで分かるわよね、ね、マシュー? アラン牧師さんにお任せすることになってとっても嬉しいわ。あたし、あの人好きだな。だって、説教は聞いてて飽きないし、お祈りは心から祈っているようだし、惰性でお祈りしてるのとは違うみたいだもの。リンドさんは、アランさんでもまだ欠点はあるって言うのよ、年俸七百五十ドルの牧師に欠点の無いことを期待するほうが間違ってるだろうね、だって。とにかくアランさんの神学は正統なのよ、おばさんが教義の核心について、徹底的に質問をして確認してるんだから。アランさんの奥さんの親戚筋を、おばさん知ってるのよ。ちゃんとした人達だし、女の人達はみんな良い主婦だそうよ。リンドさんは、男の教義が正統で、女が良い主婦なら、牧師の所帯としては理想的な組み合わせなんだって言ってた」
新任の牧師とその妻は、若々しくいつも楽しげなカップルで、いまだハネムーンのアツアツ気分だった。そして二人で選んだ一生涯の仕事を遂行しようと、理想に燃え、意欲満々だった。アヴォンリーの人々もそれに答えて、着任早々から暖かく二人を迎えたのだった。高い理想を掲げた、このざっくばらんで元気な青年と、牧師館の女主人役を勤めることになった、ほがらかで優しい若奥様は、老いも若きも問わず、みんなに気に入られた。アラン夫人といえば、アンはその場で一目ぼれ、心の底から愛するようになった。ここにも一人、同じ波長の人を見つけたのだ。
「アランさんって素敵、完璧ね」ある日曜の午後、アンはそう結論付けた。「あたし達のクラスの受け持ちになったんだけど、とっても良い先生なんだ。授業が始まると、さっそくこうよ、『先生だからといって、質問する権利を独り占めするのは不公平だと思います』。これね、マリラ、あたしがいつも思ってたことと全く同じなのよ。何でも好きに質問しても構わないっていうので、すごくたくさん質問しちゃった。あたしって質問が上手なのよ、マリラ」
「確かにそう思うよ」と、マリラのお墨付き。
「他には誰も質問しなくて、ルビー・ギリスが一つしただけ。今年の夏も日曜学校のピクニックはあるんですか、だって。もっと考えて質問すれば良いのに。だって授業と全然関係ないもの――授業はライオンの洞窟に投げ込まれたダニエルについてだったわ――でもアランさんはね、にっこり笑って、きっとありますよって言ったのよ。アランさんの笑顔って素敵。ほっぺにすっごく可愛いえくぼができるの。あたしにもえくぼがあったら良いのにね、マリラ。ここに来た時の半分もやせっぽっちじゃ無いけど、えくぼはまだできないのよね。もしえくぼがあったら、周りの人に良い影響を及ぼしてたかも。アランさんから、あたし達は他の人達に良い影響を与えられるよう、努力するべきなんだって言われたの。どんな話題でも話し上手なのよ。信仰生活がこんなに楽しいものだって、あたし知らなかった。いままでずっと、何か暗い感じだなぁって思ってたけど、でもアランさんは違うのよ。だからあの人みたいになれるなら、クリスチャンになるのも悪くないわね。でも、教会監督のベルさんみたいにはなりたくないなぁ」
「なんていけない子なんだか、ベルさんのことをそんな風に言うなんて」と、マリラがきつくたしなめた。「ベルさんは本当に良い人なんだよ」
「それはもちろん、良い人よ」アンも認めた。「でも、良い人だからって別にどうとも思ってないみたい。もしあたしが良い子になれたら、踊ったり歌ったり、一日中そうしてるわ。だって嬉しいじゃない。アランさんはもうすっかり大人だから、踊ったり歌ったりはしないと思うし、もちろんそんなことしたら、牧師の奥さんの威厳も何もあったもんじゃないわね。だけど、あたしには分かるの、アランさんは自分がクリスチャンで嬉しいのよ、それと、もしクリスチャンでなくても天国に行けちゃうとしても、やっぱりアランさんはクリスチャンになってたと思うな」
「アランご夫妻を、近々お茶にお招きしないといけないだろうね」考え考えマリラが言った。「二人とも、ほとんどの家を回ったし、残ってるのはうちぐらいだよ。そうだね。今度の水曜日ならお招きするのに丁度良いか。でも、この事はマシューに一言も言っちゃダメだよ、牧師さん達をお招きするなんて聞いたら、きっと何か口実を作って、その日は逃げ出すに違いないからね。ベントレーさんには慣れてたから、気にもしなかったけど、新任の牧師さんと近づきになるのは大変そうだし、まして見たこともない牧師の奥さんと同席なんかしたら、恐ろしくて死んでしまうよ」
「口無き死者の如く秘密にしとく」とアンが保証した。「それでね、マリラ、今度のお招き用に、ケーキを作らせてくれない? アランさんのために、どうしても何かしてあげたいの。あたし最近は、ケーキを作るのずいぶん巧くなったじゃない」
「レイヤー・ケーキなら作っても良いよ」と、マリラが約束した。
月曜と火曜のグリーン・ゲイブルズは、色々な準備でてんやわんやだった。牧師夫妻を夕食に招待するというのは真剣かつ重要なイベントなので、マリラは気合い充分であり、アヴォンリーの主婦の誰にもひけをとるつもりはなかった。アンは大喜びで、嬉しくてしょうがなかった。火曜の夕方には、薄暮の中で、ダイアナに何もかも話して聞かせた。二人はドライアドのお喋り泉のそばの、大きくて赤い石に仲良く座って、小枝を香りの良いモミの樹脂に浸して、水の上に虹を作っていた。
「全て準備万端整ったわ、ダイアナ。あとは明日の午前中に作るあたしのケーキと、ベーキングパウダー・ビスケットだけ。これはマリラがお茶の時間の直前に作るの。マリラもあたしもここ二日は忙しくて目が回るくらい、ホントよ、ダイアナ。責任を痛感するわ、牧師さんのご家族を昼食にお招きするんだものね。こんな経験をくぐり抜けるのは初めてだもの。うちの食料貯蔵室を是非とも見ておくべきだわ。これは見物よ。まずはじめにゼリー・チキンとコールド・タンを出すの。次にゼリーが二種類、赤と黄色ね、そして、ホイップ・クリームとレモン・パイ、チェリーパイ、クッキーが三種類、フルーツ・ケーキ、あと、マリラの名高い黄色いプラムの砂糖漬け、これ特別ゲスト用で牧師さんにしか出さないの。それから、パウンド・ケーキにレイヤー・ケーキ、あと、さっき言ったビスケット。パンはできたてと、少しおいたものの両方よ。牧師さんが消化不良で、できたてを食べられないと悪いから。リンドさんが言ってた、牧師って消化不良になりがちなんだって。でも、アラン牧師は牧師になって間が無いから、できたてでも体に障らないと思うな。あたしが作るレイヤー・ケーキのことを考えただけで、体が冷たくなるわ。ねえ、ダイアナ、上手くできなかったらどうしよう! ゆうべの夢で、頭が大きなレイヤー・ケーキ製の、怖~いゴブリン(小鬼)に追いかけ回されたんだから」
「上手くできるわよ、大丈夫」そう言ってダイアナが安心させた。なにかにつけ心強い友であった。「二週間前にお昼用に作ってくれたあれ、空の荒野で二人で食べたじゃない、すっごく上品な味だったわよ」
「ありがと。でも、ケーキ作りにはありがちじゃない、ここ一番上手くできて欲しいって時になると酷い出来になるなんて」と、きれいに樹脂がついた小枝を水の上に流しながら、溜め息をつくアン。「それはともかく、あとは神の意志を信じて、小麦粉を混ぜる時に気を抜かないようにするだけ。ほら、見て、ダイアナ、なんて素敵な虹! あたし達が帰ったら、ドライアドがこれをスカーフにするんじゃないかな?」
「ドライアドなんかいないって分かってるくせに」とダイアナ。ダイアナの母親は呪いヶ森の一件を聞くと、大変な怒りようだった。その結果、ダイアナは、何であれ想像の翼をはためかせる真似すら控えるようになり、想像する心を養うことなど、賢明ならずと考えていた。たとえドライアドといった当たり障りの無いものだとしてもである。
「でも、いるって想像するのはとっても簡単でしょ」とアン。「ベッドに入る前に、あたし、いつも窓の外を覗いて考えるの、ドライアドが本当にここに座ってるんじゃないかな、泉を鏡にして巻き毛を梳いているんじゃないかなって。時には、朝露がおりた後に足跡を残してないか、探すこともあるわ。お願い、ダイアナ、ドライアドを信じるのをあきらめないで!」
水曜の朝がやって来た。アンは朝日とともに飛び起きた。ドキドキして眠れなかったのだ。酷い鼻風邪をひいていたのは、前日の夕方、泉で水遊びしたせいだった。だが、すっかり肺炎にでもならない限り、その朝の料理という問題から、興味が失せることなどありえなかった。朝食の後は、ケーキ作りに取りかかった。そして遂にオーブンの戸を閉めると、大きく息をついたのだった。
「大丈夫、今度は何も忘れなかったわ、マリラ。でも、上手く膨らむと思う? ベーキング・パウダーの質が良くなかったりしたらどうしよう? 新しい缶から出して使ったんだけど。それにリンドさんが言ってた、近ごろは、せっかく買ったベーキング・パウダーも、質が良いかどうか分かったもんじゃない、何もかも紛い物が幅を利かせてるからね、だって。政府がこの問題を取り上げるべきなんだって。でもトーリー党政府の元じゃ、その問題が取り上げられる日は絶対来ないだろうって言ってた。マリラ、ケーキが膨らまなかったらどうしよう?」
「ケーキが無くても、まだたくさんあるからね」と、さめた目で見るマリラ。
それでも、ケーキはちゃんとふくらんだのだった。そして、オーブンから取り出してみると、軽くふわっとして、黄金色の泡のようだった。アンは嬉しくて顔を輝かせながら、手早くルビー色のゼリーの層と重ねていった。そして同時に、こんな風に想像していた。アラン夫人があたしの作ったケーキを召し上がってるわ、ひょっとして聞かれるかも、もうひと切れ頂けるかしら、なあんてね!
「一番良いお茶セットを出すんでしょ、もちろんそうよね、マリラ」とアン。「テーブルをシダと野ばらで飾って良い?」
「そんな馬鹿なことはやめて欲しいね」と鼻で笑うマリラ。「言わせてもらえば、重要なのは食べられるものであって、実の無い飾りつけなんかどうでも良いんだよ」
「バリーさんちではテーブルを飾ったのよ」とアン、エデンの蛇の知恵と全く無縁なわけではなかった。「そしたら、牧師さんから大変お褒めにあずかったんだって。味覚だけでなく、視覚にもすばらしいご馳走でしたって、牧師さんが言ったそうよ」
「なら、あんたの好きにしたら良いよ」とマリラ。バリー夫人だろうが他の誰だろうが、負けてはいられないのだった。「お皿と食べ物を並べる場所だけ残しておくんだよ」
アンは飾り付けのディスプレイに腕をふるい、なんとかバリー夫人を凌駕せんと頑張った。バラとシダとアンの趣味を芸術的かつふんだんに盛り込んだ、この昼食の席という作品は、独特の美しさを放っていた。その見事さにみとれて、席につこうとした牧師夫妻は、思わず異口同音に声をあげることとなった。
「これは、アンがしたんですよ」とマリラ、公正さには気を配った。一方のアンは、アラン夫人の笑顔に報いられて、あまりの幸せに天にも昇る思いだった。
マシューもそこに同席していたが、どうやって篭絡され、このパーティーに集うことになったのかは、神とアンのみぞ知ることだった。どうしても恥ずかしがって、神経質になっていたから、マリラは絶望視して諦めていたのだが、アンが首尾良く手を引いて連れてきたので、マシューはこうしてテーブルにつくことになった。とっておきの上下に身を包み、真っ白いカラーをつけて、牧師相手に、そうつまらなくもなさそうに話しをしていた。アラン夫人には絶対に一言も口をきこうとはしなかったが、それはたぶん、期待するほうが無理というものだろう。
何もかも愉快に過ぎて、結婚式の鐘の音のようだった。そんなところに、アンのレイヤー・ケーキが運び込まれた。アラン夫人は、もう既にあきれるほどの品ぞろえを満喫させられていたので、レイヤー・ケーキは遠慮することにした。しかしマリラは、がっかりしたアンの表情が気になって、笑顔を浮かべるとこう言った。
「まあまあ、一切れだけでもどうぞ、アランさん。アンが奥さんのために作ったものですから」
「そういうことでしたら、味見させて頂かなくてはね」と、笑顔で答えるアラン夫人。きっちり中身の詰まった三角形の一切れを取り分けた。牧師とマリラも一切れずつ取り分けた。
アラン夫人がケーキを一口ほお張ると、世にも奇態な表情が夫人の顔をよぎった。だが夫人は何も言わず、休むことなく平らげていった。その表情を目撃したマリラは、急いでケーキを味見した。
「アン・シャーリー!」とマリラが叫ぶ。「あんたいったい、ケーキに何を入れたの?」
「別に何も、レシピにあったものだけよ、マリラ」と、アンの声が高くなった。心配で顔が歪んでいる。「もしかして、上手く出来てないの?」
「上手く出来てるだって! 酷いとしか言いようが無いよ。アランさん、もう無理しないで下さいな。アン、自分で味を見てごらん。調味料に何を使ったの?」
「バニラ」とアン、ケーキを味見すると、恥ずかしくて顔が真っ赤に染まった。「バニラだけ。そうだ、マリラ、きっとあのベーキング・パウダーよ。怪しいと思ってたのよ、あのベーキ――」
「ベーキング・パウダーだって、馬鹿馬鹿しい! あんたが使ったバニラの瓶を見せてごらん」
貯蔵室に消えたアンが、小さな瓶を持って戻った。茶色の液体が中にまだいくらか残っていて、黄色いラベルに『ベスト・バニラ』と書いてあった。
マリラは瓶を受け取り、コルクを抜いて臭いをかいだ。
「やれやれ、アン、あんた、あのケーキの味付けに、痛み止めの塗り薬を使ったんだよ。先週、塗り薬の瓶を割ったから、バニラの空き瓶に入れ替えておいたんだけど。これはあたしの責任でもあるね――あんたに言っておくべきだったよ――だけど何でまたこの臭いが分からなかったかねえ?」
さらに恥を上塗りされて、アンは涙をぽろぽろこぼし始めた。
「分かんなかったわよ――だって風邪引いてたんだもん!」そう言い捨てたアンは、あっという間に自分の切妻の部屋に逃げ込んで、ベッドに身を投げ出し泣き伏した。誰にも慰めてもらいたくなんかなかった。
ほどなく、軽い足音が階段に響くと、誰かが部屋に入ってきた。
「ああ、マリラ」と、しゃくり上げるアン、顔をあげもしない。「あたし永遠に名を汚したのよ。これはもうダメ、立ち直れない。みんなに知れ渡るのよ――アヴォンリーではいつでも何でも広まっちゃうんだから。ケーキの出来はどう、なんてダイアナに聞かれたら、真実を告げないわけにいかないし。あたし、これからずっと後ろ指さされるのよ、ほらあれが痛み止めの塗り薬でケーキを味付けした女の子だって。ギル――学校の男の子達は、容赦なく笑うに決まってる。ああ、マリラ、もし僅かなりともクリスチャンの憐れみがあるなら、こんな事があった後で、さっさと降りて来てお皿を洗えなんて言わないでね。牧師さん達が帰ったら洗うわ。だけどアランさんとは、もう二度と面と向かって話せない。もしかすると、あたしがわざと毒を盛ったと思うかもしれない。リンドさんは、引き取ってくれた恩人に毒を盛った孤児の女の子を知ってるんだって。でも、あの塗り薬は毒じゃないのよ。体の中に取り込まれるためにある薬なんだもの――ケーキに入れたりはしないけど。アランさんにそう言ってくれない、マリラ?」
「じゃあ、飛び起きて自分で言ってみたらどうかしら」と、陽気な声がそう言った。
アンがガバッと起き上がると、そこにいたのはアラン夫人で、ベッドのそばに立って、にこやかな瞳でアンを眺めていた。
「さあ、良い子ね、そんなに泣かないで」アンの痛ましい表情に心を動かされて、そう言った。「ね、あんな事ただの笑い話だわ、誰でもしちゃいそうな失敗じゃない」
「そんなことないです、こんな失敗するのはあたしくらい」と、絶望的なアン。「あのケーキはすごく上手に作りたかったんです、美味しく食べて欲しかったの、アランさん」
「ええ、分かるわ、ありがとう。あなたの優しさも思いやりも、本当に嬉しく思っているのよ、上手にできた時と変わらないくらいにね。さあ、もう泣かないで、私と一緒に降りて、あなたが育てた花壇を見せてちょうだい。ミス・カスバートが、小さいけどあなただけのお庭があるとおっしゃってたわ。見てみたいのよ、私ね、草花にはとても興味があるの」
ようやくアンも、夫人の慰めの言葉を容れて下に降りる気になった。そして、アランさんが同じ波長の人だったのは、本当に神の意志が働いたのだと、しみじみ実感した。塗り薬ケーキについては、それ以上触れられることはなかった。そしてお客が帰ってしまったところで、アンはふと気がついた。今日の夕方は、思ったよりずっと楽しかったんだなぁ、あんな恐ろしい事件はあったけど、と。それでもなお、深く溜め息をつくアンだった。
「マリラ、素敵だと思わない、明日という日は、真新しくてまだ失敗のない日なのよ?」
「きっと明日になれば、またたくさん失敗するさ」とマリラ。「あんたが何も失敗なしでいられた事なんか無かったよ、アン」
「はい、よぉく分かってます」不本意ながらアンもそう認めざるをえなかった。「でもね、気づいたこと無い? 改善されてるところもあるんだからね、マリラ? あたしは同じ失敗を二度と繰り返さないのよ」
「それのどこが嬉しいのやら。いつでも新しい失敗をしているようじゃね」
「え、分からない、マリラ? 一人の人ができる失敗には、限界があるはずよ。全ての失敗をし尽くしたら、あたしの分はそれで終了。そう考えると元気になれるな」
「それはそうと、あのケーキは豚の餌にしたほうがいいよ」とマリラ。「人間の食べるものじゃないからね。ジェリー・ブートだって食べられやしない」