気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年3月3日 死後の生という信仰、著述家の稼ぎ出す金額


何週間か前、カトリック教徒のトリビューン紙読者がチャールズ・ハンブレット氏による評論に抗議を書いてきた。彼女は、聖テレサと、司祭を背負って大聖堂の周りを飛行したと言われるクパチーノの聖ヨセフについての彼の発言に異議を唱えてきたのだ。私はハンブレット氏を擁護する返信をしたが、さらにいっそう立腹した様子の手紙が返ってきた。その手紙では非常に重要な問題がいくつも挙げられていて、そのうちの少なくともひとつは私にとっても議論に値するように思われた。空飛ぶ聖人と社会主義運動の関係は一見するとあまりはっきりしないが、キリスト教教義における現在の曖昧模糊とした状態はキリスト教徒も社会主義者も向き合おうとしない深刻な意味合いを持っていると私は証明できるように思う。

投書者の手紙の要旨は、聖テレサやその他の人物が空を飛んだかどうかは重要ではなく、重要なのは聖テレサの「世界に対する見方が歴史の進む先を変えた」ことだというものだ。それに関しては私も認めよう。東洋の国で暮らした経験から私は奇跡に対して一定の無関心を育んできたし、また、妄想を抱いたり、あるいは完全な狂気に陥ることさえおおよそ天才と呼ばれるものとは全く共存し得ることを私はよく知っている。例えば個人的にはウィリアム・ブレイクウィリアム・ブレイク(一七五七年十一月二十八日-一八二七年八月十二日)。イギリスの作家、画家、銅版画家。は狂人だと思う。ジャンヌ・ダルクはおそらく狂人だった。ニュートンは占星術を信じていたし、ストリンドベリヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(一八四九年一月二十二日-一九一二年五月十四日)。スウェーデンの作家。は魔術を信じていた。しかし聖人による奇跡は些末な問題である。また投書者の手紙には、最も核心的なキリスト教教義であろうとも文字通りの意味で受け取るべきではないとの言葉もあった。例えばイエス・キリストが本当に実在したかは重要ではないのだ。「(それが神話か、人か、神かは関係なく)キリストの姿は他の全てを超越しているので、その人生観を拒絶する前に関心を向けて欲しいと私は全ての人に対して強く思うのです」つまりキリストは神話かもしれないし、ただの人間かもしれないし、基本信条で与えられている彼についての説明が真実なのかもしれないのだ。そうすると私たちは次のような立場に到達することになる。トリビューン紙はキリスト教の教義をからかってはいけないが、かつてそれを否定したことを理由に数え切れないほどの人々が火刑に処されたキリストの実在はささいな問題に過ぎない。

さてこれは正統なカトリックの教義だろうか? 私の印象ではそうではない。私はウッドブロック神父やロナルド・ノックス神父といった人気のあるカトリック護教論者の著書に書かれた文章を思い出せる。そこではこれ以上無く明確な言葉で、キリスト教教義は書かれた通りのことを意味し、あいまいな隠喩的意味で受け取られるべきではないと明言されていた。ノックス神父は、キリストが実際に存在したかどうかは重要でないという考えは「恐ろしい」考えであるとはっきりと述べている。しかし投書者が言っていることは多くのカトリック教徒知識人によって繰り返し言われていることでもある。カトリック教徒であろうと国教徒であろうと、もし思慮深いキリスト教徒と話せば、教会の教義を文字通り受け取っている人間がいると思いこんでいた自分の無知を知って笑ってしまうことがよくあるはずだ。こうした教義にはそれに習熟していない人間には理解できない全く別の意味があるのだと言われるだろう。魂の不滅はあなた、ジョン・スミスが死後も意識を持ち続けることを「意味している」のではない。死者の復活はジョン・スミスの死体が実際に復活することを意味しているのではない――などなどといった具合だ。つまりカトリック教徒知識人は議論を呼ぶ目的のために握った両手を差し出した当てっこ遊びができるわけである。基本信条の条項を父祖と一字一句違わぬ言葉で繰り返しつつ、一方で比喩的に語っているのだと説明することで迷信の嫌疑から身を守っているのだ。本質的に彼らが主張しているのは、自分はどのようなものであれ明確に書かれているような死後の生命は信じていないがキリスト教信仰にはなんら変わりはない、なぜなら自分の祖先たちも本当にそれを信じていたわけではないからだということなのだ。一方で極めて重要な事実――西洋文明の支柱のひとつが打ち崩されていること――は覆い隠されている。

キリスト教教義に何らかの変更があったのか私ははっきりとは知らない。ノックス神父と投書者はその点について意見の違いがあるように見える。しかし私にもわかることがある。死後の生存という信仰――ジョン・スミスがジョン・スミスとしての自意識を保ったままでの個人としての生存――は以前よりもずっとその勢力を衰えさせていることだ。信仰を公言しているキリスト教徒の間でさえ、衰えているだろう。他の人々は概してそれが真実である可能性さえ心に留めてはいない。しかし私たちの父祖は私たちが知る限りではそれを強く信じていたのだ。彼らが書き残したものが私たちの判断を誤らせるために書かれたのでなければ、彼らは全く文字通りの意味で固くそれを信じていた。彼らの見るところでは地上での人生はそれとは比べ物にならないほど重要な墓の向こうにある人生のための短い準備期間に過ぎなかった。しかしこうした考えは消え去ったか、消え去りつつあり、その結果は真剣に受け止められていない。

東洋文明とは異なって西洋文明は部分的には個人の不滅という信仰をその基礎としている。キリスト教を外から見るとこの信仰は神への信仰よりもずっと重要であるように見える。西洋における善悪の観念をそれから分離することはとても難しい。現代における権力崇拝の高まりが、現代の人間が抱く今ここでの人生こそ唯一の人生であるという感覚と深い関わりを持っていることはまず間違いないだろう。もし死が全てを終わらせるなら、たとえ敗北しようとも正しさを貫けると信じることはずっと難しくなる。政治家、国家、学説、理念に対して世俗的成功の可否で判断が下されることはほとんど避けがたい。二つの現象を分けて考えられるとしたら、私は個人の不死という信仰の衰退は機械文明の高まりと同じくらい重要だと言いたい。高射砲の射撃が始まった夜にはあなたも考えたであろうように機械文明は恐ろしい可能性を持っている。しかし他にも恐ろしい可能性を持つものがあるし、社会主義運動がそれらについて深く考えているとはとうてい言えない。

私は死後の生という信仰が復活して欲しいとは思わないし、どちらにしろそれが復活することはないだろう。私が強く指摘したいのはそれが消失した後に大きな穴が残されていること、そして私たちはその事実に注意を払うべきであるということだ。個人の生存という観念の上で数千年に渡って育まれてきた人間は個人の消滅という観念に慣れるために相当の精神的努力をしなければならない。天国や地獄とは無関係な善悪の体系を発達させられなければ、文明を救い出せる見込みはないだろう。マルクス主義がそれを提供してくれることは確かだが、それが本当に人々の間に広がることは決してない。ほとんどの社会主義者は、ひとたび社会主義体制が確立されれば私たちは物質的な意味で今より幸福になると指摘し、腹がふくれればあらゆる問題は消えてなくなると考えて満足している。しかし真実はそれとは正反対なのだ。腹が空いている時には空腹だけが唯一の問題となる。私たちが人間の運命や自分の存在理由について本当に思い悩み始めるのは単調な労働や搾取が取り払われた時なのだ。キリスト教の衰退によって私たちがどれだけのものを失ったかに気がつかないかぎり、何か価値のある未来の描像を手に入れることはできない。少数の社会主義者はこのことに気がついているように思われる。そして、基本信条の書にしがみつきながらもそこに書かれたこととは全く違う意味をそこから読み取り、教会の神父たちの言葉をそのまま受け取る純朴な者をあざ笑うカトリック教徒知識人は自分の不信心を自覚しないように煙幕を張っているだけなのだ。


四年間の休刊を経てコーンヒル・マガジン誌が再び出版されたことを私はとても喜んでいる。そこには記事――モーリス・バウラによるマヤコフスキーに関する優れた記事やレイモンド・モーティマーによるブルームヘンリー・ブルーム初代ブルーム・ヴォークス男爵(一七七八年九月十九日-一八六八年五月七日)。イギリスの政治家。マコーリートーマス・マコーリー(一八〇〇年十月二十五日-一八五九年十二月二十八日)。イギリスの歴史家、詩人、政治家。に関する優れた記事――とは別に編集者によるコーンヒル誌の初期の歴史に関する興味深い覚え書きが掲載されていた。そこで取り上げられている事のひとつは、ヴィクトリア朝時代の一般読者の層の厚さと豊かさ、そして当時の著述家の稼ぎ出す金額の大きさである。コーンヒル誌の創刊号は十二万部売れた。ひとつの連載でトロロープには二千ポンドが支払われ――彼は三千ポンド要求したそうだ――ジョージ・エリオットには別の連載が一万ポンドで依頼された。映画界へなんとか入り込んだごくわずかな者を別にすれば、こうした金額は現在では全く考えも及ばないものだ。二千ポンドクラスでさえ到達するには一流作家にならなければならないだろう。一万ポンドともなると、それを一冊の本で得ようとすればエドガー・ライス・バローズエドガー・ライス・バローズ(一八七五年九月一日-一九五〇年三月十九日)。アメリカの作家。「ターザン」シリーズなど冒険小説、SF小説で有名。のようになる必要がある。現在では著者に五百ポンドももたらせばその小説は上々の成果とみなされる――成功した弁護士が一日で稼ぐ額である。書籍詐欺は「ビーチコマー」やその他の著述家の敵が想像しているほど目新しいものではないのだ。


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