気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1943年12月3日 イギリスとアメリカの間の警戒心、一九四六年MS、ロンドンのスラム街


タバコ屋での光景。二人のアメリカ人兵がカウンターにもたれかかっていて、そのうちの一人は、嫌がられながらもその店で働く二人の若い女性を口説く程度には意識がはっきりとしているが、もう片方はいわゆる「酒乱」状態だ。マッチを求めてオーウェルが店に入って来る。喧嘩腰の方はなんとかまっすぐに立とうとがんばる。

兵士「おれが言いたいのはアルビオンイギリスは誠実じゃないってことだ。聞いてるか? アルビオンは誠実じゃない。絶対にイギリス野郎を信用しちゃだめだ。イギリス人は信用ならん」

オーウェル「どこがそんなに信用できないんですか?」

兵士「おれが言いたいのはイギリスをぶっ倒せってことだ。イギリス人をぶっ倒せ。何か文句があるか? 文句があるならやってやろうじゃないか」(庭の壁の上の雄猫のように顔を突き出す)

タバコ屋「その口を閉じないとぶん殴られますよ」

兵士「おれが言いたいのはイギリスをぶっ倒せってことだ」(再びカウンターにへたりこむ。タバコ屋が慎重に彼の頭を秤の上から下ろす)

こうした出来事は珍しいことではない。酔っぱらいと娼婦の群れが逆巻くピカデリーを避けたとしても、ロンドンで、今やイギリスは占領下にあるのだと感じずにいられる場所にたどり着くことは難しい。礼儀正しいアメリカ兵は黒人だけだということで世間の意見は一致しているようだ。一方でアメリカ人の不満にももっともなところがある――とりわけ菓子をねだって彼らの後を昼夜ついてまわる子供たちへの不満はそうだ。

こうしたことは重要な問題だろうか? 答えは、イギリスとアメリカの関係がどちらに転ぶかわからなくなった時、あるいはこの国の、日本に理解を示そうといういまだ根強い勢力が再びその頭をもたげられるようになった時には問題になり得るというものだ。そうした瞬間には広まった偏見は大きな影響を持つようになる。この戦争が始まる前、この国では反アメリカ感情は広まってはいなかった。それはアメリカ軍の到着とともに始まり、決してはっきりとは議論されない暗黙の了解によってひどく悪化していった。

今回の戦争においては、私たちの同盟国を批判しないこと、彼らによる私たちへの批判に応答しないことは確固たる方針となっているようだ。その結果として生じるのは遅かれ早かれ最悪の厄介事が引き起こされる可能性だ。一例をあげれば、この国に駐留するアメリカ軍はイギリス臣民に対する犯罪でイギリスの裁判所に裁かれることはないという協定――実質的「治外法権」である。この協定の存在を知っているイギリス人は十人に一人もいないだろう。新聞はほとんど報じず、論評することを控えている。また合衆国における反イギリス感情の存在についても人々は気がつかないよう仕向けられている。イギリス市場向けに慎重に編集された映画からアメリカの姿を思い描いていれば、アメリカ人が私たちについてどんなことを信じて育つのかなど想像もつかないだろう。例えば、平均的アメリカ人は先の戦争でアメリカ合衆国がイギリスよりも多くの犠牲者を出したと考えていると突然教えられれば衝撃を受けるだろうし、そうした衝撃によって激しいいさかいが引き起こされる可能性がある。アメリカ兵の賃金はイギリス兵の五倍であるという事実のような、基本的難題についてさえ広く適切に議論されたことはないのだ。分別のある者でイギリスとアメリカの間の警戒心を煽り立てようという者は一人もいない。それどころかこの二国の間に良好な関係を築くために率直な話し合いをしたいと考えているのだ。私たちの政府の媚びへつらうような政策は、アメリカに関して言えば私たちに何ら利するところが無く、それどころか、この国において危険な反感の醸成を許して水面下での腐敗を進めることになるだろう。


一九三五年にパンフレットの出版がよみがえって以来、私は少しずつパンフレットの収集を進めている。政治的なもの、宗教的なもの、そうでないもの。たまたま出くわして一シリング持っていたらおすすめしたいのがウォー・ファクツ・プレスが出版しているロビン・モームの「一九四六年MS」だ。これは小さな、しかし成長しつつある文学の一派である無党派的急進派の良い一例となっている。このパンフレットはイギリスにおけるファシスト独裁の成立を描き出すと称している。独裁は一九四四年に開始され(私が考えるところでは)実在のモデルをもとに描かれた地位ある将軍によって進められる。私が興味を持ったのはそれが平均的な中流階級の人間がファシズムをどのように考えているのか、またさらに重要なことに、なぜファシズムが成功し得るのか、その理由を教えてくれるからである。(私が収集した似たようなパンフレットとともに)このパンフレットの出現は平均的な中流階級の人間が一九三九年、つまり社会主義がいまだ金銭の分配を意味し、ヨーロッパで起きていることが私たちに無関係であった時代からどれほど遠くまで旅してきたかを示している。


これを書いたのが誰かわかるだろうか?

地下室からの耳障りな音の中で私たちがドルリー・レーンロンドンの通りのひとつ。十八世紀頃から売春宿と酒場が集まるスラム街となっていた。を歩いていると、ひどく鼻をつく悪臭が立ち上り、それはその日とりわけ私の記憶に強く残ったものだった。ちょうど私たちが通り過ぎる時に一人の半裸の男が私たちの足元にあった割れた窓を開き、そこから腐敗した空気が吐き出された。汚れたガスが入り混じった空気は何度も何度も打ち寄せ、そこには形容しがたい人間の不潔と病弊の臭気が満ちていた。私は吐き気をかろうじてこらえながら側溝へとよろめいた……実際に彼らと接するまで私は大都市の底部に横たわるこの階級がその上部にいる人々とどれほど遠く引き離されているかを知らなかったのだ。普通の人間に対して働きかける原動力からどれほど完全に隔てられているのか、どれほど深く太陽や星々の光の届かないところへと沈み込まされているのか、生存のための絶え間ない戦いと社会との絶え間ない敵対によって必然的にもたらされる利己心に犯されているのか。身の毛もよだつような考えが日曜になるごとに頭に浮かび、絶えずつきまとって離れなかった。男と女、子供たちは野蛮で劣悪な状況で暮らしている。彼らが死ねば他の者がその地位につくだろう。私たちの文明は底無し穴を覆う薄氷にしか思えなくなり、私はよくこう考えた。いつの日かそれが割れて私たち全員が滅びはしないかと。

少なくともこの文章が十九世紀の作家の誰かのものであることはわかるだろう。実を言えばこれはある小説から取ってきたものだ。マーク・ラザフォードマーク・ラザフォード(一八三一年十二月二十二日-一九十三年三月十四日)。イギリスの作家、役人。の「解放」である(マーク・ラザフォードの本名はヘール・ホワイトで、彼はこの作品を半自叙伝として書いた)。その散文体はともかく、これが十九世紀のものであることがわかるとしたらそれはそこに描かれているスラム街の耐えがたい腐敗の描写のためだ。当時のロンドンのスラム街はまさにこのようなもので、誠実な作家は誰もがこのように描いている。しかしさらに特徴的なのは、その住民全体が触れることも贖罪することもできないほど堕落しているという考え方だ。

十九世紀のイギリスの作家のほとんど全員がこれに同意している。ディケンズでさえそうなのだ。産業主義によって損なわれた都市労働階級の大部分は実に野蛮なのである。革命は待ち望まれたものではなく、たんに亜人類による文明の浸水を意味するだけなのだ。この小説(英語で書かれた最高の小説のひとつだ)で、マーク・ラザフォードはドルリー・レーンの近くでのある種の布教活動、あるいは開拓の開始を描いている。その目的は「ドルリー・レーンをわずかずつでも救いに近づけること」である。言うまでもなくこれは失敗する。ドルリー・レーンは宗教的な意味での救いなど全く求めていないし、文明化されることさえ望んではいないのだ。マーク・ラザフォードとその友人が実践できたこと、当時、でき得たことは周囲に染まっていないわずかな隣人たちに避難場所を提供することがせいぜいだった。人々の大部分は柵の外だった。

マーク・ラザフォードが執筆をしていたのは七十年代のことで、一八八四年と日付の書かれた脚注で彼は「社会主義、土地やその他の事業の国有化」が現在その姿を現しはじめ、それがおそらくは希望の光になるだろうと述べている。それにも関わらず彼は労働階級の置かれた状況は時間とともに悪化し改善はされないだろうと考えている。これは自然なことだ(マルクスさえそう信じていたのだ)。当時、労働生産性のあのとてつもない向上を予見することは難しかった。実際にはマーク・ラザフォードや彼の同時代人には不可能と思えるほどの生活水準の改善が起きたのだ。

ロンドンのスラム街はいまだひどいものだが十九世紀のそれとは比較にならない。ひとつの部屋のそれぞれの四隅が四つの家庭の住居として使われ、近親相姦と間引きがほとんど当然のこととなっていた時代は遠く過ぎ去った。とりわけ、人々の一階層全体を救いようがないほど野蛮と書き飛ばすことが自然に思われた時代はなんと遠く過ぎ去ったことか。現在生きている最も高慢な保守主義者であっても現在であればロンドンの労働階級をマーク・ラザフォードが書いたようには書かないだろう。マーク・ラザフォードは――彼と共通の考えを持つディケンズ同様――急進主義者だったのだ! 進歩は起きるのである。この強制収容所と巨大で壮麗な爆撃の時代には信じがたいことかもしれないが。


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