気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年3月10日 トルストイ、ジョイス


デリック・レオン氏の「トルストイの生涯」やグラディス・ストーリー嬢のディケンズについての本、ハリー・レヴィンのジェイムズ・ジョイスについての本、それにシュールレアリスムの画家であるサルバドール・ダリの(この国ではまだ出版されていない)自叙伝を読むやいなや、比較的健全な社会に生まれた人間としての出自を持つ芸術家の長所に、私はさらにいっそう強く感銘を受けた。

始めて「戦争と平和」を読んだのは私が二十歳の時だったはずだ。長編小説に怖気づくような年齢ではなく、その本に対する不満はその長さが不十分なこと(分厚い全三巻――おそらく現在の小説なら四巻になる長さ)だった。ニコラスやナターシャ・ロストフ、ピエール・ベズウーホフ、デニーソフやその他全ての登場人物は彼らについて永遠に楽しく読んでいられそうな人々であるように私には思われた。事実として当時の弱小ロシア貴族、つまり大胆で無邪気で、野暮ったいことを楽しみ、激しい愛の逢瀬と巨大な家族を持つ彼らは実に魅力的な人々だった。そうした社会はとうてい正当とも進歩的とも呼ぶことはできないだろう。それは農奴制の上に築かれたもので、その事実は少年時代でさえトルストイを不安にさせていた。「進歩的」貴族でさえ貧農を自身と同じ種の動物とは考えにくかっただろうと思う。トルストイ自身、成人後かなり経つまで自分の使用人を殴ることを止められなかった。

地主は自身の所有地に暮らす貧農に対してある種の初夜権を行使していた。トルストイには少なくとも一人の非嫡出子がいるし、彼の貴賤相婚による異母兄弟は一家の馬車御者だった。しかし、こうした愚かで多産なロシア人たちに対しては、ダリを養っている洗練された国際主義的なろくでなしどもに対して感じるような軽蔑は感じられない。彼らが品位を保てたのは彼らが純朴だったためだ。ベンゼドリンや金箔を貼った足先の爪など聞いたこともなかったはずだ。後にトルストイは自分が若かった頃の罪を多くの人々よりも騒がしく悔いているにせよ、彼は自分の強さが――その発達した筋肉の強さ同様、その創作力も――湿地でヤマシギを撃ち、少女たちは年に三度も舞踏会へ行ければ自身を幸運だと思うような、無骨で健全なその育ちに由来することを知っていたに違いない。

ディケンズにある大きな空白のひとつは彼が風刺的な精神においてさえ田舎での生活について書いていないことだ。農業に関して言えば彼は何かを知っているふりさえしない。「ピクウィック・ペーパーズ」には射撃に関する滑稽な描写がいくらかあるが、中流階級の急進主義者であるディケンズにはそうした娯楽を共感をもって描写することができなかったのだ。彼は野外スポーツをスノッブな行為としか見ていなかった。当時のイングランドではすでにそうなっていたのだ。土地囲い込み、産業主義、富の大きな偏在、キジや赤鹿への偏愛といったもの全てが組み合わさってイギリスの人々の多くを土地から追いやり、おそらく人類にとってはほとんど普遍的とも言える狩猟本能をたんなる貴族的性癖と思わせるようになった。おそらく「戦争と平和」で最も優れているのは狼狩りの描写だろう。その最後で貴族の飼い犬を出し抜いて狼を捕らえるのは貧農の飼い犬だ。さらにその後、ナターシャは貧農の小屋で踊ることをごく自然なことと考えている。

こうした場面をイングランドで目にしようと思えば百年、あるいは二百年は時をさかのぼって、地位の違いが非常に大きな習慣の違いを意味しなかった時代に戻る必要があるだろう。ディケンズの時代のイングランドはすでに「侵入者は告訴される」の看板によって支配されていた。狩猟や射撃やそれに類した物への一般的に受け入れられている左派の態度について考えると、レーニンやスターリン、トロツキーの全員が元々は熱烈なスポーツマンであったことが頭に浮かんで実に奇妙に思われる。しかし当時、彼らが属していたのは巨大な何も無い国で、そこではスポーツとスノッブさの間に何ら必然的繋がりは無く、田舎と街の間の分離はあまり完全なものではなかったのだ。ほとんど全ての現代小説家が題材として扱う現在の社会はトルストイのいた社会よりもずっと浅ましく、魅力も気楽さも少ない。そしてそれを理解していることこそが才能のしるしなのだ。もし「ダブリン市民」の登場人物を本来よりも不快でなく描いていたらジョイスは事実を捏造することになっただろう。しかし地の利はトルストイにあった。他の条件が同じであったとして、誰がピエールやナターシャではなく下宿屋での人目を忍んだ誘惑や「撤退」を祝う酔っ払ったカトリック教徒のビジネスマンを書きたいなどと思うだろうか?


ジョイスについての自身の著書でハリー・レヴィン氏はいくらか伝記的な詳細を記しているが、ジョイスの最晩年についてはほとんど語られていない。私たちが知っているのはナチスがフランスに侵攻した時に彼が国境を越えてスイスへ逃れ、その約一年後にチューリッヒにあるかつて住んでいた家で亡くなったということだけだ。ジョイスの子供たちの居場所さえ定かでないように思われる。

アカデミックな批評家たちはジョイスの亡骸を蹴りつけるチャンスに抗えなかった。ザ・タイムズ紙はみすぼらしく言葉少なな短い死亡記事を掲載し、さらに――打率やカッコウの初鳴きに割く紙面があったにも関わらず――T・S・エリオットの書いた抗議の投書を掲載すること拒否した。これは死者は常に褒めそやされるが芸術家はその対象外という古来からのイギリスの偉大な伝統に従ったものだ。政治家が死ねばその最悪の仇敵たちは議会の本会議場で起立して彼の名誉を称える信心ぶった嘘を口にするだろうが、作家や芸術家であればいくら優れた所があろうと間違いなく鼻であしらわれる。イギリスの全報道機関はD・H・ローレンスが亡くなるやいなや一致団結して彼を侮辱した(「ポルノ作家」と説明するのが常だったのだ)。しかしこの高慢な死亡記事程度のことはジョイスも予測していただろう。フランスの崩壊、そしてよくいる政治容疑者のようにゲシュタポから逃れなければならなかったことはまた別の問題で、今回の戦争が終わった時にはジョイスがそれについてどう考えていたのか明らかにされるだろうと思うと実に興味深い。

ジョイスはアングロ・アイリッシュ的俗物根性からの自覚的亡命者だった。アイルランドは彼を全く受け入れなかっただろうし、イングランドとアメリカもなんとか彼を大目に見てやるだけだった。彼の作品は出版を拒絶され、組まれた版は臆病な出版社によって破棄され、出版されれば発禁にされ、行政当局の黙認のもとで海賊版が作られたが、いずれにせよ「ユリシーズ」が出版されるまでは無視されていた。彼は心から憤っていたし、それをしっかりと自覚していた。しかし同時に、「純粋」な芸術家であることや「争いを超越すること」、政治に無頓着であることも彼の目標だったのだ。彼はオーストリアのパスポートとイギリスからの年金を手にスイスで「ユリシーズ」を執筆し、執筆は一九一四年から一九一八年の戦争の間のことだったが、その戦争にはほとんど関心を払わなかった。しかしジョイスも気づいたように今回の戦争は無視できるようなものではなかった。政治的な選択が必要であり、全体主義に比べれば愚かであることさえ、ずっとましであると彼は熟考したに違いないと私は思う。

ヒトラーとその仲間たちが示して見せたことのひとつは過去百年の間、知識人が相対的にどれほど好ましい時間を過ごしてきたかということだ。結局の所、ジョイスやローレンス、ホイットマン、ボードレール、さらにはオスカー・ワイルドでさえ、ヒトラーが権力の座に就いて以来ヨーロッパ全土でリベラルな知識人に起きたことと比べれば、たいした迫害は受けていないのではないか? ジョイスは嫌気が差してアイルランドを離れたのであって、戦車パンツァーがパリになだれ込んだ時に彼がそうした様に命からがら逃げ出さなければならなかったわけではないのだ。発表された時にイギリス政府は「ユリシーズ」を法に則って発禁処分にしたが、十五年後にそれを解除した。さらに重要であろうことはその作品が書かれている間、政府が彼の生活を援助していたことだ。そしてそれ以降もある匿名のファンの厚意のおかげでジョイスはパリで二十年近くにわたってまっとうな生活を送り、弟子たちに囲まれながら「フィネガンズ・ウェイク」の執筆に勤しみ、その間にも精力的な専門家の一群は「ユリシーズ」をさまざまなヨーロッパの言語だけでなく日本語にさえ翻訳していった。一九〇〇年から一九二〇年の間、彼は飢えと無関心を経験しているが、それにも関わらずドイツの強制収容所の中から見れば全体的にはその人生はかなり好ましいものに映るだろう。

もしナチスが彼を手中に収めていたらナチスはジョイスをどうしただろうか? おそらくは労を取ってでも彼を取り込んで、自分たちの「転向」した文学人の在庫に加えたことだろう。しかしジョイスは、彼らが自分を利用して社会を分断するだけでなく、自分が価値を置くあらゆるものにとっての致命的敵対者であることを理解していたはずだ。彼が「超然」としていたかった戦いは、結局の所、かなり直接的に彼に関係していたのだ。そして私はこう思いたい。死の前に彼がヒトラーに関する何か中立的でない論評あえておこない――ジョイスの口から出るそれは実に痛烈なものだろう――それがチューリッヒに遺されていて、戦争が終わったらそれを目にすることができるだろうと。


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