気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1943年12月10日 人種問題の存在


「黒人:アメリカにおけるその未来」と題された、最近出版されたニューリパブリック誌の臨時増刊号は一読の価値があるものだが、それによってそこで議論されている以上の問題を引き起こしている。アメリカ合衆国における黒人の現在の扱いを暴き出す数々の事実は、良心に照らし合わせればかなりひどいものであると言わざるを得ない。戦争による実に明白な必要性にも関わらず、黒人はいまだに技能職から締め出され、軍隊では隔離され蔑まされ、白人警官によって暴行され、白人の裁判官によって差別されている。多くの南部州で彼らは人頭税という手段によって権利を奪われている。その一方で投票券を持つ人々は現在の政権にうんざりしていて共和党へと支持を変え始めている――つまり実質的に大企業へ支援を与えようというのだ。しかしこれら全ては世界に広がる人種問題の一側面に過ぎない。そしてこの増刊号の著者たちが指摘できずにいるのは、この問題は資本主義体制の内部では全く解決できないということなのだ。

政治において口に出すのがはばかられる大きな事実のひとつは生活水準の違いである。イギリスの労働者はタバコ代としてインドの貧農の全収入と同じくらいの金額を使っている。社会主義者にとってはこの事実を認めたり、あるいは強調したりすることは容易でない。人々に既存の体制に反抗して欲しいと思うのであれば彼らが困窮していることを示して見せる必要がある。失業手当をもらうイギリス人はインド人苦力から見れば大富豪とさして変わらないだろうと話し始めるのは疑問のある戦略である。この問題は少なくともヨーロッパではほとんど完璧な沈黙が守られる領域であり、白人と有色人種の労働者間の連帯欠如の一因になっている。ほとんどそれと知ることもなく――そしておそらくは知ろうともせず――白人労働者は有色人種労働者を搾取し、その仕返しに有色人種労働者は白人に敵対的に振る舞ったり、振る舞おうと企む。スペインにおけるフランコのムーア人部隊スペイン内戦時にフランコはモロッコのムーア人部隊を戦力として使った。は、ボンベイの工場にいるなかば飢えたインド人や、両親になかば奴隷として売られた日本の女工に行われたのと同じことがより劇的に行われたに過ぎないのだ。現状、アジアとアフリカはスト無き労働者の無尽蔵な供給源に過ぎないのである。

白人の同志と連帯感を覚えないからといって有色人種労働者を責めることはできない。両者の生活水準と所有物の差があまりに大きすぎるために西側に存在するであろうあらゆる差異は取るに足らないものに見えてしまうのだ。アジアの目から見ればヨーロッパの階級闘争はまがい物である。社会主義運動はこれまで一度も現実的な足場をアジアやアフリカに築くことはなかった。アメリカの黒人の間でさえそうだ。ナショナリズムや人種憎悪によってあらゆる場所で脱線させられている。それゆえに思慮深い黒人はデューイトマス・エドマンド・デューイ(一九〇二年三月二十四日-一九七一年三月十六日)。一九四四年、一九四八年のアメリカ大統領選挙に共和党候補として出馬。いずれの選挙でも敗北している。への投票準備を行い、インド国民会議党員はイギリス労働党よりも自国の資本主義者を好むのだ。非「白人」の十億の人々の生活水準が私たち自身と同じ水準に上昇するまでは解決策は存在しない。しかしこれは一時的にであれ私たち自身の生活水準の低下を意味するので、この問題は右派同様、左派によっても組織的に避けられているのである。

個人としてこれについて何かできることはあるだろうか? 少なくとも人種問題の存在を憶えておくことはできる。それからさして手間のかからない、おそらくは人種戦争の憎悪をわずかに軽減できるちょっとした予防措置がある。侮辱的なあだ名の使用を避けることである。驚くべきことに、他の人種の者にとってどの呼び方が不快に思われ、どの呼び方がそうではないかをわざわざ調べようとするジャーナリストは左派の報道機関であってさえごくわずかしかいない。どのアジア人をも激怒させ、インドに住むイギリス政府の役人でさえ十年前には使わなくなっている「土人」という言葉があらゆるところで飛び交っている。「ニグロ(Negro)」は決まって小文字のnで印刷されているが、ほとんどの黒人はこれを不快に思う。こうした事柄に関わる情報は常に最新の状態に保たれる必要がある。私はちょうど自分の本の増刷の校正を慎重に行っているところで「支那人チャイナマン」という言葉が現れているところではそれを全て消して「中国人」に置き換えている。その本は書かれてからまだ十年ほども経っていないが、その間に「支那人」は致命的に侮辱的なものへと変わったのだ。「マホメット教徒」という言葉さえ今では不快なものへと変わり始めている。「ムスリム」と言うべきなのだ。こうした出来事は子供じみているが、そもそもナショナリズムが子供じみているのだ。そして結局のところ私たち自身だって「ライミー」だの「イギリス野郎ブリティッシャー」だのと呼ばれることを実は好んではいないのだ。


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