戦争の後、この国は深刻な住宅不足に陥り、最終的にはプレハブ工法を用いるようになるまでその問題を解決することはできないだろう。もし伝統的な建設方法に固執すれば必要なだけの住宅を建設するまでに数十年はかかり、それによって不快と悲惨がもたらされ、爆撃された土地と不潔なスラム街のパッチワーク、法外な家賃と人口過密が生じることは容易に予測できる。すでに危機に瀕している出生率に対する住宅不足の影響も同様だ。一方でプレハブ工法に留まらずその他の大規模で統一的な住宅再建の努力に対してはそれを阻む強力な既得権益層による動きがある。建設団体、そしてレンガ・セメント業界は直接的な利害を持ち、土地の私的所有の原則はその全体が脅かされているのだ。例えば、どうすれば私的所有権を無視しないまともな計画に従ってロンドンを再建できるというのか? しかし虫のわく地下室を売り買いする人々は表に出てくるつもりも、自分たちが何のために戦っているのか表明するつもりもない。彼らの群を抜いて強い切り札はイギリス人の感傷的で、しかし妥当な面もある「自分自身の家」への憧れである。彼らはこのカードを何度も繰り返し切ってくるだろうが、効力が発揮される前にそれに対抗できるかは私たち次第である。
まず始めに、プレハブ工法だからといって私たち全員が――すでに人々がそのように考えて恐れ始めているような――醜くて窮屈で壁の薄い居心地の悪い鶏小屋での暮らしを強いられるわけではない。これに関連して指摘しなければならないのは既存のイギリスの住宅はそのほとんどが非常にひどい建てられ方をしていることだ。暑さ寒さのどちらも防げない建てられ方をしていて、備え付けの食器棚は無く、水道管は厳寒期に必ず破裂すること保証付きの場所に配置され、さらには手軽なゴミ処分の手段も提供されていない。投機的な建設業者が解決不能と言うであろうこうした問題の全ては、他のさまざまな国では容易に解決されている。この住宅再建問題に注力して取り組めば、まるで天候であるかのように受け入れられているが実際には全く不要なものである不快な状況を取り除くことができるだろう。「ブラインド・バック」住宅(扉のある前面以外の壁を他の住宅や工場などと共有している集合住宅。「背中合わせ住宅(Back-to-back house)」とも呼ばれる。)、地下住宅、自動湯沸かし器、汚染物質の貯まるガスストーブ、決して陽の光が差すことのない事務所、吹きさらしの汚物収集所、不潔な石造りの流し台、その他の悲惨な状況を取り除くことができるのだ。全ての住宅に風呂を備え付け、ちゃんと鳴る呼び鈴、一度で火のつく点火プラグ、スプーン一杯の茶葉で詰まったりしない下水管を設置できるのだ。もしそうしたければ部屋を合理化して四隅を角の代わりに丸くすればいまよりずっとかんたんに部屋を掃除できるようになるだろう。しかしこうしたもの全ては私たちが大量生産によって住宅をすばやく建てられるかどうかにかかっている。もし失敗すれば、住宅不足は絶望的なものになり、私たちは残された廃墟に巣食うネズミと「よろしく」やりながら、投機的な建設業者がこれまでと同様に最悪の仕事をしていくよう励まさなければならなくなる。
第二に、集合住宅への嫌悪はどうにかして取り払われなければならないだろう。もし人々が大都市で暮らすつもりであれば集合住宅で暮らすか超過密状態に耐えるかしかなく、それ以外の方法は存在しない。一、二エーカーほどを占めるだけの大きめの集合住宅街は小さな田舎町と同じだけの人々を収容でき、家屋敷と同じくらいの居住空間を住人に提供する。大きめの集合住宅街を基礎にロンドンを再建すべきである。そうすれば全員のための光と空気、緑地空間や家庭菜園や運動場のための土地を確保できる。人々は交通の騒音から逃れて暮らせ、子供たちはレンガとごみ箱だらけの世界で育たずに済むだろう。そしてセント・ポール大聖堂のような歴史的建築は黄色いレンガの海に飲み込まれる代わりに再びその姿を現すだろう。
しかし人々、とりわけ労働階級の人々が集合住宅を好まないことはよく知られている。彼らは「自分自身の家」を欲する。ある意味で彼らは正しい。労働階級向け集合住宅のほとんどでは個人所有の住宅で得られるようなプライバシーや自由が無いのは真実だからだ。防音を考慮して建てられているわけではないし、住人にはしばしば口やかましい規則が押し付けられる。そしてよくあることだが不必要なほどにひどく居心地が悪いのだ。明確に労働階級向けの集合住宅として建てられた最初の一棟には風呂さえなかった。今でさえエレベーターはめったに無く、普通は石造りの階段である。つまり際限なく続く足音とともに暮らさなければならないのだ。こうしたことの多くはこの国では非常に根強い、労働階級の人々を安楽にさせ過ぎてはならないという半無意識の信念に由来している。耳をつんざくような騒音やわずらわしい規則は集合住宅本来の性質ではない、私たちはそう強く主張すべきなのだ。地面に直に建っていれば四つの部屋が「自分のもの」であり、空中階であれば「自分のもの」でないという感覚――とりわけ子持ちの女性に強い――は、たとえドイツ人たちが既に必要となる撤去作業を終えている地域であってさえ、再建計画の行く手をはばむ大きな障害物になるだろう。
ある投書者が、私たち全員が等しくみすぼらしくなるまで衣服配給が続くよう望んでいる(「気の向くままに」一九四四年二月四日を参照。)と私を非難する投書をしてきた。そして実のところ衣服配給には人々を平等にする作用は無いのだと彼女は付け加えている。その投書の一部を引用しよう。
「私はボンド・ストリートから少し離れたところにある非常に高級な店で働いています……フリーサイズの配給の仕事着で震えながら、私が、クロテンの毛皮を身にまとって毛皮の帽子や縁に毛皮のついたブーツを履いたこうした優雅な人々、『おはようございます。今日はとても寒いですね、奥様』と私が言っても困惑したように私を見る彼女たち(私はとても馬鹿ですね――結局のところ、彼女たちがどうしてそれをわかるというのでしょう?)の相手をしている時に私が望んでいるのはその素敵で暖かな服を取り上げることではなく、そうした服を私や他の全員も使えるようになることです……私たちは現在ある最高の生活水準を引き下げることではなく、最高のものよりも少しでも劣る全ての生活水準を引き上げることを目指すべきです。イートン校やハロー校の卒業生をその高貴で裕福な地位から引きずり下ろして炭鉱へ送り込もうと願う態度は邪悪で卑劣です。むしろ、現在の社会改造においては、全員がこうした地位に到達可能となるよう努めるべきでしょう」
まず最初に言っておきたいのは、衣服配給が明らかに最も重くのしかかっているのが今は多くの衣服を所有していない人々であったとしても、それには人々を平等にする一定の作用があるということだ。なぜならそれによって過度に洗練された姿になることが居心地の悪いものとなっているからだ。男性用の夜会服といった種類の衣服は実質的に消え失せたし、現在ではほとんどの職業で、ほとんどどんな服装でも許されるようになっている。しかし元々の私の論点は、もし豊かな人々が予備の衣服も使い尽くすほど長く衣服配給が続けば、私たち全員が平等に近い状態になるだろうというものだった。
しかし私たちが目指すべきものは常に水準「上昇」であって水準「低下」ではないというのは事実だろうか? 場合によっては水準「上昇」はできないと私は言いたい。全員にロールスロイスの自動車を与えることはできない。全員に毛皮のコートを与えることはできない。とりわけ戦時であればそうだ。全員がイートン校やハロー校へ行くべきだという意見は無意味である。そうしたところへ入学する人々からすれば、そうした場所の価値の全てはその排他性にこそあるのだ。そしてある種の贅沢品――例えば高性能な自動車や毛皮のコート、ヨット、田舎の別荘やその他いろいろ――は明らかに全員に分配できないのだから、誰もそれを所有すべきでないのだ。貧乏人がその貧乏で失うのとほとんど同じほどのものを金持ちはその富によって失う。オーバーコートを持たない者にとって寒い朝が何を意味するのか想像することさえできない無知で裕福な女性たちについて話す時、投書者はそうしたことを思い浮かべないだろうか?
もう一人の別の投書者は、私がパンチ誌はおもしろくないと言っていると知って奮然とした投書を書き送ってきた。実際、私は少しおおげさ過ぎた。一九一八年以来、パンチ誌に掲載された笑わせるジョークを私は三つ見たことがある。しかし――困惑してそれについて尋ねる外国からの訪問客に私がいつも教えるように――パンチ誌は笑うためのものではなく、安心するためのものなのだ。結局の所、最もよくそれを目にするのはどこだろう? クラブのラウンジ、そして歯医者の待合室だ。どちらの場所でもその狙いは鎮静作用である。そこには目新しいものは何であれ決して含まれていないと前もってわかるのである。子供の頃からよく知っているジョークがいまだそこに存在する。まさにこれまでと同じように、まるで旧友の集まりのように。不安げな牧師補、激怒する大佐、不器用な新兵、物忘れの激しい配管工――そこには全員がいて、ピラミッドのごとく不変だ。その見慣れたページに目を通しながらクラブの会員は自分の配当には全く問題がないことを確認し、患者は歯医者が自分のあごをひどく砕いたりはしないだろうと確認するのだ。しかしおもしろいかどうかはまた別の問題である。おもしろいジョークには非イギリス的な物や考えが普通は含まれているものだ。過大評価されているとはいえザ・ニューヨーカー誌は本当におもしろいことが多い。例えば最近の号には二人のドイツ兵が一頭の巨大な猿を中隊事務室に鎖で引いていく絵が掲載されていた。将校は怒ったように「おまえたち、文字も書けないのか?」と言っている。私はこれが実におもしろく思えた。しかしこのジョークの意味を理解するには五秒ほどかかるだろうし、中流階級――少なくともゴルフをプレーし、ウィスキーを飲み、パンチ誌を読む中流階級の一部――の公理に従えばまっとうな人物には思いも寄らないものであり、こうした種類のジョークはパンチ誌では禁じられているのである。